意見:マレイブクチン

生態学は「陰気な学問」になるのか?


本論文は、元々、The Progressive誌の1991年12月号に発表された。原文は、Will Ecology Become the 'Dismal Science'?"で読むことが出来る。

ほぼ1世紀半前、トーマス=カーライルは、経済学を「陰気な学問」だと述べた。この言葉がピッタリはまったのは、特に、それが「貪欲な欲望」と「天然資源の不足」との葛藤が不可避であろうという前提に立っていた経済学に適用されたからだった。この経済学においては、仮定された「けちな自然」によって与えられている限定的恵みによって、人間は経済的スランプ・貧困・市民闘争・飢餓へと宿命づけられているというのだった。

今日、この言葉「陰気な学問」は、エコロジー運動の諸傾向を適切に述べている−−宗教的復興運動・神秘主義という圧倒的な波に乗っているように見える諸傾向である。私が述べているのは、生態系危機を阻止しようと熱狂的な努力を尽くしている、非常に動機づけられ・良い意図を持ち・多くの場合過激な、数多くの環境保護主義者達のことではない。ディープ=エコロジー・生物中心主義・ガイア意識・エコ神学を信奉している風変わりな傾向のことを述べているのである。これらは、人間と人間特性を同時に中傷しながら、「自然」に対する擬似宗教的な「崇敬」を誉め称えている主要カルトなのである。

今日の宗教的復興主義者の多くのように、神秘的エコロジストは、理性を疑いの目で眺め、生態系問題に対する非理性的で直感的なアプローチの重要性を強調している。多くの人々が今日きってのエコ神学者だと見なしているトーマス=ベリー師にとって、『理解に到達する唯一真の方法だと我々が誉めそやしているその正に理性的プロセスこそが、ある種の皮肉のために、それ自体が神話的で想像的な夢の経験なのだと発見されている。今日の困難はこの文化的病理から目ざめる能力を我々が持っていないことにあるのだ。』

このような先祖帰り的概念を口にするために聖職者の一員になる必要などない。もっと世俗的な調子で、それぞれ社会学と哲学の教授であるビル=デヴォールとジョージ=セッションズは、神秘的エコロジーで最も広く読まれている本の一つであるディープ=エコロジーを書き、曖昧な「宇宙的自己」への私的己の洗礼を通じた「自己実現」、すなわち彼らによれば、『「自己」(Self)が有機的全体調和性を意味している「自己の中の己」(self-in-Self)』というメッセージを提示している。

ディープ=エコロジーの言語は、はっきりと救世的である。『己の十全なる開花プロセスは、次のフレーズに要約できる。「我々全員が救われるまで、誰も救われることはない。」このフレーズでの「誰も」とは、私という一個の人間だけでなく、全ての人間・鯨・ハイイログマ・熱帯雨林の生態系全体・山河・土壌にいる最小微生物なども含んでいる。』

この忠告的なアピールは、非常に不安を感じさせる諸問題を引き起こす。「など」という言葉は、鯨・ハイイログマ・狼・山よりもあまり美学的に満足するような存在でも現象でもないものを引用すれば、病原体となる微生物・動物による致命的病気の媒介・地震・台風を扱う必要性を省略しているのである。「母なる自然」の生物的で地形学的なリストに関するこの選択的な観点が、全世界的救済という神秘的エコロジーのメッセージに激しい諸問題を引き起こしてきたのだ。

神秘的エコロジストは、人間の諸問題を「種」のレベルに−−遺伝的特長の問題に−−還元することで、社会的諸問題(彼らにとっては一般的に気に入らない主題だ)を格下げすることが多い。ベリー牧師によれば、人間性は『文化的コーディングを超え、遺伝的コーディングへと』進むことで、『種のレベルで新たに発明され』ねばならないのだそうだ。地球の夢(The Dreams of the Earth)という書物においてこの文章の次に示されているレトリックは、神話作りに傾倒したもので、その中で、我々の『遺伝的コーディング』は『世界のより大きな次元に』我々を拘束しているというのだ。それは『我々の存在という深遠なるミステリーを内部に抱えている』世界なのだそうだ。ベリーの勧告は、近年大きな人気を呼んでおり、神秘主義的な論文は言うに及ばず、通俗的な環境保護論文にさえも賛同的に引用されてきている。

こうした宇宙論的福音伝道主義は、エコロジーの言葉使いを身にまとい、人間性を非難している。人類が「生命のウェブ」に、単なる「母なる自然の」無数にいる種族の一つとして編みこまれれば、人類は、深遠なる社会自然・創造性・道徳的行為者として機能する能力を賦与され、潜在的に卓絶した性質を持っている理性的生物という、自然進化の中での唯一無二の立場を失ってしまうだろう。

世界は人間が使うために存在しているのだという擬似神学的概念「人間中心主義」は、神秘主義的エコロジストに嘲笑されている。だが彼らもまた、同じぐらい擬似神学的概念、「生物中心主義」、つまり、全ての生命はその「内在価値」という点で道義的には相互交換可能だ、という概念を好んでいるのだ。そのお涙頂戴物語ガイアの瞑想で、ジョン=シードとジョアンナ=メイシーという二人の神秘主義エコロジストは、我々死すべき人間に次のように命令している。『二度目の死について考えよ。肉体と骨とは循環の中に戻っていくだろう。服従せよ。君が次に生まれ変わるでっぷり太った毛虫を愛すのだ。生命の泉を使って己の退屈な存在を洗い流せ。』米国サンベルトという神秘主義に日焼けしすぎの世界では、こうした戯言は多くの場合バンパーステッカーのスローガン程度のものに身を落とすか、英系米国の都市や街にある様々な隠遁所での詩の朗読で引き出されるのである。

全体を鑑みれば、生物学的・心理学的源泉へ生態系危機を粗雑に還元することは、同じぐらい還元主義的な「矯正手段」の一群を産み出す。これは、比較してみれば、過去に言われていた陰気な経済学の方が全く楽観的に思えてしまうほどなのである。多くの、多分大部分の、神秘主義的エコロジストにとって、「持続可能な」将来に対する標準的レシピには、粗雑な簡素生活に基づいたライフスタイルが含まれる−−簡素な食事・勤勉な労働・生存の欲求を満たすだけの「自然資源」の使用で特徴づけられた基本的に儀式的な規律、そして、ルネッサンスや啓蒙の理性からではなく、更新世や新石器時代の「霊性」からそのインスピレーションを引き出している有神論的原始人主義である。

霊性と理性は、神秘的エコロジーによって愚鈍なほど還元主義的で短絡的な言葉でいつも理解され、天使と悪魔であるかのようにお互いに戦わされている。神秘家は、通常、テクノロジー・科学・理性を生態系危機の基本的源泉と見なし、苦役・占い・直感を含めなければ、いやそれらで置き換えなければならないとさえ主張しているのである。さらに問題なことは、多くの神秘的エコロジストが新マルサス主義者だということだ。その酷く乱暴な分子は、飢饉と病気は必要であり、人口を減少させるためには望ましいことでさえある、と見なしている。

神秘的エコロジストが喚起している恐ろしい将来は、一世代前にエコロジー運動が企図していたヴィジョンの特徴などでは決してない。逆に、1960年代の急進的エコロジストは、市場資本主義と官僚資本主義が産み出した物質的不安・苦役・自己否定から解放された、満ち足りた生活という展望を賞賛していたのだった。

このユートピア的未来像は、1964年と1965年に社会生態学が主として推し進めていたものであり、反テクノロジー・反理性・反科学などではなかった。当時出現しつつあったエコロジー運動の中で初めて、新しい社会的・テクノロジー的・霊的律法の展望を表明したのだった。社会生態学は、自然を支配するという考えが、人間による人間の支配から派生し、それは階級搾取だけではなく、ヒエラルキー的支配という形態を取っていると主張していた。資本主義が−−テクノロジー・理性・科学それ自体ではなく−−体系的に反生態調和的な経済を産み出したのだ。資本主義は、競争的市場の格言「成長か死か」に導かれ、森林を材木へ、土壌を砂へと変えながら、文字通り生態圏を貪り食らうであろう。

それゆえ、生態系危機を解決する鍵は、霊性の変化だけでなく−−もちろん、有史以前の信心ぶりへの回帰ではない−−、徹底的社会変化だったのだ。社会生態学は、非ヒエラルキー的共有協働社会というヴィジョンを提示していた。これは、直接民主主義的地域連合に基づいた社会であり、そのテクノロジーは太陽光・風力などの再生可能なエネルギー源を中心に構築され、食べ物は有機的方法で耕作され、手工業と非常に用途の広い自動化され洗練された機械を複合的に使うことで人間の苦役を削減し、人々が十全に情報を持った創造的市民として発達できるように民衆を解放するのである。

ユートピア的1960年代が反動的1970年代に消滅してしまったことで、何百万という人々が、直前の10年間が持っていた対抗文化に常に内在してた霊的内部性へと間断なく退却してしまったのだった。社会変革の可能性が衰えはじめると、人々は、有力な社会が持つ病理とその病理を除去することの難しさを覆い隠すために、その代わりとなる現実を捜し求めたのだった。原発建設に対する環境保護的抵抗という短い幕間劇は別として、エコロジー運動という大きな受け皿は、社会的関心から霊的関心へと撤退し始め、その多くは愚鈍なほど神秘的で有神論的だったのである。

大学においては、生態系危機の宗教的説明を擁護していたリン=ホワイト=ジュニアが、生態系危機に来世的性質を与え始め、この退却を開始していた。同じ時期に、ギャレット=ハーディンの平民の悲劇(Tragedy of Commons)が、マルサスの亡霊を学術学会の生態学的対話に持ちこんでいた。これは、1960年代エコロジー運動の社会的推進力を人口統計的数値ゲームへとさらに屈折させていたのだった。これら二人の学者は、自分の見解を、大部分、「サイエンス」誌に提出した。この雑誌は限られた人だけが読んでいるのだが、カリフォルニア州の昆虫学者ポール=エーリックが手にするところとなった。彼は、自分のヒステリー発作的文庫本、人口爆発(The Population Bomb)の中で、1970年代初頭の生態系諸問題を社会的領域から、人口成長という単一争点へと逸らしてしまったのだった。この本は数多くの版を重ね、数百万人の読者がいたのである。

ワルシャワのゲットーを視察しているSS将校のように書きながら、エーリックは論文の第一ページで、『人間!人間!』だらけだ、と述べていた−−人間生活を堕落させている背徳の社会に気付くことはできないのだ。ホワイトと、そしてもっと堅固にハーディンとエーリックとを団結させている細い糸は、生態系諸問題に与えている非社会的解釈なのであり、共通の生態調和的概観ではないのだ。

ノルウェーの学者で登山家でもあるアルネ=ネスは、1973年にそうした概観を提示した。彼は、「ディープ=エコロジー」という言葉を作りだし、それを、「シャロー=エコロジー」(底の浅い生態学)とは逆に「ディープな疑問」を問いかけるという生態調和哲学・生態調和感性として育てたのだった。デヴォールとセッションズによる、仏教・道教・北米原住民族の信念・ハイデッガー・スピノザなどを奇怪にもごちゃ混ぜにしたカリフォルニア心霊主義の一形態へとリサイクルされることで、神秘的エコロジーは、当時、新しい「地球の知恵」として旅立つ準備ができていたのだった。

だが、この混乱した感性を大学キャンパスから新聞の第一面へと飛び出させたものは、原生地帯保護運動、アース=ファースト!だった。この運動は、長年かけて成長した(old-growth)森林の伐採など、大企業アメリカが原生地帯に加えていた不当行為に反対して劇的な直接行動をとり始めていた。

アース=ファースト!の創始者達は、特に、デイヴ=フォアマンは、自然保護主義者だったのであり、ワシントンに本拠地をおいた自然保護組織の役立たずのロビー戦術にうんざりしていたのだった。非常に有名な小説モンキーレンチを持つギャング(The Monkey Wrench Gang)の著者であり、その明確な人間嫌いの見解が、米国「北欧文化」に対する賞賛を持ち、人種差別主義に近かったエドワード=アビーに感化され、アース=ファースト!の指導者はディープ=エコロジーを哲学として把握し始めた。

だからといって、アース=ファースト!のメンバーが「ディープ=エコロジー」について、その主張が「ディープ」であるということ以上の何かを知っていたわけではない。だが、デヴォールとセッションズはマルサスを予言者の神殿に置き、「産業社会」−−資本主義ではない−−を神秘的エコロジストが一般に軽蔑している病理の権化だと述べていた。実際、彼らの著書は、明らかに原生地帯指向的で、はっきりと「生物中心的」だったのであり、宇宙における人間の位置について臨終ざんげ(short shrift)をしているように思えるのだ。

反理性の運動では、一貫性には何ら強調点が置かれることはないため、デヴォールとセッションズが他方で「自己の中の己」(self-in-Self)、汎神論や物活論のcaring形態を信心ぶって誉めそやしていたとしても驚くべきことではない。フォアマンは、ためらわずに人間は自然界における「癌」であると述べ、非常に驚くべきことに、ディープ=エコロジー運動の桂冠詩人ゲリー=シンダーは、人間を「イナゴと同じ」と述べていた。

陰気な科学としての神秘的エコロジーは、実際、反人間的である。例えば、その穏やかな信心深さにも関わらず、バリー牧師は人間の扱いについては断固として残忍になっている。彼は、人間を『地上に存在しているものの中で最も有害なモード』だと書いている。実際、『我々は地球的プロセスの結末であって、その成就ではない。もし、生物の議会があるとすれば、最初の決定は投票によって人間を生物共同体から叩きだすことに違いない。その存在が余りにも残虐過ぎてこれ以上我慢できないからだ。我々は世界の苦しみの種、悪魔的存在なのだ。我々は地球の最も神聖な様相を冒涜しているのだ。』

聖職者の辛らつな言葉は、さらに選択的であることが多いものだ。最も良い場合では、貧乏人ではなく金持ちを、抑圧されている者ではなく抑圧者を、圧迫された者ではなく支配者をターゲットにしている。だが、神秘的エコロジーはもっと全てを包括する傾向がある。ベリーの普遍的「我々」は、彼の「人間」と同様、人種・性別・物質的生活手段・文化などの抑圧によって区別される存在としてではなく、種として扱われており、これは神秘的エコロジーに浸透していることが多いのである。

良心的なノルウェーの作家エリック=ダンマンは『我々は皆内心では資本主義者だ』と宣言している。その未来は我々の手に(The Future in Our Hands)は、アルネ=ネスによって実質的な社会改良宣言だと述べられ、プレミアムつきで売られている。北米諸都市にいるホームレス・チューリッヒの悪名高きニードル公園で死ぬまで放置されているエイズ被害者・第一世界の鉱山と工場で過度に働いている人々−−こうした人々の中で、北米と欧州にいる「我々」は第三世界の貧乏人のために商品の消費を減少させるべきだ、というダンマンの嘆願を重要だと思う人などいないのだ。

消費の減少という目標が賞賛すべきもののように見えようとも、これは、社会的動員ではなく慈善事業の、社会変革ではなく人道主義の無意味な演習なのである。表面的な社会分析の演習でもあるのだ。それは、世界の大部分にいる肥え太りすぎのエリートと、食事もろくに取れない下っぱである大衆とを産み出している根本的にシステム上の要因を全く重要でないかのように思わせているのである。ダンマンの自由主義的善良さから学ぶことができるものといえば、普遍的「我々」は世界の病理を理由に−−過剰労働気味の「我々の」大企業が無理やり作りだしている素晴らしい商品を貪欲にほしがっている神秘的「消費者」だから−−文句を言われねばならない、ということだ。

デヴォールとセッションズが訴えている急進的レトリックにも関わらず、ディープ=エコロジーの中で「我々に」彼らが示しているはずの社会変革に対する原理的で実際的なレシピは、素朴なお祈り程度のものでしかない。彼らは次のように書いている。『我々の第一原理は、政府機関・国会議員・地主・経営者を促して、自然のプロセスに暴行を加えるのではなく、そのプロセスに身を任すように考えるようにさせることなのである。』我々は、『長期的で賢い自然管理政策の方向性に重要な変化を』確立するために、『政治的プロセスを使って、ディープ=エコロジーの原理を経営者や政府機関に知らしめるように活動し』なければならないというのだ。

デヴォールとセッションズの水増し自由主義は、ポール=エーリックとアン=エーリックの著書この惑星を治癒するために(Healing the Planet)でさらにはっきりと声にされている。この本では、ディープ=エコロジー、つまり『成功する新哲学は科学的ナンセンスに基づくことなどできない、ということを認識している擬似宗教的運動』(著者の言葉を使えば)に対する著者らの信奉が宣言されている。科学に対するこうした酷評は、自分達の意見を性格づけるために「ナンセンス」という言葉をあいまいに使っていようといまいと、その名声が科学の学位に基づいている著者に相応しいものではない。以前の幾分ヒステリー発作気味の小冊子よりも最近のものは用心深くなってはいるが、エーリック夫妻は途方もない数のシナリオの中で万人に対して何かしらのものを提示している。そのシナリオは、金持ち同様貧乏人に対しても、第一世界同様第三世界に対しても、公言している保守主義者同様マルクス主義者に対してさえも関心を示している。だが、その本のほとんどすべての重要な節で、その初期の著作を特徴づけていた文句が繰り返されるのだ:『人口成長を管理することが重要だ』

しかし、根本的社会問題に対するエーリック夫妻の対応は、どれほど彼らが現状に降伏しているのかを明らかにしている。我々の民主的『市場型経済は、現在のところ、これまで人間が開発して来た政治経済システムの中で最も成功している』という。「市場型」経済とこの惑星の無常な略奪行為とにはシステム的関係があるということが、エーリック夫妻の社会的視野に現れることはないのだ。

多分、ネスは自分の解決策についてそれほど曖昧ではない−−そしてもっと問題を抱えている−−だろう。彼が共産主義とアナキズムのような反体制政治哲学を重要視しているように、ディープ=エコロジーの父は、最近翻訳されたエコロジー・地域社会・ライフスタイル(Ecology, Community, and Lifestyle)で、ディープ=エコロジーは『近代非暴力アナキズム』と親和性を持っていると主張している。だが、リバータリアン代替案に対するこのコミットメントに肝をつぶした読者はすぐに次の文章を目にするのだ。『莫大で指数的な人口増加と多くの場所での戦争や戦争のような状態を見れば、充分強力な中央諸制度を維持することが必要に思える』−−ディープ=エコロジストがいつも述べているやり方よりも、もっと直接的に言ってしまえば、『充分強力な』中央集権国家を必要だというわけだ。ここで、実際、ネスの新マルサス主義と人間条件に関する悲観的見解は、国家の中央集権化と弾圧の使用を求めたエコロジー運動にあるエリート主義信念を強化しているのである。自分の仲間から極端論者だと見なされているクリストファー=メーンズのようなディープ=エコロジストの見解は、まじめに議論する価値などない。メーンズはAIDSの流行を人口管理手段だとして歓迎していたのだ。多くの神秘的エコロジー著作者が『文明ではなく、原生地帯こそが真の世界だ』という彼の主張を模倣しているのだ。

人間が生態系危機の源泉であるという非常に耳ざわりな有罪宣告の一つは、ジェームズ=ラヴロックからもたらされている。彼は神話創作的概念、「ガイア仮説」の造物主である。この仮説では、「ガイア」(この惑星を意味するギリシアの女神)として擬人化された地球は、文字通り生命有機体だというのだ。この神学の中で、「我々」は、言うまでもなく、単なる取るに足らない消耗品ではなく、ガイア主義者の中で述べていた者もいるように、地球における寄生虫的な「知性を持ったノミ」なのである。ラヴロックにとって「我々」という言葉は、現代の生態系病理に対する責任を共有しているとして、エリートとその被害者との区別全てに置きかえられるのである。

ラヴロックは次のように主張している。『我々の人道主義者達は、スラム街や第三世界の貧困、そして、死・災害・苦痛に関するほとんど淫らな脅迫観念に懸念を示している。まるでそれらが本来悪であるかのようだ−−こうした考えが自然界の莫大で過度の支配から精神を逸らせているのである。貧困と災害は与えられたものではないのだ。それらは我々が行っていることの帰結なのである。』

確かに、『車を運転しながらラジオで酸性雨のニュースをやっているときにこそ、我々は、自分は私的にも公害生産者なのだ、と思いださねばならない。』従って、『このように、我々は光化学スモッグと酸性雨によって木々が破壊されていることに対する説明責任を、私的に持っているのだ。』卑しい消費者が生態系の様相(casts)の真の源泉だと見なされ、マスメディアを通じて公的嗜好性を作りだしている生産者と、ラヴロックの神聖なるガイアを所有し破壊している大企業はそのように見なされないわけだ。

エコロジー運動は非常に重要なため、空虚な神秘主義者と反動的厭世家に乗っ取られてはならない。伝統的労働運動は、非常に多くの急進主義者が新社会創造の期待をかけていたものの、衰えてしまい、合州国での昔ながらのポピュリスト運動は、その信奉者の多くを提供していた農民層と共に死滅してしまった。ルーズベルト主義的自由主義の将来は、レーガン−ブッシュ型ニューディール政策改正の攻撃を受けたため、曖昧なままになっている。慣例的環境保護主義それ自体も含めた、ほとんど全ての価値ある運動(cause)の互選性は、大企業がしつこく勧誘しているスローガン「毎日が地球の日!」でたやすく象徴されるのだ。

だが、自然界それ自体は互選可能ではない。有機的・気候的プロセスの複雑さは、今でも科学的管理を拒んでおり、これは丁度、市場拡大の動因が社会的管理を今でも拒んでいるのと同じである。自然界と既存社会との葛藤は、過去20年間で激しくなってきている。莫大な割合での生態系混乱が、今日のニュースヘッドラインになっている多くのセンセーショナルな諸問題よりも重要になり始めているのも無理はない。

決定的な衝突がじわじわと迫っているのだ。一方は、歯止めがきかずに揺れ動いている成長か死かの経済であり、他方は、この惑星の高等生命形態を維持するために必要な壊れやすい諸条件である。この衝突は、実際、人間性それ自体を、痛烈な二者択一に直面させているのだ:連合・直接民主主義・生態調和志向的地域ネットワークという社会生態学の理想を中核とした生態調和社会か、自然界と人間性との相互交渉が命令的な経済・政治を中心として構築されている権威主義的社会なのか、である。もちろん、生態系の取り消すことのできない一連の災害のために、人間が死滅してしまう、という第三の予測もある。

エコロジー運動が軽薄になり、様々な神秘主義者による指導を許すようになってしまうなど許しがたい−−莫大な大きさの悲劇なのだ。反理想郷的雰囲気が運動の多くに浸透しているように見えるが、民主主義的・理性的・生態調和的社会という理想郷ヴィジョンは、一世代前にそうだったように現代でも実行可能なのだ。

「生物中心主義」・反人間主義・ガイア意識・新マルサス主義という名で運動を流れている人間嫌い傾向は、広い意味でのエコロジーを「陰気な学問」の最有力候補にする恐れがある。飢饉・伝染病・貧困・飢餓に関する現代社会の無罪性を立証しようという多くの神秘的エコロジストの試みは、一方は富、他方は貧困からなる両極端を支える最も有効なイデオロギー防御壁として、世界の権力エリートに仕えているのだ。

生態系混乱の増大期に、大衆が、人間性の将来について難しい選択を行わねばならないだけではない。神秘化の増大期に、エコロジー運動それ自体が、その方向性の感覚について難しい選択を行わねばならないのだ。