自治体化

経済の地域社会所有


本論文は、1986年2月のGreen Perspectives(現在は、Left Green Perspectives)第二号で発表された。また、本論文の一部は、マレイ=ブクチン著、Limits of the Cityの補足新版(Montreal: Black Rose Books, 1986)から取られている。原文は、"Municipalization: Community Ownership of the Economy,"で読むことができる。なお、原文にある注釈の一部は、文章の中に組み込んでおいた。(訳者)

拙著「リバータリアン自治体連合論に向けて」(Our Generation (Vol. 16, Nos. 3-4, Spring-Summer 1985, pp.9-22)に掲載)で、私は、現在優勢な文化に対するいかなる対抗文化も、優勢な諸制度に対する対抗制度と共に発達しなければならないという観点を提起した。その対抗制度とは、中央集権型官僚制度的国民国家に現在奪われている社会生活・政治生活の制御力を奪い返す権力分散型連合的民衆権力である。

19世紀の大部分と20世紀のほぼ半分を通じて、最も急進的なイデオロギーは、この民衆権力の伝統的中心地を、賃労働と資本との衝突の場、工場に置いていた。工場が「権力問題」(power question)の所在地であるという考えは、当時の急進主義の言葉を使えば、産業労働者階級はラジカルな社会変革の「覇権的」行為者であり、自身の「階級利益」によって「つき動かされ」、一般的には武装蜂起と革命的ゼネストによって、資本主義を「転覆させる」という信念に基づいていたのだった。そして、労働者自身の社会行政システム−−それが「労働者の国家」(マルクス主義)であれ、工場委員会の連合(アナルコサンジカリズム)であれ−−を確立するだろうというのだった。

ふりかえってみれば、現在では、1936年〜1939年のスペイン市民戦争は、革命的装いの欧州労働者階級による、このモデルに従った最後の歴史的活動だったと考えられる(原注)。(この原稿を書いている月でほぼ)50年が経過しているが、1930年代後半の偉大なる革命の波は、プロレタリア社会主義とアナキズムの時代の絶頂であっただけでなく、その終焉だったことは明らかだ。歴史上初の労働者蜂起にまで、つまり、フランスの首都において赤旗の下にバリケードが築かれた1848年6月のパリ職人と労働者の蜂起にまで遡る時代の絶頂であり終焉だったのだ。その後の歳月、特に1930年代以降、プロレタリア革命という伝統的モデルを繰り返そうとする僅かばかりの試み(ハンガリー・チェコスロバキア・東ドイツ・ポーランド)は失敗しただけだった。事実、これらは歴史の中に消えうせた偉大なる大義・理想・努力の悲劇的模倣だったのである。

(原注:50年を経た上でスペイン市民戦争を概観したものに付いては、拙著「西班牙アナキズムについて」、Our Generation (1986) と「スペイン市民戦争:五十年を経て」、New Politics (Vol. 1, No. 1, New Series; Spring, 1986;現在はAK Pressより出版されている。また、日本語版は拙訳が西班牙を思い出すにある。)を参照して頂きたい。スペイン市民戦争のバックグラウンドについては、拙著「スペインのアナキスト:英雄的歳月」を参照して頂きたい(2001年現在では、AK Pressより出版されている)。)

第三世界における農民暴動運動は別としても、独断的セクト主義者以外は、1848年6月・1871年のパリコミューン・1917年のロシア革命・1936年のスペイン革命をまじめに「モデル」だとして取り上げる人などいまい−−こうした革命を引き起こしたタイプの労働者階級は科学技術の変化と社会の変化によってほぼ完全に武装解除され、また、こうした革命に僅かばかりの力を与えて来た造兵術とバリケードは、近代国民国家が自由にできる莫大な軍備の前には単なる象徴でしかないからだ。

だが、長い間欧米急進主義の一部だったもう一つの伝統がある。リバータリアン自治体連合政治運動の発達である。街・隣近所・都市・市民集会を中心として構築され、地域的・地方的・究極的には大陸的ネットワークへと自由に連合する新しい政治運動だ。この「モデル」は、特に、プルードン・バクーニン・クロポトキンによって一世紀以上前に推し進められたもので、単なるイデオロギー的伝統以上のものなのである。この伝統は、16世紀のスペインでComunerosによって・1770年代にニューイングランドからチャールストンへと広がった米国タウンミーティング運動によって・1790年代初頭にパリの各行政地区市民集会によって、本物の民衆実践として繰り返し浮上しており、1871年のパリコミューンから1960年代と1970年代初頭のマドリード市民運動(Madrid Citizens' Movement)まで続いていたのだ。

リバータリアン自治体連合論は下からの運動−−プロレタリア階級に基づいた全ての急進的教理は全く逆だ−−としていつも再現する。これは、民衆が運動を開始する時ならほぼ抑えられないことだ。例えば、今日英国の民衆が目を向けている「地域社会主義」・合州国における急進的自治体提携・西欧と北米全般に見られる都市の民衆運動(popular urban movements)がある。こうした運動の基盤は、もはや、工場から派生するお決まりの厳密な階級諸問題ではない。世界中の自治体全てを悩ましている環境問題・成長・住宅問題・運営上の細々とした問題までの幅広い、実際、挑戦的な諸問題が基盤になっているのである。こうした諸問題は伝統的な階級境界線を越え、多くの場合その職業基盤や経済利権とは無関係に、民衆を評議会・集会・市民主導の運動に集めている。諸問題を集めているという以上に、こうした運動は伝統的プロレタリア社会主義とアナキズムが一度も達成したことのないことを成し遂げ来ているのだ。こうした運動は労働者階級の背景を持つ人々だけでなく中産階級の人々をも、都市に居住している人々だけでなく田舎に住んでいる人々をも、専門技術のない人々だけでなく専門家をも、実際、非常に大規模に、自由主義や急進主義の伝統だけでなく保守的な伝統からも多種多様な人々を共通の運動に集合させているのである。これこそが、本来の民衆運動が持つ本物の潜在可能性だと言うことができる。産業労働者が民衆の少数派であり続けている階級志向型運動など潜在可能性ではない(原注)。階級利益とグループ利権へと分断される以前に、過去の偉大なる民主革命がイデオロギー的に依存していた「民衆」の現実性を、この種の運動は、暗黙のうちにもう一度復活させるのだ。実際、歴史は、現実世界において、18世紀のアメリカ独立革命とフランス革命から生じた啓蒙運動という以前はあいまいでつかの間の理想だったものを再構築しているように見える。現在ならば、プロレタリア社会主義とアナキズムの過去二世紀にわたり存在していた少数派運動ではなく、大規模な社会変革に向かう大多数の力を意識できるのである。

(原注:これこそが、今も昔も革命的労働者階級運動の最大の欠点なのであり、その運動が特にうまくいった数少ない実例がなぜ苦々しい市民戦争だったのかを説明してくれる。)

急進的イデオロギー信奉者は、こうした非凡なる自治体運動を懐疑的に眺め、伝統的階級プログラムや階級分析に運動を拘束しようとしがちである。1960年代のマドリード市民運動(Madrid Citizens' Movement)を破壊したのは、実質的に、あらゆる政治的立場からやって来た急進主義者たちだった。スペインを民主化し、人間的都市連合に協働的で倫理的な新しい意味を与えようとしていた本当の民衆自治活動を、急進主義者たちが操作しようとしたからなのだ。MCMは、政党の特殊な利権(special party interests)によってほぼ壊滅状態にさせられるまで、社会主義者・共産主義者・その他マルクス−レーニン主義グループの政治的情熱を強める場になっていたのだった。

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リバータリアン自治運動が、今日、国民国家に対する唯一の潜在的挑戦を形成しており、能動的市民の形成と新しい政治運動−−草の根で、顔を付き合せ、特徴として真に民衆的な−−にとって主要領域となっているということは、私の他の著作で探究されており、ここで検討はしない(「政治の緑化 --新種の政治実践に向けて--」 と 民衆政治vs.政党政治を参照。また、Limits of the Cityの補足新版も参照して頂きたい)。ここでは、次の非常に重要な疑問を問うことが必要であろう。私たちが「政治」という言葉をどれほど気前よく定義していようとも、リバータリアン自治体連合論は、単なる政治的「モデル」なのか、それとも、経済的生活も同様に含めているのだろうか?

リバータリアン自治体連合論の観点が、国民国家の司法権力を経済力で強化しているだけに過ぎない「経済の国有化」とは相容れないということは、あまりにも明白すぎて長々と述べる必要などない。また、私有財産と「自由市場」を正当化するために、アイン=ランドなどの従者である有産主義者が「リバータリアン」という言葉を着服することもできはしない。その名誉のために言っておくが、マルクスは、「自由市場」が、興行的操作を伴う寡頭政治的独占企業市場を産み出し、それは全側面において国家統制と同じ方向性を持ち、究極的には国家統制と同じになるとはっきりと実証していたのだ(原注)。

(原注:私たちが大企業を説得したり、改良したりできる−−いわば、貪欲と利益を「教化する」−−などという馬鹿馬鹿しさは、一千年かけてもカトリックが達成できなかった自由主義的純真さの典型例である。改良精神を持った多くの雑誌が産み出している論文や本の洪水よりも、「フォーミュラ」のような映画の方が企業の「徳性」や「能率」について多くのことを語ってくれる。)

だが、全国レベルの同一職業によって調整され、地域レベルでは「集産集団」によって地理的に調整される「集産化」型自主管理企業というサンジカリズム的理想はどうなのだろうか?ここで、サンジカリズム型経済管理に対する伝統的社会主義の批判が核心をついている:法人資本主義なのか私企業資本主義なのか(the corporate or private capitalist)、「労働者管理」なのかそうではないのか−−皮肉なことに、これは「仕事場民主主義」や「従業員所有」といった現代の流行になっており、私的所有権に対しても資本主義に対しても何の脅威も与えない産業管理テクニックの一つなのである。1936年〜1937年のスペインのアナルコサンジカリスト集産集団は、実際には労働組合管理だったのであり、中央集権化と官僚制度化の影響を非常に受けやすいと証明された。同じことは、充分な時間が経過すれば、善意の共同組合の多くに現れるのである。CNT擁護者の主張とは全く逆に、1937年半ばまでに既に、仕事場の労働者管理は組合管理に置きかえられたのだ。カタラン政府のアバド=デ=サンティジャンのような「アナキスト」大臣の圧力下に、組合員はスペイン「左翼」であるマルクス主義分子が擁護していた国有化経済に近づきはじめたのだった。

「経済的民主主義」は、単に、「仕事場の民主主義」や「従業員所有」のことではない。実際、多くの労働者は、できることなら、自分が働いている工場から逃げ出したいと思っているのであり、単に自身の不幸の「計画立案」に「参画する」のではなく、もっと創造的で職人的な仕事を見つけたいと思っているのである。「経済的民主主義」がその最も深い意味で示していることは、生活手段への自由で「民主的な」アクセス、つまり、物質欠乏状態からの確実な解放だった。これは政治的民主主義と対なのだ。だが、「経済的民主主義」は「従業員所有」と「仕事場民主主義」として再解釈され、利潤の共有と産業管理に労働者が参画することだという意味になってしまう。これこそ、多くの急進主義者が知らず知らずのうち荷担している薄汚いブルジョアトリックなのだ。工場の暴虐・合理化された労働・労働者がいつでも共犯関係を持つ搾取的生産である「計画的生産」からの解放ではなくなってしまうのである。

リバータリアン自治体連合論は経済の自治体化−−そして民衆自主管理という政治運動の一部として地域社会による経済管理−−を主張することで、こうした諸概念全てよりも顕著に進歩している。サンジカリズムの代替案は、「自主管理型」集団へ経済を再私有化し、伝統的私有形態−−「集団的に」所有されていようといまいと−−への堕落の道を開けているが、リバータリアン自治体連合論は経済を政治化し、それを市民の領域に解消するのである。工場も土地もコミューン的集団内の別個の利益として出現しない。労働者・農民・技術屋・エンジニア・専門家なども、自分の職業的アイデンティティを、顔を付き合せた集会における市民集団とは別個の関心事だとして存続させることなどできはしない。「所有」は、リバータリアン制度の枠組みの物質的構成要素としてコミューンに統合されるのである。実際、職業的関心を持った集団としてではなく、市民としての集会における市民集団が管理するより大きな全体の一部として統合されるのである。

同じぐらい重要なことは、急進主義理論と社会の歴史において非常に重要な、街と国との「アンチテーゼ」関係を、「郡区」(township)、つまりニューイングランド管轄区域が超越している、ということだ。都市的実在が農業的・村落的環境の中核になっており、敵対してはいないのである(原注)。つまり、郡区(township)は、郡や「生物学的地域」といったより大きな地域の中にある小規模区域なのである。

(原注:ルイス=マンフォードが歴史における都市(New York: Harcourt, Brace & World; 1961, pp. 331-33)の中でニューイングランド郡区(township)について行っている優れた議論を参照して頂きたい。マンフォードは、不幸にして、郡区の形態を過去のものとして扱っている。郡区(township)に関する私の関心は、私自身が住んでいるヴァーモント州についての長年の研究から生じている。多くのことが変化しているものの、ヴァーモント州の街と郡は現在でもタウンミーティングを中心に地理的・法的に制度化されているのである。この政治形態は現在、ニューイングランド地方の多くで衰えているが、その実行可能性と価値は、歴史記録上問題になっているだけであって、理論的思索では問題ではないのだ。)

このように述べられることにより、経済の自治体化は「国有化」とも「集産化」とも区別されねばならない。前者は官僚制度的トップダウン型管理を導き、後者は集産化された形態における私有経済の出現の見こみを高くし、階級や身分のアイデンティティを蔓延させることになる。実際に、自治体化は、経済を、私的・単独的領域から民衆的領域へと持ちこむのである。そこでは経済政策が地域社会全体によって形成されるのである。特に、顔を付き合せた関係を持つ市民が、職業的に別個に定義された特定関心事を乗り越える一般的「関心事」を獲得するために活動するのである。経済は、単に、この言葉が持つ厳密な意味−−「ビジネス」であろうが「市場」であろうが資本主義的事業であろうが「労働者管理」事業であろうが−−での経済であることを止める。経済は真に政治的経済になるのだ。ポリスやコミューンの経済である。この意味で、経済は政治化されるだけでなく、本当に共同体化されるのである。自治体が、もっと正確に言えば、顔を付き合せた集会の市民集団が民衆ビジネスの一側面として経済を吸収し、利己的事業への私有化が可能だというアイデンティティを経済から剥奪するのである。

どのようにすれば、自治体を、中世に出現したような偏狭な都市国家にならないようにできるのだろうか?ここで、出現した諸問題に対する「保証付きの」解決策を求めている人には、人間の事柄に対して意識性と倫理が指導的役割を持っているという程度のことしか見つけ出せないだろう。だが、対抗的諸傾向を捜し求めているのならば、推し進めることができる答えが一つ存在する。中世後期の都市国家を勃興せしめた一つの重要な要因は、内部の階層化だった。これは、貧富の差だけでなく、血統一族に起源を持っている部分もあるが、職業的差異にも起源を持っている社会的地位の違いの結果として生じたのである。実際、都市が集団的団結の感覚を失い、その事柄を私的・公的ビジネスに区別していたがために、公的生活それ自体は私有化され、さらに、フローレンスのような諸都市で織物を染色していた「blue nails」や古代ローマの平民へと、そして、品質の高い製品を創り出していたもっと傲慢な職人階層へと分裂させられたのである。富もまた私有経済において重要な要素だったのであり、富のために物質的差異の拡大と様々なヒエラルキー的差異の促進が可能になったのだった。

経済の自治体化は、民衆管理経済に影響を持ち得る職業的区別を吸収するだけではない。物質的生活手段をコミューン的分配へと吸収するのである。「各人からは能力に応じて、各人へは必要に応じて」が、コミューンの教義としてイデオロギー的にではなく、公的領域の一部として制度化されるのである。これは目標だというだけではない。政治的に機能する一つの方法なのだ。自治体が諸集会と諸機関を通じて構造的に具現化するやり方なのだ。

さらに、いかなる地域社会もアウタルキー経済を確立したいと望むことなどできないし、「自給自足的」であるだけでなく、閉鎖的で偏狭なものになりたいと思わない限り、そのようにしようと試みるべきではない。つまり、公的に管理された共有資源の世界へと、政治的にだけでなく経済的にも、コミューンの連合−−コミューン群からなるコミューン−−を作り直すのである。こうした経済管理は、正にそれが民衆活動であるために、企業間の私有化されたやり取りへと堕落しはしない。むしろ、自治体間の連合化されたやり取りへと発展するのである。つまり、社会的やり取りに関する正にその諸要素が、現実的・潜在的な私有的構成要素から制度的に公的構成要素へと拡充されるのである。連合は、共有された欲望と資源のためだけでなく、定義上で公的プロジェクトになるのだ。利己的なブルジョア「共同組合」は言うまでもなく、都市国家の出現をも避ける方法があるとすれば、それは、政治運動が、公共領域と私たちが呼んでいるものだけではなく、物質的生活手段をも包含するほどに政治生活の完全なる自治体化を通じてなのである。

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経済の自治体化を求めることは決して「空想的」ではない。全く逆だ。生活の中で自由を確立しようとするのと同じぐらい心の中で自由に考えている限り、現実的で実現可能なのだ。私たちがいる場所は、日常生活を生き抜いている場だというだけではない。私たちが働いている確実な経済的土俵なのであり、私たちを取り巻く自然環境は私たちに自然との調和の中で生きることを挑戦している本物の環境的土俵なのである。ここで、私たちは、本物の生態系共同体に自分自身を結び付けてくれる倫理的繋がりだけでなく、充分な能力を持ち、権能を持ち、自己維持的な−−「自給自足」ではないにせよ−−人間へと自身を作りかえることができる物質的繋がりをも進化させ始めることができるのである。自治体や地方の諸自治体連合が政治的に団結しているだけでは、それはまだまだ壊れやすい連合形態のままなのだ。自治体自身の物質的生活を管理していれば、私有化された都市国家に変わるという偏狭な意味ではないが、その自治体は経済力を持つ、つまりその政治力を決定的に強化するのである。