エコロジー運動の危機


本論文は、元々1988年5月のLeft Green Perspectives(当時は、Green Perspectives)第六号に載った。原文は、"The Crisis in the Ecology Movement"で読むことが出来る。なお、the Greens は、緑の党・緑の人々・グリーン・緑派などに訳されるが、ここではグリーンズと訳出した。また、原文に幾つかタイプミスだろうと思われる単語があるので、適宜修正しながら訳した。

北米エコロジー運動−−特に米国グリーンズ−−は、良心と方向性に関する重大な危機に直面している。

エコロジー志向的諸団体とグリーンズは、我々の生態破壊の根源を社会的混乱−−自然を支配するという正にその概念を生み出した、人間による人間の優越的支配−−に見出す運動になるのだろうか?

それとも、エコロジー諸団体とグリーンズは、全エコロジー運動を、神々・女神・樹の妖精によって飾り立てられ、戦闘的活動団体を放縦なエンカウンターグループへと還元してしまう鎮静剤的儀式の周囲に組織立てられた、夢想家的な宗教へと変えるのだろうか?

これらのはっきりと対立した選択肢は、正に現実のものである。そして、これらについて率直に述べることは、「分裂を誘う」ようなことでもなければ、「対決的な」ものでもない。「分裂」と「対決」のような非難は、見解の重大な相違を不明確にし、重大な諸問題の注意深い探求を妨げるために、悪質な皮肉を込めて使われているのだ。「団結せよ!」といういかさまの叫びは、ある観点のために別な観点を黙らせようとして使われることが多いものだ。大きな違いがあっても、我々は確かに団結−−お望みならば、議論も−−出来るのだ。「ニューエイジ」のレトリックとは逆に、これこそが民主主義なのだ。

実際、真の成長が生じるのは、正に、人々が異なる観点を持ち、さらに進んだ真実のレベルに創造的に到達するために、お互いに対決したときなのである。全ての人に「受け入れ可能」ではあるが、長い目で見れば実際には誰も満足しない、最大多数が納得するものを採用したときにではない。真実は対話と、そう、荒っぽい論争を通じて確立されるのだ。口あたりの良い「アイディア」を厳格なドグマに最終的に変えてしまう、死んだような同質性と寒々とした沈黙によってではない。

基本的な違い

次のことに向き合ってみよう。今日、エコロジー運動とグリーン運動には一つの主たる論議がある。社会生態学(社会的エコロジー)と「ディープ=エコロジー」との論議である。前者は人間を、主として、貧乏・金持ち、女性・男性、黒人・白人、ゲイ・「ストレート」、抑圧される側・抑圧する側、といった自分のステイタスに関して根本的に異なっている社会的存在として扱おうという思想体である。後者は、人間を、「自然の力」にほとんど完全に従属しており、本質的に、タビネズミやハイイログマ(お気に入りの種だ!)、そしてこの点に間しては、昆虫・バクテリア・ウィルスと交替可能な、単なる「種」−−哺乳類であり、「アース=ファースト!」の指導者のような人々にとっては、「背徳の」生物−−として見なしている。

これらは幻想でも、哲学的に曖昧なものでも、近代の学者達が議論している現実とはかけ離れた問題でもない。これらは、正に実際上の違いの基盤となっているのだ。人間性を社会的なものだとする観点は、例えば社会生態学のそれは、主として、ヒエラルキーの歴史的出現と、ヒエラルキー的諸関係を除去しなければならないということに焦点を当てている。人間を無慈悲にも搾取している社会において抑圧されている側の公正な要求を強調しており、人間の自由を要求している。社会を自然に敵対させるのではなく、我々の自然との関係を調和したものにしてくれる、新しいテクノロジーと、もっと有機的な理性の形態をも含めた新しい感受性の可能性を探求しているのである。競争的な「成長か死か」という市場社会−−ざっくばらんに言えば、資本主義と呼ばれているものであって、政治的に安全で社会的に中立な「産業」社会だとか「ポスト産業」社会ではない−−を放棄し、民衆が自分の個人的生活と社会的生活に直接の顔を付き合わせた管理を及ぼすことになる、自由で、連合した、人間規模の地域に基づいた生態調和志向的社会と置き換えるという徹底的制度変革を要求しているのである。

逆に、「ディープ=エコロジー」は、本質的に、人間と人間とを分断している根源的な社会的差異を無視し、貧乏人・金持ち、女性・男性、黒人・白人、ゲイ・「ストレート」、抑圧された側・抑圧する側を、「人間性」と呼ばれる生物学的塊へと「動物学化」しているのである。人間性は、「魂が零落し」ていたり、「人間中心主義的な」ものであったり、世界が人間の享楽と人間的目的(この言葉が近年何を意味していようとも)のためだけに作られた(誰によって?−−神か?)という「その」(its:英語ではモノを差すときに使う)信念という点で「人間志向的」だとされているのだろう。ビル=デヴォールとジョージ=セッションズがそのバイブル、ディープ=エコロジーで述べているような、根本的に社会的な見解から根本的に魂的な見解への変化は、社会的なこと(ロシアのアナキスト、ピーター=クロポトキンの広範囲な著作を、バンパー=ステッカーのスローガンにリサイクルしているだけの「少数派の伝統」とは全く別だ)を避け、すぐさま、仏教・道教・「キリスト教の伝統」・「テクノロジーの疑問視」・「緑の政治」−−非常に顕著なことだが、マルサス主義−−へ完璧に急降下しているのである。

人間性の非常に多くを搾取される側と搾取する側へと分断している重大な経済的要因が、葛藤する「世界観」によって置き換えられているのである。権威主義的共産党員だったウッディ=ガスリーのような明らかに反対側にいる個人が、リバータリアン=アナキストだったポール=グッドマンと混合されているのである。「市場経済の発展」と「資本主義勃興のインパクト」は、手短に片付けられているのだ。彼らは、たった一度、『支配的世界観の起源と発展を説明しようとしている数名の歴史家と社会科学者を』魅了している問題だとして、ついで程度に(45ページ)述べているだけなのだ。『私達のここでの目的は、支配的世界観の起源と発展ではなく、それ(世界観)が、究極の現実性(形而上学)・知識(認識論)・存在(存在論)・宇宙(宇宙哲学)・社会組織に対する私達のアプローチと、現行社会とに及ぼしている一般的影響を広範にわたって批評することである』(45ページ)、とディープ=エコロジーの著者、デヴォールとセッションズは述べており、これは、この書物の中で最も控えめな表現の一つとして見なすことが出来るものだ。

このことが明らかにしているように、既に先を見越している読者が手に入れるものは、現行社会諸問題の分析(つまり、「人口問題」)に関してトーマス=マルサスを非常に賞賛していること(45ページ〜46ページ)・個人の疎外の源泉としての「テクノロジー社会」のインパクト(48ページ)・『ディープ=エコロジーの基盤』として『基本的直感と、自分自身と自然とを経験すること』(65ページ)・少しばかりの形而上学と認識論を組み合わせたような『「自己Self」が有機的全体調和を意味している「己の中にある自己self-in-Self」の実現』なのである。『生態圏にいる全ての事物は、生き、栄え、より大きな自己実現の中で自身の個別的形態に達する平等なる権利を有している』という考えは、天然痘ウィルスのような「危険なウィルス」が存在し、繁殖する権利についてNew Scientist誌上で重大な論議を巻き起こした生々しい問題なのだ。このすべては、いかなる思慮深い読者にも吐き気をもようさせるような比喩方法で示されていたのだった。ディープ=エコロジーの原点であった幾つかの社会問題は、野生の賛美・天然資源保全の批判・有機農業が良くて都市生活は悪いという目も見張らんばかりの再発見へと消えうせている。数多くの決まり文句に加え、自然と懇談すること・厄介な「己」を宇宙的で有機的な全体調和性へと解消することとともに我々に必要なことは、デヴォールとセッションズが強調しているところによれば、我々の『対立者を信者へと』(200ページ)変えることだというのである。煎じ詰めれば、我々には私的ふれあいが必要だというわけだ。暖かさの祝宴・儀式・政治の代わりになろうとしている相当量の宗教、が必要だというのだ。

陳腐な話と孝心に関するこの我侭文学部では、生存と「進歩」の法則としての共食いに基づいた市場経済が社会の全側面に浸透していることには、いかなる中心的重きも置かれてはいない。「己」がマスメディアに急速に吸収されている時代にあって、我々は、我々を定義する境界線全てを解消することでこのプロセスを促すように駆り立てられているのである−−これは、自然というよりも超自然であるように見える宇宙的な「自己」という名においてなされているのである。

「ディープ=エコロジー」の論理

近年、我々は悪しき習慣に苦しんでいる。我々は、「ファスト=フード」を食べ、「ファスト=アイディア」を一噛みし、「ファスト=ヘッドライン」をちらりと眺め、簡単に飲みこめる錠剤という形の万能薬を買っている。ある種の前提が持つ論理を考え抜く必要性は、20世紀の「アメリカ的方法」にとっては、ほぼ完全に相容れないのだ。デヴォールとセッションズのディープ=エコロジーと彼らがアルネ=ネスの統括する偶像の下で立ち上げる手助けをしてきた「運動」は、「ファスト=エコロジー」を受け入れるよう我々をあやして寝かせるために正に必要なことを提供しているのである。

しかし、それが証明しているように、我々は「Z」に辿りつく前に、「B」を経ずに「A」を語ったり、「B」を経ずに「C」を語ったりすることなどできはしない。そして、デヴォールがそのメンバーである「ディープ=エコロジー」だとか「ディーパー=エコロジー」は、デヴォールが寄稿編集者(contributing editor)で、セッションズが名誉寄稿者(valued contributor)であるアース=ファースト!と呼ばれる定期刊行物の周囲で形成されている。運動、そして特に雑誌としての「アース=ファースト!」について何か素晴らしいことがあるとすれば、それは、この雑誌が「A」から「Z」へと確かに向かっており、「ディープ=エコロジー」からの論理的帰結全て、つまり、デヴォールとセッションズが比喩・経典・詩的喚起・主張を使って埋もれさせていることの多い結論、を導き出しているという事実なのである。

「アース=ファースト!」はこの文字が述べていることを正確に意味しており、「ディープ=エコロジー」が示唆していることを正確に意味している。「地球(アース)」は人間以前に存在していたのであり、実際、人間は、(この雑誌の編集者、デヴィッド=フォアマンにとっては)不必要で、多分有害でさえあり、明らかにいなくても良いものなのだ。「自然法」は、社会的諸要因を補完する。それならば:エチオピアに飢饉があるのだろうか?あるとするのなら、フォアマンが悪名高いインタビューの中で尊敬するデヴォールに述べていたように、自然は、『その方向を取っている』ことを許しているはずであり、エチオピア人は飢餓のままにほっておかれねばならないのだ。ラテン系民族(原住民族を付け加えても構わないだろう)は、リオ=グランデを越えようとしているのだろうか?それならば、フォアマンの主張によれば、彼らは、「我々の」資源に負荷をかけているわけだから、移動を止めたり、そこから離れたりしなければならないのだ。デヴォールは明らかにこれらの貴重な見解を記録していたが、抗議の言葉を表明したり、異議を唱えたりもしていない。私の知る限り、セッションズからの公然たる非難も聞いたことが無い。

デヴォールとセッションズのエコ文化−−それとも宗教だろうか?−−の必要性に関する傾倒を考えれば、「アース=ファースト!」の理論的教皇であるエド=アビーが問うているように、我々はいかなる文化を保護しなければならないのだろうか?アビーが主張しているように、我々の社会が、「北部欧州文化」−−それともわれわれは「アリアン語族」と述べねばならないのだろうか?−−によって形成されていることは明らかである。したがって、ラテン系民族が「我々の」文化と制度を彼らのヒエラルキー的属性で汚染しないようにしておくための、深遠なる「文化的」諸理由−−この表現を「人種的」と解釈する人もいるであろう−−があるとされているのだ。フォアマンが問うている「アース=ファースト!」に我々が忠誠心を持っているかどうかの「リトマス試験」は何であろうか?ご存知のように「人口増大」問題である−−資本主義と競争市場ではない。私の知る限り、この全群集の中で、世界の人口が5億人(ネスが人口統計的希望要件だと示唆していたように)やもっといって5百万人にさえも減少しても、「成長」に失敗することは市場における経済的死刑であるという競争と蓄積に基づいた経済システムが、人々が必要としていること・人々が到達する人口数・人々を動機づけている意図とは無関係に、必ずや生態圏を食らい尽くすだろうということを示す気遣いをする人など一人もいないのである。米国資本主義は、その人口が一億を超える前に、4千万のバイソンを滅亡させ、広大な森林地帯を荒廃せしめ、何百万エーカーという土壌を干からびさせたのだ。

本来、「成長か死か」の市場経済は、車を生産出来なくなったとしても、戦車を生産するであろう。衣服を生産できなくなっても、ミサイルを生産するであろう。テレビを生産できなくなっても、レーダー誘導システムを生産するであろう。マルサスをその舳手にしている「ディープ=エコロジー」は、これらのほとんど古典的な経済原理に対して完全に服従しているのである。その焦点は、ほとんど完全に動物学的であり、人間の、実際、社会のイメージは、社会的諸傾向ではなく、「自然の諸力」に非常に深く根差している。特徴的に、「テクノロジー社会」や「産業社会」について語っているのであって、資本主義ではない。これらの言葉は、社会が発達させているテクノロジーと産業と、それらの使用において決定的役割を演じている社会的諸関係を抜け目なく覆い隠している言語的詐欺なのだ。

それ自体で生態システムにとって危険なテクノロジーも確かに存在するが、テクノロジーそれ自体が反生態調和的社会と自然との間の混乱を生み出してはいない。テクノロジーが行っていることは、本質的に、根本的に社会的な問題を拡大することだ。デヴォール・セッションズ・「アース=ファースト!」が一貫して行っているように「テクノロジー社会」や「産業社会」について語ることは、マルクスがその経済に関する著作の中で非常に素晴らしく発展させた資本の拡大を導いている経済法則の上に宇宙の塵を投げかけ、経済的諸要因を動物学的比喩によって置き換えることなのである。ここには明らかに「ディープ=エコロジー」・「アース=ファースト!」・その宗教的従者の持つ回帰的な性格が根底にある。こうした従者どもには、シャーレーン=スプレトナクやカークパトリック=セールなど、ハリウッドとディズニーランドの間を漂っているオムツ頭ども(diaperheads)がいる。実際、やつらは60年代以来出現していた潜在的に最も急進的なものの少なくとも一つである運動が持っている急進性の全果実を取り去ってしまう恐れがあるのだ。グリーン運動における最大の「穴」が、スプレトナクが我々に信じ込ませようとしているように「持続可能な宗教」だとするのなら、我々は運動ではなくドーナツを作ってきたことになるのだ。

人間性に再び魅せられて

我々が生態学的感受性を極度に必要としていることは疑いもない−−それは自然進化に対する驚きの感覚と、その多種多様な形態における生態圏の壮大さによって特徴づけられるものである。しかし、自然は、太平洋岸の山々やニューイングランド地方の湿地帯を眺める物見窓などではない。自然は、結局のところ、プロセスなのだ−−その条件自体で敬服出来る驚くべきプロセスなのだ。神秘化され、非合理的なことが多く、時として非常にヒエラルキー的な形態における我々自身−−男にせよ女にせよ−−の単なる粗野で擬人的な投影である神々を召喚することによって敬服できるものではないのだ。こんなやり方が、抑圧された人々を混乱した寂静主義と諦めの感覚で静めることによって、多くの千年王国のヒエラルキー的関心に仕えてきたのだ。

自然進化の顕著な産物は、この惑星を満たしている人間−−ハイイログマや鯨と同じ自然の産物である存在−−である。そして、熊や鯨のように、人間種は−−社会生態学の見地から見た場合に社会的であるのと同じように、生物学的観点から見た場合には一種族だ−−概念的思考と呼ばれる優れた能力を獲得してきた。この点において、自然進化は、この種族に、他の種族とは比べものにならない力を賦与してきたのだ。それは、社会と呼ばれる高度に制度化された地域を形成する力であり、これは遺伝的にプログラムされた「社会的昆虫」が、いかに自然にその根を持っていようとも、進化的に発達できることとは異なっているのだ。

今日我々が直面している重要な疑問−−人間種としての我々だけでなく、全生態圏にとって−−は、社会進化がどのように進行し、それがどの方向に進むのだろうか、ということである。この疑問を種としてスピリチュアルな更新の問題だとして扱うことは、それが魅力あるものであったとしても、回避的なだけでなく、社会的に武装解除しているのだ。社会進化は、それが平等主義的制度・関係からヒエラルキー的なものへと変化してしまった大昔に間違った方向を取ったのだ。数世紀前に、それが比較的協働的な社会から非常に競争的な社会へと変化してしまったときに、さらに間違った転換をしてしまったのである。もし我々が社会と自然をお互いが調和するように持っていこうとしているのなら、我々は人間性と社会の進化的潜在性を満たすような運動を発展させねばならない。つまり、人間世界を自然界の自己意識的エージェントへと転換させ、進化のプロセス−−自然進化と社会進化−−を促すようにしなければならないのだ。デヴォール・セッションズ・ネス・彼らの従者のエコ無駄口たたきどもは全て脇に置いておくとして、我々が自然に対して創造的に影響を及ぼす(実際、時として自然を自然自体から救済する)ように介入しないのであれば、我々は自然進化それ自体が我々に賦与したポジティブな特徴全てを裏切ることになるであろう−−精神・同情・非人間種をケアする意識的能力という潜在的に前例のない我々の芳醇性をである。生態調和社会があれば、我々のテクノロジーは、理性的社会進化のために使うことが出来るのと同じぐらい、自然進化のために使うことが出来るのである。

「アース=ファースト!」が行ったような「石器時代に戻れ」と要求すること、厭世的な数多くの「反人間主義者」と「生物中心主義者」が行っているように人間性を堕落させることは、先祖帰り的なだけでなく、重大に反動的なのだ。堕落した人間性は、資本主義社会とヒエラルキーの歴史が充分に証明しているように、堕落した自然を生み出すだけであろう。我々は極度に「世界」と「自然」に「再魅了される」だけでなく、人間性にも再魅了されなければならないのだ−−自然の存在・自然進化が気にかけている(caring)産物としての人間自身の能力に対する驚愕の感覚を持たねばならないのだ。「地球に根差した」神々によって満たされている超自然は、健全なる自然主義によって置き換えられねばならない。そこでは運動として我々が、自然主義的手段を使って、自然との分断されたつながりを構築しなおし、我々の恐ろしいほど傷ついた社会を社会的手段によって癒すことになるであろう。特に、グリーンズにとって、このことは、我々が新しく、独立した、革命的政治を案出しなければならないことを意味している。この政治という言葉は可能な限りもっとも広範にわたる意味で使われているのであって、古く・店晒しで・鎮静剤のような神々−−それが東洋のものであろうと西洋のものであろうと、異教的であろうとキリスト教的であろうと、「地球に根差して」いようと「天国とつながって」いようと−−をリサイクルしたものなどではない。我々は、現実と直接臆せずに向き合うことを学ばねばならないのだ。現実を非理性的思考と、濃密な反啓蒙主義的神話の霧で覆い隠してしまってはならない。

ヴァーモント=グリーンズの左翼ネットワークは、すでに真に急進的なプログラムを案出しようとする全く重要なステップ−−「新しい政治に向けて」−−を取り始めている。このステップは、左翼グリーンのエコロジー運動に関する基本概念を概略している。彼らはオープンに自身を「生態学的人道主義」(「ディープ=エコロジー」によって「人道主義」という言葉に与えられた邪悪な意味ではなく、その最も良い意味でこの言葉を使っている)と名のっている。そして、米国の政治生活に応用しながら、社会生態学の基本原理を推し進めているのである。エコロジー運動とグリーンズは、巧妙にヒエラルキー的な「中心主義」−−「生物」や「人間」−−から自身を解き放ち、生態学の概念に基づいた明確に定義され一貫した社会諸原理の総体を発展させることになるかもしれないし、疎外された特権的エンカウンター=グループの集りとなるかもしれない−−後者について、デヴォールが推薦しているように「山のように考える」ことを学ぶグループもあるだろうが、それを単なる新しい流行であり、最悪の場合嘲笑の的、良くても健康的なアホらしさとしてまっとうに無視するグループもあるだろう。