アナルコサンジカリズムの亡霊


本論文は、元々1993年のAnarchist Study第一号第一巻に載った。原文は、"The Ghost of Anarco-Syndicalism"で読むことが出来る。

最も永続的な人間的弱さの一つは、現実が酷く分断された時代には、個々人や集団が、継続性や安全性の感覚を求めて、廃れたイデオロギーに、古代のイデオロギーさえにも退却しようとする傾向がある、ということだ。今日、我々は、ナチズムの亡霊や絶えず問題を引き起こしている国粋主義という執念深い諸形態を呼び出している右翼だけでなく、左翼(現在この言葉が何を意味していようとも)にもこのことを見出している。左翼の多くの人達が、各々の亡霊を呼び出しているのだ。多くのフェミニストやエコロジーセクトどもは新石器時代の女神カルトを誉め称え、英語圏世界を通じて中産階級の青年の間には一般に反文明的雰囲気が存在している。

不幸にして、懐古趣味的傾向が、数多くの自称アナキストの間に全く欠如しているわけではない。中には、あれやこれやのエコ神学や女神崇拝的イデオロギーで積み重ねられた神秘的で、明らかに原始人主義的思想に向かっている者もいる。また、1936年〜1939年のスペイン市民戦争における歴史的力としてその終焉を迎えたにも関わらず、アナルコサンジカリズムを永遠の真理だとして無批判に志向している者もいる。エコ神学の批判論文は現在充分あるため、真面目な人々はフェミニズムとエコロジズムから出現しているこれらの亡霊の悪魔払いをすることが出来るだろう。だが、現代リバータリアン諸傾向の内で最も浮世離れしているものの一つ、アナルコサンジカリズムは、それが以前、反乱を引き起こした労働運動に根を持っているがために、未だに非常に大きな共感を呼んでいるのである。

私が多くのアナルコサンジカリスト文献について不快に思っていることは、それが、「純正」アナキズムのアルファでありオメガであると主張しているところだ。他のリバータリアン諸傾向は、逆に、伝統的な、賃金労働者と資本との闘争に大きく焦点を当てるのではなく、もっと幅広い社会闘争という観点を持っているのである。確かに、すべてのアナルコサンジカリストが例えば、エコアナキズムや村落・街・都市の連合に関わっている集産主義的共同体連合論の(communitarian)アナキズムに共感を持っていないというつもりは無い。しかし、労働者志向的アナキストの間には、ある程度のドグマティズムと重苦しい固定性が維持されており、これが左翼リバータリアン一般の特徴であるはずが無いのだ。

アナルコサンジカリスト理論家のヘルムート=ルーディガーが1949年に書いているように、サンジカリズムが「アナキズム思想を労働者−−つまり、人口の大多数と結びつけることが出来る唯一の」(uder grossen Menge der Bevolkerung)イデオロギーだ、などと話されたら、1990年代のこの世界では悲惨な冗談にしか思われないのだ(Rudiger, 1949, p. 160)。少なくとも、一つの主張を全く席巻していたこの著者は、昔の人間であり、Arbetaren(スウェーデンのサンジカリスト週刊誌)の編集者であり、1949年という、その10年後にプロレタリア階級が「覇権」的革命階級であることを止めることになることがまだはっきりしていなかった時代に、こうしたことを筆にしていたのだった。ルーディガーはまた、プルードンの持つもっと地域志向的な観点を自分の思想に導入することで、アナルコサンジカリスト=イデオロギーの範囲を拡大しようともしていた。 だが、最近のアナルコサンジカリストと会話をしたりその著作を読んだりすると、サンジカリズムや産業の「労働者管理」がアナキズムと同義であるという立場を堅持した似たような主張ばかりに出会うようになってきている。多くのアナルコサンジカリストは、その雑多な突然変異物−−特徴として一般にアナルコサンジカリズム的ではある−−におけるサンジカリズムの「覇権性」にさえも挑戦しているリバータリアン思想を、「反プロレタリア主義」や「反階級主義」、さらには、自分達の基盤である資本主義社会に置ける階級闘争のアナキスト分析からの文化的「逸脱」を繁殖させているものだと見なしているのである。

スペインの全国労働者連合(CNT)とフランスの初期の労働総同盟(CGT)の旗の下に集結していたプロレタリア階級が、その明確な特徴・構造・見解を前世紀の内に変質させてしまったということ;今日の資本主義は数世代前に出現していた資本主義とは全く異なるものであるということ;経済的諸階級だけでなく、人種・性・国民性・官僚的身分に基づいたヒエラルキー構造と莫大に関連している生き生きとした諸問題が出現していること;資本主義は現在、自然の世界と衝突する方向に向かっていること−−これらすべての問題とさらに多くの問題が一貫した分析と徹底的な解決策を絶対的に必要としているのに、私が出会ったアナルコサンジカリストはこれらの問題を完全に避けることが多いのである−−つまり、彼らはこれらの問題を瑣末な事だとして、隠喩的な言葉や経済的な言葉を使って、簡単に扱ってさえいないのだ。 同様に不快なことは、私に対するアナルコサンジカリスト批評家の中で労働組合主義のメンタリティを持っている人達がおり、その人達は、アナキズムそれ自体が、歴史的に、労働者とボスとの階級闘争よりもっと広い社会的・文化的問題に対する反応として作られてきた、という事実を覆い隠す傾向にある、ということである。その結果、今日では、アナキスト史におけるより広範な諸傾向は無視されたり、運動の過去を単に詳しく書くだけに止まっていたりするのである。私や誰か別の人が、どれほどうまく、イデオロギー的「覇権性」について主張している、この深くこり固まったサンジカリスト=メンタリティに挑戦できるのかは疑問である。しかし、少なくとも、アナルコサンジカリズムの記録ははっきりとさせねばならず、それが提起している諸問題に面と向かわねばなるまい。多くのアナルコサンジカリストにはっきりと分かるように、1930年代以来徹底的な変化が生じていることを考慮しようとする試みをなさねばならないのだ。 アナキズム史の一部となっているある種の真実を全般的に復権させ、探求しなければならないのだ。不愉快かも知れないが、直面しなければならない諸問題と向き合い、出来るだけ多くの問題を解消しなければ、少なくとも、率直さの代用品として身動きの取れないドグマに頼ることなどなく議論しなければならないのだ。

アナキズム:共同体連合論的側面

アナキズムが主として比較的近代の個人主義的イデオロギーの産物なのか、啓蒙時代の合理主義の産物なのか、ヒエラルキー的優越支配に抵抗するという元々未整理だが民衆の試みの産物−−これは私がクロポトキンと共有している解釈ではある−−なのかどうかは、議論の余地がある。いずれにせよ、アナキストという言葉は、英国名誉革命において既に現れており、クロムウェル派の雑誌がクロムウェルに対する急進的批評家を「スイス化したアナキスト」(Switzering anarchists)と呼んでいたのだった(ブクチン、1996年、第一巻、161ページ)。フランス革命の最中、プルードンが自分の見解を明らかにするためにこの言葉を使う一世代前に、王制派とジロンド党員は繰り返しこの言葉、anarchistesを使って、enragesを攻撃していた。 トルストイが自分の献身的な宗教心にも関わらずそうであったように、キリスト教精神の正真正銘の民衆版の名の下に、共有地と村落の自治を擁護するために立ち上った1520年代のドイツの宗教改革時代の農民がアナキストとして特徴づけられていることは、アナキストの伝統が拡充的な民衆的運動を含んでいるという事実の否認を埋葬してくれるはずである。

個人主義それ自体がアナキズムの必須条件であるかどうかは疑問である−−私自身のアナキズムの見解は、強力に社会的なものである−−が、アナキズムは様々な社会時期と社会条件で多様な形態を持って出現していると見ることも出来る。国権主義的制度の出現に抵抗した未開部族の人々の間にも、様々な支配システムに対する農民・農奴・奴隷・自由民の民衆抵抗にも、ジャコバン中央集権主義者に対するパリ集会のenragesと急進的sectionnairesの闘争にも、資本主義的搾取に対抗するもっと英雄的だった時期のプロレタリア階級の闘争にも見ることが出来る−−だからといって、こうした民衆抵抗の多くに国権的要素が同様に存在してたことを否定するわけではないが。プルードンは主に職人と19世紀に出現しつつあった労働者階級のために発言していたように思える。バクーニンは、農民と出現しつつあった産業プロレタリア階級のために、アナルコサンジカリストだと明言していた人々は、工場労働者と農業プロレタリア階級のために発言していたように思える。 クロポトキンは、「各人からは能力に応じて、各人へは必要に応じて」(私の言葉では、「欲望充足」post-scarcity)という原理に基づいた共産主義社会が著しく実現可能だと思われたその後の時代においてさえも、抑圧された人々のために発言していたのであった。

私がここで厳密な枠組みを提示しようとしているのではない、ということを強調せねばなるまい。過去二世紀で進化しつつある社会条件とイデオロギーの顕著なオーバーラップこそが、不可避的に、本質的に異なるリバータリアン思想の総体が「混乱」しているように見えることを説明してくれるだろう。私の観点では、アナキズムは結局のところ、単に個人主義的というよりも、反ヒエラルキーなのである。国家の放棄と経済的支配階級による搾取の放棄というだけでなく、人間による人間の優越的支配を取り除こうとしているのだ。実際、主として個人主義的だとか、特定形態の階級支配に主として反対しているなどということとは程遠く、アナキズムが歴史的にもっとも創造的で挑戦的であったのは、それが工場などのような経済的要素に焦点を当てていたときよりも、コミューンに焦点を当てていたときだったのであり、さらに、それが探求している連合的組織形態がサービスと義務という契約システムではなく相補性という倫理に基づいていたことなのである。

実際、伝統的アナキスト思想におけるコミューンの重要性は、それが値するほどの十全な注目を浴びてはいない。多分、マルクス主義的経済優先主義がアナキズムに対して与えていた影響と、それが産業プロレタリア階級に割り当てていた覇権的役割のためであろう。この経済優先主義は、プルードンの影響力を持った著作によって支持されていたのかも知れない。アナキストはその著作の多くをそれらが書かれた時代と状況を考慮せずに引用しているのである。例えば、今日では、ある頑固なプルードン主義者だけがプルードンが連合主義の原理で表明している以下の信念に同意することであろう。『アナーキーという思想は、(中略)政治的諸機能が産業的諸機能に還元され、社会秩序は取引と交換だけから生じる、ということを意味している。』(プルードン著、1863年、11ページ) プルードンによるアナーキーの経済優先主義的解釈は、モノとサービスの契約的持参者としての自己主権的個人に焦点を当てており(彼が自身の観点を個人契約と同様に「社会契約」の周囲に構築しているという点で、伝統的なリベラリズムと共有している焦点だ)、彼の思想の中で最も啓発的なものではない。

プルードンについて私が最も強調する価値があると思うことは、連合主義に関するその非常にコミューン的な概念である。ある種の制限を考慮しても、彼がその頂点に達したのは、彼が次のように宣言したときだったのだ。『連合システムは、ヒエラルキーや行政・政府的中央集権化とは逆である。』;連合的契約の『本質は、いつも、国家ではなく市民に、そして、中央の権力ではなく自治体と地方の権威に、より多くの権力を確保しておくことなのである。』;『中央の権力は、県や地方の代表者に、地方の権威は群区の代理人に、自治体の権威はその住民に(中略)感知できないほどに従属し』なければならない(プルードン、1863年、41・45・48ページ)。実際、エドワード=ハイアムズは、その非常に同情的な1979年の伝記の中でプルードンの連合主義を要約するときに、情熱的に賛美していた:

『プルードン主義の連合契約の本質は、その契約に入ると、お互いに対して等価で相互の義務を負った契約当事者双方が、連合的権威に譲歩するのではなく、自分自身でより多くの権利・自由・権威・所有を保持している、ということである。市民は、自分の権利を自分の教区やコミューンにいる他者の権利を犯さないようにするために必要なだけ制限しながら、自分の家の主人であり続け、自分の家に居続ける。コミューンは、市民集会やその代理人を通じて自治するが、ある種の権力を郡区の連邦的権威に与え、それに従うのである。郡区もまた、連邦したコミューン群の代理人の集会を通じて自治しており、全国郡区連合に連邦的権威を与え、その権力に従うのである。そこで、郡区の連合は、かつての君主的国家が変形して連合になったものであり、したがって次には、この連合がその他の連合と連邦的契約の下に入ることになる可能性があるのだ。』(ハイアムズ、 1979年、254ページ)

驚くべきことに、ハイアムズは、自分のコミューンと対立関係の中に存していると思われる市民に関するプルードンの個人主義と、契約的関係それ自体に気がかりな強調点をおいている。ハイアムズは、単なる行政的・調整的(政策立案とは異なる)集団へと組織的骨組みを作るものとしてではなく、各々の権利の「服従」を含めたものとしての、社会の様々な連合レベルというプルードンの概念を無批判に受け入れているのである。しかし、プルードンの「連合契約」というハイアムズの概念は、何か近代的な雰囲気を持っている。プルードンの著作の非常に多くに現れている所有階級的メンタリティ−−これが現代版「市場社会主義」と間違えられやすいのは当然なのだが−−はそれほど重要ではない。私が強調したい点は、プルードンは、ここでは、直接民主主義と明らかに市民レベルにおける自主管理集会の支持者として現れていることである。これが、中央集権と寡頭政治の時代において勝ち取るだけの価値がある社会組織形態なのだ。

ミハイル=バクーニンが、1870年代に万国労働者連盟(IWMA)に深く参画するようになる前、バクーニンは自分のアナキスト社会のヴィジョンにおいてコミューンや自治体に対する非常に強く力点を置きすぎていた。1866年の革命的教理問答(1869年のネチャーエフの教理問答と混同しないように)で、バクーニンは以下のように述べている:

『其一:すべての組織は、底辺から頂上へ、コミューンから国家の調整協会へ、という連合として進まねばならない。其二:コミューンと国家・県・地方の間に少なくとも一つの自律した中間団体が置かれなければならない。(中略)それぞれの国における全政治組織の基本ユニットは、性別とは無関係に全ての成人の多数決によって組織される、完全なる自律コミューンでなければならない。(中略)地方とは、単に、自律コミューン群の自由連合に過ぎないものでなければならないのだ。(バクーニン、1866年、82-83ページ)』

もっと強調しなければならないことだが、バクーニンは、1870年には既に、国家の議会政治と地方選挙主義との暗黙の区別をなし、公然と後者を前者よりも好ましいとしていたのだった。

『経済的困難さのために、民衆は無知蒙昧なのであり、自分に密接に影響のあることどもにしか関心を示さない。民衆は自分の日常のことをどのように処理すれば良いか理解している。自分が慣れ親しんでいる関心事から離れると、民衆は混乱し、曖昧になり、政治的に当惑してしまう。だが、自治体の事柄となると健全で実際的な常識を持っている。民衆は、自分達の中から最も能力の高い役人をどのようにして選ぶのかについて充分熟知している。こうした状況下ならば、効果的な管理が全く可能である。何故なら、公的仕事は市民の用心深い眼下で行われ、実質的にそして直接的に市民の生活に関わっているからだ。これが、自治体選挙がいつも民衆の真の姿勢と意志を最も良く反映する理由である。地方や郡の政府は、いかに直接的に選挙されたとしても、それはすでに民衆の代表者などではないのである。』(バクーニン、1870年、223ページ)(原注)

(原注:バクーニンの書物の編集者、サム=ドルゴフは、この文章に、彼自身の解釈を挿入している。だが、私はここでそれを削除した。ドルゴフ自身がサンジカリズムを好ましいとする態度は、バクーニンの著作の翻訳に色を付けているように思われることが多い。)

ピーター=クロポトキンの場合、『社会革命が取らねばならない形態は、独立コミューン』である(クロポトキン、1913年、163ページ)。バクーニンの見解にコメントをしながら、つまり、クロポトキンは、実際に、集産主義者よりも共産主義者であるという立場を取っているのだが、彼は、連合主義と自治だけでは不充分だと付け加えている。クロポトキンは、1871年のパリ=コミューンを、『歴史上で新しい時代を切り開いた試み』として批判的に受け入れてはいたが、別な著作で彼はコミューンそれ自体は、数多くのジャコバン主義者から成り立っており、民衆とは別離していたとして、非常に厭世的な現象だと見なしていたのだった。彼は、経済的な意味で「社会主義」が「共産主義的」にならねばならないだけでなく、「自治」コミューンの政治構造を持っていなければならない、と断言していた。近代的な言葉を使えば「参加型民主主義」である。彼は楽観的に次のように書いていた。 フランス・スペイン・イングランド・合州国において、『我々はこれらの国で、無数の欲望を満足させ、即時の目的を達するために、自由連合という手段を使って結合しようという、完全に独立したコミューン・街・村の明確な傾向を目撃している。(中略)フランスとスペインにおける将来の革命は、共同体連合論的なものになるであろう−−中央集権主義的なものではないのだ。』(クロポトキン、1913年、185ページ〜186ページ)(訳注)

(訳注:上記の箇所を調べるために、中央公論社、世界の名著の「近代科学とアナーキズム」を読んでみたが、フランス版からの翻訳だったためか、上記の文章は載っていなかった。念のため、訳者が所有している英語版の「Modern Science and Anarchism」を参照してみると、確かに載っていた。)

プルードン・バクーニン・クロポトキンのヴィジョンの根底には、共同体連合論的倫理−−プルードンにおいては相互主義的、バクーニンにおいては集産主義的、クロポトキンにおいては共産主義的−−があった。それは、市民の美徳とコミットメントの感覚と一致しているものである。それが契約的だと見なされるか相補的だと見なされるかに関わらず、連合主義は、自己利益に基づいたブルジョア的自己中心主義を超越した、道徳的結びつきと共同体的連帯性の源泉となっていたのだ。マルクスが階級の経済的利益、実際「利益」それ自体を強調したのとは逆に、アナキズムに、それが単なる科学的社会主義ではなく、倫理的社会主義だ−−クロポトキンは前者について熱心だったが(クロポトキン、1905年、298ページ)−−と主張する権利を与えたのは、確かにこの感受性だったのだ。

アナキズム:サンジカリズム的側面

アナキストが、農奴にせよ・農民にせよ・職人にせよ、全ての種類の圧制に歴史的に反対してきたということが、不可避的に、新しく出現していた工場システムにおける搾取に対する反対をも導いた。我々がしばしば想像させられるよりももっと昔に、サンジカリズムは−−本質的にどちらかといえば未熟だが急進的な労働組合主義の一形態−−は、多くのアナキストが1830年代と1840年代の産業労働者階級に影響を及ぼすための伝達手段となっていたのだ。19世紀には、「プロレタリア階級アナキズム」と呼ぶことの出来るものの輪郭を定義することが非常に難しくなっていた。農民、特に土地を持っていない農民は、労働者階級のメンバーなのだろうか?少しばかりの土地を持った農夫もそう見なしてもかまわないのだろうか?知識人・相当な特権を持った技術者・事務職やサービス業の従業員・役人・専門家など、プロレタリア階級のメンバーだとは見なされることのない人々はどうなのか?

マルクスとエンゲルスは「労働者」・「苦役者」・「作業員」といった言葉を個人的に避けてはいたが、彼らの有名な著作の中ではこれらの言葉を使う準備が充分出来ていたのだった。彼らは、産業労働者を、「プロレタリア」という「科学的に」正確な名前で特徴づけることを好んでいた−−つまり、自分の労働力を売ることしか出来ない人々であり、さらには、生産ラインにおける剰余価値の正真正銘の生産者(最近ではマルクス主義者すらも無視しようとしている属性だが)だった人々のことである。階級としての欧州プロレタリア階級が、都市に移住してきた土地を持たない農民のような産業化以前の難民層が進化したものである以上、工場システムがその経済的家庭になり、結合力のある全体へと「組織立てる」−−分散した農場や農村とは異なったであろう−−場所になったのである。 資本主義の蓄積と競争による貧困化に追いたてられて、この次第に(そして望むらくは)階級意識を持ったプロレタリア階級は、「覇権的」革命階級として資本主義秩序と争い、社会主義のそして最終的には共産主義の基盤を案出しながら、ブルジョア社会を転覆せしめることを余儀なくされたのであろう(原注)。

(原注:『十全に形成されたプロレタリア階級において、全ての人間性の、人間性の外観すらもの、抽象化が、実践の上で完璧なものである限り、プロレタリア階級の生活条件がその最も非人間的形態における今日の社会生活条件全ての要約である限り、人はプロレタリア階級において自分自身を失ってしまうが、同時に、失ったものの持つ理論的意識を獲得するだけなく、緊急の、取り除くことの出来ない、偽装することも出来ない、絶対服従の欲望−−実際的な必要性の表現−−が、この非人間性に対する叛逆を直接駆りたてる限り、プロレタリア階級が自身を解放することが出来、またそうしなければならないのだ。しかし、プロレタリア階級は、自身の生活諸条件を放棄することなく自身を解放することなど出来ないのである。』カール=マルクスとフリードリッヒ=エンゲルス著、「聖家族」(モスクワ: Progress Publisher, 1956年)、47ページより。 上記の文章におけるマルクスとエンゲルスの基盤・性質・予言に基づいて一冊の本が書けるだろう。この文章は、本質的に、プロレタリア階級の覇権性に関するアナルコサンジカリストの立場を支持しているものだが、アナルコサンジカリストの文章よりもずっと洗練されている。)

このマルクス主義的分析が1840年代以来どれほど魅力的なものであろうとも、将来の革命におけるプロレタリア階級の「覇権的」役割を、封建的社会におけるブルジョア階級の一見革命的に見える役割のアナロジーを使って推定しようという試みは、後者がそれ自体で歴史的に誤りであるのと同じぐらい表面的なものだったのだ(ブクチン、1971年、181ページ〜192ページを参照)。正に今日まで多くの歴史家の間で非常に重大な意味を持っている、この誤謬だらけの歴史的シナリオを批判的に吟味することはここでの私の意図ではない。非常に人目を引くテーゼだったということを述べれば充分であろう−−数多くの社会主義者だけでなく、多くのアナキストをも引き付けたのだった。アナキストにとって、マルクスの分析は、産業労働者にその注目を集め、社会発展に対して大規模な経済優先主義的アプローチを採用し、未来社会、最近では特に「労働者管理」と産業組織の「連邦的」形態に基づいた未来社会のモデルとして工場を抜擢しなければならない理由を提供してくれたのだった。 しかし、ここで、マルクス主義者よりもさらにアナキストは、一連の諸問題に直面したのだ。どのようにすれば、産業プロレタリア階級を小規模農民・職人・落ちぶれた社会要素・知識人と関連付ければ良いのだろうか?こうした集団の多くが実際、過去に、産業労働者よりももっと広範なリバータリアン的見解を持つ傾向を持っていたのだった。産業労働者は、産業訓練を受けて一世代か二世代後には、工場のヒエラルキーを、普通の、実際「自然な」生活様式だとして受け入れるようになったのだ。 産業労働者は、本当に、その多くがいともたやすくバクーニン主義的集産主義に近づいていたスペインのたくましいアナキスト農民や、プルードン主義的相互主義を受け入れていた無数の職人的労働者や、マフノビチナのウクライナ市民軍のように直感的アナキスト的見解に執着していたメキシコのサパティスタ原住民族奴隷労働者たちと同じように、「ボス」との階級闘争において「覇権的」だったのだろうか? アナキストがマルクス主義者の要求である「科学的」正確さと自分達の倫理見解を混ぜ合わせようとするほど、後年のアナキスト運動それ自体に重大な分断を生み出し、経済優先主義志向的アナキストが社会運動としてのアナキストの倫理的推進力を損なうこととなった妥協をさせるようになったのである。

「アナルコサンジカリズム」という言葉が作りだされる以前にその運動の中に確実に存在していた曖昧なサンジカリスト傾向は、アナキストがIWMAへ参画したことで、強化された。フランスのアナキストがアナルコサンジカリズムを最も良いもので、リバータリアン社会を確立するための唯一のアプローチだと主張した10年以上も前の、1870年代には既に、主としてバクーニン主義に影響を受けていたスペインのアナキストは、暴動を伴う革命的ゼネストのヴィジョンと「労働者管理」という連合的に組織されたシステムへのコミットメントを組み合わせた散漫ではあるが大規模なサンジカリスト組合運動を作りだしていたのだ(ブクチン、1977年、137ページを参照)。フランスのアナルコサンジカリズムそれ自体も、無から出現したのではなかった。地方と全国の労働者連合という二重の会議所を持って1895年に作りだされた労働総同盟(CGT)は、改良主義的・革命的・「純正」サンジカリスト的・アナキスト的観点という幅広いスペクトラムを包含していたのだった。 第一次世界大戦勃発前の10年間というその最も戦闘的な時期においてすら、アナルコサンジカリズムがCGTの見解を完全に支配したことなど一度も無かった(CGTが本当はどれほど飼い馴らされていたのかを示しているものとして、Stearns, 1971を参照)。

また、アナルコサンジカリズムは、アナキストの間でアナキズムと同世代のものだとして完全に受け入れられてもいなかったのだ。多くの著名なアナキストは、サンジカリズムの見解とそのプロレタリア支持者は余りにも偏狭だとして、サンジカリズムに反対していたのだ。1907年の有名なアムステルダム会議において、イタリアの勇敢なアナキスト、エンリコ=マラテスタは、アナルコサンジカリズムが無政府共産主義にとって代わらなければならないという見解に挑戦したのだった(原注)。「サンジカリスト的行動形態は、(アナキズムの)手中に置くことの出来る武器」だということを否定すること無く、ジョージ=ウッドコックは、会議におけるマラテスタの反論に関して自分なりの説明をしている。

(原注:現代のアナルコサンジカリスト的ジャーナリスト、Ulrike Heiderが、マラテスタを単なる「ユートピアン」だと簡単に片付け、彼女がどちらかといえば熱狂的に「最後のアナキスト」というあだ名を付けていたサム=ドルゴフとの論争に従事したというだけでヴァーノン=リチャーズを落としめていることは、ここに記しておく価値があろう。私が思うに、この傲慢な馬鹿さ加減は、ドルゴフがもはや我々と共にいない以上、アナキズムの将来を良いものにしてくれるはずである。少なくとも一人のアナルコサンジカリストのドグマティズムに関する何かしらの洞察を私達に与えてくれるのだから。アナルコサンジカリズムから1960年代半ばには「自由社会主義」へ、そして、1970年代にCNTが再結成されるとアナルコサンジカリズムへ戻って行ったというドルゴフの変貌にも関わらず、彼はHeiderの尊師であり続けているようだ。彼女の「Die Narren der Freiheit」(ベルリン:Karin Kramer Verlag、1992年)を参照。)

マラテスタは、『サンジカリズムは、一手段としてだけ、それも不完全な手段だと見なせば良いと主張していた。なぜなら、それが社会に関する厳格な階級概念に基づいており、そのことで、労働者の関心事は非常に多様で、「労働者は経済的にも道徳的にもプロレタリア階級よりもブルジョア階級にずっと近しいことがある」という事実を無視しているからだった。(中略)極端なサンジカリストは、マラテスタの観点では、真の道徳的連帯ではなく、幻影の経済的連帯を求めているのである。彼らは、「経済・政治・道徳という三つの観点で現在奴隷にされている、全ての人間性の完全なる解放」を求めている真のアナキスト革命の理想よりも、単一階級の利益を上に置いているのだ。』(ウッドコック、1962年、267ページ)

この文章は、アナルコサンジカリズム−−「純正サンジカリズム」だけでなく−−がアナキスト運動に作りだしていた問題全てに触れている。イデオロギー的に、アナルコサンジカリストは、コミューンよりも労働組合を、相互扶助という人間主義的倫理よりも社会闘争の経済優先主義的解釈を、優越的支配の一般概念に対する抵抗よりもプロレタリア階級一辺倒主義的階級利益を好ましいとして共産主義的アナキズムの強調点をゆっくりと卑しめ始めていたのだ。

だからといって、アナキストが労働組合・経済諸問題・階級闘争を無視しなければならなかった、と主張しているのではない。だが、アナルコサンジカリストは、段々と、全ての生命領域における幅広い自由のヴィジョンとしてのアナキズムが持つ共同体的で、倫理的で、普遍的で、反支配的な特徴を、自分達の狭い特徴と挿げ替えていたのだ。最終的に、アナキズムを経済的・階級的方向にそって偏狭化する傾向は、アナキズムの視野を労働組合主義的メンタリティの中に大いに締めつけたのだった。マラテスタ自身が警告しているように、『労働組合は、その正なる性質として、改良主義的なのであり、革命的ではない。』それ以上に、

『組織を作った労働者の真のそして即時の利益は、これこそが組合が死守しなければならない役割なのだが、彼らの(つまり、革命家の)理想・将来に向けた目標と葛藤していることが余りにも多い。そして、組合が革命的なやり方で活動できるのは、儀性の精神が浸透し、理想が利益に優先している限りにおいてだけ、すなわち、組合が経済的組合であることを止め、政治的で理想主義的な集団になったときのみ、そしてそうなる限りにおいて、なのである。 (マラテスタ、1922年、117ページ;強調は筆者)

実際、マラテスタの恐怖は、その後、復讐と共に現実のものとなった。アナルコサンジカリスト運動の実績が、二世紀にわたる近代アナキズム史で最も陰鬱なものの一つであるといっても構わないだろう。幾つかの実例を挙げれば、何が自称リバータリアン労働組合に重荷を背負わせた一般的苦悩となったのかを示すのに充分であろう。メキシコ革命において、Casa del Obrera Mundialのアナルコサンジカリスト指導者達は、恥ずかしげも無く、プロレタリア階級の「赤の大隊」をカランサの部隊、エミリアーノ=サパタの革命的市民軍に対抗して闘った革命時の最も酷い暴漢ども、に配置したのだった−−これは全く持って、幾つかの改良を得るためになされたのであり、これらの改良は一旦サパティスタの挑戦がその協同戦線によって確実に破壊されるとカランサによって放棄されてしまったのだ。メキシコの偉大なアナキスト、Ricardo Flores Magon は、アナルコサンジカリスト指導者達の行動を裏切りだと正しく非難したのだった(Magon、1977年、27ページ)。

合州国において、現代のアナルコサンジカリストが伝説的な世界産業労働者(IWW)、別名「ウォブリーズ」に熱中しないように、このサンジカリスト運動は、他の場所における多くのサンジカリスト運動と同様、アナキズムに対していかなるコミットメントも持っていないということを忠告せねばなるまい。その最も有名な指導者、「ビッグ=ビル」=ヘイウッドがアナキストだったことは一度もないし、判決に面と向かわずに、保釈中に消えうせて、モスクワに逃亡した−−「ウォブリー」支持者達にもショックだったのだが−−後で、彼は、最終的に、自分がそれについてどれほど不快な思いをしていたにせよ、共産党の「赤の貿易インターナショナル」(プロフィンテルン)に転向したのだった。さらには、エリザベス=ガーレイ=フリン・ウィリアム=Z=フォスター・ボブ=マイナー・アール=ブローダーといった「ウォブリーズ」も、アナキストでもなければアナキズムに傾倒していたわけでもなく、1940年代以降、北米共産党にその快適な家を見出していたのだ。 ゴールドマンが苦々しく証言した(ゴールドマン、1931年、第2巻、906ページ)ように、ボルシェビキ時代以前にはこの二人のアナキストと非常に親しい関係にあったにも関わらず、共産主義インターナショナルの会合に参加した多くの「ウォブリーズ」は、すぐさま、モスクワにいるエマ=ゴールドマンとアレキサンダー=バークマンを忌み嫌い始めたのだった。

フランスにおいては、一見してサンジカリスト的な労働総同盟(CGT)は世紀の変わり目には世界中のアナキストの間に強力なサンジカリスト的強調点を生み出してはいたが、この組合はそれ自体で一度もアナルコサンジカリストのそれでは無かった。フランスの多くのアナキストは、確かに、この非常にひ弱な連合に群がり、そのメンバーにリバータリアン的方向にそった影響を与えようとしてはいた。しかし、CGTのメンバーは、その指導者の多くと同様、改良主義的目標に向かおうとし、最終的には、ボルシェビキ革命後の共産党運動へと吸収されたのだった。CGTに対するアナキストの影響は良くても非常に限られたものであっただけでなく、Peter Stearns が述べているように、『現場監督が「現場でのアナーキー」について語ったときにストライキが起こったのは、溝掘り作業員(これがパリだったことは充分興味深い)が、アナキストだと非難されたと感じたからだったのだ。』さらに、

『パリにおいてさえ、サンジカリストだと公言している人達は、活動的な組合メンバーの中でも小集団でしかなかったことは明らかだ。もっと衝動的な労働者のさらにその少数派が、組合に加入し、その後にサンジカリストになったものだったのだ。つまり、1908年のパリでは、未熟な建設現場労働者(筆者:最もアナルコサンジカリスト的見解の支持者になりそうだった人々だ)によるアジテーションの絶頂期に、たった四割しか組合に属してはいなかったのである。アナキストと呼ばれることに対して表明されていた憤慨は、活動的にストライキに参加していた人達の間でさえ見られ、これは急進的な主義に対する永続的な不信感の表れなのである。』(Stearns、1971年、58ページと96ページ)

スペインにおけるCNTについては多くを語るまでもない。CNTは、1938年までに、労働運動史の中で最も戦闘的で社会的意識の高かった、少なくとも他のどんなサンジカリスト組合よりももっと莫大なアナキスト的熱意を占めしていた労働者階級を包含していたのだった。しかし、この並外れた連合は、バルセロナにおける「純正で単純な」労働組合主義に向けて動き出す傾向を繰り返し持っていた。バルセロナでは、カタロニアのブルジョア階級が当時のプロレタリア階級を扱う上で僅かばかりの寛容性と洗練さを示すだけで、労働者階級は社会主義労働者総同盟(UGT)へと当然のように転向したことだろう。 イベリアアナキスト連盟(FAI)は1927年に組織され、その目的は主として、Salvado Seguiのような、階級協同戦線的観点を持つ傾向にあったCNTの中道派と、FAIの闘志と荒れ狂ったCNT組合の闘志に烈しく反対された「三十人」(アナキストの革命的なやり方を弾劾するための宣言書に署名したCNTの中道派三十人)が連合全体の統制を手にすることを阻止することだった。この中道的傾向は、市民戦争勃発と共に非常に明らかになったのだった。

カタロニア政府と、1930年代にFAIをほとんど吸収したサンジカリストCNT(その頭字語を組み合わせて、この組合は「CNT-FAI」と呼ばれることが多い)との関係には多くの複雑な諸問題が存在していた。だが、1936年7月蜂起以降のアナルコサンジカリスト的指導部は、実際には、経済の集産化の努力など行ってはいなかったのだ。明らかに、ロナルド=フレイザーが述べているように、『いかなる左翼組織も、工場・仕事場・土地の革命的奪取を呼びかけてはいなかったのだ。』

『実際、都市のアナルコサンジカリズムの震央だったバルセロナにおけるCNT指導部は、さらに遠くへ行っていた。(ルイス)コンパニース大統領によって提示された権力のオファーを拒絶しながらも、共通の敵を打ち負かすために人民戦線部隊と協力するために、リバータリアン革命を脇に置いておかねばならない、と決定したのだった。バルセロナを数日の内に実質的に労働者階級によって運営される都市へと変換させた革命は、当初は個々のCNT組合から生じ、その最も進歩的な闘士によって推進されたのだ。そして、その実例が広がるに従い、大規模な事業だけでなく、小規模な仕事場や仕事も奪取されたのだった。』(フレイザー、1984年、226ページ〜227ページ)

フレイザーの解釈は、スペインのリバータリアン運動で最も優れたアナキストの一人、Gaston Laval によって確認されている。Laval のスペイン革命における集産社会(1975)は、集産社会に関する最も包括的な著作だと一般に見なされている。Laval はCNTで少数派だった一般に無名のアナキスト闘士の重要性を強調している。その闘士は、集産化に対する正真正銘で最も徹底的な機動力となっていたのだった。Laval は次のように書いている。

『当時実行された社会革命がCNTの指導的組織体の決定からも、衆目の的とはなっていたが可能性を実践することなどなかった闘士やアジテイターによって投げつけられたスローガンからももたらされたものではないことは明らかだ。』

Laval は、ここで彼がどの指導者のことを意味しているのか特定してはいないが、次のように続けている:

『それは、自発的に、自然に生じたのだ。「民衆」一般が、自分達を突然啓示した革命的ヴィジョンのおかげで、突然奇跡を起こす能力を示したのだからではなく(デマゴギーを避けることにしよう)、何度も繰り返して言うに値することだが、こうした民衆の中に、バクーニンの時代に始まった闘争と第一インターナショナルの闘争以来長年継続している理想によって導かれた、活動的で、強力な多くの少数派がいたからなのだ。数十年間建設的な目標を追求し、地域毎の調整には不可欠の創造的なイニシアチブと現実的感覚に恵まれ、その革新の魂が、必要とされるときに、結論となる解決策を打ち出すことの出来る力の発酵を作りだした人々・戦闘員が数えきれないほどの場所にいたからなのだ。』(Laval 、 1975年、80ページ)

これらの戦闘員は多分、1936年の市民軍に名を連ね、市民戦争の最前線で死亡した最初の人々だったのだろう−−スペインのアナキスト運動にとって取り返しのつかない損失だったのだ。

それ以上に、バルセロナの市街戦後に生じた様々な集産集団や「労働者管理」システムを整理分類し、批判的に評価するためには、Laval の「集産社会」よりも実質的に長い本を必要とするだろう。そのアナルコサンジカリストの資格には疑問の余地があるが、Laval は、ざっくばらんに以下ことを観察をしていた。

『バルセロナとヴァレンシアでは余りにもよくあったことだが、各々の事業にいる労働者は、工場・仕事・作業場・機械・原材料を乗っ取り、金銭システムと通常の資本主義商品関係の継続から<b>利益を得、自分達のために生産を組織立て、自分の労働の産物を自身の利益のために売っていたのだ。』(Laval 、 1975年、227ページ;強調は筆者)

1936年10月にカタロニア政府がCNTに認められた集産集団を「合法だと見とめる」と布告し、様々な「労働者管理」委員会へ政府が参与するきっかけとなる扉を開けたことは、最終的に、これらの集産集団を国有事業に転化させることにしかならなかった。しかし、Laval が認めているように、このプロセスが完了する以前であっても、『革命が我々シンジケートの指示の下で十全に拡充できていたならば生じはしなかったはずの、現在維持されている労働者の新資本主義・資本主義と社会主義をまたにかける自主管理政策』(Laval 、 1975年、227ページ〜228ページ)があったのだ。

集産化された工場と事業の十全なる「社会化」(つまり、CNTの管理)が、どれほどサンジカリスティックであったにせよ、CNT内部での非常に中央集権経済的傾向を未全に防いでいたかどうかは議論の余地がある。CNTが実際にサンジカリスト管理を確立していた場所では、『組合は巨大企業のようになっていた』とフレイザーはスペインの血という市民戦争に関する優れた口述史で記している。『その構造は次第に厳格なものになっていった。』と、リバータリアン青年団のメンバーだった Eduardo Pons Prades は述べている。『外から見ると、それはまるで米国かドイツのトラストのように見え始めていたのだった。』そして彼は次のように証言している。集産集団(木材家具のそれに限定してはいるが)内で労働者は、

『自分達が意志決定に全く参加していない、と感じていた。「参謀」が、二つの作業場における生産方法を取り替えなければならないと決めると、労働者はその理由を教えてもらえないのだ。情報の欠如−−例えば、一枚のビラを作れば簡単に改善できたのだが−−は、特にCTNの伝統が全ての事を議論・吟味する事だっただけに、不満を生み出してた。隔週の代表者集会は、毎月になり、思うに最終的には毎季になってしまったのだった。』(Pons Prado、フレイザーによる引用より、1979年、222ページ〜223ページ)

(原注: Eduardo Pons Prado は、素晴らしいグラナダ=フィルムシリーズの「スペイン市民戦争」で傑出した登場人物である、ということを記しておこう。このフィルムには、闘争の指導者と普通の参画者双方に対するオリジナルのインタビューが含まれている。)

30年代中期のスペインの労働者と農民が社会変革を行い、過去の革命史で前例が無いほどまでに産業と農業の民主主義に向かっていた−−労働者階級の戦闘性と階級意識が高揚していた一世紀によって、「プロレタリア社会主義」の正当性が保証されていたように思える時代だったのだ、と強調せねばなるまい−−からといって、労働組合と非常に特定的な階級利益の周囲に構築される未来社会という予見がもたらす諸問題を変えはしない。 確かに、アナルコサンジカリズムをアナキズムそれ自体と等価だとすることには、断固として挑戦せねばならないのだ。実際、アナキストの伝統におけるある傾向が生きているのか死んでいるのか−−サンジカリスト版アナキズムに同情を寄せている人々が、特に現代で、その主義と方向性が持つ実際的性質という点で直面している問題−−を問うことは、純粋に歴史的興味の問題でしかない。しかるに、それがプロレタリア階級の間に全く生命を保っていないのであれば、我々は何故かと問わねばならない。我々がアナルコサンジカリズムの可能性・失敗・歴史を吟味することで、我々はアナキズムそれ自体をどのように定義するのかということを吟味していることになるからである。 アナキズムの理想を、限定された経済的利益によって主として導かれた社会の非常に偏狭な一部の利益の上に築くことが出来るのか(マラテスタが明らかに問題だと感じていたことだ)、それとも、抑圧された人間性の物質的利益をも含んで入るがそれを超えている倫理的社会主義や共産主義の上に築くことが出来るのだろうか。我々がアナルコサンジカリズムを実現可能だと見なすことが出来ないのであれば、我々は、次第に大衆化されていく(massified)世界の中で、なおも自治と個性を保っている協働的民衆からなる自由地域にたどりつく道を、既存社会における何が提供するのかについて明らかにしようと勤めねばならないのだ。

労働者と市民

結局、アナルコサンジカリストは、組合に「農村労働者」を含める用意があった人々(CGTはそうではなく、CNTは1920年代後半と1930年代前半にはほとんど無視していた)を除き、「プロレタリア階級」という言葉で何を意味しているのだろうか?

私は、マルクスの、誤ってはいるが、もっと徹底的な経済の分析こそないものの、サンジカリズムの概念はマルクス主義的やり方で定義されていると示して来た。この定義方法は、暗黙の内に、マルクスの「唯物史観」理論が頼っている鍵となる概念を、特に、社会生活の「基盤」としての経済概念と、歴史的に「覇権的」階級としての産業労働者に対する特権の賦与を含んでいたのである。名誉のために言っておくが、倫理的圧力のためにサンジカリズムに対して友好的に首を立てに振っていた非サンジカリストのアナキストは、同時に、社会諸問題と諸力に関するこの問題のある単純化を拒絶する傾向があったのだ。スペイン市民戦争勃発前夜、CNTはほとんど産業労働者で組織されていた(付け加えれば、アナキストを「原始的叛逆者」としているエリック=ホブスバウンの見解を正しく表現していない事実だ)。 CNTは、アンダルシアとアラゴンにおける少数の本拠地から離れて、スペインの田舎の社会主義的組合に従っていた農民の大部分を既に失っていたのだ(Malefakis、1970年を参照)。スペインのアナキズムは1930年代まで農民運動だったというジェラルド=ブレナンのイメージは、いまだに人気があるのだが、全くもって無効である。これは、限定された観点で運動を推し進めていた、典型的にアンダルシア的なアナルコサンジカリズムの見解を代表している(ブレナン、1943年)(原注)。実際、1930年代のスペイン社会主義労働党(PSOE)の左への転向は、 大部分、何千というアンダルシアの日雇い労働者が社会党に管理された組合に加入したことによって説明できる。それでも労働者は前世代が持っていたアナキスト的衝動を保持していたのだ(ブクチン、1977年、274ページ〜275ページ、285ページ、288ページ〜290ページ)。

(原注:私がブレナンの「アンダルシア的アプローチ」について述べたのは、彼が、農民運動としてのスペイン=アナキズムの「原始性」を大袈裟に述べるという強い傾向を持っていたからだ。実際、スペイン=アナキズムとアナルコサンジカリズムは、1930年代までに主として都市のものだったのであり、少なくともメンバーの数で見れば、スペイン南部よりもスペイン北東部に強力に根差していたのだった。)

アナキストがCNTに与えていた「道徳的トーン」(Pons Prado が最近のグラナダ=ビデオドキュメンタリーで述べていたように)にも関わらず、CNT指導者、つまりcenetistasの非常に経済優先的強調点が、ディエゴ=アバド=サンティジャンがその広く読まれている本、革命の後での中で示したように、マルクス主義の闘争方法・組織作りのアイディア・合理化された労働概念を、アナキズムが公言していた「リバータリアン共産主義」に対するコミットメントと無意識的に混ぜ合わせながら、どれほどサンジカリズムが新社会に関するそのイメージの中にアナキズムを吸収していたのか、を明らかにしている(ブクチン1977年、310ページ〜311ページの引用を参照)。生産の「社会化」というCNTの概念はには、マルクス主義者の経済の「国有化」という概念とさほど変わらない、非常に中央集権化された生産形態が含まれていることが多かった。 工場レベルで労働者管理をゆっくりと浸食させるという経済計画に関しては国権主義的形態と驚くべきほどに異なるところが少なかったのだ。その努力は、アナキスト的「道徳家」とサンジカリスト的「現実家」との重大な対立を導いたが、リバータリアン的見解は、偏狭な組合主義的メンタリティに対する古くからの艶のような役割を果たすことが多かったのである(フレイザー、1979年、221ページ〜222ページ;Peirats、年代不明、295ページ〜296ページを参照)(原注)。

(原注:CNTのサンジカリスト指導部が実質的に権威主義的組織の方向−−アバド=サンティジャンが構造においても政策においても「共産党の方向」だと呼んでいるもの(Peirats による引用)−−へ明らかに突き進もうとしていることは、マラテスタの予測と「リバータリアン共産主義」に対する組織のコミットメントの脆さについて、私が書くことが出来るよりも、ずっと強力に劇的に表現している。)

実際、CNTは、1936年の平穏な日々の後、次第に官僚主義的になっていった。それは、その「リバータリアン共産主義」のスローガンが結成初期数十年のアナキスト的理想を単にオウム返しに繰り返すだけになるまで続いたのだった(Peirats, 年代不明、229ページ〜230ページ)。1937年までに、特に、5月蜂起の後に、この組合は名前だけのアナルコサンジカリストになったのだった。マドリードとカタロニアの政府が産業集産集団の大部分を乗っ取り、大部分の産業で労働者管理の見せ掛けだけを残しておいたのだ(原注)。革命は、確かに終わっていた。革命は、共産主義者・右翼社会主義者・自由主義者だけでなく、CNTそれ自体の「現実家」によって捕らえられ、蝕まれたのだ。

(原注:「スペインの血」におけるフレイザーの Pons Prado とのインタビューを参照。また、この文章は、私自身が1967年9月に、トゥールーズで Peirats と、パリでLaval と行ったインタビューにも拠っている。)

大規模なプロレタリア階級を従えたアナルコサンジカリスト組織に、これほどまで全てを一掃してしまうような変革が、これほど短い期間で、どのようにして生じたのだろうか?フェデリカ=モンツェニー自身が承認(グラナダ=フィルム、年代不明、を参照)しているところによれば、リバータリアン戦術−−つまり、市民軍の保護・産業と農業の集産化・共産党のゆるぎない反革命戦略に対する都市部と地方での革命的利益の断固たる防衛−−だけを使ってフランコ軍(Franquista)の進撃を止めることも出来たはずなのに、公然のリバータリアン運動がそれを出来なかったのはどういうことだろうか?どうして、これほどまでに悲劇的で・屈辱的で・士気をくじくようなやり方で失敗してしまったのだろうか?フランコの軍隊の勝利とそれが引き起こした恐怖は、この敗北を充分には説明してくれない。 歴史的に、いかなる革命も市民戦争抜きに生じはしなかったし、フランコが、1937年になるまで、ドイツとイタリアから効果的な軍事支援を受けていなかったことは明らかだった。Laval (1975年、68ページ)とアバド=サンティジャン(1940年)が当初信じていたように、外的な状況が革命を敗北に終わらせたというのであれば、革命の利益を取り戻し、共和国内部からやってくる敵に戦闘的に立ち向かうために、1937年5月にバルセロナ蜂起をしたとしても、アナルコサンジカリスト運動はほとんど何も失うものなど持っていなかっただろう。実際、この決定的な一週間で、バルセロナにバリケードを積み上げた労働者が、何故、指導者に従い、武装解除してしまったのだろうか?

これらの疑問は、根底に横たわる一つの問題を指しているのだ。資本主義システム内で、いかなる階級にであれ、「覇権的」という特権を与える運動には限界がある、ということだ。社会においてどの階層・階級・集団群が、今日、歴史的変革の「主体」となるかといった問題は、ほとんど全ての急進運動において目だった議論である−−私が出会ったアナルコサンジカリストを除いてだろうが。スペインにおいて、確かに、最も熱烈なアナキスト達は、市民戦争の最初の数ヶ月で前線に行き、莫大な数の死体となった。これが多分1936年以後の運動の「道徳的トーン」を非常に低下させることに貢献したのだろう。しかし、これらのアナキスト闘士達が生き残っていたとしても、彼らがサンジカリストの持つ大きな組合主義者メンタリティと労働者階級それ自体のメンタリティを形成していた惰性の力を克服できたかどうかには疑問がある。

このことが何をもたらすかといえば、私の観点では、誤謬の主たる源泉の一つは、プロレタリア階級の覇権性という概念にある、ということである。産業労働者階級は、それが被っている圧制と搾取全てのために、階級闘争に確かに従事し、重大な社会的闘争精神を示すかもしれない。 だが、階級闘争が階級戦争にエスカレートすることや、社会的闘争精神が、社会革命に爆発することは滅多にないのだ。マルクス主義者とアナルコサンジカリストの闘争を戦争と、闘争精神を革命と間違っているという致命的傾向は、一世紀にもわたって、特に、「プロレタリア階級の覇権性」という神話を作りだした1848年から1939年の「プロレタリア社会主義」が優れていた時代に最も、急進理論と実践を悩ませてきたのだ。Franz Borkenau が論じていたように、今世紀の二つの世界大戦が鮮烈に示しているように、特に戦時においては、労働者階級に国粋主義的感情を引き起こすことは、国際的階級連帯の感情よりも簡単なことだったのだ(Borkenau、1962年、57ページ〜79ページ)(原注)。 マルクス主義者とアナルコサンジカリストが、プロレタリア階級が新社会を作り出すことに失敗した理由だとして帰属させていた「裏切り者」の定期会合があるとするなら、これらの「裏切り者」は、本当に、マルクス主義者とアナルコサンジカリストが「プロレタリア階級の覇権性」の名の下に労働者階級全体に特権を与えていた基盤として引用している「プロレタリア階級」の性質を無意味にし、覆い隠しているシステムの要因の証拠なのではないのか、と問うことは当然であろう。

(原注:他の点では、Borkenau の本は、それほど価値あるものではない。特に、彼がスペインのアナキズムはスペイン宗教改革の代理物だったとし、その運動は本質的に完全なる至福千年説的なものだったと主張しているところなど、そうである。)

「プロレタリア階級の覇権性」という概念の解明において欠けていることの多いものが、1848年6月のパリ・1905年と1917年のペトログラード・1870年と1936年のスペインにおいてバリケードを築いていた労働者に関する歴史的ニュアンスのある説明である。これらの「プロレタリア」は、大部分、職人であることが多かった。職人にとって、工場システムは文化的に目新しいものだったのだ。他の多くの人達は、直前まで農民だった背景を持っており、牧歌的な生活様式から引き離されて一世代か二世代しか経っていないのだった。こうした「プロレタリア」の中で、産業的訓練は、工場の建物への拘束と同様、非常に落ち着かない文化的心理的緊張感を生み出していた。 彼らは、産業化以前の・季節によって決定される・非常にリラックスした手工業や農業の生活様式と、最大限度まで非常に合理化された搾取・機械装置の非人間的リズム・人口過密した都市のバラックのような世界・非常に獣的な労働条件との間の力の場で生活していたのだ。従って、この種の労働者階級が極端に扇動的で、その暴動がすぐさま蜂起に近いものにまで爆発しえたことも何ら驚くことではない。

マルクスは、プロレタリア階級を、『資本主義的生産プロセスの正にそのメカニズムによって、その数が常に増加し、訓練され、一つになり、組織を作る階級』だと見なしていた。階級闘争については、『生産手段の中央集権化と労働の社会化は、最終的に、その資本主義的外皮とは相容れないものとなる時点に到達する。この外皮は、粉々に破裂させられる。資本主義的私有財産を弔う鐘の音が鳴り響く。搾取は収用されるのだ。』(マルクス、1906年、第1巻、836ページ〜837ページ)。産業システムを管理する様々な代替案を可能にすることで、アナルコサンジカリストは、資本主義の運命とプロレタリア階級の役割に関するこの理論的構成概念をマルクス主義者と同様に共有していた。スペインにおいて、工場システムが労働者に課していた統一に対する非常に高い注目と共に、この大規模な経済優先主義的アプローチは致命的だということが証明されたのだった。 CNTに影響を受けた地域では、労働者は確かに経済を「収用して」いたが、方法と形態という点では、「新資本主義的」な形態から非常に「社会化された」(つまり中央集権化された)形態まで多様ではあった。しかし、「労働者管理」は、その形態がどのようなものであれ、「新社会」を作りだしはしなかったのだ。経済の多くを管理することで、アナルコサンジカリスト運動が本質的に社会を管理することになるだろうという根本にある考え(マルクスの唯物史観のどちらかといえば単純なバージョンだ)は、神話だと証明されたのだ。特に、カタロニア政府は、それが最終的に「社会化された」労働者管理を完全に骨抜きにしようとして暴力に訴える以前に、カタロニアの財政・市場システムにその影響力を行使し、単に政府自身の代表者を労働者委員会と連合団体に送り込み、結局は、産業集産集団を事実上の国有企業へと転化させていたのだ(Laval、1975年、279ページ参照)。

賃金労働と資本がお互いに経済的に対立している限り、その闘争−−実際、正に現実の闘争−−は、完全にブルジョアの枠組みの中で起こるものである。これが、マラテスタが数世代前に予見していたことであった。資本主義者と労働者の闘争は、本質的には、二つの連動した利益間の闘争なのだ。それは、双方の階級が参与している契約的関係という非常に資本主義的関係によって育まれるのである。通常、より多くの利潤に対するより多くの賃金、より多くの搾取に対するより少ない搾取、より悪い労働条件に対するより良い労働条件が対峙するものである。これらの明らかに交渉可能な葛藤は、その程度の差で変化するが、種類には違いはない。それらは、本質的に契約的差異なのであって、社会的差異ではないのだ。

マルクスが述べた、「資本主義的生産それ自体の正にそのメカニズムによって、訓練され、一体になり、組織を作る」という正にこのことのために、産業プロレタリア階級は、歴史的にプロレタリア階級になった資本主義発達前の階層がそうだったよりも、合理化された管理システムとヒエラルキー型組織システムをたやすく受け入れているのだ。このプロレタリア階級が工場システムに統合されるようになる前に、フランス・スペイン・ロシア・イタリアなどの比較的工業化されていない国々で蜂起が増大していた。これが現在、急進的歴史書で非常に伝説的なこととされているのだ。管理監督からなる念入りな諸構造と共に、工場ヒエラルキーが、労働組合に、公然としたアナルコサンジカリスト組合にさえも、持ちこまれることが多く、そこでは、労働者は通常あらゆる種類の「仕事上のボス」に対して弱いことが多かったのだ−−我々の時代の労働運動をいまだに蝕んでいる問題だ。

アナルコサンジカリストと教条的マルクス主義者は一様に、この論文で示された観点を、「反プロレタリア的」とか「反労働者階級的」だと特徴づけることが多いため、ここでもう一度、私がアナキストの理想に対して労働者階級の指示を得ることの重要性を否定するものではないと非常に強く強調しておこう。また、私は、1936年の革命におけるスペイン労働者と農民の並外れた業績を非難しているわけでもない。その多くは、それ以前の革命とは比較にならないほどのものだったのだ。だが、スペイン革命を特徴づけている主たる限界−−懐古的に見れば、現代、アナキスト理論と実践に情報を提供してくれるはずの限界−−を無視することは、別な急進的観点を持った関心ある読者と同じぐらいアナキストを欺いている、自己欺瞞の極致なのではないだろうか。 実際、半世紀前ならば意味があると思われたサンジカリスト版「ポリティカル=コレクトネス」に、自分達が全く理解できるほどに屈服してしまった後でさえ、スペインのアナキストの多くは様々な形で、サンジカリズムに自分達の運動が参画していたことを真面目に疑問視していたのだ。

名誉のために言っておくが、スペインのアナキズム−−他のいかなる場所のアナキスト運動も同様だ−−は、リバータリアン実践の名句として工場に完全に焦点を当てていたことなどなかった。前世紀にわたり、そして市民戦争の時期にも、民衆の文化センターと同様、村落・街・大規模都市の隣近所がアナキスト活動の主たる場だったことが非常に多いのだ。 これらの本質的に市民的区域で、男も女も、労働者だけでなく青年も知識人も、定義可能な抑圧された階級のメンバーだけでなく落ちぶれた分子も−−とどのつまりは、自分自身に対する圧制を懸念しているだけでなく、社会正義と共同体的自由に関する様々な理想を持った広い範囲の民衆が−−アナキストの宣伝家を引きつけ、リバータリアン的考えを非常に受け入れやすいものだと証明したのだ。これらの人々が持つ社会的関心は、厳密にプロレタリア階級的関心を超越している場合が多く、必ずしもサンジカリスト的組織形態に焦点を当ててはいなかったのだ。そうした人々の組織は、実際、自分が生活している正にその地域に根差していたのだった。

我々は、私が自分の著作で何年にもわたり強調してきたように、そして、マニュエル=キャステルズ(1983年)が経験的に示しているように、どれほど多くの急進的労働運動が主に市民の現象だったのかを今、理解し始めたばかりである。階級不安だけでなく、市民や共同体の不安の場が形成されていたパリ・ペトログラード・バルセロナにおける特定の隣近所に、小規模の街や村に基づいたものだったのだ。こうした環境で、抑圧され不満を持った民衆は、自分達が経済的存在としてだけでなく、共同体的存在として直面している諸問題に反応して行動したのだった。その隣近所・街・村は、次には、幅広い圧制に対抗した自分達の闘争を支援する活力源となったのである。それは、自分達の店や工場の問題以上に幅広い領域の社会運動へとたやすく広がったのだった。 急進的価値観と広大な社会理想は、工場や仕事場だけでなく、様々な地域センターで、1871年のパリ=コミューンの歴史が非常に明らかに証明しているように、市役所でさえも育まれたのだ。帝政主義者の圧制に対抗した大衆動員は、ペトログラードの工場だけでなく、その都市のVyborg区全体でも起こったのだ。

同様に、スペイン革命は、バルセロナの織物工場だけでなく、市の隣近所でも生じていた。そこでは、労働者と非労働者が一緒にバリケードを築き、手に入れることの出来る武器を入手し、軍の暴動が示す危険を仲間の住人に警告し、配給と反革命の可能性のある者の監視という点で共同体的に機能し、近代都市と港町というより大きな枠組みの中で虚弱な人々と高齢者のニーズを満足させようとしていたのだった。Gaston Laval は、「市街と孤立した偉業」という本の大部分を、市民形態の「社会化」に当てていたのだった。彼の言葉によれば、

『我々は、今でも生き続けているスペインの伝統にその根源を持っている自治体連合論者、または共同体連合論者と呼ぶことができる。(中略)それは、街・コミューン・自治体の指導的役割、つまり、都市全体を取り巻いている地域的組織の優越性によって特徴づけられているのである。』(Laval、1975年、279ページ)

この種のアナキスト組織は、スペインに特有のものではない。むしろ、私がだいぶ前に述べていたもっと大きなアナキスト伝統の一部なのである。ただ、ここで強調しておかなければならないが、これは、サンジカリズムの出現以来、比較的認知されなくなった伝統なのだ。実際、アナキズムはサンジカリズムの諸形態では十全に機能しなかったのだ。サンジカリズムは、コミューンから工場へ、道徳的価値観から経済的価値観へアナキズムの焦点を移してしまったのだった。過去に、アナキズムに「道徳的トーン」を与えていたもの−−そして組合や作業場にいる「現実の」活動家がほとんどいつでも抵抗していたこと−−は、単なる労働者管理という形態における経済的民主主義ではなく、正に、自由それ自体の要求と市民連合の周囲に構築された共産主義への関心だったのだ。サンジカリスト的形態が生じる前のアナキズムは、人間の解放で占められていたのだった。 そこでは、確かに、プロレタリア階級の関心が無視されることなどなく、欲望・関心・問題という広大な地平にわたる一般的な社会的関心に融合していたのだった。最終的にこれらの欲望・関心・問題の満足と解消は、工場・仕事場・農場といったその一部ではなく、コミューンにおいてのみ達することが出来るであろう。

アナキストが自由社会を階級がないだけでなくヒエラルキーのないものとして見なしている限り、彼らは、特定の利益が、共同体的・地域的利益、実際、地域と連合地方の全問題を共通の政治議題にのせることで、利益それ自体の放棄に道を譲るだろう、と望んでいたのだ。この政治議題は、顔を付き合わせた直接民主主義において、一般民衆の懸念になると考えられていた。労働者・食物耕作者・専門家・技術屋、実際、民衆一般は、もはや自分自身を、特定階級・特定専門家集団・特定ステイタス集団として見なさなくなるだろうと思われていた。彼らは、バラバラで偏狭な葛藤的利益ではなく、人間共通の憂慮を解消することで占められた、地域の市民となるだろうと思われていたのだった。

この種の道徳的社会ヴィジョンこそが現在のアナキズムに、それ以外のいかなる共産主義・社会主義運動の形態も近年推し進めていない関連性を与えているのだ。その解放と地域という概念が、性別・年齢・人種・ヒエラルキーの圧制という階級を超えた諸問題−−その範囲が階級派生的経済の解消を超え、人間同士の調和が人間性と自然の世界の調和をも導く真に倫理的社会によって解消される諸問題−−に語りかけているのである。このヴィジョンよりも劣悪なものは何であれ、社会・自然の歴史双方において合理的で創造的で解放的なエージェントとして機能するという人間性の潜在的可能性を欠如することになるだろう。これが私の考えである。数多くの書物やエッセイを通じて、私は、自分がアナーキーの建設的ヴィジョンとなると考えていることの中での、この人間性の自己実現という幅広い概念を明確に述べてきたのだ。アナーキーの建設的ヴィジョンとは、直接民主的で・人間的な規模を持ち・連合的で・生態調和志向的で・共産的な社会である。

非常に倫理的な社会主義形態(その最も総称的な意味で)からアナルコサンジカリズム−−工場という構造の中で前提とされていることが最も多い非常に経済優先主義的な社会主義の形態−−へのアナキズムの歴史的転向を永続させることは、私の観点では、非常に回帰的なものである。スペインや、リバータリアン共産主義社会を信じていると公言していたその他の場所での大規模なサンジカリスト傾向の多くは、資本主義経済それ自体から方法と不道徳な行動形態を躊躇せずに拝借していたのだ。労働者を操縦するやり方と自分達の現実的利権を表現するやり方を知っていたと思われるいわゆる「実際家」や「現実主義者」の経済優先主義的メンタリティが、CNTの指導部に無道徳的で、不道徳的でさえあるトーンを次第に持ちこんで行ったのだ。このトーンは、1990年代のやせ衰えているアナルコサンジカリズムの中にいまだに残っていると思われる。 微妙なニュアンスを含んだ考えの無視・社会変革に関する単純化されたヴィジョン・アナキストの遺産に対する時として専制主義的な主張が、私の経験では、アナルコサンジカリズムを、下劣な運動ではないにせよ、非常に偏狭なものにする傾向を頻繁に伴って、出現しているのである。

誰も、とりわけ私は、アナキストが工場に入り、労働者の諸問題を分かち合い、望むらくは、リバータリアンの諸理想に辿りつくことを妨げようと思ってはいないだろう。実際、アナキストの多くが、実体化しがちなプロレタリア階級の生活に参画することにより、自分自身の現実志向的な考えを完遂するのであれば、これは有益であろう。私は、アナルコサンジカリズムが、アナキスト思想と実践の全体を作りだし、「労働者とアナキスト的考えを関連付けることの出来る唯一の」イデオロギーだとし、かなりの規模の、大規模なサンジカリスト運動でさえも幾度となく失敗を繰り返し、サンジカリスト史を一貫して歪曲しているにも関わらず、「プロレタリア階級の覇権性」という主義を伝導している、という表面的な主張に挑戦しているのだ。ヘルムート=ルーディガーの主張とは逆に、プロレタリア階級は「人口の大多数」ではないのだ。 実際、近代資本主義によって生産的・組織的形態が変化した結果、工場プロレタリア階級は、今日、その数が劇的に減少し、多くの労働人口を有する工場の将来は、全く宙に浮いているのだ。今日のスペインは、その他の西洋世界と同様、明らかに、二十世紀初頭にそうだったものとは何の関係もないものとなっている−−私が四半世紀前にスペインを個人的に訪れたときにさえそうだったのだ。全土にわたるテクノロジー革命と主要な文化的変革が、以前は階級意識を持っていた労働者が現在では「中産階級」と同じ意味を指すようになった結果として、アナルコサンジカリズムを昔のその亡霊へと転化させてしまったのだ。この亡霊がアナキズムの総体を作り出しているという主張をしている限り、「プロレタリア社会主義」へのコミットメントが急進的運動の傑出した特徴であった過去の時代にでさえも潜在していた、社会諸問題を扱うことが全く出来ないのだ。

実際、労働者はいつでも単なるプロレタリア階級以上のものなのだ。労働者は、工場の問題を憂慮しているのと同じぐらい、自分の子供の将来について憂慮している両親でもあり、自分の人間としての尊厳・自律・成長について憂慮している男女でもあり、自分の地域について憂慮している隣人でもあり、社会正義・市民権・自由について憂慮している共感性を持った民衆でもあるのだ。今日、これらの非常に経済的ではない諸問題に加え、生態系諸問題、マイノリティと女性の権利、自分の政治的・社会的力の喪失、中央集権国家の成長−−一つの階級に特定的ではなく、工場の壁の内側で解決できもしない諸問題−−について憂慮するあらゆる良識を彼らは持っているのだ。実際、労働者が、一経済階級としての懸念だけでなく、自由で生態調和的社会の潜在的市民の幅広い人間的憂慮についても充分に意識するようになる手助けをすることが、アナキストにとっての特別な関心事とならねばならないと私は考えている。 労働者階級の「人間化」は、その他の層と同様、自分の「労働者性」を取り消し、階級意識と階級利益を超えて地域の意識−−将来の倫理的・合理的・生態調和的社会を確立することが出来る自由市民としての−−を推し進める労働者の能力に決定的に依存しているのである。

アナルコサンジカリズムが「実際的」で「現実的」に見えようとも、私の観点では、それは、ブルジョア利益、実際、一階層の利益それ自体、という偏狭な経済優先主義的概念に根を持っている廃れたイデオロギーなのである。それは、工場システムと産業プロレタリア階級の持つ伝統的階級意識のような社会的諸力の持続力に依存しているのである。その諸力は、明瞭に示しえない社会的諸関係と、拡張しつづけている社会的憂慮の時代において、欧米世界に徹底的に衰えているのである。より広範な運動と諸問題は、労働者を必ず巻き込まねばならないものではあるが、工場・労働組合・プロレタリア的方向性よりもっと大きな視座を必要としている近代社会の地平の上にあるのだ。

1992年11月6日

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