共産党宣言

その洞察と問題点


マレイ=ブクチンは左翼社会理論と歴史に関して数多くの本の著者である。彼の最近の著作は、「第三革命」という三巻にわたる民衆運動史である。その第一巻と第二巻はCassellから最近出版された。

本論文は、1998年のNew Politics第六巻第四号に載った。共産党宣言からの引用は、岩波文庫の大内兵衛・向坂逸郎の訳を使った。原文は、The Communist Manifesto: Insights and Problemsで読むことができる。


マルクス主義が改良主義者・ポストモダニスト・霊魂信奉者・心理学者のコメントでメッキ貼りされる以前に書かれた「The Manifesto of the Communist Party」(元々の表題を使えば)を新たな目で見る事は、政治的強壮剤である。この著作をそれ自体の言葉で検証してみれば、この書は学問的解体と解釈の渦のためにお膳立てられるよう意図された「教科書」などではなく、資本主義的社会関係とその根本にある階級基盤の存在に挑戦した党の宣言書だということが分かる。宣言は、その時代の搾取的社会秩序に真っ向から直面し、一階級−−プロレタリア階級−−をその秩序に対抗する革命的行動へとつき動かそうとしていたのだった。マルクスとエンゲルスがやった−−実際、彼らは基本的分析の考えを実行プログラムと組織の諸問題に意識的に織り込んだのだった−−ような、理論を運動構築に持ちこむ事は、現代では見られなくなってきており、その二つがはっきりと分裂してきている。確かに、今日、生き生きとした実践とは別個に、教授階級と専門雑誌と共に大学学問として「マルクス学」が存在することは、全く予期されなかった現象ではない。中でも、カウツキーはDie Neue Zeitの編集者として1890年代に既にこの分裂を作り出し始めていた。しかし、Die Naue Zeitは、少なくとも、ドイツ政治シーンにいる何十万という人々を動員した大衆運動の理論的機関紙だった。最近の数十年まで、厳格に学問的なマルクス主義的専門雑誌が、政治的意図をほとんどもしくは全く示していないことなどなく、従って、社会変換に従事する実践の基盤を全く提供していなかったことなどなかったのだ。理論と実践の別離−−そして、過去数十年間に革命的公領域を構築するように左翼主義者に明言できなかったこと−−は、数多くの自称マルクス主義者の間で、最近、ニヒリズム・シチュエイショニスト的唯美主義が受け入れられ、そしてごく最近では東洋精神主義ですら受け入れられていることで分かるように、理論それ自体の衰弱を導いているのである。

逆に、理論的文書としての宣言が持つ最も痛快な特徴は、それが、単にその文化的派生物ではなく、生き生きとした社会的関係を遠慮せずに平然と扱っている事である。その文体が持つ魅力は人間行動を導く物質的要因に関する力強い率直さに正に存しているのであり、この文書をその後の革命諸運動が作った数多くの実行プログラム的声明には真似のできないモデルにしているのだ。ニーチェよりも遥かに、マルクス(宣言の大部分を書いていたと思われる)は、その時代に出現し始めていた資本主義システムの諸現実についてハンマーを持って書いていたのだった。有名な最初の一文−−『今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である』−−は、いかなる曖昧さも許さないほどの、人目を引く宣言なのである(1)。

宣言は、フランスにおける1848年の二月革命前夜にドイツ語版が800部限定で出版され、社会的不公正と社会的葛藤の根源に関する幾世代もの考察を統合していたのだった。マルクス自身が遠慮せずに認めていたように、この文書が階級闘争に賦与した重要性は革命的思考にとって新しいわけではなかった。それは、英国名誉革命の平等主義者達(Levellers)と、14世紀の英国農民一揆におけるジョン=ボールのようなロラード主義者にさえまでも遡ることができる。1848年という嵐のような年を作りだした出来事にはいかなる直接的インパクトも持っていなかったが、宣言は、諸運動の革命的意図を判断するための決定的基準を提供することによって、その後の労働者階級運動に永続的な痕跡を残したのだった。それは、その後の革命運動全てに、その立場に関する抑圧的意識を作りだすように義務付けていたのであった−−つまり、階級意識の根深い感覚を、搾取されている側に教え込み、階級社会それ自体を放棄するように駆り立てたのである。

だが実際にそれが作成されたときには、宣言の−−簡素で明瞭な−−最初の一文は、共産主義者連盟(この連盟のために書かれたのだ)を、明確な革命運動として直接定めていた。以来、抑圧された側の正義を求めていると公言している社会主義組織と運動とは、ブルジョア階級との葛藤の中で生じつつあった労働者階級と共に立つことを妥当なものとしなければならなかったのである。宣言の出版後、こうした運動の中で、運動が労働者と資本主義者との妥協をしながら平和的で断片的なやり方で社会主義を確立しようとしている場合であっても、階級闘争は当然のものと見なされたのだった。

さらに、マルクスの最初の一文は、宣言が資本主義を作りだしている本当の社会的諸関係を曖昧にしてはいないことを物語っていた。宣言が強調しつづけていたように、資本主義は容赦ない搾取的経済なのであり、それは、その競争関係によって、全世界を植民地化し、社会生活それ自体を、共産主義社会抜きで生存可能なのかどうかという疑問に直面させている。左翼主義の名の下になされている理論的思考の大部分に改良主義が浸透している今日、我々が、マルクスとエンゲルスが一世紀半前に『ブルジョア階級がもうこれ以上社会の支配階級としてとどまる能力をもたず、自分の階級の生存条件を、規則的法則として社会に強制する能力をもたない、』実際、『ブルジョア階級の生存はもはや社会と相容れないのである。』(岩波文庫版、55ページと56ページ:*)と警告していたことを思い起こすのは当然であろう。

宣言の第一章(「ブルジョアとプロレタリア」)と第二章(「プロレタリアと共産主義者」)は、資本論の第一巻の主要論法を、強烈で明確で素晴らしいほど理論的な、そして同時にぞくぞくするほど実行プログラム的な文体で概説している。マルクスとエンゲルスが資本主義はその不可避的破壊の諸条件を作りだすと証明した素晴らしさを捉えることができないままに、その含蓄ある定式化をまとめようとすると、不公正になされてしまうのだ。第一部のクライマックスには、挑発的で、次世紀すらをも予見している考えが含まれていた。

『ブルジョア階級は、生産用具を、したがって生産関係を、絶えず革命していなくては存在し得ない。(中略)生産のたえまない変革、あらゆる社会状態のやむことのない動揺、永遠の不安定と運動は、以前のあらゆる時代とちがうブルジョア時代の特色である。固定した、さびついた全ての関係は、それにともなう古くてとうとい、いろいろの観念や意見とともに解消する。そしてそれらがあらたに形成されても、それらはすべて、それが固まるまえに、古くさくなってしまう。いっさいの身分的なものや常在的なものは、煙のように消え、いっさいの神聖なものはけがされ、人々は、ついには自分の生活上の地位、自分たち相互の関係を、ひややかな眼で見ることを強いられる。
『自分の生産物の販路をつねにますます拡大しようという欲望にかりたてられて、ブルジョア階級は全地球をかけまわる。どんなところにも、かれらは巣を作り、どんなところをも開拓し、どんなところとも関係を結ばねばならない。
(中略)かくも巨大な生産手段や交通手段を魔法で呼び出した近代ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使に似ている。』(岩波文庫版、43ページ、44ページ、46ページ)

これらの文章は一世紀半前に書かれ、当時は、欧州大陸において資本主義は優勢的な社会秩序にはなっていなかったのだが、英国に莫大に進入してきており、フランスとドイツにおいて最終的に優勢になるということは予見できるものだったのだ。欧州大陸における産業資本主義は、それでもまだ混合経済−−一部はブルジョア的、一部は封建主義的、大部分は農民的−−に埋め込まれていた。全ての都市がまだ簡素な存在で、曲がりくねった中世の街路があり、壁に取り囲まれ、全ての日用品もまだ熟練した職人の手で作られていたのだった。1847年〜1848年の冬は、ブルジョア階級時代の始まりであり、その頂点ではなく、ましてやその終わりでもなかった。地球規模化(グローバリゼーション)多国籍企業主義という言葉は、宣言が同様の現象を記述していたにも関わらず、耳にすることはなかった。この文章における予測は、宣言の文脈に置かれていなければ、架空のヴィジョンとして却下されていたのかもしれない。宣言は、それらのヴィジョンに、資本主義(当時はまだ新しい言葉だった)に関するそれ以前の説明には欠けていた教育的意味と同様に歴史的意味を与えていたのだった。

これらの文章は、一定条件を超えて、将来へ理論を投影する理論の力を証明している−−そして、マルクスとエンゲルスが分かち合っている理論的投影は、新千年期に突入する今でさえも現実になっていないものもあるものの、数世代後に明確な現実となったのだった。資本主義は歴史的「魔法」の制御不可能な作業−−生産のための生産システム−−であるという際立ったリアリティは卓越している。それが存在している間は、自然の世界を腐食しなければならず、人間を含めた全生命形態を犠牲にして、この惑星を劇的に再構築しなければならないのである。革命的変革なしでは、変換的システム−−ブルジョア階級それ自体の制御すらも超えている、自身で動いている社会−−としてのその動因は、修正されるかもしれないが、阻止されることなどできないだろう。宣言の理論的・実行プログラム的諸問題に関するいかなる「対話」も、それが『現存の社会的ならびに政治的状態に反対するあらゆる革命運動』(岩波文庫版、87ページ)を形成する必要性を扱っていないならば、意味がないものとなるだろう。宣言が断言しているように、『この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産の廃止という一つの言葉に要約することができる』(岩波文庫版、58ページ)−−言いかえれば、無条件での資本主義の廃止に要約することができるのだ。何故なら、マルクスとエンゲルスが理解していたように、この目標にそぐわない共産主義運動は、その目標に「近似し」たり、その目標を「現実的に」修正したりするのではなく、目標を完全に放棄するだろうからである。宣言の著者が、1848年〜1849年の出来事の後で、共産主義者同盟に対する講演で書いていたように、改良は確かに必要となるだろうが、それはより大きな要求にラチェットをつける手段でしかないのである。その要求は、既存社会秩序が満足させることのできない、したがって、社会の正にその構造に対するブルジョア階級との武装対決を導くだろう。

また、宣言の読者は、これらの年月では−−一世代後であっても−−、この文書が対象としていた産業プロレタリア階級の成員ではなかったのだ。その時点まで、そのメッセージを理解できた労働者の大多数は、「連合する」(相互主義的な徒弟関係のような同業者組合や産業別労働組合において)権利を熱望していた職人と、協働的に「仕事を組織化する」権利を求めていた最も進歩的な労働者の中にいたのである。このような社会主義は歴史家によって、職人的・連合的社会主義と呼ばれているのだが、欲望によってではなく、労働によって連合の成員に報酬を与えようとしていたため、共産主義的というよりも共同組合的だったのである。

逆に、共産党宣言は、近代社会主義文献では類を見ない劇的なジャンプをしたのだった。この文書は、共産主義は単に社会正義に対する倫理的要件だというだけでなく、資本主義それ自体の正にその発達から流れ出している、強力な歴史的必然だと示したのである。このジャンプは、十項目の最小限プログラムによって抑制されてしまった。それは、大部分エンゲルスの作業であり、その謙虚な要求と共に、ドイツの労働運動用にデザインされていたように思われる。その労働運動は、貴族政治に対抗して当時も中産階級と同盟を組んでいたのだ。したがって、十項目の要求の中で最も社会主義的な、第七項は、経済の集産化ではなく『国有工場、生産用具の増加』(岩波文庫版、69ページ)を控えめに主張していたのだった。長い目で見れば、宣言の第二部は、土地を含めたすべての生産機関を『全国民の広大な結合の手に』(岩波文庫版、69ページではドイツ語原文を採用しているため、99ページの「英訳版との対照」を参照した)集中することを投影していた。実際は、この最初のフレーズ、『全国民の広大な結合』は英訳に特異なものであって、ドイツ語原文では『結合された個人』であり、この文書を当時のドイツでより受け入れられやすくするようにした幾分プルードン主義的公式で書かれている。

宣言によれば、階級が消滅し、私有財産が社会化されると、『公的権力は政治的性格を失う』、つまり、その国家主権主義的形態を失うというのである。

『本来の意味の政治的権力(国家)とは、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である。プロレタリア階級が、ブルジョア階級との闘争のうちに必然的に階級にまで集結し、革命によって支配階級となり、支配階級として強力的に古い生産諸関係を廃止するならば、この生産諸関係の廃止と共に、プロレタリア階級は、階級対立の、階級一般の存在条件を、したがって階級としての自分自身の支配を廃止する。
階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代わりに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である。』(岩波文庫版、69ページ)

この文書によれば、これらの目的を達成しようとする共産主義者は、『プロレタリア階級全体の利益から離れた』利益を持っていない(岩波文庫版、57ページ)。彼らは、プロレタリア階級の福祉を促す闘争において最も断固たる政党になるが、闘争全体の輪郭を考慮しながら、彼らは『どこにおいても、現在の社会的ならびに政治的状態に反対するあらゆる革命運動を支持する。』実際、『このようなすべての運動において、』彼らはいつも、『所有の問題を、それが多かれ少なかれどれほど発展した形態をとっていようとも、運動の基本問題として』(岩波文庫版、87ページ)前面に押し出しているのである。

改良は革命の役に立つ場所にいつも置かれねばならないという観点を持った、崩壊する社会秩序としての資本主義の分析・(一般的に暴力的な)革命に対するその確固たるコミットメント・『ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である』という国家システムではなく協働システムとしての共産主義の観点があれば、マルクスとエンゲルスが1847年〜1848年に『政治的権力』という言葉で意味していたことが何かを問うことこそ当然であろう。答え−−これら二人の人物が後年何を書こうとしていたのかという点からすれば、特異的なのだが−−は、驚くほどリバータリアン的である。

宣言の中で、ブルジョアの『政治的権力』に置き換わり、当初は最も『所有権への専制的干渉』であるプロレタリア『国家』は、『支配階級』にまで成長したプロレタリア階級で成り立っているであろう、とされている。もっと特定的に言えば、

『プロレタリア階級は、その政治的支配を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう。』(岩波文庫版、68ページ、強調は筆者)

これは、通常のマルクス主義的意味でも社会的アナーキズム的意味でも国家と呼べるようなものではない。実際、この例外的に優れた公式化が示していることは、マルクス主義者だけでなく、社会主義理論家とアナーキストの中で最も優れたものさえをも震撼させている−−そして、マルクスとエンゲルス自身をその生涯の後年にまで、問題だとして困惑させていたのだった。どのようにして、階級全体が、全体としての社会のために最終的に発言することになる「運動」として組織化されたプロレタリア階級が、自身を、「政治的」(つまり、国家)権力へと制度化できるのだろうか?以前に在ったすべての革命とは逆の革命が『途方もない多数者の利益』(岩波文庫版、54ページ)を示すことになるこの階級は、いかなる具体的な制度的諸形態によって、その経済的・政治的主権性を行使するのだろうか?

1871年のパリ=コミューンまで、マルクスとエンゲルスは、多分、プロレタリア階級が共和国、すなわち、リコールのような政治的権利に根を持ってはいるがやはり代議制である政府、以上の何かを確立しはしないと考えて、『政治権力』について述べていたのであろう。マルクスに対するアナーキスト批評家は、いかなる代議制システムであれ、国家それ自体にしか関心を持たない国家主権主義的なものになり、良くて、労働者階級(農民を含めた)の関心に反対する活動をし、最悪の場合、最悪のブルジョア国家機構と同じぐらい俗悪な独裁的権力となるだろう、と躍起になって指摘していた。実際、国家所有という経済形態の中で政治権力を持つことは、「労働者の共和国」は、類を見ないほどの抑圧を持った悪夢(バクーニンが好んでいた言葉の一つを使えば)と成り果てるであろう。

そのドイツ人支持者との書簡から分かるように、マルクスとエンゲルスはこの批判に対していかなる効果的な返答もしていない。彼らの著作において、フランス大革命でパリ人派閥が確立した「集会主義的」伝統に対していかなる真面目な好意を示している部分はない。フランス大革命において、フランスの首都において極貧で最も所有物を持っていない人々が参加していたサン=キュロットは、独裁政治を妥当とした1792年の8月journeeと、既存政体を各部署の統制下に置かれた共同体連合論的行政システムで置き換えた1793年6月のjourneeの間の嵐のような期間で、その近隣集会で集産集団的な力を実際に発揮したのだった。19世紀の大部分を通じてフランスに残存していたこの伝統は、マルクス主義者の論文の中ではいかなる痕跡も見出せないのである。

しかし、1871年のパリコミューンが、マルクスとエンゲルスに一吹きの新鮮な風としてやってきたのだった。彼らは、宣言が出版されて一世代後に、コミューンを、プロレタリア階級が資本主義社会と共産主義社会の間に生み出した制度構造として、すなわち、マルクスがゴータ綱領批判の中で述べていたような、『プロレタリア階級の革命的独裁』(2)として受け入れてたのだった。マルクスは、コミューンが、コミューン評議会(パリ市評議会に相当する)に送る代表者を解雇する権利・評議会に参加する払い戻しとしての熟練労働者賃金の採用・民衆の武装・非常に重要なことだが、『議会型ではない、行政的であると同時に立法的でもある、作業集団』(3)を導入したとして賞賛していた。

コミューンの経済的達成は非常に限られていた。それは経済を社会化できなかっただけでなく、労働者階級に数多くの改良の必要性をもたらしたのだった。それは、コミューン評議会の少数派を形成していたもっと急進的な国際主義者達が、ブルジョア階級の合法性を支持していた新ジャコバン主義者という障害物を克服しなければならなかったからだった。その政治的制度の中で、コミューンは、コミューン群の連合というアナーキスト的概念に強力な親近性を持った、遥かに自治体連合論的実体的なものだったのだ。それは、フランス単一政体国家の存在に本質的に挑戦し、フランスに点在した何千というコミューン群を、中央集権的国家に従属するのではなく、自律コミューン群のプルードン主義的契約ネットワークに統合することを要求していたのだった。

マルクスはこの自治体連合論的コミューンを受け入れ、『地方における旧式の中央集権化された政府』−−多分、プロレタリア独裁政府−−がパリをモデルとして『生産者の自治管理にその道を譲らねばならない』というコミューン群の連合(彼のアナーキスト敵対者が使っていた連合という妥協的言葉を使うことはなかったが)の要求を、実質的に受け入れていたのだった。様々なコミューンからのそれぞれの代理人は、『その住民のthe mandat imperatif(公式の指示)によって』拘束されるだろうとされていた。これは、代理人が話したり投票したりすると予期される発言において、代理人を、議会の代表者や代議士という立場から、単なる民衆のエージェントへと引きずり降ろした厳密にアナーキスト的概念なのである(4)。

中央政府が『数少ない重要な機能を』維持するというマルクスの主張は勇敢だが、信頼できるものではない−−さらに、バクーニンの最も近しい仲間だったジェームズ=ギョームさえも、コミューンのリバータリアン的特長に関するマルクスお得意の評価を、第一インターナショナルにおけるマルクス主義者とアナーキストとの和解の基盤だと見なしていた。エンゲルスは、オーガスト=べベル宛ての、ゴータ綱領(ドイツ社会民主党が採用したばかりだった)を批判した1875年の手紙で、『人民の国家』の代わりに、この綱領は『古き良きドイツ語』Gemeinwesenを使うように強調し、エンゲルスはその本質についてほとんど語ってはいないが、『これがフランスの「コミューン」に代わって機能してもおかしくはないでしょう』と述べていたのだった(5)。

やがて、迷いもなかったわけではないが、マルクスはコミューンについてお得意の説明に戻っていた(6)。マルクスが、1848年の革命後のその政治的見解を特徴づけていた共和国制度の支持へと戻って行ったのは疑いもない。マルクスの人生の最後の数年でも、コミューンという主題について多くを語らなかったが、彼はまだ、フランス市民戦争の中で彼が賞賛していた特徴の多く−−義務にしたがった賃金スケール・解任権・労働者階級が武装する必要性・mandat imperatif−−を、共和国に組み合わせることを明らかに好ましいとしていたのだった。しかし、どの程度まで彼が労働者の国家は中央集権化されるべきだと考えていたのか、そして、どれほどの権威をその国家は享受すべきだ彼が考えていたのかは、彼が死ぬときになっても回答されないままだったのである。

共和国諸制度が労働者の利益をどれほど表明しようとしていようとも、それは必ずや、代議士の手中に政策決定権をおくことになり、絶対に、『支配階級として組織されたプロレタリア階級』になりはしない。もし、行政活動とは区別されるものとしての公的政策が、諸集会に動員された民衆によってなされず、地域・地方・国家レベルでエージェントによって連合的に調整されもしないのであれば、言葉の厳密な意味での民主主義など存在しはしない。民衆がそうした状況下で享受する権力は、困難もなく、侵害されうるだろう。アナーキストの中には、いかなる形態の制度的社会組織でもその欠点をいつも発見する人もいるだろうが、民衆が自分の生活と社会に及ぼす真の力を獲得すれば、民衆は、充分に秩序だった諸制度を確立−−過去に民衆は、短い期間だったとはいえ、それを行ってきたのだ−−しなければならないのである。その諸制度の中で、自身の地域社会の政策を直接作りだし、その地方の場合には、政策を実行することになる解雇可能で厳密に管理可能な連合職員を選ぶのである。この意味でのみ、階級、特に階級の廃止にコミットしているものは、社会を管理するための一階級として動員されうるのである。

パリ=コミューンを支持していた昔の著作以外では、マルクスもエンゲルスも宣言で自身が設定したプロレタリア階級支配の政治的諸制度の問題を解決してはいなかった。その問題とは、どのようにして、一階級、なおもブルジョア社会おいて多数を占めている民衆が、一階級や一民衆として権力の手綱を乗っ取るのだろうか、ということである。1905年に、ロシア労働者は、階級権力に必要な政治的制度という問題に対して自身の解決策を持って現れた。つまり、ペトログラード評議会(ソヴィエト)である。この都市規模の評議会は、1905年の革命時にロシアの首都に出現し、フランス大革命に出現していた集会群の近似だったのである。もしそれが、単なる自治体評議会であり続けていれば、特徴としてより労働者階級のものであっただけで、パリコミューンとそれほど異なるものとはなっていなかっただろう。

しかし、ペトログラード評議会も、都市の工場に深く根を張っており、ストライキ委員会と小売店委員会を通じて、労働者自身によって直接主導されていたのだった。評議会の中に、プロレタリア階級を一階級として動員できるだけでなく、資本主義社会から社会主義社会への移行的な政治経済的橋渡しをも提供できる制度を見たのは、レーニン以上に、評議会の最後のそして確かに最も傑出した議長、レオン=トロツキーだったのだ。評議会に関するレーニンの観点は、もっと道具的だった。彼は評議会を、労働者階級を教育し、ボルシェビキ政党の役に立つように徴兵するための単なる一手段としてしか見なしていなかったのだ。

1917年までは、レーニンは評議会に関する自分の見解を意識的に変え、労働者階級権力の諸制度として評議会を見なすようになっていた。そうだったものの、彼は、ボルシェヴィキ指導者が未熟な自発的暴動の結果として投獄された7月の事件の最中には動揺し、1917年秋までに、評議会(ソヴィエト)政府という目標に戻ったのだった。一時期、彼は評議会政府は、すべての評議会諸政党−−ボルシェヴィキだけでなく、メンシェヴィキやあらゆる種類の社会主義革命政党−−を含むことになりえると示唆していたのだが、1918年の終わりまでに、ボルシェヴィキが、新しく確立した評議会国家を完全に独占支配し、結局、評議会を自分達の党機構の扱いやすい道具に変えてしまったのだった。

一階級全体による−−最終的には階級のない社会の市民による−−政治的・社会的管理諸制度に関する疑問には、単純な解決策などない。明らかに、プルードンの連合主義システムによっても適切に答えられてはいない。プルードンのシステムは余りも一貫性がなく、曖昧で、契約と個人財産といったブルジョア的特長を余りにも多く持ちすぎ、真の革命的解決策を提供できてはないない。プルードン主義者よりももっと集産主義的な最近のアナーキストが提供している解決策は、様々な可能性の萌芽ではあったが、定義と明晰さが余りにも欠けている。

アナルコサンジカリストは、国家に対する最も実行可能な革命的代替案として、産業の労働者管理を提示している。その実行可能性の証明としては工場と農地の奪取が挙げられる。その可能性と限界の適切な説明は別な論文を参照していただきたい(7)。しかし、解放的社会の社会要素として、労働者管理は根本的問題も幾つか持っている−−その島国根性と製造業の労働者階級の数が目に見えて非常に減少しているというだけでなく、最も特異的なことに、競争的で集産的に所有された資本主義的企業に変わってしまう傾向を持っているのである。工場設備と工場の単なる経済的管理は、革命的変換の持つコインの一面でしかない。これが、スペインのアナルコサンジカリストが1936年〜1937年に余りにも劇的に学んだ教訓だったのである。歴史的に最大規模の集産化実験だったにも関わらず、ブルジョア状態を排除できなかったのだ−−カタロニアとアラゴンの強力なアナーキスト飛び領土を無理やり粉砕しながら、1937年5月に逆戻りしてしまっただけだったのだ。

必要だと思われることは、民主主義政治の諸制度である−−近代の共和主義的治国策の持つ婉曲語法ではなく、古代ギリシャ的意味での政治という言葉を使えば。私が意味しているのは、単一政体国家に対する対抗権力を作りだすために、民衆の地域集会を作りだし、純粋に行政だけを行う評議会においてそれらを連合させる政治のことである。こうした対抗権力がどのようにして作りだされ、どのように機能するのかは、本論文の範囲を超えている。この「集会主義的」立場を短くまとめてしまうと、歴史的にも戦略的にも余りにも多くの重要な細々したことが失われてしまうだろう(8)。

階級支配の諸制度に関する問題が共産党宣言で提起されているということこそが、1848年当時と同様に、1998年現在にもこの文書を生き生きとさせている一側面なのだ。マルクスとエンゲルスが理論的深さと共に、彼らの時代以上に今日に関連しているという点で、資本主義の発達の軌跡を予見していたということだけでも、この書を政治的思考の領域における力作とするのに充分であろう。その偉大なる洞察と頭を悩ます問題とは、今日まで我々と共に生きつづけているのである。マルクス主義の悲劇は、社会的アナーキズムの持っていた洞察に盲目であったことと、その後の革命家が、歴史の重要な瞬間に二つの社会主義形態が持つ洞察を組み合わせることができず、それを乗り越えることができなかったことにあるのだ。

*社会生活を保護することに関するブルジョアの究極的無能力に関する宣言の立場は、プロレタリア階級の「貧困」に依存していた−−資本論第1巻が結論していた有名な「貧困化」テーゼである。福祉国家とその危機管理能力がその後出現したため、資本主義が根深い経済危機に沈み込むことからそれ自体を保護することができるように見え、「貧困化」というこの概念が疑問視されることとなった。しかし、近代「新自由主義的」資本主義の移ろいやすさと危機管理方法の腐食のため、資本主義が自己矯正的システムになる能力が疑問視されるようになってきている。経済崩壊(生態系の破壊と同様に)を数年前に前もって避けることができる、ということは未だはっきりしてはいない。資本主義は、未だにたえまなく変化しており、宣言の『生産におけるアナーキー』に関する警告は、疑いもなく、大規模な社会不安の源泉として指摘されうる。

1.Karl Marx and Friedrich Engels, Manifesto of the Communist Party, in Collected Works, vol. 6 (Moscow:Progress Publishers, 1976), p. 482.ここでの宣言からのすべての引用で、ページ数のついているものは、この翻訳からのものである。(訳注:本邦訳では、岩波書店版の「共産党宣言」、大内兵衛・向坂逸郎訳を使っている)

2.Karl Marx, Critique of the Gotha Programme in Marx and Engels, Collected Works, vol. 24, p. 95; 強調は原文のまま。

3.Karl Marx, The Civil War in France, in Marx and Engels, Collected Works, vol. 22, 331.

4.Ibid., p. 332.

5.Engels, "Letter to August Bebel, March 18-28, 1875," in Marx and Engels, Collected Works, vol. 24, p. 71.

6.Marx's letter to Ferdinand Domela Nieuwenhuis, February 22, 1881,in Marx and Engels, Collected Works, vol. 46, pp. 65-66.を参照

7.私の十全な評価は、"The Ghost of Anarcho-Syndicalism," Anarchist Studies, vol. 1 (1993), pp. 3-24.で見られる。

8.民衆が自分の事柄を、連合における直接民主的民衆集会を通じた革命的政治−−つまり、私がリバータリアン自治体連合論と呼んできたもの−−について、読者は私の著書From Urbanization to Cities(1987; London and NewYork:Cassell, 1996) と Janet BiehlのThe Politics of Social Ecology: Libertarian Municipalism(Montreal: Black Rose Books, 1997)を参照して頂きたい。「強力な民主主義」などに関する近年の諸理論は、国家の存在を前提としており、現在の社会は、余りにも「複雑」過ぎて、直接民主主義を許すことはできないという概念を据え置く傾向があり、したがって、既存社会秩序に対するいかなる真面目な挑戦も提起しないのだ。