進化の回復

エッカースレイとフォックスに答える


本論文は、Environmental Ethics第12巻1990年秋号に載った。原文は、"Recovering Evolution: A Reply to Eckersley and Fox,"で読むことができる。この論文は、エッカースレイによるブクチン思想の批判に対する返答であり、論点が主として思想の土台となる哲学にあるため、訳すのにも苦労した。読む上で、多少難解な部分があるかと思うが、それは原文と照らし合わせてみていただきたい。また、本論分は、オリジナルのページでも、前半部分、エッカースレイの批判に対する回答部分しか載っていない。誤字・不適当な挿入文などは適宜修正した。(訳者)

要約

ロービン=エッカースレイ(Robyn Eckersley)は、人間性は現在自然進化の「舵」を接収する用意ができていると私が信じている、と誤って主張している。さらに、彼女は、第一自然(生物学的進化)と第二自然(社会的進化)の関係に関する私の議論を間違って扱っている。彼女の実証主義的方法論は、私のプロセス的アプローチを扱うときには不適切であり、生物中心主義と人間中心主義との彼女のマニ教的(善悪二元論的)対比は、自然界に対する人間のいかなる介入をも実質的に排除していると私は論じる。私の著作に対するウォーウィック=フォックス(Warwick Fox)の論じ方に関しては、自然に対する社会の関係に関する私の観点を、単純化し、偏狭的に決定論的で、歴史を無視したやり方で、扱っていると論じる。私はこの二人のディープ=エコロジー(深層生態学)批評家を、私の著作についてほとんどもしくは全く知識を持っていないと非難する。私は、自然を進化のプロセス−−単なる見晴らしの良い景色としてではなく−−として扱い、人間進化と社会進化を自然進化との穏やかな変化の関係の中に置く弁証法的自然主義の概要を示して結論とする。そして私は、社会と人間性は自然進化から区別できるようなものではなく、我々が確立する社会は、第一自然の発達を促すことになるかもしれないし、修復不可能なほどにこの惑星を破壊してしまうかもしれないだろうと強調する。

I

ロービン=エッカースレイの「進化の予言:マレイ=ブクチンの生態学的倫理」は、二つの異なる生態学的哲学間の真面目で責任ある実り豊かな議論を喚起する事もできただろう(1)。古典哲学の伝統から生じている社会生態学(社会的エコロジー)は、アリストテレスからヘーゲルに至る西洋の存在論哲学・マルクスとクロポトキンによって始められた社会的伝統・民主主義革命の世代によって開かれた歴史的観点に有機体的筋道を見出している。それは、現在の生態学的文献の多くに満ちている全く歴史を無視したイメージとは全く逆に、自然の定義を進化の現象として提起しようとしているのである。一方、エッカースレイは、分析的哲学、特にヒュームの懐疑論と、因果関係の否定・経験主義・究極的には唯我論を導く知的伝統に深くその根を持っている。自然に関する彼女の見解は、基本的に静的で、その単一次元の中でほとんど絵画的になっており、思想を扱う上で彼女の議論は形式的である。

不幸にして、彼女が−−そしてある程度まで、ウォーウィック=フォックスも−−私の観点について与えている説明のために、私の観点とエッカースレイの観点を充分に比較することは難しい。「進化の予言」は、それが私の観点を提示しているやり方について遺憾な点が多いのだ。字数制限のために、フォックスがそれ以前に発表した「ディープ=エコロジーとエコフェミニズムの論争とその類似物」(2)は言うまでもなく、彼女の論文を埋め尽くしている誤りを段落毎に修正することなどできない。私は、信頼でき、知識を持ち、一貫したディープ=エコロジー理論家と、我々との違いを議論するというフォックスの挑戦を喜んで受ける。だが、その議論の中にエッカースレイの論法が含まれているのなら、私は、私が実際に書いている事の説明に、私の寄稿の大部分を捧げねばならないだろう。それは、彼女と他のディープ=エコロジストが私が考えていると思っている事とは逆なのだ。

II

エッカースレイの批判は、人間性は『進化の舵取りをし』なければならず、自然の残忍な命令を支配しなければならないと私が信じている、と示そうとしていることに基づいている。したがって、彼女は、私が『第一自然(非人間の領域)よりも第二自然(人間の領域)に特権を与えている』と述べ、それは私が、第一自然「よりも」第二自然、というこの威圧的立場を主張したいがためだ、としているのである(3)。『そこで、ブクチンの倫理学が持つ明らかなメッセージは』とエッカースレイは書いている、『自然の弁証法における自己意識的「瞬間」としての人間性が、進化プロセスを合理的に方向づける責任を持っている、ということなのであり、これがブクチンの言葉では、より多様で複雑で芳醇な生態系を促すことを意味しているのである。』(4)

その後、エッカースレイは、私の『人間中心主義』は、『人間の道具的欲求ではなく、進化的プロセスと生態学的プロセスの橋渡しをすることによって導かれている、自然の領域と人間の社会的活動を再び結び付けようというアプローチ』であると観察している(5)。無邪気な読者が、それが私の観点であろうとなかろうと、「進化的プロセスと生態学的プロセスの橋渡しをすること」に従った観点を持つことについて、何がそれほどまでに酷いのだろうか、と問うたとしても当然であろう。明らかに、エッカースレイが私の観点に「人間中心主義的」というレッテルを張っているのは、単に、これらの「進化的プロセスと生態学的プロセスの橋渡しをすること」に偶然参画しているのが人間だった、というだけのことなのである。

しかし、エッカースレイは、この無邪気さを許してはいない。『だが、我々は本当にそのように啓蒙されているのだろうか?』と彼女は問うている(6)。彼女の典型的な疑問形−−『何故全てが○○ではないのだろうか?』そして『本当に○○だと確信できるのだろうか?』−−は、いかなる社会文脈・歴史的背景・方向性の感覚からも離れて爆竹のように爆発しているのだ。ここで、彼女は典型的にヒューム的伝統に従っているのである。そこでは、人が「何故、象は鳥に進化出来ないのだろう?」とか、「どうすれば、ある人が、自分が感覚のベールを超えて外的現実とやり取りしていると「確信」できるのだろうか?」と問うことはもっともだとされているのである。

分析的哲学と懐疑主義の世界では、それが一貫して述べられていれば、実質的にいかなることも可能なのである。そして、我々がいかなる歴史的文脈からも経験を引き離してしまえば、現実それ自体の存在も含めて、実質的に全てのことが疑わしいのだ。私には、エッカースレイの批判の方向が、スピノザ・ホワイトヘッド・ハイデッガーに従っていると公言しているディープ=エコロジストを快適にするはずなのかが理解できない。明らかに、これらの思索者達の誰一人として、どのように何故もし〜ならばどうなのかという彼女のシュレッダーを生き残ることなどできないだろう−−無限にある不愉快な可能性かも知れないは、晴天の霹靂ほどもいきなり飛び込んでくるのだ(7)。

エッカースレイの持つヒューム的遺産は、文脈・歴史性・方向性の感覚の欠如と共に、以下のように彼女が問うときに十全にその役目を果たしている。

『ブクチンが直感視しているように、進化の推進力は主観性を前進することに関するものであると、我々は本当に確信できるのだろうか?特に、第一自然が、我々の中で最も発達した形態−−第二自然−−に現在到達したことを確立するために戦っているという(証明できない)要求には自己利益的なことや横柄なことはないのだろうか?』(8)

彼女の懐疑主義(それ自体は暗黙の価値観を背負っている)は、エッカースレイ自身に対してもたやすく向けられ、「種は内在価値を持っていると我々は本当に確信できるのだろうか?」と問うことができるだろう。確かに、懐疑主義と倫理基盤の探索は、いつも、倫理学における危機の源泉になっている。しかし、大切な事は、単に倫理学は客観的に樹立(私が繰り返し使っていおり、エッカースレイが引用している言葉だ)されねばならない、ということではなく、この樹立は単に直感的なものだったり、何らかの実証主義的意味などにおいて単純に立証される以上のものでなければならないということでなのである(9)。

別な調子でなされているエッカースレイの論法を追ってみると、彼女は、自分がもっと合理的だと考えているウォルター=トルート=アンダーソンの観点と比較して、私の主張する観点を好ましくないと強く述べている。彼女は、アンダーソンの観点を賛同的に言い換え、『我々が行っていることが何であれ、それは将来の生態学的・進化論的プロセスに向けた示唆を持っているという事実、そして、進化のシーンに人間が現れて以来、我々はこれらのプロセスに左右されているという事実から逃れることはできない。』と述べている(10)。誰がそれを否定できるだろうか?エッカースレイの取り上げ方からすれば、アンダーソンは生物中心主義と共に生きることができる基本的に合理的人間なのであり、ブクチンは何か人間中心主義的な悪漢だということになるのであろう。

しかし、ウォルター=トルート=アンダーソンの「進化を支配するために」に好ましい光を投げかけているディープ=エコロジストは、控えめに言っても純朴なのである。何故なら、アンダーソンは一貫して自然の徹底的再構築を要求しているからだ−−エッカースレイが示しているような、単なる「生態学的回復の作業」ではないのだ。躊躇せずに、彼はバイオテクノロジーと優生学の使用と多国籍企業の協力を承認しているのだ−−実際、ディープ=エコロジストと社会生態学徒を悩ませている制度的・テクノロジー的悪夢のほとんど全てをである。アンダーソンは、ディープ=エコロジーそれ自体を、「君子づら」ゲームに従事している「出世狙いの知識人が昔から好ましいとしていた対話様式」の一つだとしてけなしてさえいるのだ。彼はディープ=エコロジーを次のようなものだとして却下しているのである。『人間的条件から逃げ出す一戦略、種の集団的悪行に加わらないようにしようという一つの試みである。そして、それは根深い無情さと疎外を反映しているのである。傲慢な生物病(biophilia)の要求の背後には、流行遅れの厭世家が潜伏しているのだ。」(11)

アンダーソンの本を導いている信条は、『我々は今でも自然の中にいる』と認識している環境保護主義的な決まり文句ではなく、『強力で、率直で人間中心主義的』(彼自身の言葉だ)な『観点』から生じている(12)。その著書の初めの方で、彼は次のように書いている。

『アメリカ大陸は変換されている。現在では、それは人工的な生態系であり、人間活動によって管理されねばならないのだ。このことは、今では押し止めることはできず、人間社会は手が加えてられていない自然の秩序へと戻ることもできないのだ。我々は、好むと好まざるとに関わらず、制御しているのである。もし人間種が北アメリカ大陸から突然消えうせてしまえば、新しい自然のバランスが出現するまで生態系混乱の期間が生じることだろう。だが、その新しい自然のバランスもコロンブスが到着する以前に存在していたアメリカ大陸とはほとんど似てもいないだろう。我々は消えうせようともしていないし、人工的な生態系以外の場所でどのように生きれば良いのかも知らない以上、我々は、我々が実際に一つのシステムを創りだし、現在それを管理しなければならないという事実に立ち向かうことが賢明であろう。我々は、我々の「システム」−−政治的・社会的・経済的相互作用全体−−がアメリカ大陸の物理的空間全てを、その水・空気・生命全てを支配しなければならないという事実に直面しなければならないのだ。 』(13)

ディープ=エコロジストが、エッカースレイはこの啓発的な信条のどこに賞賛に値するほどのものを見出しているのだろう、といぶかしく思ったとしても当然である。さらに、私の著作に親しんでいるディープ=エコロジストは、彼女が私の著作のどこに以下のような主張の基盤を見出しているのかをいぶかしく思うだろう。その主張によれば、私が−−アンダーソンとは逆に−−『我々が進化の方向性を握っており、準備万端で、援助の手を自然に差し伸べることができるという理由で、進化の舵を握る権限』(14)を人間に授与している、というのである。

エッカースレイが「自由の生態学」をぞんざいなやり方ではなく検証していれば、以下の文章にその最初の章で出会ったことであろう。

『もし我々が、自然進化の推進力は複雑さを増大させる方向に向かっていると仮定しているなら、生命によるこの惑星の植民地化は生物多様性の結果としてのみ可能となると仮定しているのなら、人間の自己過信の注意深い再評価が、自然のプロセスを阻害していることに対する警告を喚起するはずである。原始的な水中生息地から、最も生息しにくい地球の場所へ移住して大昔に生じた生物が、現在覆っている芳醇な生態圏を創り出して来た。それが可能だったのは、唯一、生命の驚嘆すべき変異性と、その長期にわたる発達を相続している生命諸形態が持つ莫大な遺産のためなのだ。(中略)科学が、この有機的・無機的相互関係の莫大な結合体をその詳細全てにいたるまで自由にできると仮定することは、傲慢さ以上に間違っている。それは全く間抜けなのだ。多様性における統一性が生態学の基本的信条の一つだとすれば、一エーカーの土壌に存在している豊富な生物圏(biota)は、もう一つの生態学的基本信条を導く。自然の自発性を高いレベルで可能にする必要性である。「自然を尊重せよ」という抵抗しがたい格言は、具体的な示唆を持っているのだ。生命形態が持つこの複雑で、充分にきめ細かで、絶え間なく変化している自然の万華鏡に関する我々の知識が、生態圏を自由に操作できるほどの「統御」レベルを我々に与えてくれると仮定することは、全く愚かなのである。』(15)

この文章を引用せずに、少なくともこの文章の観点について論じるときに上品な沈黙を続けながら、エッカースレイは私が全く逆の観点を持っていると非難しているのだ−−そして、私の信念(その多くは、ほぼ三十年前に書かれた私の初期の著作にまで遡っている)を私に投げ付けることで反駁しているのである。『生態学者と進化論の生物学者は、自然のプロセスに関する我々の深遠なる無知を繰り返し強調してきた。』と彼女は私を非難している。『実際、現在の環境危機の規模と奥深さは、我々がどれほど自然について知らないのかについての証明なのである。我々は、自然は我々が知ることができる以上に複雑だという可能性を忘れ去るだけの余裕など持つことはできないのだ。」(16)実際のところ、私が思い出すことができる限り、1960年代初期に、「生態学者と進化論の生物学者」の中で、自然の複雑さのために、自然を用心深く扱う必要性について数多く口にしていたものはほとんどいなかった。だが、私は当時既に述べていたのだ。当時、化学を使って、より良い生活をするという「熱心な(ガン=ホー)」メンタリティが非常に多く存在してもいた。知っていようといまいと、エッカースレイは、私が1952年という初期に、ルイス=ハーバーというペンネームでサービスを開始した路面電車に無賃乗車しているのだ−−そして今になって、彼女はいらいらしながら私に彼女の料金を払えと言ってきているのだ。(17)

III

エッカースレイの批判的コメントのほとんど全てが基本的誤謬に基づいているため、私は、彼女が、私が提示した見解の中で最悪のもの−−彼女自身が持っているものであろうと、多くのディープエコロジストが持っているものであろうと−−を創ろうとしているのではないかと感じざるを得ない。例えば、私は、人間が「進化の舵を握る」権利を持っているという意味で、第一自然に「対する特権を」第二自然に「与え」たことなど一度もない。全く逆で、「生態学的に考える」という論文を見れば分かるように、第二自然に関する私の概念は、その自然との接触は相互扶助的調和の十全なるレベルで復元されなければならない「堕落した人間性」という概念の方と酷似しているのである(18)。この論文では、第二自然(私は「歪んだ発達」と呼んでいる(19))に関する私の議論の多くが、第二自然が人間的自然と非人間的自然双方に対してなしているダメージ・それが創り出している集中的生態危機・『広範囲にわたる生態学的方向性にそった第二自然と第一自然の急進的統合』−−つまり、私が『自由自然』と呼んでいること−−の強力な要求について詳しく論じているのである(20)。

このことは、私が現存している第二自然を改善したいと思っていることを意味している訳ではない。自由自然は、第一自然と第二自然の、質的に新しい進化的次元の中での「総合」を意味している。そこでは、「中心主義」(ヒエラルキーと読む)それ自体が持つ全概念をはぎ取られた第一自然と第二自然の「特殊性」は保持されたまま、「第一自然と第二自然は、自由・合理的・倫理的自然へと溶け込む」のである。自由自然の概念は、ロードリック=ナッシュが近年私の観点を説明するとき(21)に使ったように、「相補性の倫理」を正確に表現することを意味しているのである。人間の概念的思考は、第一自然「よりも優位に」置かれているのではなく、自然進化と社会進化双方に仕える中で、人間の地域社会とそれがその一部となっている非人間の生態共同体間の新しい共生的関係を形成するのである。このテーマは二十年以上も私の著作全てを貫いているのである。

残念な事に、エッカースレイは「生態学的に考える」の実質的結論部分について何も述べていない。その中で、私は自由自然、つまり私の著作全てを貫いている相補性というテーマについて議論している。確かに、『それがその一部となっている生態共同体に仕立てられて』いる人間的生態共同体の擁護が、私が非人間的関心よりも人間的関心に優位性を与えていないことを特に明らかにしてくれるはずである(22)。実際、第二自然−−そのヒエラルキー的・階級的・経済的・民族的・心理的奇形と共に−−は、確実に、人間間の調和した関係と人間と自然の調和した関係の中で超越されるため、生態調和社会では、二つの間にいかなる葛藤も生じる事はないということは、私の論にとって基本的なことなのである。

エッカースレイが、怠慢にせよ委任にせよ、私の見解を誤解している全ての例を詳細に検証してみるためには、本質的に、彼女自身の論文よりも遥かに長い著作が必要となるだろう。例えば、エッカースレイが彼女の要約の中で根拠もなく主張しているように、私が「生態調和倫理は生命形態に対して最も幅広い自由の領域を提供する」ということを主張した個所など何処にもない。私の要求は、もっともっと謙虚なのだ−−単に、生態調和倫理は、「第一自然に自由・理性・倫理の次元を付け加える」だろうというものだったのだ(23)。実際、相補性に基づいた倫理は、粗悪な個人主義の名において自然界を搾取する自己の「自由」を主張するエゴイスト・企業の暴利をむさぼる人々・略奪的開発者達に建設的な負担を置くであろう。

別な、これはむしろ困惑するような例なのだが、エッカースレイは、私が、『個人主義と自由や自己性』という言葉を『特別に』定義しているところなど『どこにもない』と主張している(24)。私の著作のほとんど全ては−−特に「自由の生態学」は−−こうした定義を含んでいる。この著作の148ページは、明らかに、「不平等者の平等」を、正義や「平等者の不平等」に対立させて、最小限の自由形態として定義している。「自由の遺産」と「自由の曖昧さ」という二つの長い章−−最終章である「生態調和社会」はもちろんのこと−−では、自由の歴史・自由が定義される様々なやり方・自由が提起する諸問題・自由を取り巻いている曖昧さに全く焦点を当てているのだ。実際、私の理論的著作の一つを、自由とヒエラルキーの定義、自由の制度的諸形態の分析抜きで読むことなど難しいのである(25)。

エッカースレイが精密な定義について関心があるのだから、私は逆に彼女に彼女の定義について問いたださねばなるまい。彼女が賛同的に『生物中心的方向性は(中略)他のいかなる有機体同様に人間にも、自身に特異なやり方で特別だと認識し、手段において単純で、目的において正当なやり方で、生存し繁栄するために、その中で生きている生態システムを変容する権利を与えている』(26)と書いているときに彼女は何を意味しているのだろうか?このさも重要そうな曖昧な隠喩は、終わりのない様々なやり方で非常に妥当に解釈できるのだ。彼女は人間について何を「特別」だと見なしているのだろうか?どのようなやり方で人間の「特異性」を表現できるのだろうか?人間自身でないとすれば、人間が(人間中心的に?)生態システムと調和する権利と共に、誰が人間にこれらの生態システムを変容する「権利を与えて」いるのだろうか?いかなる「芳醇な」目的を人間は熱望しているのだろうか?エッカースレイは単純さ芳醇さをどのように定義しているのだろうか?

エッカースレイは、生態倫理学者は『自分の価値観をまず第一に取り出し、その後になって初めて承認の判をもらいに科学にやって来る』(27)というドナルド=ウォースターの興味深い観察を呼びだしている。しかし、これは、科学者が自分の仮説をまず最初に構築し、その後になって初めてその仮説を支持するようなデータを求めて自然の中に入っていく、という不平と同じぐらい倫理学者を蔑んだものである。事実それ自体が倫理と科学理論を生ぜしめる−−実際、我々は単に、「残酷な事実」と呼んでいるブロックを積み上げることから一般化を構築しているだけだ−−というどちらかといえば単純な経験主義的仮説は、それが知的に何の思索もしていないのと同じぐらい哲学的に確かに素朴なのである。チャールズ=ダーウィンが、祖父のエラスムスの理論も含めて、彼の頭の中を吹き荒れていた進化理論の嵐を持って、ビーグル号(ウサギ狩り用の犬の名)で新世界を航海したとき、何をしていたのだろうか、といぶかしく思う人もいるだろう。我々は、彼の進化理論−−もしくは、 生態倫理学−−を、事実が仮説を支持するために「選ばれている」からというので、侮蔑しなければならないのだろうか?現実に問題となっている疑問は、仮説を支持するデータの選択ではなく、仮説が適切にデータによって支持されているかどうか、そして、哲学的に(後で論じるが)言えば、適切というのは何を意味するのか、ということなのである。

同様に困惑させられるのは、私の考えの多くを批判するときに使われるエッカースレイのダブルスタンダードである。彼女は、私の観点について述べるときには、自然における人間の介入に「制限」を設けるという問題について深い懸念を表明しているが、同じ事に関してウォルター=トルート=アンダーソンを問題視してはいない。そして、彼女は、「他人が単純に生きるように、自分も単純に生きよ」という格言から離れて、自身の曖昧な隠喩について最小限の資格や制限をも課さないのだ。嗚々悲しいかな、エッカースレイが示しているように、ハーバート=スペンサーの「適者生存」の概念が多くの人々の進化的発達において『良い真実の道』だとすることができるのなら、我々は実際に重大な混乱に直面しているのだ(28)。

もう一つのダブルスタンダードは、私が伝統的なアナロジー、特に種から成熟へという一本の木の発達を使ったときに、私は『個体発生的発達を(中略)系統発生的進化に』瓦解している、という彼女の非難に見出す事ができる(29)。アーネ=ニース(Arne Naess)が自然に対する人間の介入を制限しないように急進的に「生態圏的平等主義」のような自由奔放な表現を使うとき、エッカースレイは、彼を不正確だとか制限も移行段階もなしに自然の領域を社会領域に持ちこむ大雑把な隠喩を使っているなどと非難せずに、彼の批判者を『想像力がなさ過ぎ』だと非難しているのである(30)。エッカースレイは私の著作にあるアナロジー的表現に焦点を当てている一方で、最もご茶混ぜで混乱し、神人同形同性説的ですらある隠喩のメニューを食卓に出しているディープ=エコロジストを無罪にしているなど、目くそ鼻くそを笑うことの非常に良い例なのだ。

エッカースレイの論争熱は、希望要件としての多様性を彼女が非難しさえするときには、少しばかり制御不可能なものになっている−−明らかに私がそれを好ましいとしている限りなのだ(31)。皮肉な事に、農業以外で、私が、多様性は「管理される」べきだと論じている個所はない。だが、もし我々が、実際、複雑な食物連鎖を実質的にはぎ取られている生態共同体を保全しようとするのであれば、率直に言って、私は多様性を促す事の悪しき部分を見逃しているかもしれない。また、私は「自然のままの生態システムに関わる多様性に対して問題の多いシナリオ」(人間活動だけでなく自然によって過去数千年間なされてきた大規模な変化があれば、自然のままのという言葉が今日何を意味していようとも)を提供してなどいない。確かに、私はいかなるところでも、伐採搬出道や完全伐採などを促してなどいないのだ。数名のEarth First!支援者とディープ=エコロジストによってなされている誤解を招くような私の性格描写とは逆に、私は半世紀の大部分を、伐採搬出・完全伐採・「自然のままの」生態共同体を阻害するような比較的最小限の活動とさえも戦闘的に戦ってきたのだ。

エッカースレイの論争熱は、彼女がpermacultureのような比較的最小限の実践を批判するときに、その極致に達している。彼女によればpermacultureが、自然のままの生命形態を犠牲にして、人間の栄養摂取に必要な種を選択して、その結果「自然のままの」生息地を混乱させている、人間中心主義的なものであるというのだ。お望みならば、食物耕作はどうなのだろうか?この論理を使えば、熊は、蜂の巣を引っ掻きまわし、蜂蜜を「自己中心的に」がつがつ食べているときには、多くの生態共同体の中で蜂が持つ重要な役割は言うまでもなく、蜂の「内在価値」という点でも熊中心主義的なのだろう。もし、permacultureさえもがエッカースレイの目には人間中心主義的ならば、人間は、自身を維持するために、他の生命形態に最小限度で干渉する事さえも非難されるのだろうか?この場合も、ウォルター=トルート=アンダーソンならば、この種の「生物病」の後ろには善意の『古風な厭世家』がいるという主張によって、全く正当とされるかもしれない(32)。

IV

最後に、エッカースレイは、社会発達におけるその根源から「自然を支配する」人間の努力を分離しようとする点において、ウォーウィック=フォックスとの連帯を表明している。彼らは共に、一方ではイデオロギーと現実性との私の区別をぼやかすことで、他方では決定論者であるふりをすることで、私がなした重要な連結を「反駁して」いるのである。

私は、自然を支配するという考え−−イデオロギー−−と実際に自然を支配することは異なっている、と何度繰り返さねばならないのだろう。自然を支配することは、全ての現象が広い意味で「自然」であるとするなら、絶対達成不可能な矛盾語法である。しかし、エッカースレイは、私の著作が、私が繰り返し、実際断固として、不可能だと主張していた実際の自然の支配ではなく、自然を支配するという考えに焦点を当てているという事実を無視している。従って、彼女はその原稿の最初で、『人間による自然の支配に挑戦するときに、(ブクチンは)どれほど深く立ち入っているのだろうか?』(33)と要求しているのだ。

「自然を支配すること」と自然を支配するという考えの間の区別は、いわれのないものではない。私は、所与の社会が(ヒエラルキー的であれ平等主義的であれ)実際に、その社会が位置している生態共同体を破壊しているのかどうかとだけ排他的に関わっているわけではない。私は、その社会がイデオロギー的に人間の進歩を、自然を支配するという考えと同一視しているかどうかとも関わっているのである。実際、私は幅広い文化的メンタリティとその根底にある源泉−−特に、社会的支配と統制という考えを自然に対して投影すること−−と関わっているのであって、楽観的で、歴史的に短命であることも多かった状況の結果として行き来する一時的行動パターンと関わっているのではない。資本主義(企業にせよ、国家にせよ)の下で、自然を制御するという考えは、社会生活における深い組織的要因でなのである−−付け加えれば、このイデオロギーは、西洋においてはアリストテレスが奴隷を正当化した紀元前350年頃にまで、東洋では紀元前298年ごろのHsun Tzuの現実主義にまで遡る事ができるのである。

(この論文の後半は、後で、手短に掲示する)


著者紹介:Institute for Social Ecology, Plainfield, VT 05667。ブクチンは1952年以来社会問題と生態系問題の関係について著述し、講演し、教授してきた。彼は14冊の本の著者であり、それらは主として社会生態学、生態哲学、エコアナーキズムに関するものである。彼の最近の著書は、「The Ecology of Freedom」(Palo Alto, Clif.: Cheshire Books, 1982(訳中:現在はモントリオールのBlack Rose Booksから1991年に改訂版が出ている))・「Remaking Society」(Boston: South End Press, 1989(邦訳:「エコロジーと社会」白水社))・「The Philosophy of Social Ecology: Essays on Dialectical Naturalism」(Montreal: Black Rose Books, 1990)がある。


原注

1.Robyn Eckersley,"Divining Evolution: The Ecological Ethics of Murray Bookchin," Environmental Ethics 11 (1989): 99-116.

2.Warwick Fox, "The Deep Ecology-Ecofeminism Debate and Its Parallels," Environmental Ethics 11 (1989): 5-25.

3.Eckersley, "Divining Evolution," p. 99.

4.Ibid., p. 111; 強調は筆者。

5.Ibid., p. 115.

6.Ibid., p. 115. 第二自然という言葉の私の使用方法は、進化的推進力と同時に、鋭い批判的推進力も持っている。もちろん、我々は、今日啓蒙されていない−−これが、まさしく、我々が生態調和社会、すなわち「自由自然」に向けて前進することが至上命令だと私が信じている理由である。我々がこの前進を行ったとしても、第一自然は余りにも複雑すぎて最も用心深いやり方でしか扱う事はできないということが、私の観点の本質的部分となるだろう。私が以下で、第二自然とその不適切さに関する私の観点をエッカースレイが完全に誤解しているとして批判している個所を見ていただきたい。

7.例えば、スピノザ的変種であるディープ=エコロジストは、エッカースレイの分析と形式論理に対する傾向よりも、私の有機的エンテレケイアと弁証法的理性へのコミットメントにもっと強く親しみを感じると思う。

8.前掲書、p. 115; 強調は筆者。

9.倫理に関係して樹立という言葉を使う事で、私は、長い哲学的伝統に従って、第一自然が倫理的行動の土俵なのではなく、価値観は自然界に必然的に含まれているということを述べようとしているのである。倫理的な非人間的自然それ自体などありはしないのだ。この観点を妥当なものとするためには、それ自体で充分な長さの論文が必要となるだろう。倫理は自然の中に「樹立される」という私の観点に対してディープ=エコロジストがしばしば持っている困難さは、非人間的自然に関して持っている静的イメージから生じている。そして、その立場からは、自然は、倫理的行動の土俵かもしれないし、そうでないかもしれないわけだ。自然が倫理出現の発生期の土俵になるかもしれないということは、彼らの理解を超えているように思われる。逆に、私の観点は革命的である−−つまり、私は、進化的発達の永劫にわたる人間的作用の段階的出現を通じて、倫理がどのように進化するのかに関わっているのである。非人間的自然からの人間進化は連続であると同時に分裂でもある限り、人は、発達的観点から、道徳的行為者としての人間の能力は、非人間的自然からの進化にその客観的起源を持っていると哲学的に論じる事ができるのだ。従って、私が「自然の中の倫理」について語っている個所などどこにもなく、人間倫理の基盤を形成している自然について語っているのである。

10. Walter Truett Anderson, To Govern Evolution (Harcourt, Brace, Jovanovich, 1987); エッカースレイの「進化の予言」(115ページ〜116ページ)に言い換えられている。

11. Anderson, To Govern Evolution, pp. 324-25.

12. 前傾書、 p. 346.

13. 前傾書、 p. 15.

14. Eckersley, "Divining Evolution," p. 116.

15. Murray Bookchin, The Ecology of Freedom (Palo Alto, Calif:Cheshire Books, 1982), 24-25. この本は現在、the Green Program Project, P.O. Box 111, Burlington, VT 05402 からしか手に入れる事ができない(訳注:Black Rose Booksから再版されている)。

16. Eckersley, "Divining Evolution," p. 115.

17. Lewis Herber (Murray Bookchin), "The Problem of Chemicals in Food," Contemporary Issues 3, no. 12 (June-August 1952).

18. Murray Bookchin, "Thinking Ecologically: A Dialectical Approach," Our Generation 18 (1987): 3-40. この論文の重版は、Green Program Project, P.O.Box 111, Burlington, VT 05402 から入手できる(訳中:「The Philosopy of Social Ecology」(Black Rose Books)に収録されている)。

19. Ibid., p. 38.

20. Ibid., pp. 32, 21; 強調は筆者。

21. Roderick Nash, The Rights of Nature: A History of Environmental Ethics (Madison: University of Wisconsin Press, 1989), p. 165.

22. 例えば、「Toward an Ecological Society」(Montreal: Black Rose Books, 1980).に収録されている私のエッセイを参照。

23. Bookchin, "Thinking Ecologically," p. 36; 強調は筆者。

24. Eckersley, "Divining Evolution," p. 100, n. 5.

25. 同じ特長によって、私は、エッカースレイがどのようにして私が本質的に野生地帯を無視していると主張できる(前掲書、112ページ、49号)のか理解できない。彼女は「生態学的に考える」という私のエッセイについて専らこの主張をしている。このエッセイは、彼女が詳しく調べた唯一の私の著作だと言ってもかまわないだろう。例えば、「自由の生態学」は、家畜化とその欠点に関するあからさまな批判を含んでいる(278ページ〜280ページ)。そして私は、「平和を樹立した」自然という神話と「文明」が「過剰に管理し高度に合理化された」社会の中で、生命諸形態を家畜化しているという悲劇的な強調点に反対しているため、ポール=シェパードを全く盛んに賞賛し、野生地帯と野生生物の擁護に関して彼を引用しているのである。

26. Eckersley, "Divining Evolution," p. 114.

27. エッカースレイの "Divining Evolution," p. 110.に引用されている。

28. 同様のダブルスタンダードは、哲学者と哲学的伝統に関するディープ=エコロジーの一面的な扱いに見出すことができる。例えば、スピノザはにわか成金のタオイストとして頻繁に目を向けられ、中世の思索者達の多くの違いにも関わらず、より近親性を持っているスコラ哲学の伝統よりも、ロマン主義的伝統の中で解釈されている。この偉大な思索者が戦闘的に人間中心主義的だったことは、私が確認できる限り、ディープ=エコロジストによって一貫して無視されている。私は、未だに、スピノザの非凡な言明を解明しようとするいかなる試みにも出会ってはいない。「我々が知っている限り、自然を享受でき、友人やいかなる種類の交友とも自身を結びつける事ができるものは自然の中で人間だけだ。従って、人間以外にいかなるものが自然の中にいようとも、我々の長所を尊重することは、我々に保護せよと要求しているのではなく、自然の様々な能力に応じて保護したり破壊したりせよと、そして、できるだけ最良のやり方で我々が使うために採用せよと要求しているのである。」スピノザ著、「倫理学」、第四部、補足、第26段落、「The Chief Works of Benedictus de Spinoza」第二巻、R. H. M. Elwes訳(New York: Dover Publications, 1955)241ページ。この翻訳の正確さは、オリジナルのラテン語テキストに照らして注意深くチェックされている。

29. Eckersley, "Divining Evolution," p. 106.

30. Ibid., p. 113.

31. Ibid., p. 112.

32. Anderson, To Govern Evolution, p. 325.

33. Eckersley, "Divining Evolution," p. 101.