人口論の神話(その1)


本論文は、Green Perspectives(今は、Left Green Perspectives)の第8号(1988年7月)に載った。原文は、"The Population Myth," part 1, で読むことができる。

「人口問題」は、不死鳥のような存在である。少なくとも毎世代に一回は灰の中から甦ってくる。十年に数度甦る場合すらある。その予言はいつも同じである場合が多い。つまり、人間は「前例のないほどの数」で地球に住んでおり、イナゴの大量発生のように地球の資源を「食い尽くしている」というのである。

産業革命の時代に、臆病な英国人トーマス=マルサスは、悪名高き「人口法則」を定式化した。それによれば、食物供給は算術的にしか拡大しない一方で、人口は幾何学的に広がっていく、というのである。戦争・飢饉・病気だけ(マルサスが本質的に論じているところによれば)が、人口と食物供給の「バランス」を取ることができる、というわけだ。マルサスは、このことで人間の戦争を促そうとしていたのではなかった。土地を横領している貴族階級と搾取的「産業企業家」が英国大衆に与えている非人間的惨めさを残酷にも正当化したのだった。その時代の卑しい精神的雰囲気に忠実に、マルサスは貧困を軽減しようという試みに反対していたのだった。何故なら、貧困が軽減されれば、貧乏人の寿命を長引かせることになり、「人口増大」に課せられた制限を取り除くことになるからだった。

マルサスの「法則」は、ダーウィンの進化論に組み込まれ、「社会的ダーウィニズム」として生物学から再び出現した。一世代後に合州国と英国で精力的に提出されると、この理論は社会を「ジャングル」へと還元した。実際、「適者生存の法則」が、富者や「適者」による世界の邪悪な略奪を正当化したのだった。その一方で、労働者階級・土地を持たない農民・第三世界の「野蛮人」は、多分生存に「適していない」という理由なのだろうが、貧窮におとしめられていたのである。世紀の変わり目の「金めっき時代」の銀行家・産業企業家・植民地主義者が傲慢にも贅沢な食事をしていた一方で、空腹にあえいでいた人々は通常西洋世界の都市の路上に集まっていたのだった。これら全てのことが、少数支配者が享受していた富と支配される多数が経験していた空腹を正当化するために「自然法」を喚起したのは残忍な階級システムだということを立証していたのだ。

一世代も経たないうちに、マルサス主義は明らかな人種差別主義的特長を獲得した。1920年代初頭に、イタリア人・ユダヤ人・いわゆる「東欧人」のような「浅黒い」民族に対して「アングロサクソン」人種優越主義が合州国で頂点に達すると、「生物学的劣等性」という概念は、他の人種、おそらくは「人間以下の」人々よりも「北欧人」を好ましいとする明らかに排斥主義的移民法を導いた。この法律が徹底的に浸透することで、マルサス主義はこの時点で「新(neo)」という接頭語を付けられ、より近代的になった。合州国の民衆は「統制され」ねばならず、米国の「文化的」(人種的と読む)純潔さを守らねばならない−−例えば、アジアからの「黄色い危険」やラテン民族やセム語族の「浅黒い危険」から−−とされた。

ナチズムは、「人間以下の」浅黒い人々、特にユダヤ人によって悩まされている不屈の「アーリア人」というその人種像を発明する必要はなかった。近代の著名なアリゾナの著述家の面白い言いまわしを使えば、ヒトラーは自分を「ヘブライ的迷信」から「北欧文化」を守る人物だと見なしていた−−ファシスト社会生物学が解明した「文化的」問題だったのだ。ヒトラーの「北欧的」観点からすれば、欧州は「人口過剰」であり、欧州大陸の民族集団はその民族的背景によって、ふるいにかけられねばならないのだった。その結果が、ガス室とアウシュヴィッツの火葬場・1941年夏のドイツ軍のロシア進入の結果として生じた処刑部隊・三、四年という短い期間での何百万人もの系統的で機械化された虐殺だったのだ。

不死鳥再臨

第二次世界対戦とそれを養っていた醜い伝統が、人間性に関するより深い感覚と、生命−−人間同様人間以外の生物の生命も−−に対するより敏感な観点を創り出したかもしれない、と考える人もいるだろう。

しかし、「人口問題」が再び表面化しているやり方から判断すれば、我々は以前よりももっと獣的になっているように思える。戦時中の屍が充分に朽ち果てる前の、1940年代後期に、「新マルサス主義者」が仕事に戻ったのである−−この時は、第三世界におけるマラリアを根絶するために新しく開発された殺虫剤と致死的な伝染病を制御するための抗生物質の使用に関してだった。ウィリアム=ヴォグト(William Vogt)のような優秀な生物学者さえもが、書物と論文で論争の渦中に入ったのだった。その攻撃は、人間の寿命を引き伸ばすための近代医療に対して向けられ、1948年から1978年の間に英国で飢饉が起こり、ドイツと日本ではすぐにも飢饉が起こるだろうと予測していた。この論争は、醜い傾向に向かうことが多かったが、韓国(朝鮮)戦争と楽観主義的なアイゼンハワー時代によって影を投げかけられ、その後、理想主義・公共サービス・お望みならば「人道主義」というメッセージを持った嵐のような60年代がやってきたのだった。しかし、新マルサス主義が再び表面化するにあたって、この十年間は終結しはしなかったのだ−−この時期は、「人口爆発」を警告し、「負傷者の治療優先順位付け」という「倫理」を提示した恐ろしい書物を伴っており、そこでは、合州国の支援を受けるように薦められていた諸国が、その人口増加率と無関係に、「冷戦」の米国側に襲いかかると不思議にも見なされていたのだった。

二十年後という時間的距離から見てみると、多くの新マルサス主義者によってなされた予測は、ほとんど気違いじみているほどに馬鹿げているように思える。我々は、マスメディアでしばしば、例えば1980年代までに、陸地における人口密度の増大を調整するために大洋に人口的島々が必要となるだろうと警告されていた。我々の石油供給は今世紀の終わりまでに、完全に枯渇してしまうだろう、と絶対的な確信を持って言われていた。餓死しつつある民衆の間の戦争はこの惑星を破壊し、それぞれの国が他国にある隠された食物店を略奪しようとするだろう、というのだった。70年代後期までに、この「論争」は有難くも一休みに入っていた−−だが、生態学という生物学的言い回しが十全に開花するにあたって再び戻ってきたのだった。初期のこうした「論争」が持つヒステリーと誇張された「予測」を考えてみれば、今日の論調は少しばかり和らいだものである。しかし、ある点に関しては、もっと邪悪でさえある。我々は大洋を不動産に変えようとさせられてはいないし、石油・食物・物質的資源を枯渇−−新マルサス主義の予言のように−−させてもいない。しかし、我々はある種の悪しき知的習慣を獲得しつつある。我々は、新種の狂信性によってもっと騙され始めているのだ。その狂信性は、新しいスタイルを持った異教信仰と原始人主義と共に「スピリチュアリティ」の名の下で進行しているのである。

まず第一に、私達は質的にではなく量的に思考するようになっている。誰もが、全く逆であるにも関わらず、「全体性」・「一体性」・「相互連結性」について語っている。例えば、ゼロ人口増加の著者が述べているように「人口問題」は単に「数の問題」だと教えられるとき、人口増加と人口減少が持つ莫大な複雑さは、丁度、ダウ平均株価の変動のように、単なる数字遊びへと還元されている。したがって、数字に変えられた人間はミバエと等しくされ、食物供給と限定的に相関しているその数と等しいとされうるのである。これは、徹底的に「ダウに従う」ことなのである。近年の「ディープ=エコロジー」という名でまかり通っているブードゥ生態学とは別の社会的研究は、人間は非常に社会的存在であり、単なる哺乳類の一種ではない、ということを明らかにしている。人間行動は、人間が特定の性別・ヒエラルキー・階級集団・民族的伝統・地域社会・歴史的時代に属していたり、様々なイデオロギーに忠実であったりするように、社会条件によって深く条件づけられているのである。人間は、自由に使える強力なテクノロジー・物質的資源・科学・自然に備わっている概念的思考の能力も持っている。概念的思考能力は、人間行動に、発展的な諸制度と体系的集団協力の能力は言うに及ばず、全くとは言えないにせよ、非人間的存在はほとんど持っていない柔軟性をも与えているのである。ここでは、「ダウに従う」こと以上に幻であることなどないのだ。人口統計の−−「資源」さえもの−−問題を直線的で非社会的で非歴史的なやり方で考えるという悪しき知的習慣は、全ての生態系諸問題に入り込みがちであり、全く持って、新マルサス主義と人間を非人間的生命形態と同等に扱っている「生物中心主義」様様なのである。

第二に、我々を折れ線グラフ・棒グラフ・統計表を使った研究に還元することで、新マルサス主義者は文字通り現実をそうあるものとして氷漬けにするのである。それらの数量的推定は、新しい現実を作り出しはしない。それらは統計毎に、基本的に昔の与えられたものを単に拡大するだけなのである。それらは、言葉の最も浅い意味で「未来派」なのであって、最良の意味での「ユートピア論者」ではない。我々は、そうあるべきものとしてとか、そうありえるものとしてではなく、あるがままの社会・行動・価値観を受け入れろと教えられている。この手続きは、現状の暴虐の下に我々を置き、徹底的に世界を変えることに関する思考能力を我々から奪っているのである。私は、金銭経済の下で生きるべきなのか、国家主権主義的社会システムの下で生きるべきなのか、もしくは、利潤追求型行動によって導かれるべきなのかを疑問視している新マルサス主義者が書いた本にも論文にも出会ったことがない。「どのようにして」、「道義的に責任を持った」銀行家・企業家・地主・「宅地造成業者」、多分、武器商人もだろう、になるのかを解説している数多くの本と論文はある。しかし、我々が生態調和社会を作り出そうとするときに、西側における大企業にせよ東側における官僚制度にせよ、資本主義と呼ばれる全システム(私をお許し下さい!)を放棄しなければならないのかどうか、について議論されることはない。何千万もの人々が「Earth First!」の白痴的スローガン−−「石器時代に戻れ!」−−の周囲で集結するかもしれないが、彼らが新マルサス主義的思考によって条件づけられているなら、左翼グリーンズの叫び−−「生態調和社会に進め!」−−の周りに集結することなどないだろう。

最後に、新マルサス主義的思考は、その要求が示唆することを考えてみれば、最も後ろ向きのものなのである。今日我々が全く正しく、エイズ被害者を登録することについて懸念しているのなら、1970年代初頭にゼロ人口増加の才人達が示唆していたように、人口統制局を創り出すことに関する全体主義的結果はどうなのだろうか?生殖に対する国家権力の増大からどのような結果が生じるか想像してみたまえ。実際、人間関係の中でも最も個人的な類の事柄に対する国家の権威を次第に増加させることで、個人的生活のどの領域が侵食されずにすむというのだろうか?しかし、合州国の統計的抽象を検証するためには精神的水準を必要としないために、こうした要求は様々な形で、新マルサス主義者によって提起されてきているのである。

飢餓の社会的根源

人口統計が持つ社会文脈を無視するというこの算術メンタリティは、驚くほど視野が狭い。いかなる思考も批判もせず、蓄積が文字通り経済的生存の法則であり、競争が「進歩」の動力源である「成長か死か」の資本主義社会に生きているということを受け入れてしまえば、我々が人口について述べねばならないことがいかなるものであれ基本的に意味がないのだ。五百万人がこの惑星に生きていようとも、五千万人が生きていようとも、生態圏は最終的に崩壊するだろう。「共食い」の市場において競合している会社は、存在しつづけようとするならば、お互いに過剰生産しなければならない。彼らは土壌を略奪し、地球の森林を伐採し、野生動物を絶滅させ、空気と水路を汚染しなければならないのである。それは、彼らの意図が必ず悪いからではなく、ただし大抵は悪いのだが−−その結果、米国人が現在陥っている魂の糧という馬鹿さ加減が生じているのだが−−、彼らは単に生き残らなければならないからなのだ。反生態学的感受性を含めた全体としての社会を徹底的に再構築することだけが、この全く威圧的な社会的脅迫観念を取り除くことができるのだ−−その実践の中には有益なものがあるのかもしれない(我々の所得能力や命令する「力」を「改善すること」を含む)が、儀式・ヨガ・エンカウンターグループではないのだ。

だが、新マルサス主義に関する最も邪悪な特徴は、どれほどそれが、生態系諸問題の社会起源を扱うことから我々を積極的に逸らしているのかという点なのである−−実際、どれほどそれが、生態系諸問題は、それを犠牲にしている人々のせいではなく、飢餓の犠牲者のせいなのだと非難しているのかという点なのである。多分、「人口問題」とアフリカの飢饉が存在するなら、非難されるべきは、余りにも多くの子供をもうけたり、余りにも長く生きようと主張している平凡な人々なのだろう−−マルサスがほぼ2世紀前に英国の貧困に関して出していた論法である。この観点は、特権階級を正当化しているだけでなく、野獣的になることを促し、新マルサス主義が特権階級の犠牲者を堕落させている以上に、新マルサス主義を悪化させてもいるのである。

率直に言って、彼らは嘘をつくものなのだ。人口と食物供給の問題を単なる数字という点で考えてしまい、我々は、一世紀前のそれと同様に十年前の新マルサス主義の予測も支持していない乱暴なメリーゴーラウンドに足を踏み入れているのである。国家の鋼鉄・石油・紙・化学物質などの「一人あたりの消費」を決定するときに、国民人口で近年の総トン数(the total tonnage of the latter)を割るという典型的に新マルサス主義的離れ業は、そのことで全ての男・女・子供が結果として生じる量を「消費する」と言っているのであり、厚かましいほど間違いな、上流階級の全くの弁明書として機能する像を我々に与えているのだ。軍艦に使われる鋼鉄・戦車の燃料として使われる石油・広告で使われる紙は、人間による物質消費を描写してはいない。むしろ、「成長か死か」経済が作動しつづけるようにするために世界中の全ペンタゴンが消費しているものなのだ−−付け加えれば、商品の機能は破壊することであり、その運命は破壊されることなのだ。新マルサス主義著述家によって我々に降り注がれているこうした「データ」のシャワーは、反啓蒙主義よりも悪いものである。それは邪悪なのだ。同じことは、その有毒「消費財」を我々にぶちまけているショッピングセンターの建設、ショッピングセンターに集中しているコストの高い幹線道路に対しても言えるのである。我々は、少数者だけが統制することも逃げ出すこともできる、大規模で完全に騙している社会秩序の犠牲者であるという事実を無視することは、平凡な人々−−その「欲求」は、もちろん、生態系諸混乱における全ての混乱の責任があるとしていつも非難されている−−の政治的洞察を文字通り鈍らせることなのである。人口統計的メリーゴーラウンドにおいて、多くの新マルサス主義が示している現実的事実も同様に誤解を導くものである。西洋において、特に1940年代後期の新マルサス主義的予言が食物供給以上に人口が増大するだろうと警告していたドイツのような国々において特に、出生率は全国補充率(the national replacement rate)以上に減少してきている。このことは、デンマーク・オーストリア・ハンガリー、そして実際に、大家族を作ることが伝統だと見なされているカトリックのイタリアとアイルランドを含めて、欧州の大部分で一般に真なのである。そして、インドと中国の高い出生率を説明している、大規模で優勢な男家族の出現を促している伝統は、石の中で凍りついて(be frozen in stone)はいない。ほぼ二十年前のもっとヒステリー的な新マルサス主義が大洋のいかだの上で生活せざるを得なくなるだろうと予見していた合州国は、人口増加ゼロに届きつつあり、現在では多分それよりも低いであろう。

また、食物供給も、全体的人口増加の後からのろのろ遅れているわけではない。1975年以来、穀物生産は12パーセント増加している。近年、バングラデシュでさえも、劇的にその穀物輸入を減少させることができるようになっている。西アジアの市場は、中国のトウモロコシによって埋め尽くされている。「不毛地帯」のサウジアラビアでさえも、蓄積している小麦を割引して売り払っているのである。そして、フィンランドでは、農家は生産過剰な小麦を貯めこみ過ぎているため、ミンク用のまぐさと糊にそれを使っているのだ。いわゆる「最悪の事例」とされているインドは、1950年から1984年の間に穀物生産を三倍にしたのだった。現在の最大の問題は、人口増加ではなく、穀物過剰地域を穀物の足りない地域へと輸送することなのである−−これが過去における多くのインドの飢饉の主たる源泉だったのだ。

ワールドウォッチ研究所のレスター=R=ブラウンが世界を、人口増加が遅く、もしくは無く、生活条件が改善されている国と、人口増加が急速で、生活条件が悪化していたり悪化する危険が差し迫っている国に分けたが、人は、ブラウンのフレーズで単に並列されているというだけで、生活条件の低化は人口増加だけに依存しているとたやすく結論付けるだろう。そうではないのだ−−ブラウンのデータをデータの源泉と共に注意深く吟味してみれば分かる。人口増加と生活条件の悪さとの格差のどれほどが、例えばバングラデシュ・インド・パキスタンでは、土地所有パターンに大きく依存しているのだろうか?南アジアでは、八千万人もの地方家庭は全く、もしくはほとんど土地を所有していない。これは亜大陸における地方家庭のほぼ全体の40%を代表している像である。同様の像は、アフリカのデータと、非常に悲惨なまでに、ラテンアメリカのデータからも生じている。土地の分配は現在第三世界において、金儲け主義の農業と一握りのエリート地主のために、非常に不均衡であり、もはや階級・社会問題とそれを関連させずに「人口問題」について語ることなどできないほどなのである。

この絡み合った糸を解きほぐすためには、数冊の本ほどもかかるであろう。それは、飢餓と土地所有を・物質的改善と人口増加の減少を・テクノロジーと食物生産を・家族習慣の脆さと十全なる人間性を確立しようという女性の欲求を−−そして世界銀行と国際通貨基金の役割と食物耕作パターンを絡み合わせているのである。西方人達は、近年になってやっと、スーダンに酷い飢饉が生じたことに関してIMFと世界銀行が一役買っていたのだ、ということに少しばかり気付くようになったのである。IMFと世界銀行は、スーダンをその芳醇な土壌地域における食物耕作から、綿花の耕作へと転換させていたのだ。

このことはもっと強調されなければならない。「人口問題」が実際に、「Earth First!」の親分であるデイブ=フォアマンが宣言していたように、人の生態調和的見解に関する「リトマス試験」だとすれば、それは、ブードゥ生態学のお守りではなく、荒っぽくごた混ぜにされた社会的脈絡の塊なのである。生態学的に指向している人々であるグリーンズと、全種類の急進主義者達は、人間生活を数字遊びにしたり、全く信頼できない統計的推論と企業利益の弁明書を使ってその社会的感覚を曇らせることなく、社会に関する鋭い感覚を持ってこの塊を解明しなければならないであろう。

人間が新マルサス主義擁護者によって単なる数字に還元されてしまえば、必ずや生命世界も数字に還元されてしまう−−少なくとも、人間生命も含めた生命に対するしかるべき尊重が、新しい残酷なエコ獣主義と取りかえられてしまうのだ。

(第二部は、9月号に続く)

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