政治の緑化
新種の政治実践に向けて


本論文は、Green Perspectives(現在は、Left Green Perspectives)第一号、1986年一月に掲載された。原文は、"The Greening of Politics," で読むことができる。

「政治」という言葉を考察する二つの方法がある。
一つ目−−そして最も慣例的なもの−−は、政治を非常に排他的で、専門化された、権力の相互作用システムとして記述することである。そこでは、「政治家」と呼ばれる専門家が、我々の生活に影響を及ぼす意思決定を案出し、政府諸機関と官僚を通じてそれらの決定を実行する。

一般に、これらの「政治家」とその「政治」は、多くの米国人からある程度の軽蔑を持って見なされている。それらは、ある程度「諸政党」を通じて政権を握る。諸政党は、高度に構造化された官僚制度であり、民衆を「代表する」と自称している−−時々、下院議員と上院議員のような大多数を代表する一人になる。彼らは、「選挙で選ばれ」、「選民」(昔の宗教用語を「政治的」用語に翻訳すれば)に属している。そして、この意味で、彼らがどれほど「民衆の」名において「語る」と自称していようとも、ヒエラルキー上の明らかなエリートとなっているのだ。彼らは「民衆」ではない。彼らは良くても民衆からかけ離れている「代表者」なのであり、最悪の場合、彼らは操縦者なのであり、民衆に敵対することが多のだ。彼らは非常に攻撃的な怪物であることが非常に多い。何故なら、彼らは操作的で、不道徳で、エリート主義的な実践に従事しており、マスメディアを利用し、民衆に「仕える」という自分達の最も基本的な実行プログラム上のコミットメントの幾つかを往々にして裏切っているからである。むしろ、彼らは、特殊な関心を持った集団、通常、自分達の出世と物質的幸福を促してくれることの多い裕福な金持ちに仕えるものである。

この専門化され、エリート的で、不道徳なことが多く、操作的な「政治」というシステムは、我々が自分達の伝統と関連付けている民主的プロセスをあざけっていることが多い、比較的新しい政治概念である。それは、数百年前に単一政体国家と共に出現した。当時、英国におけるヘンリー八世やフランスのルイ十四世のように欧州の絶対君主制がその手に莫大な権力を集中させ始め、私達が「政府」と関連付けているヒエラルキー的諸国家を形成し、自由都市・諸地域連合・様々な封建制度的領地といった地方分権的管轄権から、私達が「国家」と呼んでいる全く別の大規模管轄権を切り開いたのである。

単一政体国家が形成される以前は、「政治」は今日とは全く異なる意味を持っていた−−そして、現在「当局者」は、我々の精神からこの意味に関する記憶を削除するためにできるだけのことを全て行っている。最良の場合、政治は、地域レベル−−村・街・近所・都市−−で、民衆が、その後政治家と官僚によって私物化されてしまった公的事柄を管理することを意味していた。彼らは、私達が現在ニューイングランド地方のタウンミーティングで遭遇しているような、直接の顔をつき合わせた市民集会で、公的事柄を管理していた。最大の場合、彼らは、市民が自分達の集会で案出した政策決定を実施するための評議会を選んでいた。そして、集会は、その行動が民衆の非難の対象となった場合に「代理人」を解任することで、評議会の行政活動を注意深くスーパーバイズしていたのだった。

さらに、市民集会を超えた政治生活には、芳醇な政治文化もあった。広場・講演・街角・教育機関・公開講座・クラブなどで日常的に民衆が議論していた。民衆は、まるで市民集会の準備をしているかのように、集まるとどこででも政治について議論した。政治は、動員ではなく、教育の一形態であった。その目標は、議論を案出するだけでなく、人格を築き、精神を発達させることでもあった。それは自己形成プロセスだったのだ。そこでは、市民の集団は芳醇な結合の感覚だけでなく、私的な自己性−−自己統制と自己管理を促すために絶対不可欠な自己発達−−に関する芳醇な感覚をも発達させていたのだった。最後に、政治文化という概念は、市民の儀式・祭り・式典、さらには喜びと哀しみに関する共通表現を生ぜしめていた。これらのことが、人格とアイデンティティの感覚と共に、村・街・近所・都市といった地域性を与えていたのだ。それは、集産集団に対する個人の服従ではなく、個人の唯一性を支援していたのだった。

その結果、こうした政治は、トップダウンという意味で「構造的」だったのではなく、有機的で生態調和的だった。それは継続的なプロセスだったのであり、我々が現在出会っているような「投票日」のような固定的で限定的な「イベント」ではなかった。政治に参画することで、市民は私的にも発達した。それは、議論と議論がもたらす相互作用の豊さ、議論が引き起こす権能の感覚のためであった。市民は、自分が自身の宿命を制御しており、自分の運命を決めることができると正しく信じていた−−自分に制御不可能な人や力によって運命が前もって決められているなどとは信じていなかったのだ。この感覚は相利共生的で、政治領域は、私的領域に権力の感覚を与えることで私的領域を強化し、私的領域は政治領域を忠誠の感覚を持って支援することで政治領域を強化していた。この相補的プロセスにおいて、個人的な「我」と集産集団的な「我々」はお互いに従属するのではなく、お互いに育成し合っていた。公的領域は強力な私的諸特性の発達の集産集団的基盤と土壌を提供しており、強力な私的諸特性は強力な公的領域の輪郭と範囲を形成するために一体となっていたのだった。

こうした自由地域社会が、いつでも必ず、自己充足型で相互排他的で偏狭な構成単位へと解消したわけではない、ということを強調しておく必要がある。それらは、お互いにネットワークを作り、協働的方法で意思決定を調節していることが多かった。彼らは連合していた−−最初は、現在私達が「郡」と称しているものと同じレベルで、その後、多くの場合、地方レベル(多分、合州国における州全体と同じレベル)で。私達は、こうした自治体諸連合という芳醇な歴史を持っており、草の根制御力の周囲で、さらには隣近所の制御力でさえもの周囲で組織されていた場合もあった。こうした自治体諸連合は、今でもそれに値するだけの研究がなされなければならないのだ−−欧州と同様合州国においても。また、連合評議会が、いつも政策を案出している地域集会によってなされた意思決定を調整しながら、他方で、解任可能で注意深くスーパーバイズされた評議会が、純粋に技術的なやり方でそれらの意思決定を実施していた場合もあった。厳密に技術的選択肢を提供するために専門家を必要とするようなところではどこでも、専門家は諮問委員会を組織し、いかなる意思決定力も持たずに、村・街・近所・都市における市民集会による考慮・修正・決定のために様々な選択肢を提起していたのだった。意見の相違が存在するところでは、それらは協議委員会や任意の委員会によって単に裁定されただけであった。それらは、同じ法律の様々な、矛盾することもよくあるバリエーションが合州国上院と下院によって通過する時に、現在でも見られる。

#

今日、我々が「政治」と呼んでいるものの現代版は、本当のところ、治国策なのである。それは、民衆コントロールではなく「専門技術」を、多数の権能ではなく少数者による権力の独占を、民衆全体が参画した顔をつき合わせた民主主義的プロセスではなく「選民」集団の「選挙」を、参画ではなく「代表」を強調しているのである。我々は「政治」を、前もって選ばれた目標を確立しようと「有権者」を動員するために使っている。社会の自主管理と本当の個性と人格を作り出す強力な自己形成について民衆を教育しているのではない。我々は、民衆を受動的な「有権者」として扱っているのである。その「政治」課題は儀式的にいわゆる政党が擁立する「候補者」に投票することだとされているのである。能動的な市民が作り出し、決定する政策を実施することだけを厳密に命じられている代理人にではない。我々は服従を強調しているのであって、参画ではない−−「参画」のような言葉を傍観者の立場とほとんど同じことを意味するように歪めてさえいるのだ。その立場では、個人は「集団」の中に失われてしまい、「大衆」はそれ自体で孤立し、苛立ち、力を失った原子へと分解されているのである。

この「政治」のイメージは、既に示したように、全く近年の現象なのである。それは、16世紀の欧州で生じ、充分近代になってから民衆の意識の中に入り込んだのだった。それは、前世紀にさえもまだ「政治」という受け入れられた概念ではなかったのだ。逆に、フランス・スペイン・ドイツ・イタリア−−そして多分、最も顕著なのは合州国−−における単一政体国家は、集中的な民衆の抵抗に対抗して諸地域と諸地方に及ぼすその権威を主張するためにあらゆる努力を行わねばならなかったのだ。米国において、このプロセスは、多分、大部分の欧州諸国よりも不完全だったのだろう。二世紀前の我々の革命は、地域と地方に莫大な権力−−当初は対抗権力−−を与え(私は、元々の13州に国家政府に対する先買的権力を与えていた−−付け加えれば、金持ちよりも農民と都市の貧困層に好意的で、その結果、我々の歴史の教科書において「不名誉な」立場に置かれている−−我々の最初の憲法、The Articles of Confederationについて述べている)、専門的軍隊ではなく、市民の義勇軍の周囲で我々の防衛を組織化していたのだった。

単一政体国家が司法的に自説を主張し始めた後でさえ、数世代の間は初期の政治的現実が持続していた。すなわち、地方と自治体は、それらの活動を減少させ、単一政体国家の主権性の下にそれらを置こうとする法律の制定にも関わらず、莫大なる事実上の権力を維持していたのであり、活気に満ちた政治領域を提供していたのだった。米国の伝統は、欧州とは著しく対照的な場合が多く、地域の自律という理想と過剰な国家権力の危険性を強調している。その伝統は、権威に対して自分を主張するという個人の権利・ある程度の自給自足の望ましさ・企業の力に反対する地域社会の主張−−人間の「生存・自由・幸福の追求」という「譲渡できない」権利、財産を強調していないという点で注目に値する表現である−−を強調している。「国家の首都」としてのワシントンの遠さは、米国政治の美辞麗句の持つ永続的特長であり、永続的理想としての地方主義と地域主義の強調だったのである。

我々は、シニカルな政治的反動と大企業のスポークスマンがこれらの基本的なリバータリアン的米国の理想を私物化できるようにしてきている。我々は彼らがこれらの理想のもっともらしい「声」になるようにしているだけではない。例えば、個人主義を使ってわがままを正当化する、「幸福の追求」をつかって貪欲を追求する、地域的・地方的自律に対する我々の強調さえもが地方根性・島国根性・排他主義−−民族的少数派といわゆる「逸脱した」個々人に敵対しているものだ−−を正当化するために使われてきている。我々は、これらの反動が「リバータリアン」という言葉の権利を主張することを許してさえもいるのだ。実際、この言葉は、1890年代のフランスで、政府によって人が自分の見解を特定するときの非合法表現だとされた「アナーキスト」という言葉の代わりとして、エリゼ=ルクリュが文字通り作り出したのだった。実際、有産階級−−貪欲・身勝手・財産の美徳に関する「地上の母」アニー=ランドの侍者−−は、急進主義者によって表現されねばならなかった表現と伝統を盗んだのだ。だが、急進主義者達は「社会主義」に関する欧州とアジアの魅惑のためにそれを故意に無視していたのだ。それらの「社会主義群」は、現在では、それが生じた正にその国々では、没落し始めているのだ。

ようやく、我々が治国策−−米国民衆がすでに深く正当な疑いを持って見なしている治国策−−ではない政治を発達させた時がきた。そして、ドイツのマルクス主義や中国の毛沢東主義ではなく、国産北米急進主義の語彙で、ドイツと中国でさえも衰えてきている語彙で、我々が米国民衆に語りかけ始める時代がきたのだ。最後に、我々が、政党・官僚制度・政治の専門家・エリートの周囲に構造化された国家主権主義的政治ではなく、有機的政治−−生態調和的政治−−を発達させる時代なのだ。有機的もしくは生態調和的−−要するに緑の−−とは、文字通り、我々が社会生活の細胞レベル−−その国家的諸政党、官僚制度、「エグゼクティブ」という至上命令を持った抽象的な「国家」ではなく、隣近所・都市・街・村といった地域社会−−で始めるという正にその本当の意味で、政治有機体の進化を意味している。緑の政治とは、我々が生態学原理とプロセスを、政治的に機能するやり方に適用することを意味しているのだ−−顔をつき合わせ、民主的で、民衆の集会における草の根レベルで。これは、自分の運命を全く制御できない受動的で民営化された傍観者的「有権者」ではなく、能動的で政治的に関心がある参画的な市民を我々が作り出す手助けをするような、単なる動員ではなく、教育に基づいた親密な政治を意味している。この政治地域は、自治体である。隣近所の集会・タウンミーティング・地域集会は、それぞれの地域を、地域第一主義的諸制度−−単一政体国家が持つ永久に成長する中央集権と官僚制度に対抗する力として作用することになる諸制度−−の連合的、連結的、充分に組織立ったネットワークに転じるであろう。この基本プログラムは民衆が決めることになるであろう!そして、それは、外国から借りてきたり、外国のプログラムを磨きなおしたりするものではなく、明らかに北米急進主義的伝統から生じるプログラムなのである。

それらは弱いかもしれないが、合州国には類似した地域的諸制度が、現在でも全く適切に存在しているのである。それらは、我々の共和国に内在する民主主義として、そして、我々の民主主義に内在する土着的急進主義の一形態として存在しているのだ。我々の要求は以下のようにならねばならない。

米国人よ!永続的に肥大している国家の中央集権と官僚制度化の時代にあって、我々は要求する。我々は共和国を民主化し、民主主義を急進化するのだ!