欲望充足社会に向けて:米国的見解とSDS
急進的権力分散主義プロジェクト、第一決議案


本論文は、元々、1969年5月にシカゴで複写されたビラからの抜き刷りだったが、1979年にReinventing Anarchyという本に再録された。この論文は、SDS(Students for Democratic Society)の最後の日々の中で活動的だった第四派閥のための声明文だった。この派閥は、普通他の三つの派閥(つまり、進歩労働党・RYM I・RYM II)だけを強調することの多い歴史家からは見過ごされていることが多い。
原文は、"Toward a Post-Scarcity Society: The American Perspective and SDS"で読むことができる。なお、この論文のタイトルにもあるpost-scarcityは、直訳すれば「飢餓(欠乏)のない」となるが、ブクチンの著書「The ecology of freedom」の67ページ〜70ページにおける「欠乏は欲望構造によって左右される。消費主義において、欲望は合理的判断のない消費のための消費となる。物質的欠乏のない真の自由社会において、欲望は意識性と合理的選択によって形成される。資本主義や社会主義の目的が単なる欲望の増大だとするなら、アナーキズムの目的は合理的選択の増大である。」という議論を踏まえた上で「欲望充足」と訳した。(訳者)


二十世紀は人間の歴史の後継者である−−単調な骨折り仕事と物質的不安定から解放されようとする人間の長年にわたる労苦の遺産相続人である。幾世紀にもわたる長い継承の中で今世紀になって初めて人間は、全く新しいレベルのテクノロジー的進歩と人間経験の全く新しいヴィジョンへと到達した。テクノロジー的に現在我々は人間の歴史的目標−−欲望充足社会−−を達成できる。しかし、社会的にも文化的にも、我々は野蛮なる過去の、物質の欠乏によって創り出された社会的遺産である経済的諸関係・諸制度・諸態度・諸価値観の中で苦境に陥れられている。完全なる人間の自由が可能であるにもかかわらず、我々は物質的欠乏・巧妙で永久圧制的な威圧システムという日々の現実の中で生きている。結局のところ、我々は、戦争であれ・抑圧であれ・非人間性であれ、恐怖の社会に生きているのだ。数十年にわたり、我々は熱核戦争の雲の下で生きており、世界の大陸の半分は地域紛争の火によって縞模様がつけられているのだ。我々は、自分たちのアイデンティティを社会の中に見出そうとしてきた。その社会は、膨張した市民的官僚制度・軍部的官僚制度・産業的官僚制度によって更に中央集権化され・動員され・優越的支配を受けてきている。我々は、有害廃棄物で次第に汚されつつある環境に適応しようとしてきた。我々は、自分の住んでいる都市とその政府がいかなる人知をも超えて成長し、個人としての我々の正にその主権を蟻と同じぐらいの大きさ−−巨大行政機関と政治的機械という巧みに操られ非人間的にされた犠牲者−−にまで還元せしめているのを見てきた。この病んだ社会「秩序」のスポークスマンが偽善的に「民主主義」・「自由」・「平等」の素晴らしさに対する賛美を口にしている一方で、何千万という人々は、人種差別主義のために、その人間性を否定され、事実上の奴隷状態へと還元されている。

純粋に個人的立場から見れば、我々は、小学校・高等学校・学者製造所を通じて、我々の親が仕事場で出会っているのと同じ冷たい無関心で処理されているのだ。更に悪いことに、我々は青年期から成人期へ、電気仕掛けの頭脳と軍部の低脳どもによって導かれている殺人マシーンという徴兵され均一化された怪物への道のりを行進するように期待されているのである。大人として、我々は、牛ほどにも尊厳とアイデンティティを持っていないと見なされるようになると予想できる。地下道の積荷車に詰め込まれ、「オフィス」や「工場」と呼ばれる魂の屠殺場に追い込まれ、単調な、しばしば意味のない仕事で無理やり無感覚にさせられるのだ。我々は生きるために仕事をし、仕事をするために生きねばならないであろう−−馬鹿げていないにせよ、過剰な欲望を生み出すシステムの単なるロボットなのだ。我々は借金・不安・不安定にどっぷりと浸かり、最後には社会の片隅へ、年寄りとか慢性病−−全ての活力と人間性を剥奪された、無味乾燥な存在−−と呼ばれる人間のごみためへと送り出されるだろう。

社会崩壊のプロセス

社会生活の堕落−−その非合理的で威圧的で日常的な現実性が、その解放的可能性に対して、上記のような粗暴な矛盾に立っているため、なおさら恐ろしいのだが−−は、人間の歴史の中で前例がない。人間がこれほどまで多くのことに対してこれほどまで何もしなかったことはなかった。実際、このような悪徳に対して、最終的には大災害をもたらすことに対してさえ、人間が自分の理性を使わなかったことなどなかったのだ。「あり得る事」と「現在そうあること」の間の緊張は、合州国においてその最も酷い割合にまで到達している。合州国は、世界最高のテクノロジー先進国という立場だけでなく、「世界の警察」、世界で第一流の帝国主義的権力という立場をも占めているのである。合州国は自動車と水素爆弾を持ちすぎた国家・大農場主の家々とスラム街・莫大な物質過剰と獣的貧困という恐怖の光景を与えている。「民主的」価値という合州国の公言は、人種差別主義・黒人闘士と白人闘士の鎮圧・警察のテロリズム・ヴェトナム・今後生じる第二第三のヴェトナムの見込みによって日々裏切られているのだ。

それならば、基本的に広範囲にわたる軽蔑と深遠なる不実が、北米社会の諸価値観・諸形態・熱望、結局のところ諸制度に向かって発達していることは驚くべきことだろうか?米国史において前例のない規模で、何百万という人々、特に若い人々が、自分たちが住んでいる社会に対する思い入れ(コミットメント)を捨てつつある。彼らは社会の要求をもはや信じてはいない。彼らはもはや社会の目標を受け入れてはおらず、最も重大なことに、彼らはほとんど直感的に、その制度的・社会的規律に従って生活することを拒絶しているのだ。

この広がりつつある拒絶は、非常に根深い。ヴェトナム戦争に対する反対から、全形態の政治操作に対する憎悪にまで広がっている。人種差別の拒否に始まり、ヒエラルキー型権力それ自体の正にその存在を疑問視するところまでいっている。中産階級の価値観とライフスタイルを憎悪する中で、それは商品システムの拒絶へと急速に進化している。環境汚染に対する苛立ちから、それは北米都市と近代都市化主義の拒絶へと進んでいる。結局のところ、それは、社会に対する全ての排他主義的な批判を超越し、永久に広がりつづけている規模で、ブルジョア秩序に対する普遍化した反対へと進化しているのである。

我々が今目撃していることは、歴史上、ユートピアという最も大胆な概念が実現可能になっている時点における、一世紀半にわたるブルジョア化の崩壊と全ブルジョア制度の腐食なのである。現在のブルジョア秩序はその伝統的制度の腐食を官僚主義的操作と国家社会主義に取り替えることぐらいしかできないのだ。革命が合州国において直視できるほどのものだということは、脱神話化・脱ブルジョア化・脱制度化のプロセスが、以前から始まっており、世界のいかなる場所よりももっと決定的にここで生じている、ということなのだ。このプロセスが革命となるか、ファシズムという災厄的形態となるかは、大部分、社会的意識を拡張し、「左翼」と右翼双方の権威主義的イデオロギーから革命的発展の自発性を擁護する、革命家の能力に依存しているだろう。

SDSの役割

SDSと青年反乱

歴史的プロセスが我々を階級のない社会という領域に次第に近づけて行くに従って、我々は階級社会から出現している文化と諸制度の分解に直面している。禁忌のない性・地域社会と相互扶助・自発性・共産主義の希求と、商品関係・勤勉と勤労を善とする倫理観・家父長的家族・女性の劣等視・ヒエラルキーの存在・威圧の使用の拒絶という青年反乱が持つ本質的要求は、全て偶然に生じたものなどではない。どれほどそれらの要求が直感的で未完成に見えようとも、それらは欲望充足テクノロジーの発達によって開かれた可能性を文化的に予見しているのだ。そして、これらの要求が直感的で未完成であるという正にその事実から、我々はここで我々が根本的な社会諸力−−書物や公式からではなく、正にその社会発達それ自体から生じている諸力−−を扱っているのだということがわかるのだ。

SDSの支部がこの青年反乱において役割を演じているとするなら、その拡大と意識に貢献しているとするなら、その構造・目的・内的関連性に関して全ての支部が再考しなければばならないことが一つある。官僚制度的方向にそって構造化され「政治」のエリートによって優越的に支配されている支部が、この国に浸透している青年文化と何らかの関連を持つことができると信じることは、明らかに馬鹿げている。その支部はその内部での諸関係−−単なるイデオロギー的「結びつき」や「同士」ではない、兄弟姉妹のような諸関係−−について革命的欲望充足形態を発達させるかもしれないし、完全にその支部だけで孤立してしまうかもしれない。そうした支部は、ライフスタイルに新しい強調点を置くかもしれないし、権威主義的方向性にそって保守化してしまうかもしれない。

これらの内部変革を確立するための公式などない。一支部の雰囲気と構造は究極的に、その目標によって決定される。その支部が旧左翼が持っていた月並みな政治問題で完全に占められていれば、その支部は旧左翼的組織になってしまうだろう。主として実行プログラム的諸問題によって結合している、エリート主義・官僚制度・中央集権型の構造になってしまうのだ。逆に、政治諸問題がライフスタイルの諸問題と有機的に組み合わされれば、その支部の中にある内部関連性は、それに従って変わるであろう。SDSは結局のところ青年運動なのであり、特に、大学キャンパスでの青年運動なのである。このことを確立したかどうかの基準が、支部が青年と学生に与える影響力であるとするなら、悲惨なまでに失敗しているのである。「学生−労働者」同盟について語られている全てのことについて、我々は数多くの学生を味方に引き入れてもいなければ、一般的な青年も引き入れていないのだ。硬いセクト的殻へと引きこもることで、我々は、過去に大学キャンパスで行使していたいかなる影響力をも失う方向へと進んでいるのだ。

この死にそうなほどの停滞を避けるために、我々は、支部がそれぞれ独自の形態でキャンパスの諸問題を扱い、キャンパスを学生と地域社会の解放空間へと変換することをその本質的目標にしている闘争を続けなければならない、と信じている。人種差別主義の諸問題と北米帝国主義の具体的表現を使って、我々の支部は以下のことを扱わねばならない。それは、大学の持つ権威主義的性質と構造・成績のランク付けという白痴的行為・教育という仮面をかぶったブルジョアイデオロギー・(単なるコンサルタントとしての教師と共に)生徒が自分自身の階級を形成する権利・生徒集会によるキャンパス方針の決定である。そして究極的には、大学を解放空間へと変換させながら、1968年5月−6月のフランス暴動におけるソルボンヌ大学や特にCencier大学のような形での地域センターへと、大学を超越しなければならない。

SDSの支部は、キャンパス内外での青年反乱の有機的一部にもならねばならない。カリフォルニア州バークレー市のピープルズ=パーク問題に関して学生と住所不定者との間に確立されている絆は、多くのやり方で、支部が自分たちが閉じこもっているセクト的殻を打ち破ることにつながる類の発達モデルである。同様の可能性は全国を通じて明らかに存在している。キャンパス外の青年達には、住所不定者だけでなく、高等学校や専門学校の若者、スラム街の若者、青年労働者たちが含まれる。これらの若者たちの中で、「帝国主義に対する正しい移行プログラム」をSDSが持っているという理由で、SDSに引き付けられる者はほとんどいないだろう。SDSが生活に対する衝動を表明し、死んでいる中産階級とプロレタリアートの価値観に対する嫌悪を口にしている時にだけ、そうした若者たちはSDSに引き付けられるであろう。

SDSと地域社会

SDSは、所々腐敗しているが、今でもその核となる部分に膨大に内在している長所を保持している古風な社会に対するその闘争において安易な道を選ばねばならない。「安易な道」という言葉は、我々の原則・闘争方法・目標を妥協させなければならないという意味ではない。単に、我々が、最も急進主義化されやすい領域の人々に対する努力に主として心身を捧げなければならない、という意味である。これらが少数民族集団や中産階級の労働者や部門であれば、支部のエネルギーはこれらの部門に散布されなければならない。闘争を始める前に諸問題を予想しようとして、過去から借りた公式によって現実に拘束衣を着せることは、重大な誤りとなろう。我々の時代の暴動は、実質的に全ての階級境界を横断するものなのだ。

いうまでもなく、産業プロレタリアートの十全で能動的な参画なくして合州国で社会革命が成功することなどありえない。フランスにおける5月−6月事件は、今日の産業先進国において、革命プロセスがどのように発達できるのかに関するパラダイムをほとんど提供していた。我々がこれらの事件から物事を学ぼうとしないならば、何も学ばないことになろう。フランスの学生たちは、学生としての立場について主張することなく、工場の出入り口で労働者に接したのだった。彼らは、自分たちが労働者だと嘘をついたわけではなかった。フランス労働者たちも彼らがどういう人間なのか(学生だと)よく知っていたのだ。労働者と学生たちの同盟は明らかに可能だったのだ。何故なら、どちらもお互いを異なってはいるが抑圧された社会層−−同じ社会的な敵によって異なるやり方で抑圧されている−−だと認識していたからだ。

SDSと第三世界

我々が第三世界を援助できる最良の方法は、第一世界を変えることよってである。SDSの第一義的重要性は反帝国主義「戦線」を創り出すことである、と宣言することは、帝国主義が帝国主義的方向にそって合州国における大衆の意見を形成することに関してSDSから何の影響も受けないことを確実にする。帝国主義が抽象的な言葉で提示されると、その具体的宣言−−合州国における社会的発達に深遠なる影響をもたらす可能性がある−−は、中ぶらりんのまま漂うことになろう。北米民衆の大多数にとって、「帝国主義」という言葉は、その具体的宣言が明確に決定的に戦っていない限り、抽象なのである。ヴェトナム戦争における死傷者数には意味があるのだ。徴兵制度にも意味がある。兵役の見込みによって輝きを失った青年は意味を持っている。村落への爆撃・民衆の殺害・民衆を不具にすることにも意味がある。軍の部隊における抑圧的生活方法にも意味がある。枯葉剤と砲火によるヴェトナムの森林の完全な破壊にさえも意味があるのだ。革命的国際主義者として、その宣言全てにおいて帝国主義を説明し、帝国主義−−それが第三世界に押し付けている軍事的野蛮さと同様、第三世界の日常生活の邪悪な搾取−−と戦うことは我々の責任なのである。しかし、これらの帝国主義的特長は、帝国主義がどのようにして米国人をも犠牲にしているのかについて明確に強調しながら、米国人に対して具体的に提示されなければならないのだ。この具体的なやり方においてのみ、これらの蛮行を広く生み出している本国において社会システムに対抗する米国人を動員することが可能となるであろう。

第三世界において進行している闘争は、避けることのできない物質欠乏の領域内での闘争である。中国・ヴェトナム・キューバは、その独立を維持することだけでなく、産業化することにもついても闘争しているのである。彼らは、合州国と西欧において数年前に克服した課題に直面しているのだ−−その結果、彼らが採用している組織的・政治的形態が生じたのだ。合州国においてこれらの諸形態を見習おうとして、中国・キューバ・北ヴェトナムの支配要素によって様々な程度で採用されているヒエラルキー的で中央集権型の政治組織を拝借することは、文字通り、歴史の時計を逆に回すことになるだろう。我々は、合州国と西欧におけるテクノロジーの発達が提供している徹底的な物質的機会をその出発点にしなければならないのである。第一世界は、第三世界のそれとも、過去のそれとも、質的に異なる諸問題と可能性を持っている。我々は歴史における最も進歩した領域−−欲望充足社会の見込みを開けた領域−−について戦っているのであって、ヒエラルキーのシステムを他のもので置き換えることについてではないのだ。

結論

我々が求めている革命は、人間の人間による優越的支配を除去することに集中している。優越的支配は、社会構造だけの問題ではない。人間条件の問題でもあるのだ。優越的支配という立場は、ほぼ生まれたときから我々を養っているのだ−−家族環境において、我々が遊ぶゲームにおいて、学校と大学において、軍隊において、仕事において、市場において、雑誌・書物・マスメディアにおいて、宗教において、あらゆる種類の組織においてだ。吐き気がしてくる。どの程度、優越的支配が我々の感覚器官全てから我々の中に流れ込んでいるのか、どの程度我々の考え方・話し方・歩き方にさえそれが現れているのかに気づくことはほとんどない。我々が自分自身を作り直し始めない限り、自分のライフスタイルと価値観を変え始めない限り、優越的支配は、社会変革に関する我々の概念全てを、何が「有効性」と「効率性」を構成しているのかに関する我々の判断を型にはめて作り出すであろう。ライフスタイルは、革命がライフスタイルに対するように、革命に対して親密なのである。このことは、同語反復ではない。このことは相互作用、解消されねばならない弁証法的関係なのだ。この関係を考慮していない−−実際、その構造・理論・戦略・戦術によって、優越的支配の回転とその現実を促している−−「革命的」運動は、ただ一種の「成功」を確立することが運命づけられているのだ。反革命である。

現代の青年反乱の中で役割を果たそうとする中で、我々は同時に、革命家を裏切って、革命家が戦っている正にその社会に革命家を売り飛ばすことの非常に多い要素全てを排除しようともしている。我々は、自分たちの運動を、社会全体の中で確立しようと戦っている解放された空間にしようとしている。欲望充足社会へと我々を導く革命は、完全な革命とならなければならない。さもなくば、革命など全く存在しないであろう。人間による人間の搾取だけでなく、人間による人間の優越的支配、人間と自然・都会と田舎・仕事と遊び・精神的活動と肉体的活動・理論と実践・理性と感覚・生存と生活の分断をも取り払わねばならないのだ。これらの分断を乗り越え超越しなければ、都市を生態学的にバランスの取れた地域社会へと権力分散しなければ、利潤ではなく人間の欲望を生み出さなければ、自然のバランスを回復しそこに人間の場所を見出さなければ、ヒエラルキー・家父長的家族・国家を純粋でオープンな人間的関係によって取り替えなければ、社会生活それ自体は絶滅してしまうだろう。

我々の運動は、それ自体の構造と人間的関係の中に、それが構築しようとしている類の社会を反映させようとしなければならない。それは権力を分散し、それによって未来社会を優越的に支配するのではなく、むしろ、未来社会の中に解消することになるだろう。それは、有意義であるということの真の意味で、権力を民衆にゆだねておかねばならない。結果として各人が自分の日常生活を制御するように権力を解消しなければならないのである。戦略的な理由でと同様、戦術的な理由でも権力分散しなければならない。各支部は、上からの「指示」抜きで地元の諸問題を自由に評価しなければならないのだ。何故なら、各支部自体は、直接の状況と接触する身近な機会を持っているのであり、そのことで対処する優先順位を適切に決めることができるからだ。我々は自分たちが、昔ながらの社会諸階層を実質的に横切っている数多くの諸問題と共に、全般的崩壊、ブルジョア社会の解体の時期に生きている、ということを理解するかもしれないし、様々な出来事を理解できずに、意識と革命的変革の触媒ではなく出来事の犠牲者であり続けるかもしれないのである。

1969年5月