「北米左翼の再構築」について


このエッセイは、スタンリー=アーノウィッツの「北米左翼の再構築」という論文に対するブクチンのコメントであり、Socialist Review誌1983年67号に掲載された。原文は、"On Stanley Aronowitz’s ‘Remaking the American Left,’"で見ることができる。(訳者)


スタンリー=アーノウィッツは、Socialist Review誌に全般的に優れた重要論文「北米左翼の再構築」を書いており、この論文は幅広い論議をもたらしてしかるべきものである。ここで、私は、私がこの論文の中核だとみなしていること、特に、アーノウィッツがなしている「多種多様な社会主義者・共産主義者・リバータリアンから成るイデオロギー的左翼と、(中略)過去数十年間、正義の再分配を求めた運動を作り出していた民衆左翼」の区別に焦点を当てたいと思う。私は、ここでアーノウィッツが意味していることは、1930年代とそれ以前の、伝統的な労働運動・農民運動・失業者運動だと受け止めている。これらの運動は、明らかに様々な意識レベルと組織レベルで残存しているが、今日では、急進的環境保護主義者・フェミニスト・ゲイ・民族グループ・対抗文化族・平和活動家をいくら強調しても強調し足りないのではないかと私は感じている。私は、後者が、伝統的社会主義の「民衆左翼」を単に「補足している」だけだとは信じていないし、アーノウィッツが私の公式に同意するだろうと確信してもいる。しかし、私が本当に思っていることは、古い「民衆左翼」と新しいそれとは、社会主義者とアナキストの間では充分に強調されたことのない歴史的本質である社会諸文脈の変化を基本的に反映しているということを多くの左翼が今日認識できていない、ということである−−これは左翼全体としての我々の戦略に抜本的に影響を与えるはずの諸変化なのだ。

昔の「イデオロギー左翼」は、その根源を特殊な「民衆左翼」に持っていた:大規模な移民集団と、その最も献身的な組織に加わり、その物質的資源を獲得した子供たちである。そして、この集団はそれ自身の急進主義を、資本主義に対するだけでなく、欧州南部と欧州東部の産業革命前の世界を席巻していた擬似封建制度的ヒエラルキーに対する「労働者」の葛藤の周囲でも発達させていた。これらの闘争を合州国に移植するときに、移民「民衆左翼」は全く別のもっと独自の北米急進主義を平行して持っていることが多かった。それは、ニューイングランド清教徒の厳格主義と開拓者イデオロギーの持つリバータリアン・権力分散・無定形個人主義の伝統に大きく根差していた。その結果、過去の北米急進主義は、その理想においても伝統においても、ドンキホーテ的に精神分裂症的だったのだ。それは、デブズの社会党とIWWがはかなくも癒そうとしていた内部分裂−−資本主義の文脈と同様、擬似封建主義的文脈との闘争にその根源を持っていた欧州社会主義と、南北戦争後に生じた産業社会と同様、アメリカ革命と開拓者の持つリバータリアン文脈にその根源を持っていた北米人民主義−−によって特徴づけられていた。

急進主義者たちは、現在、古い移民社会主義者とアナキストは死んでいるという抵抗できない事実に直面している。彼らは過去のノスタルジー的−−老いさらばえた−−像として我々の中に生きているのである。彼らが持っていた欧州の伝統と理想は、将来のヴィジョンとしてというよりも、追憶として残っているのである。初期の合州国が持っていた国内の農民的人民主義運動もまた大部分が死んでしまっているが、決定的なことは、昔の移民社会主義者とアナキストとは逆に、それらは多種多様なやり方で我々に絶えずつきまとっているということなのである。アメリカンドリームというそれらが持っていたユートピア的ヴィジョン、「新聖地」という合州国のイメージは、小さな政府・個人の自由・権力分散主義的理想・地域主義の要求という継続する民族的イデオロギーとして、いつまでも残っているのである。これは、「新連合主義」と脱規則というスローガンを持って、権利がイデオロギー的に養っている単なる食物などではないのだ。1962年のポート=ヒューロン声明とワシントンにおけるマーチン=ルーサー=キングの「私には夢がある」スピーチにも左翼的よじれが与えられていた。ジェファーソンの独立宣言・多くの州憲法・国内の敵対立場でさえもの創設文書に表明されているように、このユートピア的次元は、経済と政治の権力を中央集権化し、警察の権威と監視を拡大し、完全に米国人の権能を剥奪しようという支配階級の努力を今でも阻害しているのである。昔の移民の伝統が薄れて行くに従い、全ての急進主義者は、大企業社会が明らかに絶滅させようとしている従来の北米伝統が持っていた生活要素と共に降伏しなければならないだろう。乱暴に言ってしまおう。我々の「ブルジョア民主主義」は、もはや、人口頭脳的・ロボット的・非常に中央集権化され合理化された社会と相容れないものなどではないのである。

米国にその正なるアイデンティティと残忍な大企業社会の必要性を与えているユートピア的伝統が持つこの力の場(force-field)の中でこそ、北米左翼がイデオロギー領域から民衆領域へと−−非常にセクト的な運動から社会運動へと−−拡大すると期待できるのだ。こうした民衆領域の直接的所在地は隣近所と自治体なのである。それを共同体集産主義的社会主義と呼ぼうが、リバータリアン自治体連合論と呼ぼうが、この場合に限り新人民主義−−恐れる理由など何もない言葉だ−−と呼ぼうが、この地域的領域を分析することもその社会的可能性を探求することもできない急進主義理論は、「政党性」と議会主義に専心した全く偏狭な政治理論であり続けるだろう、ということをここで示しておこう。全ての北米地域社会に対して新しい人民主義の制度的デザインを詳しく計画立案することは傲慢であろう。私の住んでいるヴァーモント州北部では、郡区代表者会(タウン=ミーティング)という形でこれが行われており、核兵器凍結運動を開始するときにその道義的権威を発揮した結果、新しい活力を得て来ている。より大きな都市や町では、ヴァーモント州バーリントン市のそれのように、市民集会という形を取るかもしれない。そこでは、六区画に分けられた都市の中で「近所の集会」が法的に確立されているのである−−ニューヨークやサンフランシスコ規模の都市に充分存在できると思われるネットワークだ。その形態がいかなるものになろうと、どれほど多くの自治的諸形態が地理的地域における、そして望むらくは国家規模での、連合に成功するとしても、それらはアップルパイと同じぐらい「米国的」なのである。それらは、大企業的将来をこの国の最も気高い伝統的理想と対極に置く政治生命の力の保持(force-held)を非常に強力にするのである。

同じ特長によって、リバータリアン自治体連合論の持つ人民主義的ヴィジョンは、私が過去数年間にわたり著作の中で主張してきたように、それ自体の経済的観点を持っている−−国有化とは逆の経済の自治体化である。概念的に、このことはポール=ブロースと、歴史的にはパリ=コミューン−−たやすく賞賛されてはいるが、一般には少しばかり間違った方向に向かって探求されている蜂起である−−から導き出すことができる。このことを剥奪され、経済生活に及ぼす市民集会の制御を主張しないとすれば、経済の自治体化は非常に空虚な主張になってしまう可能性がある。しかし、理論的には、国有化とは区別するものとしての自治体制御は、社会の経済的強調点を、中央から底辺へ、国家から地域へと移している。そして、これはこの制御を行使する共同体構造と同じぐらい良いものであって、最終的に「自治体化」と「国有化」の単なる言葉遊びとなってしまう抽象的公式とは異なっているのだ。

我々は、対抗文化の輪郭を生み出した−−ライフスタイルにだけでなく、エコロジー運動・フェミニズム運動・ゲイ権利運動・ズビアン権利運動において、そして、民族的アイデンティティの要求において。対抗文化は、多くの点で混乱し、それがそうありえた可能性を失ってはいるが、今日の欧州、特にドイツ緑の党において主たる運動の土台となっている。我々が現在米国人を手助けして創り出さねば−−いくつかの側面については再生しなければ−−ならないことは、権力分散型連合的対抗制度である。それは、この対抗文化に政治的実体を提供するであろう。この共同体集産主義と人民主義の枠組みの中で、我々は中産階級社会層と同様、労働者に、人間として−−親・子供・近所の人・その環境や平和問題や健康問題など人間として全ての市民が懸念しているような問題に関心を持っている個々人として−−接することができるだろう。我々は、その人間性とその普遍性が偏狭な階級的存在よりも勝っている、その生活方法における地点で彼らと接することができるのだ。

アーノウィッツの論文は、私が提示しようとして来た新しい文脈に向けて継続的に前進しており、彼が開けたと思われる思考の方向に向かってさらに進もうと我々にほとんど呼びかけているようだ。彼は「新しい社会運動」を、「健康・労働の満足・人間の生存さえもを資本蓄積に従属させている現在一般的なエトス」に対抗するものとして書いている−−実際、「人間の幸福条件として、経済成長同様、イデオロギーとしての消費」を拒絶する人々のことなのだ。人は次のことを問わざるを得ないだろう。これらの成長しつつある社会階層を方向づけようとしている北米急進主義運動は、どのようにしてその熱望を制度的に声にし、いかなる政治的伝統からその感化力を導き出すのであろうか?衰退している労働運動をエコロジー・平和・対抗文化・ゲイ・レズビアン・民族集団と統一しようとしている政党としてなのだろうか?それは、地理的地域的にも全国的にも連合した地域主義・地域社会・自律・権力分散・市民集会・イニシアティブ集団という米国の伝統に対抗制度を見出し、成長しつつある大企業と中央集権的権力に対する対抗権力を形成するだろうか?丁度、スペインのアナキストが、その相互扶助の魂と集産主義を保ちながら、教区制度とカトリック教の拘束をアンダルシアとアラゴンの村落から排除したように、野卑なエゴイズム・「自由な事業」の魂・有産主義を排除する米国のリバータリアン人民主義(明らかに、学者の間では全く堕落してしまったが、米国人の間ではまだ堕落していない言葉である)からその感化力を導き出すだろうか?これらの疑問は、前方に横たわっている時代に対する新しい政治議題を作り出そうとしている、米国左翼の会話から除外されることなどありえず、スタンリー=アーノウィッツは、まじめな社会主義者の間でなされるこうした議論の場を開いたと賞賛されることだろう、と私は感じている。