リバータリアン自治体連合論:概論


この論文は元々、社会生態学プロジェクトのReadings in Libertarian Municipalismに対するイントロダクションとして出版された。その後、Left Green Perspectivesの24号(1991年10月)に改訂されて載った。原文は、"Libertarian Municipalism: An Overview"で読むことが出来る。この論文ではpoliticsという言葉がよく出てくるが、文脈によって、政治と訳したり政治運動と訳したりした。(訳者)


社会再構築運動−−特に左翼・急進的エコロジー団体・抑圧されている側を代弁していると明言している団体のことを私は述べている−−の唯一最大の失敗は、現状が確立している限界を越えるように民衆を導く政治運動を欠いていることであろう。

政治は現在、選挙事務所を使ったトップダウン型官僚制度的諸政党間の闘争を意味している。諸政党は、漠然とした「有権者」を引きつけるため「社会正義」に関する中身のないプログラムを提示している。一旦公職につくと、そのプログラムは「妥協」の花でちりばめられたブーケへと変わってしまうものだ。このため、欧州における多くの緑の党は、既製の議会主義政党との微々たる違いしか打ち出していない。また、名前は何であれ、社会主義諸政党も、資本主義政党とのいかなる根本的違いも示してはいない。はっきり言っておくが、欧米民衆の無関心−−「非政治主義」−−が酷くなっているのは当然のことだ。彼等の期待の低さであれば、民衆は投票しようとする時に、既製諸政党に向かってしまうものだ。それは単に、権力の中心として、既存諸政党は実際問題について何らかの結果を生み出すことができるだろうというだけのためなのだ。わざわざ投票しようとすると、大部分の人々は次のように推論する。主要諸政党の特徴全てを持っていて、当選したとしても結局は崩壊してしまうであろう新しい辺境組織に対してこの一票を無駄にしなければならないのだろうか?ドイツの緑の党を一瞥すれば、その内部の政治生命と公的な政治生命とが次第に新ドイツ帝国における他の諸政党のそれに近づいていることがよく分かる。

この「政治的プロセス」が現在まで数十年間いかなる基本的変化もなしに長く病床につき続けているのは、大部分、それ自体のプロセスの惰性のためである。時の経過は期待をすり減らし、希望は一つの失望が次の失望を呼ぶという習慣におちぶれてしまった。「新しい政治運動」について、伝統を転覆することについて語ることは、政治運動それ自体と同じぐらい昔からあるが、説得力を失いつつある。少なくともここ数十年間、急進的政治運動に起こって来た変化は、大部分が、構造ではなく美辞麗句における諸変化なのだ。 ドイツの緑の党は、最近の「非政党の政党」(その組織の元々の記述方法を使えば)の継承者であるにすぎない。それは、草の根政治運動の試みから離れ−−皮肉なことに全地方のブンデスターク(ドイツ下院)において!−−典型的な議会政治へと変貌してきている。ドイツにおける社会民主党・英国における労働党・カナダの新民主党・フランスの社会党などは、元々は解放のヴィジョンを持っていたにも関わらず、フランクリン=D=ルーズベルトやハリー=トルーマンが快適な家だと見なしていた自由主義諸政党ほどにも、今日ではその名に恥じない内容を持ってはいない。これらの諸政党が数世代前からどの様な社会理想を持っていようとも、それらの理想は、それぞれの議会型政体や内閣型政体において権力を獲得し、保持し、拡張するという実践のために失墜してしまったのだ。

我々が今日「政治」と呼んでいるのは、正確には、こうした議会型・内閣型の諸目標のことなのである。近代政治の創意にとって、「政治」とは正確には、代議制政体−−明らかに、立法・行政の闘争場−−において権力を保持するための一群のテクニックなのであって、合理性・地域性・自由に基づいた道徳的仕事ではないのだ。

市民の倫理

リバータリアン自治体連合論は、政治運動を、性質としては倫理的に、組織としては草の根にするための重要な、明らかに歴史的に根源的なプロジェクトである。それは、単に美辞麗句的に異なっているのではなく、構造的にも道徳的にも他の草の根運動とは異なっている。それは、代議制の陰鬱なサイクルと民衆の代表としての「政党」メカニズムを神秘化せずに、正真正銘の市民権行使のために公的領域を改善しようとしている。こうした観点から、リバータリアン自治体連合論は単なる「政治戦略」などではないのだ。それは、潜在的なもしくは発達中の民主的可能性から、社会そのものの急進的新構築−−人間的欲求を満たし、生態学的至上命令に対応し、共有と協働に基づいた新たな倫理学を開発する方向に向う共産体制社会−−に向けて取り組む運動なのである。 そこに一貫した独自形態の政治運動が含まれることは言うまでもない。さらに重要なことに、それは政治運動の再定義を含んでいるのだ。元々語のギリシャ語の意味での地域管理、すなわち、公的政策を創るにあたって、顔をつきあわせた直接の民衆集会を使い、相補性と連帯性という倫理に基づいた都市国家への回帰である。

この観点から、リバータリアン自治体連合論は、曖昧模糊とした社会目標を達成しようとして作られた多くの多元論的テクニックの一つではないのである。その中核として民主的で、その構造として非ヒエラルキー的でありながら、ある種の人間的宿命なのであって、権力確立の目的に合わせて採用したり捨て去ったりすることができる単なる政治的ツールやストラテジーの組み合わせの一つなのではないのだ。リバータリアン自治体連合は、実際、我々の時代に対する急進的な新しい政治運動の実際的メッセージを提示するように、新社会の制度的輪郭を定義しようとしているのである。

手段と目的

ここで、手段と目的は合理的統一の中で一つになる。政治という言葉は、この時点では、自治体集会における真の民主主義の確立と維持とを通じて、その市民による社会の直接的民衆制御を意味する。地域政策と地区政策を作る市民の権利を妨げている共和制代議制システムとは異なっているのだ。こうした政策は治国策と国家−−強制的道具として存在し、明らかに民衆とは異なっている官僚・警察・軍隊・国会議員などから成る専門家集団−−とは根本的に異なっているのである。リバータリアン自治体連合論のアプローチは、治国策−−今日では通常「政治」と見なされている−−とも、資本主義以前の民主的地域にその昔存在していた政治とも違っているのである。

それ以上に、リバータリアン自治体連合論には、厳密な社会的という用語の意味での、社会的領域−−政治的領域と同様に−−の明確な輪郭が含まれている。明らかに、我々が自分の私的人生を生き、生産に従事する領域である。それ自体、社会的領域は政治的領域とも国家主権主義的領域とも区別されなければならない。これらの言葉−−社会的・政治的・国家的−−を交代可能に使うことは、莫大な害悪を引き起こす。実際、この傾向は我々の思考と日常生活の現実においてお互いに同じものだとして見なされて来た。しかし、国家は、全く異なる発生物・人間発達の縁にある刺・社会的領域と政治的領域に絶え間なく侵入している外来存在なのだ。 実際、国家は、アジアの諸帝国・古代帝政ローマ・現代の全体主義国家の勃興を見れば分かるように、それ自体で目的なのだ。そのこと以上に、国家はその過去の失敗全てのために、地域・社会集団・個人に権能を与える政治的領域を一貫して侵食して来たのである。

こうした侵食は、挑戦を受けずに済みはしない。実際、国家と政治・社会領域との闘争は、数世紀にわたって見えないところで行われている市民戦争なのである。近年では、1520年代のスペイン君主政治に対するカスチリア諸都市(comuneros)における闘争・1793年の中央集権主義的ジャコバン会議に対するパリ市民の闘争・これらの会戦前後における終わりのない衝突において、それが明るみに出てきていることが多いのだ。

今日、中央集権と単一政体国家における権力集中の増大と共に、「新しい政治運動」−−本当に新しい政治運動」−−が諸自治体による権力の復興の周辺で制度的に構造化されなければならない。これは、ニューヨーク市・モントリオール・ロンドン・パリのような巨大都市部においてさえ、必要なだけでなく、可能なのだ。こうした都市の塊は、厳密に言えば、社会学者達が述べているのとは逆に、伝統的な語の意味での都市や自治体などではない。我々が、規模と運営計画の問題によって、それが都市だと騙されているだけのことなのだ。我々が物理的権力分権化という生態学的至上命令(フリードリッヒ=エンゲルスとピョトール=クロポトキンが予想していた要件)に直面する前であっても、我々は、それらを制度的に権力分散化することについて何の問題も感じる必要はないのだ。 ミッテラン大統領が数年前、地域毎に市役所を作ることでパリを分権化しようとした時、彼がそうしようとした理由は厳密に政治戦略的なもの(彼は首都の右翼市長の権威を弱めたかったのだ)だった。しかし、大規模な都会構造を変えることが不可能だったからではなく、裕福なパリ市民の大多数が市長を支持していたために、失敗してしまったのだった。

明らかに、制度変革は社会的真空状態の中で生じはしない。また、権力分散型自治体が、構造的に民主的であったとしても、公的事柄を扱う時に人道的・合理的・生態学的に必ずなる、ということを保証するわけでもない。リバータリアン自治体連合論は、合理的で生態学的な社会を確立するための闘争、教育と組織に依る闘争を前提としている。最初から、単一政体国家の増大する権力を阻止し、自分達の地域と地方のためにその権力を再利用するための、民衆による民主的願望を純粋に前提としているのである。この目的を促すような運動−−望むらくは、効果的な左翼グリーン運動−−がなければ、権力分散は生態学的人道主義の地域を導くことができるのと同じぐらいた易く、限定地域偏狭主義を導くことを可能にするだろう。

しかし、これまで根本的社会変革は何のリスクもなく行われて来ただろうか?中央集権型国家と計画経済に対するマルクスのコミットメントが必ずや官僚制度的全体主義を生み出すだろうという主張は、権力分散型のリバータリアン自治体群が必ず権威主義的になり、排他的で偏狭な地方的特性を持つだろうという主張以上になされていたことだろう。経済的相互依存は今日生活上の事実であり、資本主義それ自体が地方独裁政治を幻想だと示しているのだ。自治体と地域社会が相当な程度まで自給自足を達成しようとすることができる一方で、思う存分偏狭性を発揮できる自給自足的地域が可能な時代から我々は程遠いところにいるのである。

連合主義

同様に重要なことは連合の必要性である。連合は、自治体市民集会によって委任される解雇可能な代理人を通じた地域間の相互連係であり、その機能は、調整と行政管理だけである。連合は、古代まで遡って見られ、単一政体国家に対する主要代替案として現われていた長い歴史を持っている。合州国独立戦争からフランス革命、さらには1936年のスペイン革命まで、連合は国家中央集権制度に対する主たる挑戦となっていた。また、20世紀に存在していた諸帝国の崩壊が、強制的な国家中央集権制度の問題や比較的自律した国家を勃興させている我々の時代に消え失せてしまった訳でもない。 リバータリアン自治体連合論は、現代の連合制度論議(例えば、ユーゴスラヴィアやチェコスロヴァキアのような)に対して、単一政体諸国家の連合ではなく、街や村と同様に大規模都市の隣近所や諸自治体の連合を要求することで、急進的に民主主義的な次元をつけ加えるのである。

例えば、リバータリアン自治体連合論の場合、地方偏狭性は、経済的相互依存という避けて通れない現実によってだけでなく、自治体内の少数派が参加型地域の大多数の希望に従うことによっても阻止される。これらの相互依存性と多数決裁定は、多数決が正しいものとなるということを保証してくれるだろうか?保証してはくれない。しかし、合理的で生態調和的な社会を手にする見込みは、このアプローチを使う方が、中央集権型の存在と官僚制度的道具に頼ったアプローチよりもずっと高い。私は、いかなる自治体的ネットワークもドイツ緑の党には出現していないことを不思議に思わずにはいられない。ドイツ緑の党は、ドイツ国内の市議会に何百という代表者をおいているが、完全に月並みで、特定の街や都市に自己完結した地域的政治運動を続けているのである。

リバータリアン自治体連合論に反対する多くの主張−−強力な連合論的強調点を持っているものさえある−−は、政策決定と行政管理との区別をうまく理解できないことから生じている。この区別はリバータリアン自治体連合論にとって根本的なものであり、いつでも心に止めておかねばならないものである。政策は、自由市民から成る地域や隣近所の集会が作る。行政管理は、区・街・村の委任された解雇可能な代表者から成る連合評議会が行う。もし、特定地域や隣近所−−もしくはそれらの少数派集団−−が、人権を侵害したり、生態破壊を許しておく限度まで自身のやり方を貫こうと決めたなら、地理的地域連合における大多数はその連合評議会を通じてそうした犯罪行為を防止するあらゆる権利を持つのである。 これは民主主義を無視するものではなく、市民権を認識し、その地理的地域の生態保全を維持するために、全員が共通合意した主張なのである。これらの権利とニーズは、連合評議会によってではなく、その連合代表者を通じて集会の希望を表明する一つの大きな共同体として見なされる民衆集会群の大多数によって主張されるのである。従って、政策決定は地域的であり続けるが、その行政管理は連合ネットワーク全体にあるのだ。実際に連合は、明確な人権と生態学的至上命令に基づいた共同体群からなる共同体なのである。

もし、リバータリアン自治体連合論がその形態を完全に歪められ、その意味を奪われてしまうことにならないのであれば、それは戦い取らねばならない要件なのである。民衆が権能を奪われていると感じ、積極的に権能を求めている時に−−これからそうなって欲しいが−−リバータリアン自治体連合論は語りかけるのである。単一政体国家との増大する緊張の中に存在しながら、それは使命であると同時に過程でもあり、達成されるべき闘争なのであり、国家首脳会議によって認められた遺産などではないのだ。それは既存国家権力の正当性に異議を唱える二重権力なのである。こうした運動は、あちこちの地域社会でゆるやかに、多分散発的に、始まると予想される。 充分連結した連合が国家に代わる徹底的な制度的権能を要求するために存在する前に、多分最初は、社会構造を変えるための道徳的権威を要求することになるだろう。自治体連合の出現によって創り出された緊張の増大は、国家と政治的諸領域との対決を意味する。この対決は、リバータリアン自治体連合論が民衆運動という新しい政治運動を創り出し、最終的には何百という人々の想像力を捉えたした後で始めて解決することができるのである。

しかし、幾つかの点は明らかにしておかねばならない。連合主義と国家主権主義との二重構造に初めて入った人間と、リバータリアン自治体連合論を最終的に確立する人間とは同じではないだろう。民衆を教育しようとする運動とリバータリアン自治体連合論に現実を与える闘争とは、民衆を、受動的な「構成員」ではなく、能動的な市民へと変えるであろう。社会再構築の闘争に参加する人で、闘争開始時と同じ偏見・習慣・感受性を持って闘争を終える人などいないだろう。望むらくはそのときに、そうした偏見−−地方根性のような−−は、次第に、協働という偏見のない感覚と相互依存という思いやりの感覚によって置き換えられているであろう。

経済の自治体化

リバータリアン自治体連合論が全ての伝統的反国家主権主義的政治運動の諸概念を喚起するだけに留まらないということを強調しておかねばならない。それが、漸次的に連合レベルまでに至る、顔をつき合わせた自治体民主主義を含めるように政治運動を定義し直すように、経済に対しても自治体論的・連合論的アプローチをするのである。最低限、リバータリアン自治体連合論的経済は、経済の自治体化を要求する。国家所有の「国有化」企業への分類でもなければ、集産主義的資本主義の「労働者管理」への還元でもない。「労働者管理」企業の職能別労働組合管理(すなわち、サンジカリズム)は既に今日存在している。このことは、革命的労働組合でさえもが1936年のスペイン市民戦争中に生み出していた官僚諸制度を検証している人なら誰にでも明らかなはずである。 今日、大企業資本主義も次第に「仕事場の民主主義」という手段によって、労働者を労働者自身の搾取に共謀させようと熱望するようになっている。スペインやその他の国々の革命でも、原料・市場・利潤に対する労働者管理企業間の競争は存在していた。最近の例では、多くのイスラエルのキブツ主義は、始めた当初は高い理想を持っていたにも関わらず、非搾取的・欲望指向的な企図の例としては失敗であった。

リバータリアン自治体連合論は根本的に異なる経済形態を企図する。国有化でもサンジカリスト的指針による集産化でもない。土地と企業が地域社会の保護下に−−もっと正確に言えば、自由集会における市民と連合評議会におけるその代表者の保護下に−−次第に置かれていくように計画しているのである。労働がどの様に計画されるべきか・どのテクノロジーを使うべきか・どの様に生産物は分配されるべきかは、実践の上でしか解決できない問題である。生産物が非常に高い耐久性と品質を持ち、欲望が合理的で生態調和的な基準によって導かれ、抑制とバランスという古代の概念がブルジョア市場の「成長か死か」という至上命令に取って代わるならば、「各人から能力に応じて、各人へは欲望に応じて」という格言は、経済的に合理的な社会の根源的指針となるであろう。

こうした自治体的経済−−単にテクノロジー的にではなく、連合的・相互依存的・生態学的に合理的な基準−−においては、現在民衆を労働者・専門家・管理職などに分断している特殊利益が公益と融合することが期待できるであろう。その公益の中で、民衆は自身を、私的な性癖と職業上の利権によってではなく、自分の地域社会と地理的地域の欲望によって厳密に導かれた市民と見なすであろう。ここで、市民権がその本領を発揮するであろう。公的な善に関する合理的かつ生態学的解釈は、階級的ヒエラルキー的利権に取って代わるであろう。

これは道徳的地域社会に対する道徳的経済の道徳的基盤なのである。しかし、輪を掛けても重要なことは、潜在的に総べての道徳的地域社会の基盤となる公的社会利益である。人間性が成長可能な種として存在し続けようとするならば、階級・性別・民族・身分の境界を最終的に乗り越えなければならない利益である。この利益は生態学的大災害によって現代に出現した。資本主義の「成長か死か」の至上命令は生態学の至上命令である相互依存と限定性と根本的に反目している。これら二つの至上命令は、お互い共存できないのだ。また、いかなる社会であれ、それらが生存への希望を調停させられうるという神話に基づくことなどできないのである。我々が生態調和社会を確立するか、社会が全ての人をその立場に関わらず破滅させるか、どちらかなのだ。

この生態調和社会は、権威主義的な制度や、全体主義的な「宇宙船」としての潜在的イメージに内在しているヒエラルキー的制度にさえなるだろうか?それとも、民主的なものとなるだろうか?歴史が道標となるものであれば、民主的生態調和社会の発達は、支配的生態調和社会とは異なり、それ自体の論理に従わなければならない。その根源にまで達しない限り、この歴史的ジレンマを解消することなど出来ない。我々の生態系問題とその社会的源泉の鋭い分析なしでは、我々が現在抱えている破滅的制度は中央集権化の増大と更なる生態系の大災害を導くであろう。民主的生態調和社会において、これらの根源は、リバータリアン自治体連合論が推し進めようとしている文字どおり「草の根」なのである。

新しいテクノロジー・新しいエネルギー資源・新しい移動手段・新しい生態調和的生活様式を正当に要求している人々にとって、新しい社会は、国家主権主義ではなく連合に基づいた諸地域社会からなる地域社会と同じようなものになる可能性があるだろうか?我々は、経済が「過剰に地球規模化され」、過剰に中央集権化され、過剰に官僚制度化された世界に住んでいる。地域的に出来ることの多くは、実際にはたやすく消滅させることの出来る見かけ上の複雑さを持って地球規模で−−その大部分が利潤・軍事ニーズ・帝国主義的欲求のために−−既になされているのだ。

このことが我々の時代には余りにも「ユートピア的」であると思われるのなら、エネルギー政策における急進的で広範囲にわたる変革を・空気と水の汚染の包括的減少を・地球温暖化とオゾン層の破壊を終わらせようという国際計画の立案を要求している現代の論文の波も「ユートピア的」だと見なされねばならない。そして、次のことを問うことは道理にかなっているであろう。こうした要求を更にもう一歩先に進め、同様に抜本的で、合州国の−−実際世界中の−−最も貴重な民主的・政治的伝統に深く沈殿している伝統に事実上基づいている制度的・経済的変革を要求することが行き過ぎだというのだろうか?

また、我々はこれらの変革をすぐさま引き起こすことを期待する義務もない。左翼は長い間、変革のための最小限のプログラムと最大限のプログラムについて活動していた。それらのプログラムでは、今すぐに取ることの出来る即時的ステップが、移行的進展と究極的目標を最終的には生み出すことになる中間領域と関連していたのだった。現在取ることの出来る最小限のステップには、隣近所と街の民衆集会を企図した左翼グリーンの自治体連合論運動−−もし、民衆が唯一の道徳的機能を第一義的に持っているのなら−−と、これらの集会とその他の民衆制度の主張を提示する街と都市の代理人を選び出すことが含まれている。 これらの最小限のステップは、連合諸団体の形成と真に民主主義的な諸団体の正当性の増大を一歩一歩導くことが出来る。自治体の事業と土地を買うために資金提供する市民銀行・地域社会が所有する新しく生態学的に方向づけられた事業の促進・多くの努力分野と民衆の福利における草の根ネットワークの創造−−これら全てが政治的生活においてなされる諸変革を適切なペースで発達させることが出来る。

資本がリバータリアン自治体連合論に向けて動いている地域社会と連合から「移住」する可能性があるということは、その政治的生活が急進化されている全ての地域社会・全ての国家が直面する問題である。実際、資本は通常、政治的配慮とは無関係に、それが高い利潤を獲得できる領域へと「移住」するものだ。資本移住の恐怖に圧倒されてしまって、いかなるときでも政治という船を揺り動かすことなどできないということの賛同論が述べられるかもしれない。この点について更に言えることは、自治体的に所有された事業と農場は、新しく生態学的に価値があり健康に良い産物を、現在資本主義が民衆に押し付けている粗悪な商品と食べ物に次第に気づき始めている民衆に提供できるだろう、ということである。

リバータリアン自治体連合論は、方向性と目的の感覚を極度に必要としている運動に対して適切な民衆の想像力を刺激できる政治運動である。この本に載っている論文は、現在の社会秩序を取り除くためだけでなく、徹底的に再構築する−−その残余の民主主義的伝統を合理的な生態調和社会に拡大する−−ための考え・方向・手段を提供している。

付記

この付記が必要に思われるのは、リバータリアン自治体連合論に対する反対者−−そして、残念なことだがその侍者達−−の中に、リバータリアン自治体連合論が確立しようとしていることを誤解している−−実際その正なる性質を誤解している−−人がいるからである。

その道具的侍者達にとっては、リバータリアン自治体連合論は、いわゆる独立運動や、NOW(National Organization for Woman)と労働運動指導者が企図しているような、「草の根政治運動」を主張している新しい第三政党への参加者を得るための戦術的道具となっている。「リバータリアン自治体連合論」という名において、この観点を持っている急進主義の侍者達は、自分達が市民の領域と国家間で培養されねばならない緊張をぼやかす準備をしているのである−−多分、州知事・議会・その他国家要職への選挙キャンペーンで民衆からより多くの注目を得るために。これらの急進主義者達は、残念ながら、リバータリアン自治体連合論を、単なる「戦術」や「戦略」へと歪め、その革命的内容を剥ぎ取ってしまっているのである。

しかし、リバータリアン自治体連合論の主義を、他の改良主義的政党に入党したり、その「左翼」として機能する手段として「戦術的」理由で使おうとしている人々は、リバータリアン自治体連合論の考えを共有してはいない。多くの急進主義者が「弁証法」は自分達の「方法」だと主張しているが、リバータリアン自治体連合論は、今日左翼の「諸分析」と「諸戦略」に深く根差しているフォーマルな論理の産物などではない。新しい市民制度を古いものから創り出す(もしくは、古いものを一挙に取り替えてしまう)ことに、そして市民の連合を創り出すことに向けた闘争は、自己形成的なもの、社会的葛藤の緊張から作り出される創造的原動力なのである。 これらの方針にそって活動することは、目標の一部であると同時に、その困難さ全てを背負った子供から大人への−−比較的未分化なものから十全に分化したものへの−−成熟プロセスでもあるのだ。自治体連合・「所有」の自治体制御・世界規模の自治体連合の実際的達成に向けた正にその戦いは、市民と地域社会の新しい倫理を確立することに向っているのであって、単に、全くの改良主義的葛藤で勝利を治めるためのものではないのだ。

従って、リバータリアン自治体連合論は、単に市議会を「乗っ取って」、もっと「環境にやさしい」都市政府を作り出す活動なのではないのだ。リバータリアン自治体連合論に関するこうした信奉者−−や反対者−−は、結局、自分の目前に現在ある市民構造を見、本質的に(全く逆の美辞麗句全てはおいておくとしても)それらがそこにそのように存在しているものとして理解しているのだ。逆に、リバータリアン自治体連合論は、都市政府を変形させ、民主化し、民衆集会の中にそれらを定着させ、連合の方向に沿ってそれらを一つに編み込み、連合的・自治体的方針に従って地域経済を適正化する活動なのである。

実際、リバータリアン自治体連合論は、単一政体国家と自治体連合間に企図している弁証法的緊張から正確にその生命とその正直さを得ているのである。昔のマルクス主義者の言葉を使えば、その「生命法則」は、国家との闘争の中に正確に存しているのだ。自治体連合と国家との緊張関係は、明白で非妥協的なものとならねばならない。これらの諸連合は主として治国策に反対の立場にいることになるため、諸連合は国家・州・全国的選挙に妥協することなど出来ず、ましてや、これらの手段によって確立されることなど出来はしないのだ。リバータリアン自治体連合論は、国家とのこの闘争によって形成され、この闘争によって強められ、実際、この闘争によって定義されるのだ。国家とのこの弁証法的緊張が奪われると、リバータリアン自治体連合論は「継接ぎだらけの社会主義」と何ら変わらなくなるのである。

資本主義の宇宙的力と(いつの日か)戦う用意のある多くの英雄的同士達は、リバータリアン自治体連合論は余りにも茨が多く・筋違いで・曖昧過ぎて扱いにくいと見なし、基本的に政治的排他主義の一形態であるものを選んでいる。スプレー缶や「反体制カフェ」の急進主義者達は、リバータリアン自治体連合論を「馬鹿げた戦術」として片付けようとするかもしれない。だが、資本主義を「転覆」する(まさか!)ことにわが身を捧げているお人好しの急進主義者が、余りにも難しすぎて、本来の民主主義に基づいた新しい政治運動について自分の近所で政治的に−−そしてそう、選挙で−−うまく機能できないなどとは驚きだ。 もし、彼らが自身の隣近所に対して政治変換運動を提供−−比較的穏当な課題だ−−できないのなら、また、過去におけるもっと成熟した左翼運動を特徴づけるために使われていた誠実さを持って、念入りにそれを行うことに取り組むことができないなら、私は、彼らが現在の社会システムに対して多くの損害を与えることが出来るなどとても信じることは出来ない。実際、文化センター・公園・住みよい住宅を創ることで、彼らが、資本主義の根底にあるヒエラルキー的階級社会としての不自由を少しも減じることなく、資本主義に人間の顔を与えることでシステムを改善しようとしているのも無理はないことだ。

1960年代のSDS(Students for a Democratic Society)以来、海外から国内までのナショナリズムに広がっている「アイデンティティ」を求めた闘争というブーケは、勃興している急進主義運動を粉々にすることが多いものだ。これらのアイデンティティ闘争は現在では良く知られているため、リバータリアン自治体連合論の批判者の中には、それに反対する「世論」に訴えている人もいる。しかし、「世論」−−たとえ、その意見が非常に反動的になることの多い抑圧された側の「世論」でなかったとしても−−に屈服するというのが、いつ革命家の課題だったというのだろうか?真実はそれ自体で生命を持っているのだ−−抑圧された大衆が何が真実かを知覚したり論じたりしているかどうかとは関係ない。 また、世論が本質的に排他主義や人種差別主義さえもの政策へ戻る行進を求めているとき、急進的世論に反対して、真実に訴えることは、「エリート」などではないのだ。近年、これら四つのことに非常に陥ってしまいやすいが、急進主義者として我々の最も重要なニーズは、二本足で立ち−−つまり、出来るだけ十全な人間であること−−、性別・人種・年齢などのためではなく、我々が共有している人間性のために既存社会を変革することなのである。

リバータリアン自治体連合論の批判者は、「公益」の正にその可能性に疑いを抱いてさえいる。こうした批判者にとって、リバータリアン自治体連合論が擁護している顔をつき合わせた民主主義と、民主主義の前提を単なる正義から完全なる自由へと拡大する必要性が、「公益」として不充分だというのであれば、自然の世界との我々の関係を修復する必要性は、確実に、議論を超えた「公益」−−そして、実際、社会生態学が推し進めている「公益」でありつづけている−−なのではないだろうか。現代社会では数多くの不満足な要素が互選されている可能性もあろう。だが、自然は互選できるようなものではないのだ。実際、左翼にとって残されている唯一の政治運動は、社会を民主主義化し、地球を保全することに「公益」があるという前提に基づいているものなのだ。 労働運動のような伝統的力は歴史的シーンから衰退しているため、リバータリアン自治体連合論抜きでは左翼はいかなる政治運動であれなんであれ持たないことになる、と言えるのである。

単一政体国家に対する連合主義の関係という弁証法的観点、つまりアイデンティティ運動の視野の狭さ・内向的性質・偏狭性の理解、労働運動が本質的に死んでしまっているということの認識、これら全ては、新しい政治運動が現在発達してきているのであれば、多くの急進主義者が今日擁護している反体制カフェの「政治運動」とは逆に、それは断固として民衆的なものでなければならないことを物語っているのだ。それは、自治体レベルで選挙を行い・そのヴィジョンについては連合論・その性質として革命的でなければならないのだ。

実際、私の観点では、その強調点を連合論においたリバータリアン自治体連合論は、正確に「コミューン群からなるコミューン」であり、これを目指してアナーキストは過去二世紀にわたって戦ってきたのだ。今日、急進的運動が民衆領域へのドアを開けようとするのなら、これこそが押されねばならない「赤いボタン」なのである。この赤いボタンに触れないままで、「権力」という概念がユートピア的もしくは想像力の持つ性質を奪ってしまった1968年以後の新左翼の最も悪い習慣へとうっかり戻ってしまうことは、合理的未来という希望ではなく、英雄の思い出の上に生きることになる新しいサブカルチャーへと急進主義を還元してしまうことになるのだ。

1991年4月3日;付記は、1991年10月1日