ある小惑星の死−−我々を殺しているのは成長である−−


この文章は元々1989年に書かれ、The Progressiveの八月号(19ページ〜23ページ)に載った。原文は"Death of a Small Planet,"で読むことができる。(訳者)


我々は環境上の大災害−−近年の例では、アラスカ湾における「エクソン=バルディズ号」の石油流出惨事のような−−を、「事故」だと考えてしまうものだ。注意や警告なしに突然生じる孤立現象だと見なしてしまうのである。だが、どの様な場合に事故という言葉が不適切なものとなるのか?どの様な場合に、そうした現象の発生が、偶然ではなく必然となるのか?一貫した必然的災害パターンが、単に環境だけでなく根本的に社会にも深く根差している危機を示しているのは、どの様な場合なのか?

ブッシュ大統領は、バルディズ港への一千万ガロン以上もの原油流出は、酔っぱらった船長の怠慢だと進んで非難していた。しかし、実際は、マスメディアの報道で使われていたようなありきたりの「人間的」要因だとか「技術的」要因よりもずっと強力な、社会状況のせいだったのだ。バルディズ港にあるパイプラインは12年前に作られたもので、それ以来アラスカ湾には少なくとも400回以上の石油流出があったのだ。1987年に、「ステュィヴィサント号」というタンカーはバルディズ港を出た後で、多分悪天候による機械の故障のためだろうが、ほぼ百万ガロンの石油を湾内に流入させてしまった。環境保護組織グリーンピースは、「エクソン=バルディズ号」が座礁する前でさえ、その年だけでアラスカの海に7回の石油流出があった、と記録していた。

数千ガロンから百万ガロン以上に及ぶ石油流出・帰りの航路用の積荷の場所を確保するためにタンカーから定期的に排出される石油は、世界の海面と海岸線の多くを汚染している。ずっと前に起こった石油流出の訴えかけるような傷跡は未だに見られ、新しい事故がその傷跡に加えられ続けている。「エクソン=バルディズ号」座礁の一週間後、ハワイの二つの島の沿岸を「不可思議にも」汚染していたとして広く知られている一万ガロンの原油があった。これは、「バルディズ号」石油流出の約三週間前に「エクソン=ヒューストン号」が別のハワイ海岸部に捨てていた余り知られていない117000ガロンとぴったり符合して余りあるほどだったのだ。

1989年6月23日の一日だけでも、三つの大規模な石油流出−−ロードアイランド州ニューポート沖、デラウェア川、テキサス湾岸−−が、合州国の水の中に総量百万ガロン以上もの石油をばら撒いている。

これらの事件を同じ源を持つ連続体の一部として見ている人は少ない。その原因からその結果までの一連の出来事を辿っていくことは、ばらばらで自己完結的なエピソードの断片からなり立っているテレビの連続コメディ番組やトークショーとして人生を見るように条件づけられている人々には難しい。結果として、我々は、論理的結果や長期的効果を避け、短い場面場面を食べて生きているのだ。我々の諸問題はそれらを諸問題だと認識している限り、体系立ったものではなく、エピソード的なものなのである。シーン溶暗、カメラ移動というわけだ。

だが、現代の危機はテレビチャンネルのスィッチと共に消え去りはしない。それは数十年前に予測できた−−そして予測されていた−−のだ。環境問題の土台となっている社会的諸要因を扱っていた初期の世代の環境保護論者による不吉な予兆・切迫した警告・失敗に終わった努力という全く忘れ去られている歴史がある。多くの場合、彼等は西側大企業の体制派と東側官僚主義の体制派によって押し進められていた生態学的に狂った政策の結果を驚異的なほどの正確さをもって予測していたのだった。

北極圏が石油搾取の場となる以前に既に、石油産業が大洋の石油採掘へと拡大することによる危険について、初期の論争が起こっていた。その論争は、大型船舶が中東の石油を運ぶために使われ始めていた1950年代にまで遡ることができる。石油流出が民衆の目を引くようになる大分前から、環境保護論者達はタンカーの収容能力が大きくなることによる危険についてその恐怖を声にしていたのだ。

こうした巨大船舶を操縦する時の「人間の間違い」の可能性と同じぐらい重大なことは、最も頑丈な船であっても嵐に打ちのめされ、航路を外れ、油断のならない波にもまれて岩礁に乗り上げ、沈没することがあるという良く知られた事実だった。数十年前にパシフィカ=ラジオネットワークで行った講演の中で、私は、石油流出が起こる純粋な確実性はタンカー規模の大きさに従う、と強調した。従って、「エクソン=バルディズ号」の石油流出は、予測不可能な事故などではなく、全く確実なことだったのだ。そして今でも、新たな事故が起こるだろうと誓ってもいいほどなのだ。それは、スリーマイル島やチェルノブイリと同じぐらい予測可能だったのだ。

同じぐらいに予測できていたことは、地球規模の温暖化傾向だった。化石燃料を燃やすことによる二酸化炭素が惑星規模で気温をあげるかもしれないという予測は、19世紀にまで遡ることが出来、それ以来何度も繰り返されて来た。ただ、それは真面目な生態学的警告というよりも大気に関する好奇心であることの方が多かったが。私は1964年に、化石燃料の燃焼から生じる『二酸化炭素の覆い』が『より破壊的な暴風雨パターンを導き、最終的には極地の万年雪を溶かし・海面レベルを上げ・大部分の土地に洪水を引き起すであろう』と書いていた。

地球のオゾン層に対するフロンガスの影響は言うに及ばず、酸性雨の可能性と赤道の熱帯雨林の組織的伐採は、技術的に詳しくは予測されはしなかった。しかし、地球規模の環境破壊というより大きな問題と基本的自然サイクルの崩壊は、1960年代後期には既に急進主義者の政治議題に載っていたのだ。それは、地球の日が主張され、生態系の問題がカン・ビン・ゴミを都市の街路から取り除くことに還元されるずっと前のことだったのだ。

現代のニューエイジ神秘主義で人気がなくなっている類の合理的分析から導き出されない限り、災害の予測は俗悪なものとなる。だが、英国におけるサッチャー主義はハイテクと核テクノロジーへの移行と同義となり得ることが多いということを心に留めておくなら、マーガレット=サッチャーが温室効果に関する公共警告で環境保護指向的「グリーン」のように述べていることが多かったからと言って、我々は大喜びできはしない。

また、ミハイル=ゴルバチョフが、チェルノブイリやそれ以前にあった我々が未だ聞かされていないもっと酷い核の「事故群」の後に、古い「rust-belt」産業とその化石燃料エネルギーを排除することでサッチャーに従う用意があると聞いても特別勇気づけられるほどのものでもない。もし、温室効果に対する解決策が、例えば「クリーンな」原子力とその長期にわたって残存する放射性廃棄物を多く作るといった、より大きな破滅的可能性のある諸問題を創り出すのなら、世界はこの新種の環境保護思考の結果としてますます悪くなっていくであろう。

空気浄化法(Clean Air Act)を改正して高いオゾンレベル・癌を引き起す汚染物質・その他有害物質を減少させようとすることでこの合唱に参加しようというブッシュ大統領の試みは、その賛美とほぼ同量の批判を受けている。ブッシュの計画の効果は、環境が投げかけていることの訴えるほどの大きさを心に留めて置くなら、全く持って大したことはなく、次世紀の最初の十年間までにその効果を充分感じられることはないだろう。この計画が環境保護論者達の怒りを引き起こしたのも肯ける。さらに、ブッシュが自分の計画の実施を産業に任せてしまったため、確実に、公害制御テクノロジーにかかるコストはある程度の割り増しをされて消費者に負担がかかるようになり、計画の多くが中途半端なままで承認されてしまうであろう。

環境保護論者達が強調しなければならないことは、生態危機は、単なる偶然生じた不運の産物などではなく、システムの産物なのだ、ということである。「エクソン=バルディズ号」の惨劇が単なる「事故」として扱われ、チェルノブイリもスリーマイル島もそうだと言うのなら、我々は歴史の中でどれほど多くの社会的危機があったのかということから公衆の注目を逸らしていることになる。我々は単に諸問題を抱えた世界で生きているのではなく、今後も問題を起しかねない世界、内在的に反生態的な社会に生きているのだ。この反生態的社会は政治家の行動や断片的な法律の通過によって癒されはしない。世界は、広範囲にわたる構造変革をすぐさま必要としているのだ。

多分、最も明白なシステム上の問題は、制御不可能な成長であろう。私は「制御されていない」ではなく「制御不可能な」という言葉を意図的に使っている。私が述べている成長とは、数千年もの歴史にわたるこの惑星の人間による植民地化のことではない。むしろ、我々の時代に特有の冷酷な物質的現実性のことなのである。つまり、際限のない経済成長が人間進歩の証しであると考えられていることである。我々はこの概念を過去数世代にわたり全く以って当然のことと見なして来たため、所有それ自体の神聖化と同様、我々の意識の中で不変的に固定してしまっているのだ。

実際、成長とは今日広く行きわたっている市場経済とほとんど同義なのだ。この事実を最も明白に表現しているのは市場における格言、「成長か死か」である。我々は競争世界にいる。そこでは争いが経済生活の法則なのである。利潤は、社会的・私的希望要件なのである。制限や抑制は古語なのである。商品は、経済的諸関係を確立するための伝統的媒介物−−贈り物−−の代用品なのだ。

しかし、我々の環境問題を成長への強迫観念だとして非難するだけでは充分ではない。深く侵食している諸構造からなるシステム−−成長は単なる表面的現われにすぎない−−が我々の社会を創り出しているのだ。これら諸構造は、丁度アドレナリンの流れが恐るべき怪物の制御を越えているように、道徳の制御を越えているのである。その結果、このシステムは自然法則の持つ命令的性質を手にしているのである。

国内外の市場社会(西側に見られる大企業的なものであれ、東側に見られる官僚制度的なものであれ)においては、競争それ自体は成長への欲望を生み出している。成長はライバル企業による吸収の恐れに対抗するそれぞれの企業の防衛手段である。道徳の問題はこの強制的敵対関係では生じて来ない。市場経済が余りにも普及してしまったために、社会それ自体を市場−−大規模ショッピングセンター−−へと換えてしまうのだ。それは人間生活の中の道徳的要素を駆逐し、成長を私的・社会的進歩と同義にしてしまうのである。人格・愛・収入・信念体系は、企業と同様に、成長するかさもなくば死ぬしかないのだ。

この市場社会は、大部分の人々の記憶から別種の世界を忘れさせてしまった。それは、以前にあった、成長に対して制限が課せられ・競争よりも協働に重点がおかれ・人間の連帯性の証として贈り物が尊重されていた世界である。この遠い昔の世界では、マルクスの適切な言葉を使えば、市場は家庭的社会もしくは「自然な」社会にとって単なる付け足し程度のものであり、貿易諸地域は単に前市場世界の「隙間」に存在していたのだった。

今日、どちらかといえば素朴な自由主義的言葉が、我々が呼吸する時の空気と同じぐらいすでに当然のものになっている条件を正当化している。「健全な」成長・「自由」競争・「無骨な」個人主義−−不安定な社会全てがその略奪的な特性を美徳へと変換するために採用している婉曲語法なのだ。ファミリーの長がマフィアの敵対者に銃弾を山のように打ち込まれた後で、ゴッドファーザーのconsigliereが言っている。「これは私的なことじゃなく、ビジネスなんだぜ、ソニー!」つまり、全ての私的価値観は企業の価値観へと還元されているのだ。

成長が行っている人間の歴史上先例のないペースでの生態圏の食い潰しは、急速にその資源の多くが枯渇しそうになっている第一世界において始まっている。それ自体化石燃料を燃焼させた結果である酸性雨による森林破壊は、大規模な熱帯雨林を一掃させている体系的な火災に匹敵して、いや、それ以上のものとなっている。現在我々が学び始めているオゾン層の破壊は、南極大陸だけでなく、ほとんど全てのところで生じている。

現在我々は、無制限の成長は、自然進化による複雑な有機物を、数十億年前に生命が誕生した時の地球の単純な無機物へと、文字通りリサイクルしている、ということを感じている。数世紀かかって出来上がった土壌は砂へと変わりつつある。複雑な生命形態でいっぱいだった豊潤な森林地域は、不毛な月面へと変わり果てている。川・湖・広大な大洋でさえも有害で致命的な下水となりつつあり、放射性核種は、終わりなく永久に増加し続ける一連の有害物質と共に、我々が吸っている空気・飲み水・夕食の食卓にのるほとんど全ての食べものを汚染しているのだ。密閉され・空調が効き・消毒されたオフィスでさえこの毒の氾濫から免れてはいないのだ。

成長は、進化の時計をより原始的で無機化された世界へと押し戻す唯一の最も直接的原因である。そして「成長の制限」を要求することは、環境諸問題の規模を公的領域下に持ち込むことに向けた単なる最初のステップでしかない。成長がその基本的源泉−−成長か死かの市場社会における競争−−にまで辿られない限り、成長を制御するという要求は達しがたいだけでなく、意味のないものとなる。我々は、競争を無傷のままにしながらエゴイズムを阻むことができないのと同様に、市場を無傷のままにしながら成長を阻むことなのできないのだ。

原因と結果に関するこの隠れた世界において、環境保護運動と民衆は分岐点に立っている。成長は「消費主義」の産物なのだろうか?これは、最も社会的に受け入れられ社会的に中立な説明であり、環境悪化を議論する時にいつも出会う説明である。それとも、成長は市場経済における生産の性質のために生じているのだろうか?ある程度まで、どちらもだと我々はいうことができる。しかし、消費者が新しい製品を自発的に要求することなどめったになく、消費が私的熟慮によって純粋に導かれることなどはない、というのが市場経済の全般的現実なのだ。

今日、需要は消費者ではなく生産者、特に民衆の好みを操作するテクニックを使っている広告産業と呼ばれる企業によって創り出されている。例えば、米国の洗濯機と乾燥機は、ほとんど共同で使うように作られており、多くのアパートでは共同で使われている。家庭でそれらが私有され、大部分の時間を動かさずにただ置いてあるだけなのは、巧妙な広告の結果なのである。

典型的「日用」品の風景全体を調査して見ると、個々人や小規模家族による商品の非合理的消費の様々な例を数多く見つけることができるだろう。民衆があえて使用するように前もって作られている「日用」品である。

環境危機に関するもう一つのよくある説明は、人口増加である。

人口の最も多い国々がエネルギー・原料・食物さえもの最大の消費者であるということが示されれば、この論法はもっと押しつけがましいものとなろう。だが、こうした相関関係は悪名高き誤謬なのだ。人口の単なる集中性は、ある国やある地域における人口過剰と同義とされることが多い。こうした論法は、グラフィックス−−例えば、人があふれかえっているニューヨーク市の街路やラッシュアワーの地下鉄の駅の光景のような−−を使って通常冷笑的で、重大な注目を向けられるに価するものではない。

我々は、今でも、この惑星がどれほどの人々を完全な生態破壊を引き起こさずに維持できるのか、を明らかにしなければならない。既存データは結論を出すことができるものとは程遠く、しかも経済的・人種的・社会的傾向に沿って、非常にバイアスがかかっているものだ。人口統計は科学などではない。それは徹頭徹尾悪名高き政治兵器なのだ。その誤用が今世紀にわたり何百万人もの生を破滅的に要求して来ているのだ。

最後に、資本主義の上品な婉曲語法を使えば、「産業社会」が、現代を悩ませている環境病理の単純な説明ともなっている。しかし、幸せな無知が次の事実を覆い隠しているのである。数世紀前に、英国の森林地帯の大部分が、ロビン=フッド伝説の地も含めて、テクノロジー的に単純な冶金学的経済のために木炭を生み出すため、そして、利益を生み出す羊を放牧するために土地を切り開くため、田舎のプロレタリア階級の無作法な斧によって伐採されたのだった。このことがなされたのは産業革命が生じるずっと前のことだったのだ。

テクノロジーは問題を拡大するかもしれないし、その結果を加速させさえするかもしれない。だが、「テクノロジー的想像力」(ジャック=エルールの表現を使えば)があろうとなかろうと、テクノロジーが問題それ自体を生み出すことなど希なのだ。実際、流れ作業のテクニックを使って仕事を合理化することは、明らかに前産業社会まで遡ることができる。例えば、古代エジプトでピラミッドを造った人達は、寺院や霊廟を作るために大規模な機械的人間労働を発達させていたのだった。

成長をその適切な社会文脈から切り離すことは、問題を歪め私化することである。民衆を、自分が余りにも多く消費し、余りにもた易く繁殖しているため、今日の生態危機に私的に責任があると信じ込ませることは、不適切であり不公正である。

この環境危機の私化は、ニューエイジ=カルト達が社会の混乱にではなく私的問題に焦点を当てているように、多くの環境保護運動を全く効果のないものと陥れ、運動が民衆と断絶してしまうぞと脅しているのである。「単純な生活」や戦闘的(militant)リサイクルが、環境上の傾向(casts)に対する主たる解決策だとするのなら、危機は確実に続き激烈になるであろう。

皮肉なことに、多くの平凡な人々とその家族は「単純に」生活することなどできないのだ。「単純な」手作り工芸品の値段の高さと有機的で「リサイクルされた」商品の法外な値段を考えれば、それは強要的な企図なのである。さらに、環境危機の「生産部門」(production end)で「消費部門」(consumption end)に売ることができないもの、それは確実に軍隊に売られるであろう。ジェネラル=エレクトリック社は、その冷蔵庫だけでなく、ガットリング砲からの大きな名声も享受しているのだ。環境問題のこの陰の側面−−軍事生産−−を無視するには、描写を寄せつけないほど愚かな生態学的阿呆さ加減を手に入れることでしかできないのである。

環境に対する民衆の懸念は、成長の諸原因に関するはっきりとした説明なしで、成長を非難することで扱うことなどできはしない。また、民衆の好みを作りだし、民衆の購買力を導く時に競争的生産者達が演じている邪悪な役割を無視しながら、「消費主義」を引用することで真相を論じ尽くすことなどできない。そこに含まれるコストを除いても、大部分の人々は全くもっともなことに「単純に生活」したいなどとは思っていないのだ。彼等は、旅行したり文化に接したりする自分の自由を減らしたくないし、また、人間の人格と感受性を豊かにしてくれることの多い欲望を小さくしたいとも思っていないのだ。

「石器時代に戻れ!」(アース=ファースト!のスローガンである)というある種の「急進的」環境保護論者のスローガンが重要と思えるほどに手に負えないほど、それらはH=G=ウェルズが今世紀初頭に出版した技術家官僚主導的ユートピアと同じぐらい下劣で非人間的なものである。

人が究極的に何を必要としているのかを理解するためには、高いレベルの感受性と思考−−書物・美術・音楽のようなものを消費することで促される属性である−−を必要としているだけで、真に十全な人間である必要などない。この惑星の破壊に挑むだけの充分な数の人々抜きでは、環境保護運動は、現在効果がないのと同じぐらい将来においても表面的なものとなるだろう。

そこで、成長という問題は、我々の消費パターンと機械装置類に対するテクノクラート的情熱(ここで記しておきたいが、仏教は日本では合州国におけるほどテクノクラート的にはなっていない)に関する陳腐さを我々に譲渡するために使われているかもしれないし、生態危機の社会的源泉に明瞭な焦点を当ててくれる基本的諸問題について民衆が考えるように導いてくれるかもしれないのである。

例えば、米国ヴァーモント州において、中途半端な環境保護運動ではなく、州を急進主義化することを求めている左翼グリーンズは挑戦的で有効な方向に沿って、成長の減少という論理を進めている。一年にわたる成長の一時停止の要求と生命維持に必要な欲求に関する公的論議の要求において、彼等は、成長制御によって生じる諸問題に関する鍵となる質問を問うことを可能としたのだった。

いかなる基準で、例えば、何が不必要な成長で何が必要な成長なのかを決定するのだろうか?誰がこの決定を行うのだろうか−−国家機関だろうか、群区代表者会(town meeting)だろうか、群規模の市町村同盟だろうか、都市における隣近所だろうか?

自治体は成長を制限する権限をどの程度持つべきなのだろうか?自治体は土地を買い始めなければならないのだろうか?自治体は大規模産業や商業の利益を市民集会の制御下におかねばならないのだろうか?自治体は、土地開発者とベンチャー資本の投資家に課す生態学的に重要な制限を決定するための法的基準を創るべきなのだろうか?

この一連の疑問は、それぞれが成長を制御するという考えから論理的に導き出されており、重要な結果を得ることができる。

このことで、ヴァーモント州の地域社会にいる人々は自分達の優先順位の本質についてとくと考えさせられたたのだ。成長か、美しい環境か?中央集権的権力か、地域の権限か?地域社会の同盟か、官僚主義的機関か?公共福祉を含めた財産の搾取的使用か、そうした財産の共同体的制御か?

ヴァーモント州の数多くの街は、市民と群区代表者会(town meeting)が成長を止めるように要求していることを無視している−−実際、彼等自身の運命を自分で決定する試みを無視している−−モントピリア市(州都)の州政府の権利に挑戦しているのだ。

真面目で奥深い生態学的思考に制限を課しているニューエイジ環境保護論と慣例的な環境保護論は、環境危機に関係している経済的制度的諸要因を探求している社会生態学に置き換えられつつある。

このより成熟した議論の文脈では、「バルディズ号」の石油流出は、もはやアラスカの問題、公害地理学における「エピソード」として見ることなど出来はしない。むしろ、こうした「事故」を、システム上の諸問題のレベルまで生ぜしめている社会的行為−−その根源は消費主義・テクノロジーの進歩・人口増大にあるのではなく、非合理的な生産システム・成長か死かの経済によるテクノロジーの誤用・貧困と裕福に関する人口統計にある−−として見なされるのである。生態学的混乱は社会的混乱から区別することなどできないのだ。

我々の環境問題の社会的根源は、傾向(casts)それ自体を平凡化しその解決策を妨害しない限り、隠れたままでいることなどできないのである。