スペクタクルから権能へ:草の根民主主義と平和プロセス


この文章は元々1983年に書かれ、THE VERMONT PEACE READERに載った。原文は"From Spectacle to Empowerment: Grass Roots Democracy and the Peace Process"で読むことができる。平和活動家向けの文章であることを念頭において呼んでいただきたい。(訳者)


現代の平和運動は、ワシントンやニューヨークのような都市部で行われ、注意深く画策され、高度に中央集権化された全国行動(national action)に主眼を置くことで、1960年代の反戦運動の失敗を繰り返すだろうか?それとも、郊外の様々な場所や隣近所に−−国家を形成している民衆それ自体に−−浸透させようとし、行動と共に教育を、戦争の危険と共に戦争の原因に関する明確な見解を、脱軍国化した社会と共に調和した社会のヴィジョンを希求した一勢力として米国に根深く広がる本当の大衆運動になろうとしているのだろうか?

この疑問は重要だと私は思う。そして、それに対する我々の答えは、当然、運動が影響を与え「動員する」人々の「量」と共に、運動の質をも決定するだろう。

合州国の人口密集地区における大規模デモや大規模集会は、きらびやかな劇場を目指している。我々の恐怖と我々が懸念している諸問題とを表現することには、連続性のないエピソード的な「成功」や「即時の成果」があるにせよ、単純性・明確で本能的な反応・突発性というアトラクションを持っている。これが、丁度ファーストフードや感覚を麻痺させる刺激のような「アメリカ的やり方」なのだろう。それに参加した後、我々は家に帰り、膨大な数の自分達をテレビで見ることができるのだ。その一方で、運動の名士どもは幅広くメディアにさらされることになり、観衆としての我々を全く大喜びさせてくれるわけだ。だが、ここに重大な危険があるのだ。こうした充分に画策されたスペクタクルは、玉虫色の風船のように、その限定問題が消耗してしまうとすぐに、我々の目の中で破裂してなくなってしまうだろう。運動がその名士によって始められると、体制側の名士によってすぐさまのっとられてしまう。そしてすぐさま、我々は、例えば、現在の国会が要求全体を互選することで核心部分を抜き取られている、核の凍結問題を見るはめになるのだ。丁度、ベトナム戦争に対する単なる反対が、ジョンソン政権開始時には戦争を承認する準備が出来ていた体制側の人物によってた易くのっとられてしまったのと同じである。曲がりなりにも戦争は終わったが、東南アジアは現在でも恐ろしいほどの苦悩を抱えているのだ。そして、宇宙戦争のテクノロジーや我々が20年前には予想だにしていなかった潜在的恐怖は言うに及ばず、ミサイルや中性子爆弾は我々におおいかぶさっている次の「単一争点」問題なのだ。

思うに、80年代の平和運動は、それ自体を「キャンペーン」以上のものと見なし、その支持者達が単に兵器開発のような問題に反対することに心身を捧げる「選挙民」以上のものであることが重要だ。また、それは単なる「民衆動員」とエピソード的で芝居がかった行動にだけ焦点を当ててはならないのだ。その理由の一つは、80年代の平和運動は、ワシントンやニューヨークにある幾つかの政治オフィスではなく、米国の地域社会に深く根差していなければならないからである。ヴァーモント州の群区代表者会(タウン=ミーティング)の核凍結提案プロセスは、それが確立した成果と同じぐらい重要であった。顔をつき合わせた民主的場で会議をしている民衆は、参加している民衆自身に権能を与える豊潤なリバータリアン的方法を使っていた。単に合州国のタカ派や戦争屋の権能を剥奪しようとしているだけではなかったのだ。実際、プロセスはプログラムの一部となったのだった。今日、ペンタゴン・ホワイトハウス・国会議事堂・合州国州会議事堂の権威主義者どもが大統領在任期間を6年間にする・ヴァーモント州に於いては州知事在任期間を4年間にするという計画を使って行政の権限を強めようとしている時に、戦争・植民地主義・軍事プログラムに対する反対は、我々の民主主義制度と実践を維持しようとする試みと有機的に結び付いているのである。

私が二つ目として思っていることは、平和運動は環境運動・フェミニスト運動・少数民族運動、さらに、「防衛」予算と社会的諸予算の経費のための莫大な削減の最も直接の被害者である老齢者・貧困者・失業者による活動と密接に結び付いていることを認識しなければならない、ということである。草の根で、権力分散型で、地域に根差していて、優美ではなくとも根気よく活動することで、我々は、これらの運動・軍事目的で富を使うという気狂いざた・この気狂いざたを防止しようとする我々の手段を破壊するぞと脅している権威主義的支配・戦争それ自体と同じぐらい確実に我々を滅ぼしてしまう可能性のある莫大な環境汚染、これらの繋がりを全てつまびらかにしなければならないのだ。

もし、我々が我々の諸目標が持つこの広いヴィジョンを堅持し、それに一貫性を与えるなら、多くの味方が存在しているのが分かるだろう。それは、調和した自由社会という根本問題を自分自身の利権や出世に対する単なるスポットライトへと変える準備をこし淡々と狙って、あらゆる方面からやってくる名士どもよりも、ずっと重要で、ずっと長続きし、結局はずっと効果的な味方なのである。