急進的都市群と社会革命
ジャネット=ビールとのインタビュー


近代急進主義理論を特徴づけている抽象性と実行プログラム上の空虚性は、左翼の重大な危機を示している。これは、協働的で平等な社会という理想は具体的に作ることができ、したがって、実際の社会的諸関係の中で実現されうる、という信念からの退却を示している。あたかも、多くの急進主義者が−−変革と復員の時代において−−社会を変換する権利と能力をCEOと国家のヘッドに譲渡してしまったかのようである。
ジャネット=ビールの新しい本「The Politics of Social Ecology: Libertarian Municipalism」は、このことに対する反抗である。それは、今日に見合った詳細で、歴史的立場に立った反国家・反資本主義の政治運動と共に、政治的に諦めている人々に挑戦しているのである。
私は、1997年秋に電子メールで、ビールにその新しい著作について質問した。−−チャック=モース(Chuck Morse)
本論文は元々、Perspectives on Anarchist Theory,第二巻第一号(1998年春号)に載った。原文は、"Radical Cities and Social Revolution"で読むことができる。なお、チャック=モースの質問はゴシック体で示してある。


あなたの本は、本質的に実行プログラムに関わるものですね。あなたは、リバータリアン自治体連合論を歴史的文脈に据え、実践上の具体的示唆を提起しています。この本を今作ることが特に重要なのだと思ったのは、どのような政治的状況のためだったのですか?

社会生態学−−マレイ=ブクチンが1950年代以来発展させてきた思想体系−−の政治的次元としてのリバータリアン自治体連合論は、政治的・社会的革命に関するリバータリアン政治運動です。それは、革命運動を構築するための理論と実践双方から成り立っており、その究極の目的は平等で、公正で、自由な社会を確立することです。私の本は、ブクチン自身が別のところで詳述していた考えを単に明確に述べようとしたものなのです。

余りご存知ない読者のために、簡単に説明しておきましょう。リバータリアン自治体連合論は、自主管理型地域社会の政治生活を自治体レベルで創造することを主張しています。村・町・近所・小規模都市のレベルでです。この政治生活は、直接民主主義の諸制度の中に具現化されるでしょう。その制度とは、市民集会や民衆集会、タウンミーティングです。こうした制度が既に存在しているところでは、その民主的潜在性と構造的権力を拡大することができるでしょう。こうした制度が以前存在していたところでは、それらは復活させることができるでしょう。こうした制度が存在したことがないところでは、それらを新しく作り出すことができるでしょう。しかし、これらの制度内で、市民としての民衆は、直接民主主義のプロセスを通じた政策決定に到達することで、自分の地域社会の事柄を自分で−−国家主権主義的エリートに頼るのではなく−−管理できるようになるでしょう。

単一自治体の境界を超越した諸問題を扱うために、一定地方における民主化された自治体群は、連合評議会に代表者を送ることで、連合を形成するでしょう。この連合は、国家にはならないでしょう。何故なら、連合は民衆集会群によって完全に制御されることになるからです。集会が送る代表者は、自分の集会がなした決定を提出するという権限だけしか持たないことになるでしょう。代表者は委任され、たやすく解雇できるでしょう。

リバータリアン自治体連合運動が成長し、より多くの自治体群が民主化され、上記のように連合して行くにしたがって、連合は、望むらくは、それ自体で二重権力となるほど充分強力になるでしょう。最終的に、単一政体国家に対抗して戦うことができるような二重権力です。この時点で、対決が継続するかもしれないし、単一政体国家の権力を「くり抜きながら」、市民が自分の生活を充分に制御できるようにした新しいシステムへ逃れるかもしれません。同時に、自治体群は、収用者から収用しながら、民間企業から経済生活の制御力を取り上げるでしょう。そして、合理的で、リバータリアン的で、生態調和的社会が形成されることになるでしょう。そこでは、構造的権力は、能動的で活動的な市民が住んでいる直接民主的集会に存することになるでしょう。

私の本は、こうした直接民主主義を作り出すために運動を作り出すことができるような具体的ステップを設計しています。それはコミットした個々人から成る経験や知識を持ったグループの重要な役割を強調しており、そのグループは研究グループと地域の自治体選挙キャンペーンを通じて、自分の地域社会でこれらの考えを広めることで運動を構築するのです。この本は長いこと必要だとされていたもので、私は私達が左翼グリーンネットワーク(1)で活動していたときにこの本を出版していなかったことを本当に残念に思っています。どれほどこの本が必要とされていたのかは、その出版から数週間のうちに、世界の他の地域にいる同志がこの本を欧州の五ヶ国語に翻訳したいと言ってきて、さらに、別な人達の間で論争がなされていることでも分かるでしょう。

あなたは、リバータリアン自治体連合論をアナーキストの伝統に置き、アナーキズムの反国家主権主義的・反資本主義的目標を受け入れています。しかし、自治体と国家の間の(労働と資本の葛藤に反対しながら)葛藤に対するあなたの強調点は、アナーキストの伝統における幾つかの優勢な傾向から離脱していますね。この離脱は何故重要なのでしょうか?

その前に、ブクチンはリバータリアン自治体連合論を労働と資本の葛藤に敵対させてはいない、ということをはっきりさせておきましょう。むしろ、彼は、階級闘争を、自治体−国家闘争へと結び付けることで、拡大しようとしているのです。階級を超越した諸問題−−特に、ヒエラルキー的優越支配と生態系混乱−−を階級闘争の公式の中に導入し、階級闘争に自主管理型市民政治文化に基づいた直接民主主義的基盤を与えようとしているのです。リバータリアン自治体連合論は、階級闘争を産業の問題と同時に市民の問題にする活動なのです。実際、これはそれほど珍しいことではありません。結局、革命的階級闘争は歴史的に自治体群に基づいていたのです。1848年と1870年から71年のパリの蜂起は、隣近所に築いたバリケードの周囲で戦っていました。1917年の赤のペトログラードでも1936年から1937年のバルセロナでも、強力な隣近所の市民文化が、その尊敬すべき革命の重要な土俵だったのです。

アナーキストの伝統の中でも、自治体−国家の闘争は、少なくとも、連邦制に関するプルードンの1863年の本にまで遡ることができ、その中でプルードンは、自治コミューンの連合を要求していました。バクーニンはこの要求を吸収し、1860年代後期に書いたプログラムの中核に据えたのです。これらの同時期に、共同体連合論の考えは、フランスにおけるナポレオン三世による中央集権支配の反対者の間に広がっていきました。そして、1871年に、プロシアがフランスを撃破し、フランス政府が崩壊し、パリコミューンが第二帝政崩壊の上に出現したときに、共同体連合論の考えは既にパリコミューンを吹き込む立場にいたのです。たった数週間の経験の後に、コミューンは惨澹たる結末を向かえましたが、多くの急進主義者−−反国家主権主義者だけでなく、一時的にはマルクスも−−は、コミューンの大胆な例によって刺激され、自治コミューン群の連合を、自由で自主管理型の社会を模範的な政治構造として見なしたのでした。1870年代後半に、この思想はジュラ連合のプログラムに手渡され、そのプログラムは、共同体の連合を革命後の社会に絶対に必要なものとして見なしたのです。

リバータリアン自治体連合論は、1789年のフランス革命にまで遡ることができる革命の歴史にその具体的な伝統を持っているだけでなく、アナーキズムとマルクス主義双方の理論形態における歴史的な共同体連合論をも身につけています。そして同時に、歴史的な共同体連合論を更に前進させているのです。初期の共同体連合論が、共同体を、単に「公共サービス」を提供する、機能的には主として行政的なものと見なし、労働者協会(その連合はコミューン連合のそれと類似しているのでしょう)に実際の意思決定の権限を与えていたのですが、リバータリアン自治体連合論は、経済を制御する直接民主政体としてコミューンを描いています。そして、アナーキスト共同体連合論者が、国家が何らかの手段で崩壊した後に、民衆がコミューンを自発的に作り出すだろうと考えていた一方で、リバータリアン自治体連合論は革命的移行段階を提供します。そこでは、コミューン群の連合が単一政体国家に対する二重権力になるだろう、としているのです。

私が言いたいことは、リバータリアン自治体連合論は共同体連合論の発展形であり、その共同体連合論の伝統は、アナーキストの伝統と何ら異なるものではない−−実際、それが創られた当初から存在していた−−ということなのです。

アナーキストが社会主義の伝統において自身を他のものと区別してきた一つのやり方は、一般的革命戦略として対抗制度と同時に、対抗文化の重要性も強調することです。あなたの観点では、それらの活動と、あなたの本で書かれている急進主義的で直接民主的な政治制度との関係はどのようなものなのですか?

近年、余りにも多くの注目が、制度変革を犠牲にして、文化的変革に向けられているということは、アナーキズムと左翼一般にとって非常に有害なことです。それは完全に政治運動の影を薄くしているほどです。だからと言って、文化的活動には政治的意味がないと言っているのではなく、文化的作業それ自体だけで立脚することはできないという意味です−−それは、もっと大きな政治運動の一部とならねばならないのです。芸術と文化と自己表現は、それ自体では、既存社会秩序に何の脅威も与えません。何故なら、それ自体、互選的になりやすく、市場で売買されやすいからです。実際、急進的芸術作品が表現している疎外と異議とは、「危険な香のする」ヒップな興奮を持ったものとして、なおさら市場性を持つようにされることがあるのです。

ヒエラルキー的優越支配だけでなく、商品化それ自体−−結局は資本主義−−にも反対する政治運動抜きでは、芸術もたやすく単なる新たな商品になりやすいのです。1960年代の対抗文化が、数多くの市場取引の可能性全てと共に、ノスタルジー商品とニューエイジ=スピリチュアリティへ堕落し、ヒップな広告がその感受性の多くを互選しているのは有名なことです(最近出版されたアンソロジー「自分の異議を商品にせよ」を見れば分かります)。例えば、ビートルズの「レボリューション」は今ではスニーカーを売るために使われ、私が住んでいる地域の自転車屋では、アナーキーというブランドのサングラスを売っています。アナーキズムの中で、文化と自己表現とライフスタイルが強調されている−−革命的政治運動(地域社会の自主管理という意味での)を犠牲にして−−ことが余りにも激しすぎたため、感受性だけでなく、社会的・政治的制度のレベルで社会を変換するという社会主義的至上命令の中核をアナーキズムに保持しつづけさせようとして、社会生態学徒は自分をアナーキズムとは区別しなければならなかったのです。

あなたは、自由社会を創り出すために、私達が政治領域を民主化し、拡大しなければならないと論じていますね。私的領域−−例えば家父長制度と白人優位主義−−に追いやられることの多いヒエラルキーに対する闘争は、この活動の中でどのような役割を果たすのでしょうか?

政治的・社会的革命が進む中で、人々の人格が変わっていくことは疑いもありません。特に、民衆が共闘の連帯性を経験し、自身の特殊な関心事ではなく共通の理想のために戦い、自分に社会的に権能を与えるときに、そうなるでしょう。こうした経験をしているとき、私達は人種差別主義と性差別主義が減少していくのを経験することができるでしょう。しかし、心的傾向や社会的協定の中でそれらが継続する限り、地域社会の成員−−政治領域、つまり民主的市民集会で−−は、いかなるものであれ自分達が適切だと見なす方法を使って、それらをどのように処理するのかについて意思決定をするでしょう。

地域社会が人種差別主義的で性差別主義的な政策を決定するかもしれないという危険はありますが、その全成員の潜在的可能性の達成に基づいている社会にとって、数名の潜在的可能性を抑圧することは非合理的なこととなるでしょう。リバータリアン自治体連合論がその政治的次元となっている社会生態学の根本の一つは、全種類の社会的ヒエラルキーと階級支配を非難し、その解消を求めることなのです。

潜在的可能性という考えはあなたの本を通じて現れていますね。あなたは、「自治体の政治的潜在性」を、合理的社会に向けた私達「人間に特有の潜在的可能性」だと述べています。この潜在的可能性という概念についてもう少し説明してもらえますか?

この質問は、社会生態学の哲学的次元、弁証法的自然主義、に触れていますね。この話題は余りにも複雑すぎてここで徹底的に探求することはできません。むしろ、関心のある読者はブクチンの「Philosophy of Social Ecology」(第二版の改訂版)を参照してください。ここでは簡単に、発達哲学(分析哲学とは対立する)として、弁証法的自然主義は、自然進化と社会的歴史双方の中で開花しているプロセスに、特に、どれほど遠回しで、回りくどく、時として失敗することがあったとしても、より大きな自由・自己意識・内省能力に向かっているプロセスに焦点を当てているとだけ述べておきましょう。

発達哲学として、弁証法的自然主義は発達プロセスを反映した語彙を使います。潜在的可能性・出現・開花・成長・実現です。分析哲学は固定性を前提としていますが、弁証法的哲学は運動を前提としています。単なる運動ではなく、弁証法的運動を前提としているのです。

ある状況の潜在的可能性に焦点を当てることで、弁証法的合理性は、いかなる種類の未来が論理的にその状況から出現しうるのかを検証できるようにしてくれます。したがって、今日存在している自治体は、民主的になり、合理的社会の一部になる可能性を含んでいるのです。リバータリアン自治体連合社会の達成はこの潜在的可能性の達成もしくは実現を明示することになるでしょう。

あなたは、民衆に資本主義と国家を転覆し、理性・連帯・市民権のエトスによって鼓舞された自由社会を創造するように主張していますね。しかし、資本主義による社会生活の植民地化・地域社会に対する暴行・政治領域の崩壊に関するあなたの考察は、私達が以前ならば代替社会を構築する能力を引きだすことができた源泉が崩壊していることを示しているように思えます。こうした条件下で、私達は自由社会を創り出すために必要な力と洞察をどこから見つけ出すことができるのでしょうか?

今日の即席満足社会は、私達の生活の目的は、資本主義の枠組み内で自分の私的幸福を最大にすることだ、というメッセージを絶え間なく私達に与えています。この社会は、即時的な私的欲望をより大きな目標の追求に従わせるためのいかなる文化的サポートも与えていません。より良い世界を広く心に描くことから、現実的な生存とモノとサービスの消費に耽溺することへと、私達の想像力をしなびさせているのです。初期の諸世紀ならば私達のより良い性質と呼んでいたことを私達から系統的にはぎ取っているのです。

この社会秩序は、私達を商品化し、搾取しているだけでなく、私達の歴史的記憶をも曖昧にし、その結果私達を麻痺させてもいるのです。この社会秩序は、数世紀にわたり民衆が、自身が生きている間には実を結ばなかった社会変換の活動に参加していたことを忘れさせようとしています。当時の民衆は即時的な満足を必要としていなかっただけでなく、それを期待してもおらず、より良い社会の創造に役立つと知りつつ、追放と刑罰の危険を喜んで受けていたのです。

したがって、私達は願望の即時的満足は、私達が戦っているシステムの一部なのだということを認識しなければなりません。私達は、歴史的記憶を保持し、社会的健忘症に抵抗しなければなりません。私達は、ある程度まで、エスプレッソ=マシーンを台所のカウンターに置く大義名分以前に、より良い社会を作り出す大義名分を置くつもりでいなければならないのです。

もし私達が自分の理想を主張し、維持する力を見付けていないのなら、その人生も意味がなくなり、私達は凡庸化してしまうでしょう。私達は、ウィリアム=ジェームズが述べていたように、「(私達が)そこから一時的に目を覚ましていた非存在の惰眠に逆戻りする」でしょう。

だから私達は、私達同様に、人間の尊厳を是認したいと思っている人達、現代社会が直面している最悪の問題はエルニーニョや無能な乳母ではなく社会秩序そのものだと理解している人達を探さねばなりません。私達がその社会秩序と戦うのは、人間性とその最良の熱望が減少することに耐えられないからなのです。

マルクスは、本質的に、共産主義は資本主義の内部矛盾の成熟から生じるだろう、と論じていました。あなたは、リバータリアン自治体連合社会の創造を、意思の作用だと見なしていますか、それとも、より大きな歴史的プロセスの絶頂だと見なしているのですか?

どちらもです。私達の社会が危機に向かっていることは疑いもありません。唯一の疑問は、その直接の原因が社会的なものか、生態学的なものかということでしょう。マルクスが「資本論」の中で指摘していたように、資本主義的事業は、その利潤を最大のものにし、その結果資本を拡大するかもしれませんし、そうでなければ、その競争相手に屈服し、消えうせてしまうかもしれません−−つまり、成長か死かなのです。ブクチンは、この至上命令が資本主義を自然の世界との衝突の方向へと推し進めていると付け加えました。地球温暖化が次の世紀に莫大な破壊を引き起こす構えでいるときにさえ、金持ちと貧乏人の格差が拡大しているのです。地球規模でその利潤を最大にするために、資本主義は、民衆を分けている全カテゴリーを−−幾つかの概算によれば、世界人口の約五分の三−−無用なものとしているのです。

マルクスの「貧困化(immiseration)」というテーマは別な観点で見たほうが良いと私は考えています。マルクスは、資本主義の論理は賃金をできるだけ最低レベルに落しめることだと論じていました。民衆が貧乏になると、民衆は自分を搾取しているブルジョアに対して反乱を起こさざるを得なくなるだろうと論じていました。この予言は達成されませんでした。その理由の一端は、資本主義の影響力をある程度和らげている福祉条件が創り出されたからです。現在、社会平和が依存するようになっている社会福祉の恩恵の多くが削減されているため、貧困化が社会革命を導くだろうという予言はようやく正しいものになるかもしれません。危機の原因がいかなるものであれ、それは確かに発達しており、その社会的結果は必ずしも合理的で生態調和的なリバータリアン社会になるとは限らないでしょう。その結果は独裁国家かもしれないし、混乱かもしれません。この危機が解放を生み出すのであれば、少なくともある程度の解放的代替社会の意識がその前にあるべき場所に据えられていなければならないでしょう。

これが主意主義が入ってくるところです。前革命的期間は、普通非常に短いものです。私達は、解放運動に必要となる教育という骨の折れる分子的な作業を行うために多くの時間を持っていないものでしょう。しかし、これこそが、私達が現在行わなければならない類の作業なのです。特に、リバータリアン自治体連合運動を構築し、どのようにして民衆がその政治的・経済的生活を自身の手中に収めることができるかを示し、どのようにして民衆が人間性を再生することができるような社会を構築できるのかを民衆に示すことです。これは終わりのない忍耐心が必要ですが、行わなければならないことなのです。そうでなければ、今やってきている危機は暴虐を生み出すことでしょう。

最近の急進主義理論家で、大学に身を置いていない人を見付けることはたやすいことではありません。あなたはその例外であり、意識的に学問世界の外にい続けようとしていますね。何故なのですか?

ある晩、私はバクーニンの一節に偶然出会いました。そこで、彼は全ての学会(アカデミー)の歴史について次のように語っています。「科学上のもっとも偉大な天才でも、ひとたびアカデミーの会員となり、天下公認の官許的学者になるやいなや、不可避的に堕落して眠り込んでしまうものである。彼は、その自発性と革新的な剛直さを失い、また、常に老衰した世界を破壊して新世界の基礎を築くべき使命を持った大天才の性格的特徴である、あの厄介千万で凶暴なエネルギーをも消耗してしまう。疑いもなく、彼は思考力で失ったものを、今や礼儀作法において、また功利的、実用的な世間知の中で償うのだ。要するに、彼は腐敗堕落するのである。」(2)この一節は余りにも粗雑だと私は思います。政治的スペクトルのあらゆる場所からやってくる多くの学者達は、書物・署名入り寄稿欄の原稿・民衆読者層に対する論文を書くことで、確かに公的政治文化に参加しようとしています。そして、学問世界にいる急進主義歴史家が革命運動と社会主義−アナーキスト思想について行っている研究は、確かにそれらの伝統を構築しようとしている人達にとって貴重なものなのです

しかし、大学教授が、革命運動を直接提起する著作、革命活動家と知識人を教育し、刺激するような著作を書くことは難しいのです。大学において、その人が行っている著述の大部分は、その人の出世を確実にする、特に学識を示すことで、手助けとならねばならないのです。運動構築活動について著述することは、その出世を妨げる可能性があります。したがって、学者達は、一般的民衆よりも、明らかに革命的民衆よりはるかに、学者同士で対話し合う傾向があるのです。この国では、民衆生活から学問世界へ左翼が大規模に脱出してしまったために、疑いもなく急進的政治文化が堕落してきたのです。

今後の活動について教えてください。新しいプロジェクトを計画したり、新しい問題を探求しようとしたりしているのですか?

私が編集した「The Murray Bookchin Reader」が、今米国で手に入れることができるようになっているということをお知らせできてうれしく思っています。今、私はブクチンの最近のインタビューとエッセイをまとめる手伝いをしており、それは、「Anarchism, Marxism, and the Future of the Left」という題になるでしょう(来年A.K.Pressで出版されるでしょう(訳注:A.K.Pressから現在出版されている))。

読者の中には、1998年8月にポルトガルで開かれるリバータリアン自治体連合論の国際大会について知りたいと思っている人もいるかもしれません。この大会の目的は、この本とブクチン自身の著作で定義されているリバータリアン自治体連合論の考えについて議論し、それを前進させることです。リバータリアン自治体連合論を前進させることに興味のある方は、P.O. Box 111, Burlington, VT 05401 USAの大会オーガナイザーか、blakrose@web.netか、bookchin@igc.apc.orgにコンタクトを取ってみてください。


脚注:

(1)ジャネット=ビールとチャック=モースは、1990年から1991年まで左翼グリーン=ネットワーク情報センターの共同コーディネーターだった。

(2)Sam Dolgoff, ed., on Anarchy (New York, Alfred Knopf, 1972), p. 228.(日本語訳は、猪木正道・勝田吉太郎 共編、「世界の名著53、プルードン・バクーニン・クロポトキン」、中央公論社、1980年、p.309-310より)