略   歴


  「日本アナキズム運動人名事典」(ぱる出版)  第1版 2004.4.20 より

 

石川啄木 いしかわ・たくぼく 1886.2.20-1912.4.13

本名・一。 岩手県南岩手郡に生まれる。翌年同郡渋民村に転住。盛岡中学入学後、金田一京助、野村胡堂を知る。02年盛岡中学中退。 上京し新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪ねるが、翌年病を得て帰郷。 04年明星派の新進浪漫詩人として再度上京、05年5月処女詩集「あこがれ」(小田島書房)を刊行。再び盛岡に戻り、渋民に母と妻と間借り生活、小学校代用教員となるが一家困窮。 教員として高等科の生徒と校長排斥のストを決行、革命歌などを歌わせる騒ぎが大きくなりすぎて、石もて追われる如く故郷を出る。 函館に新天地を開こうと渡道、再び代用教員となる。その後札幌、小樽、釧路に地方新聞記者生活。08年創作に入る決意をして上京。金田一と同宿、友情に助けられつつ東京朝日新聞社に校正係として入社。 この頃幸徳秋水の発禁本「平民主義」や在米の岩佐作太郎らが刊行、ひそかに日本に送ったクロポトキン「青年に訴ふ」(大杉栄訳)などを手に入れる。10年大逆事件に衝撃を受け、友人平出修弁護士を通じて幸徳の獄中からの陳弁書などを読む。 以来「時代閉塞の現状」「日本無政府主義者陰謀事件及び附帯現象」「墓碑銘」などを書き、「逆徒」への共感をひそかに示す。生活上、思想上の煩悶から多くの短歌を作るとともに、朝日歌壇の選者となる。 同年12月処女歌集「一握の砂」(東雲堂書店1913)を刊行、歌人啄木として知られるようになる。社会主義への接近の歌、詩、日記、評論を書くが、12年貧窮のなかに病没。 「近代思想」(1巻10号1913.7)は「啄木遺稿」(東雲堂書店1913)から「果てしなき議論の後」など短歌3首を転載し、荒畑寒村が同書と「啄木歌集」を取り上げ、啄木がもし生きていたら文学に満足せず、われわれのところへ来るか、単独でか「真の革命運動を起こしたらう」と評している。(内藤健治・大澤正道)

 

大杉栄 おおすぎ・さかえ 1885.1.17-1923.9.16

香川県那珂郡丸亀町に生まれる。本籍地は愛知県海東郡越治村宇治、戸籍上の出生日は5月17日。父東は陸軍士官。四男五女の長男で、生後まもなく父の転任で東京へ。さらに89年末事実上の故郷といえる新潟県北蒲原郡新発田本村へ移り、「士官の子」として腕白少年時代を過ごす。吃りだった。 99年名古屋幼年学校に入ったが厳格な軍律に反抗、01年に退校処分に。翌年上京し、東京外国語学校仏語科に入学するが、初めキリスト教に、次いで社会主義に共鳴、04年3月平民社を訪れる。金ボタンの制服で、髪を油で固めたハイカラさんだったらしく、「大ハイ」と呼ばれた。 持ち前の行動力とと語学力を発揮してたちまち頭角を現し、直接行動派の青年行動隊長格となり、入出獄を繰り返す。06年創立されたばかりの日本エスペラント協会に入り、エスペラントを教える。同年堀保子と結婚。 08年赤旗事件で重禁錮2年6カ月の極刑に。「僕は監獄でできあがった人間」とは大杉の言葉だが、事実千葉監獄で「主義の奴隷から自立へ」の第一の転換を果たす。 12年荒畑寒村と「近代思想」を創刊。同誌は「社会主義運動の復活を告げるラッパ」(近藤憲二)であるとともに、翻訳主流の明治社会主義から自立する大正社会主義への脱皮をめざす試みでもあった。 13年からサンジカリズム研究会(のち平民講演会を経て渡辺政太郎の研究会に合流)を始め、新世代の活動家の結集につとめる。14年「近代思想」廃刊して「平民新聞」発刊に踏み切るが、発禁のつるべ撃ち。 この頃伊藤野枝を知り、神近市子を加えた多角恋愛に発展、16年神近に首を刺される。この事件はジャーナリズムの好餌となり、同志の多くは離反するが、転んでもただでは起きない大杉は惨憺たる恋愛体験を生き抜くことで、「書物から事実へ」の第二の転換を遂げる。この「どん底時代」をともにしのいだ伊藤、久板卯之助、和田久太郎らと発行した「文明批評」「労働新聞」(1918)に続き、19年19年「労働者の解放は労働者自身で」を合言葉に第1次「労働運動」を創刊し、「日本のあらゆる方面の労働運動の理論と実践との忠実な紹介」に力を注ぐ。渡辺の没後、彼の号をとって成立した北風会(1918)はさながら労働運動の闘士養成所の観を呈し、大杉若い同志とともに「演説会もらい」に東奔西走、労働運動の戦闘化をアピールする。20年上海へ密航し、コミンテルン主催の極東社会主義者会議に出席。堺利彦、山川均が内乱罪を恐れて出席を拒んだため、アナキストの大杉にお鉢が回ってきたといわれる。「ひも付きの金なら一文もいらない」とコミンテルン代表に啖呵を切っあたり、自立をめざす大杉の面目躍如たるものがある。帰国後21年、近藤栄蔵、高津正道の二人のボルシェヴィキを同人に加え、第2次「労働運動」を創刊。村木源次郎らアナキストの反対を押し切ってあえてアナ・ボル協同に踏み切った大杉の真意は「日本革命近し」の認識にあった。大杉は革命家であるがゆえにアナキストなのであって、その逆むではない。大杉は「社会的理想論」という論文で、レディメイドではなく、白紙に一字一字自分で書き込んでいく「観念や理想」でなければ本物にはなりえないと白紙主義を提唱しているが、アナ・ボル協同はこの白紙主義の実践だったといえよう。だがホヘルの党派主義の前に大杉の理想は潰え、アナ・ボル論争が始まる。第3次「労働運動」(1921)以降、大杉はアナの旗頭として論陣を張る一方、全国主要労働組合の大同団結をめざす総連合運動を積極的に支援する。自主自治を主張する自由連合派の理論的支柱となった「労働運動の理想的現実主義」は、前衛党による大衆指導を強調する山川の「無産階級運動の方向転換」に対比される論文だが、ここでも白紙主義が貫徹されている。  ベルノンで開催予定の国際アナキスト大会出席のため、22年末日本を脱出。ロシア革命、特にマフノ運動をその目で確かめるのが主目的だったが、大会は延期となり、パリ郊外のメーデー集会で一席ぶって逮捕、国外追放となる。帰国した大杉は「凱旋将軍」のように書き立てられた。この頃大杉はジャーナリズムの売れっ子で、「無政府主義成金」と自嘲している。一男四女をもうけ、すでに高尾平兵衛に「老いたり矣−大杉君」とかみつかれる一面もあった。アナキスト同盟の結成を画策中、関東大震災に遭遇し、伊藤と甥の橘宗一もろとも麹町の東京憲兵隊に拘引、絞殺された。23年12月16日谷中斎場で3人の葬儀が営まれ、参会者は700人を超え、さらに和田、村木らの弔い合戦が相次いだ。73年9月16日3人の眠る静岡市沓谷霊園で「虐殺50周年墓前祭」が催され、以来毎年墓前祭が行われた。(大澤正道)

   

久津見蕨村 くつみ・けっそん 1860.1.14-1925.8.7

本名・息忠、別名暮村隠士、謐鶏学人。  江戸神田裏猿楽町生まれ。旗本直参の長男にとして生まれるが、明治維新で生家は没落。独学自修で19歳の時に代言人開業試験に合格する。82年東洋新報社に翻訳・論説記者として入社、新聞記者生活が始まる。また「教育時論」に教育論、を展開。97年万朝報社に入社、幸徳秋水、堺利彦らと出会う。以後、長野日日新聞、函館毎日新聞、長崎新報の主筆となり各地に遊ぶ。06年「無政府主義」を平民書房から刊行、発禁になる。その付録「社会主義と個人主義」の中で「今の純粋なる社会主義者、我国に於ては平民社諸子の如き其一なり。而して個人的無政府主義に於ては欧州には既に其人あり、・・・我国にては未だ一人の之あるをみず、・・・此点より見れば余は方に日本唯一の無政府主義者なるべし」と宣言する。蕨村はシュティルナーの個人的無政府主義を継承するものとしてニーチェの超人の思想を高く評価し本書で紹介している。労作「ニイチェ」の端緒はこのあたりにあるのかもしれない。大逆事件後ベストセラーとなった煙山専太郎の「近世無政府主義」は露国虚無党の過激な運動を中心に据えた批判の書であるが、蕨村の「無政府主義」はその根幹の思想を好意的に描き出している。09年東京毎日新聞社の主筆を最後に記者生活から離れ、読書と研究のかたわら雑誌、新聞などに文章を発表する。12年創刊の「近代思想」に「ニイチェと社会主義」(1巻6号1913.3)、「近代思想社小集」(1巻10号1913.7)、「三忘の覚悟」(2巻11.12号1914.9)の3編を寄稿する。死後に刊行された「久津見蕨村集」は1060頁の大冊である。伏字は「無政府主義」「人生の妙味」の2冊の発禁本を収録する苦労を物語っている。社会主義者と不即不離の関係を保ちながら孤高を生きた蕨村の存在は今はほとんど忘れられている。個人的無政府主義の先駆者として再評価が待たれる。(大月健)

   

幸徳秋水 こうとく・しゅうすい 1871.9.23-1911.1.24

本名・伝次郎。 高知県幡多郡中村生まれ。土佐自由民権運動の影響を少年期に受け、88年中江兆民の書生、98年「万朝報」の記者となり、社会主義者のジャーナリストとして活躍。01年12月田中正造のために足尾鉱毒事件の直訴文を起草。03年10月日露非戦論を主張し、堺利彦、内村鑑三とともに万朝報社を退社。11月堺と週刊「平民新聞」を発行、石川三四郎、西川光二郎、木下尚江らも参加。04年11月1周年号に堺と共訳で「共産党宣言」を掲載、即日発禁。05年2月石川の筆禍で禁錮5ケ月の刑で巣鴨監獄に入獄。獄中でクロポトキンの著作に傾倒。05年12月から半年間渡米し、サンフランシスコ、オークランドに滞在。アナキストや日本人社会主義者と交流。竹内鉄五郎、岩佐作太郎、小成田恒郎らと社会革命党を結成。大地震も経験し現実の相互扶助を知る。日本社会党主催の演説会で「世界革命運動の潮流」と題し、「労働者の革命は労働者自ら行う」「総同盟罷工」を提唱し、直接行動時代へ向け同志に訴えたのは、サンフランシスコから戻った直後の06年6月であった。07年1月日刊「平民新聞」を発刊。2月5日号に「余が思想の変化」を発表。「労働者階級の欲するところは、政権の略取ではなくて、麺麭の略取である」と直接行動派の宣言を行い、初期の社会主義運動の中にアナキズムの立場を確立させた。同月第2回社会党大会で直接行動派が党内の主流となるが、西園寺内閣は「平民新聞」の発禁、社会党の結社禁止と弾圧を強化。しかし幸徳は非戦論集「平民主義」を刊行、即日発禁、のちに石川啄木は「国禁の書」と呼ぶ。5月にはドイツのアナキスト、ローレルの「社会的総同盟罷工論」の翻訳を完成(翌08年森岡永治、戸恒保三、守田有秋、神川松子が秘密出版)。07年幸徳は社会主義夏季講演会でも人気を得、新村忠雄らが集まり、中国人留学生も参加する。アナキズムの傾向であった張継、劉光漢、何震、章炳麟はインドの革命家とともに反帝国主義。民族独立をめざす亜和州親会を呼びかけ、幸徳、大杉栄、山川均も関係、朝鮮や安南の革命家も参加。同年7月幸徳は堺ら社会主義者有志と日本帝国主義による朝鮮への植民地的支配強化に対する抗議文を発表。翌08年幸徳は「東洋諸国の革命党にして、その眼中国家の別なく、ただちに世界主義・社会主義の旗幟の下に、大連合を形成する」(高知新聞1月1日)と論じるように、国際主義の立場であった。それは20年代に大杉に引継がれ、28年には朝鮮人アナキストが中心となり台湾、フィリピン、インド、安南、日本(赤川啓来ら)のアナキストも参加した東方無政府主義連盟の結成につながる。幸徳の著書や翻訳書は中国や朝鮮の社会主義者にも読まれ、重訳され運動に影響を与えた。連盟員の朝鮮人アナキストであり歴史学者、申 浩は幸徳の著作に影響を受けアナキストになったと法廷で宣言している。07年10月幸徳は病気で中村に帰郷、クロポトキンが無政府共産主義の社会を著した「麺麭の略取」の翻訳を進める。東京では屋上演説会事件、赤旗事件と弾圧が続くが、地方では上毛同志会が続けて開かれるなど「平民の中へ」という幸徳の主張が実践された。幸徳は08年7月翻訳を完成、大石誠之助、内山愚童ら各地の同志を訪ねながら8月に来京、赤旗事件の公判を傍聴、豊多摩郡淀橋町柏木に住み平民社とする。坂本清馬が住み込み、森近運平も合流、管野すが、戸恒、新美夘一郎、守田らも出入りする。9月平民社を巣鴨に移転。11月大石が訪れ、堀保子、神川、榎米吉、竹内善朔、神崎順一らの同志が集まる。12月中旬には「麺麭の略取」を秘密出版。翌09年1月末には配布を終える。2月新村が初めて平民社に住み込み、2月13日宮下太吉が初めて平民社を訪ねて来る。3月平民社を千駄ヶ谷へ移転、管野との同居が始まり、近在の奥宮建之が訪れるようになる。同月妻師岡千代子と別れる。幸徳は制度としての家や結婚に関して、封建的な家父長の意識を変えられず、一方では身近な女性との恋愛を進めるという矛盾した態度があり、一部の同志の中傷を受けたり離反される要因ともなった。幸徳は運動を推し進めるため、同居した菅野との恋愛を貫きながら「自由思想」を2号まで発行、古河力作が印刷人となった。同時期、宮下は爆弾により天皇を打倒する決意を固め、管野、新村と接触するが、それは準備のための話し合いであった。古河も加わり、幸徳も初めは消極的ながら話し合いに関与したが、管野の入院、自身の病状の悪化、警察の監視の強化もあり、10年3月には平民社を閉じ、神奈川県湯河原に投宿し、執筆活動に専念する。その後は具体的な計画がないまま、宮下が長野県明科で逮捕、続いて幸徳も6月1日に湯河原で逮捕される。幸徳以下、計画とは全く無縁の同志も含め24人に大逆罪で死刑判決(直後に12人は減刑)。審理中から、エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら、「マザー・アース」誌によるアナキスト・グループを中心に国際的な抗議行動が展開されるが、市ヶ谷の東京監獄において11年1月24日処刑、管野は翌日に執行。逮捕直前にほぼ書き上げ獄中で脱稿した「基督抹殺論」は11年2月に刊行、増刷を重ね、印税は堺により12人の死刑囚の遺族、懲役刑の獄中者家族への救援費用に当てられ、また20年初の屋外メーデーの開催費用にも役立てられる。  アナキストはのちに「幸徳事件」「大逆事件」と語る。45年に発見された「獄中手記」以下、「予審調書」「証拠物写」なども資料として発掘され、天皇睦仁、明治専制政府の大弾圧の実態の基礎的な研究に取り組まれるのが50年代から60年代である。「大逆事件の真実を明らかにする会」が発足。坂本清馬を中心に再審請求が行われ、管野の菩提寺東京代々木の正福寺などで毎年1月記念集会が行われている。アナキズムの立場でも幸徳と大逆事件に関し、秋山清、向井孝、らが論じる。(亀田博)

    

 後藤謙太郎 ごとう・けんたろう 1895-1925.1.20

 熊本県葦北郡日奈久町生まれ。本籍は沖縄県那覇区上之蔵町。家は商売をしていたが、親戚に保証を頼まれたのが因で倒産、一家は炭鉱に夜逃げする。その直後に生を受けたが、父は死没。年少時から北は北海道から南は香港まで各地を愛犬をつれて放浪し、三池、松島、伊田などの炭鉱地帯で採炭労働に従事する。「日本少年」などに俳句を投稿し賞をとったことから、折にふれ短歌や詩をつくることを覚えた。文学雑誌を読むなかで社会主義を知り、独学で手当たりしだいに本を読みあさる。15年頃年少時からの労働が災いして肺病にかかる。上田、栃木、熊本(1919)、宇都宮の監獄を転々とし、21年4月「労働者」(労働社)に拠る。労働社は長続きはしなかったが、反インテリ主義を掲げていたため、生粋の労働者が集まり、山路信、伊藤公敬、根岸正吉、中浜哲、松本淳三、石渡山達ら文芸仲間と親交。同年9月「関西労働者」同人となる。22年春高崎監獄を出獄した足で小作人社を訪問、古田大次郎、中浜哲と酒を酌み交わし一期の邂逅をする。22年4月大阪にいた逸見吉三が岡山の軍旗祭は一般見学が可能であることを大串孝之助に話し、来阪していた後藤が聞きつけて、仲間集めの試金石として岡山連隊反軍ビラまきを計画。同年6月2000枚のビラを作成。茂野藤吉、東京から来阪していた飯田徳太郎、石田正治と岡山に出向き決行。帰阪後、石田とともに東京、仙台、金沢、新発田と足を進め、新発田の鯖江連隊営門付近で300枚のビラまきに時間を費やし、引き揚げるところを憲兵隊に逮捕される。折からの過激社会運動取締法案の生贄として大々的に報道される。予審では責付だったが、検事控訴で懲役1年の刑が確定し、24年7月巣鴨刑務所に投獄される。それ以前、23年冬頃、神経性アル中発作で巣鴨保養院に収監され、村木源次郎がその世話にあたっていた。24年9月和田、村木らの福田雅太郎大将狙撃事件を知る。25年1月の厳寒の朝、鉄格子に細紐を掛けて縊死する。身元引受人となっていた村木は市ヶ谷刑務所に収監中で、肺病のため1月23日仮死状態で責付出獄となり、労働運動社の近藤憲二らのみとるなか後藤の死の4日後に死没する。その間際に労運社の玄関へ「うちの謙太郎はどこにいるのでしょう」と年配の女性が訪ねてくる。巣鴨刑務所からの電報で熊本から上京してきた後藤の母であった。労運社の仲間は初めて後藤の死を知る。村木に代わって和田栄太郎と大久保卯太郎が遺体を引き取りに出向いた。2人の合同葬2月1日小石川道栄寺で少数の同志たちによって行われた。26年4月逸見ら仲間の手によって遺稿集が上梓された。その巻頭にはギロチン社事件の中浜哲の序文が付されている。根岸、伊藤、松本らとともに先駆的労働者詩人の一人であった。(黒川洋)

 

添田唖蝉坊 そえだ・あぜんぼう 1872.11.25-1944.2.8

本名・平吉、別名・不知山人、のむき山人、凡人、了閑。神奈川県中郡大磯町生まれ。90年横須賀で人夫生活をしていた時に自由党壮士の街頭演歌に感動、単独で演歌師を始める。最初の活動は三浦半島から房総半島の範囲。01年大田タケと結婚。02年知道誕生。天衣無縫の1代目と堅実型の2代目、演歌史を代表する名コンビとなる。05年非戦論に共鳴、堺利彦を訪ね社会主義運動に入り社会党の評議員になる。この頃から唖蝉坊を名のる。西川光二郎らと東北、北海道を遊説。この演説会の聴衆の一人に石川啄木がいる。民衆の心を代弁した「ラッパ節」「ああ金の世」などはこの頃作られている。10年大逆事件がおき、社会主義の「冬の時代」を迎える。14年自由倶楽部を結成。堺、渡辺政太郎らと「平民中心社会革新政談大演説会」を開く。演説が中止されると演歌を歌い、一人で2度中止されるのは唖蝉坊だけだといわれた。16年演歌の舞台を浅草に移し、「添田唖蝉坊新流行歌集」を山口屋書店から刊行。18年演歌組合青年親交会を設立。演歌者を読売業として公認させる。19年「演歌」を創刊、のちに知道らの加入で「民衆娯楽」と改題。25年演歌から離れて桐生に山居、松葉食など半仙生活に入る。35年四国遍路の旅に出て八八ヶ所の霊場巡りを3回半、次いで九州一円と中国筋を巡拝し、5年間を旅で暮らす。演歌は自由民権運動の啓蒙活動として始まり、「演説」に対する「演歌」であり、壮士節ともいわれている。反体制的色彩は濃い。唖蝉坊は社会主義と出合うことによって民衆の視点から演歌を生み出した。「ああ金の世」などは現在でも十分通用する。(大月健)

 

竹内鉄五郎 たけうち・てつごろう 1883.5.25-1942.6.20

岩手県紫波郡に生まれる。97年森岡中学に入学するが翌年病気のため中退、その後東北学院に転じる。03年に渡米、サンフランシスコ長老教会会員となり、勤労学生として06年の大地震まで青年会館に止宿。この時に岩佐作太郎らの影響を受けたと推測される。05年渡米した幸徳秋水に面会し、震災後はオークランドで同宿し影響を受けた。06年幸徳が結成した社会革命党の本部委員となり、機関紙「革命」の発行に携わる。07年11月の天皇暗殺檄文事件の起草者といわれる。08年8月フレスノの日本人労働者の基本的権利を主張する目的で労働同盟会を結成し、機関紙「労働」の発行や路傍演説を行う。同年11月「桑港新聞」記者大塚則鳴の労働組合反対記事をめぐり傷害事件をおこす。11年1月25日朝日印刷所で岩佐作太郎らと大逆事件処刑者追悼集会を開く。その後運動から離れ、職業斡旋業や料理学校運営に従事。40年一時帰国したが、日米開戦後立ち退き命令を受け、タンホーラン収容所で没。(西山拓)

 

築比地仲助 ついひじ・なかすけ 1886.6.1-1981.1.7

別名・通平時伴助。 群馬県邑楽郡高島村に生まれる。館林中学を卒業後上京し、国語伝習所で学んだ。その後帰郷していたが、幸徳秋水「社会主義神髄」に反発を感じ、幸徳に手紙を書いたところから社会主義者との交流が始まった。04年に再度上京し、幸徳の要請により読書会を結成した。07年頃からは郷里を拠点に社会主義者のネットワークを広めつつ、何回か上京して地方と中央の社会主義者の交流をはかった。この時期森近運平の「大阪平民新聞」での革命歌応募に、「嗚呼革命は近づけり」で始まる歌を寄せて入選、広く愛唱された。08年5月高畠素之らの「東北評論」に参加し、発禁処分、高畠の下獄、再刊発行などの状況下で奮闘した。同年6月の赤旗事件後は地方の社会主義者を幸徳の周囲に集めて運動を支援した。大逆事件では幸徳との関係から厳しい取り調べを受けた。13年以降実業界に転身し、石橋湛山と経済倶楽部を設立。浮世絵や西洋版画のコレクターとしても有名であった。(西山拓)

 

辻 潤 つじ・じゅん 1884.10.4-1944.11.24

別名・水島流吉、静美、陀々羅、風流外道、陀仙、驢鳴。 東京市浅草区向柳原町生まれ。江戸時代に札差だった裕福な家に生まれた。98年荒木古童(竹翁)の門に入り尺八を習う。その尺八が辻の生涯の伴侶となる。99年家が衰退し開成尋常中学を中退。正則国民英学会で英語を学ぶ。03年千代田尋常高等小学校の助教員になる。07年社会主義夏期講習会に参加し、堺利彦、幸徳秋水、森近運平らと接触。11年神経衰弱を理由に精華高等小学校を退職し、上野高等女学校の英語教師となる。大逆事件で1月に幸徳ら12人が処刑されている。辻はほとんど大逆事件に触れていないが、この転職もその影響かと思われる。ニヒリスト辻の端緒はここにあるのかもしれない。12年伊藤野枝との恋愛事件で上野高女を追われ職を失う。14年ロンブロゾーの「天才論」(植竹書院)を刊行、反響を呼ぶ。15年「生活と芸術」にスチルネルの「万物は俺にとって無だ」を訳載。16年伊藤が大杉のもとへ走り、失意のうちに浅草時代が始まる。21年スチルネルの「自我経」(「唯一者とその所有」の完訳)を冬夏社(青表紙)、改造社(赤表紙)から刊行。自分は「唯一者」の思想によって生き方が決まった、とスチルネリアンを標榜する。22年月島の社会主義思想講習会でダダイズムの話をし、小島きよと出会う。また「改造」に「ダダの話」などを書いて本格的にダダイズムの紹介を始める。辻は「スチルネルの哲学を芸術に変換すると、そのままダダの芸術が出来あがる」と記している。23年高橋新吉の作品を編集して「ダダイスト新吉の詩」を中央美術社から刊行。この詩集は中原中也、吉行エイスケらの若い詩人に大きな影響を与えた。関東大震災後、大杉、伊藤、橘宗一が虐殺される。「ふもれすく」は伊藤に対する鎮魂歌である。またボル派の集会三人の会にアナ派が突入し混乱が生じた時、彼がテーブルの上に飛び乗り奇妙な声を発して仲裁をしたという逸話が残っているのもこの年。内部抗争を繰り返す彼らに対する痛烈な批判である。24年「ですぺら」を新作社から刊行。ユニークな造語は彼の柔軟な思考から生まれている。「読売新聞」に宮沢賢治の「春と修羅」を評価した「惰眠洞妄語」を連載、賢治評価の先駆けとなる。25年卜部哲次郎、荒川畔村らと「虚無思想研究」を創刊、アフォリズムを連載する。また体調を崩した辻のために辻潤後援会ができる。以後も辻が窮地に陥った時にしばしば後援会ができている。28年読売新聞社の文芸と特置員として渡欧、約1年間パリに滞在する。ほとんど外に出ず中里介山の「大菩薩峠」を読んでいたという。29年「どうすればいいのか?」を昭文堂文芸部から刊行。30年「にひる」を創刊、萩原朔太郎、生田春月らと親交を深める。「絶望の書」万里閣書房から刊行。32年精神に異常をきたし青山脳病院に入院する。この頃から尺八で門付をし一所不在の放浪生活に入る。35年松尾?子と同棲。「癡人の独語」を書物展望社から刊行する。その中に「一つの整理、無精者が偶々気紛れに部屋の掃除をしてみる。一切の整理の結末は自殺、それでいい加減にして、また凡ゆる塵埃の中に没入する。それが日々の生活」という言葉がある。享楽することを辻は提唱する。36年「孑孑以前」を昭森社から発行。41年真珠湾奇襲の勝利に沸く気仙沼で「日本必敗」を予言する。44年放浪の旅から東京に戻り、上落合のアパートで餓死する。特異な辻の生涯は、また辻独自のものでなければならない。それぞれの人間が唯一者として生きることを始めた時、辻の苦難は救われるのかもしれない。(大月健)

 

徳富蘆花 とくとみ・ろか 1868.10.25-1927.9.18

本名・健次郎、別名・丶丶丶、AB子、寶香生、雁金之友、驚倒生、姜濤生、敬亭生、健二郎、高眼低手生、秋山生、秋水生、白水生、楓葉、蘆花逸生。 肥後国葦北郡水俣内浜村生まれ。代々惣庄屋、代官をつとめる徳富家の父一敬、母久子の二男。父とともに幼くして大江村に移る。79年同志社に入学、その後いったん帰郷。86年キリスト教受洗。翌年同志社に再入学、新島襄の姪山本久栄との恋愛事件で88年出奔。熊本英学校の教壇に立ったりしたのち、90年上京し兄徳富蘇峰の「民友社」に入り、「国民の友」の記者となる。幼時から秀才の兄への劣等感にに悩み、挫折、屈従の青年期を送る。翌年創刊した蘇峰の「国民新聞」に、湯浅治郎らとともに社員として参画。98年小説「不如帰」(刊行は00年)によって文壇デビュー、作家の地位を確立、00年「自然と人生」と翌年にかけて発表した「思出の記」は清新な自然描写と理想主義によって多くの好評を呼び、生活的にも自立した。03年「黒潮」(自費出版)で社会小説の新分野に挑戦したが未完成に終わった。兄蘇峰の突然の国家主義への転換に、「黒潮」の巻頭で兄への決別を宣言。06年月刊パンフレット「黒潮」以後、社会主義への親近感と強烈な自我の発現に伴って、トルストイに傾倒、06年パレスチナからロシアへ赴き、トルストイを訪問する。帰国後07年武蔵野で「美的百姓」の生活に入る。10年頃前田河広一郎を石川三四郎の新紀元社に紹介、11年河上丈太郎らの一高弁論部での講演「謀叛論」で大逆事件の判決に抗議した。13年「み丶ずのたはごと」(警醒社)を発表。18年「新春」(福永書店)は彼独自のキリスト教信仰を告白したもの。21年「日本から日本へ」(金尾文淵堂)、24年「太平洋を中にして」(文化生活研究会)で軍備全廃や非戦平和を提言した。死の直前14年ぶりに兄と再会し和解した。没後、千歳村の旧宅は蘆花恒春園として保存され、後閑林平らが管理にあたった。(北村信隆)

 

中里介山 なかざと・かいざん 1885.4.4-1944.4.28

本名・弥之助、別名・羽村子。神奈川県西多摩郡羽村に生まれ、小学校卒業後、尋常小学校の教員助手となった。幼少の頃から天才であることを自覚し、高等教育を受けられないことが却って拍車となって才能を励ました。「平民新聞」に投稿。内村鑑三、木下尚江、山口義三、白柳秀湖の知遇を得て社会主義思想を内に育てた。06年「都新聞」主筆田川大吉郎に社会部長に起用され、同紙に「氷の花」(1909)その他の小説を連載し、やがて「大菩薩峠」の連載を開始する。19年都新聞社を退社。22年郷里に帰農、「独身」「手紙の代り」「孤立者の通信」などの個人誌を発行する。27年羽村に西隣村塾を開き、農本主義的な青年教育を試みる。38年から40年にかけて刊行された「百姓弥之助の話」全7巻は自らを百姓弥之助と名のる介山の自由奔放な「総合小説」である。その間も「大菩薩峠」は断続的に書き継がれ、未完に終わるが、この大作は芥川竜之介、宮沢賢治の心をとらえた。中谷博はこの作品を平民社系社会主義からの転向小説としたが、この区分を超える性格を備えていることは、桑原武夫が「パーゴラ」に書いた短い批評を糸口として、55年からの高度成長による近代化のなかで明らかになっていく。桑原によると、明治以降の日本の小説は西洋近代化に沿って作られたが、「大菩薩峠」は江戸時代の自前の近代、支配層の官僚文化を担う儒教、中世以来の仏教的無常観、古代以前のどろどろした宿命信仰を併せもっている無類の小説である。42年6月第2次大戦下に翼賛体制の一部として日本文学報国会が設立され、中里は入会を誘われたが断る。軍国主義の統制が強化されるなか介山は青年時代に接触したジャン・ジャック・ルソーの気概を保って日本脱出の夢を「大菩薩峠」に書いていた。(鶴見俊輔)

 
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