大杉 栄 14


 

続獄中記(後)      (1919年4月)


 「俺は捕えられているんだ」

 千葉での或日であった。運動場から帰って、暫く休んでいると、突然一疋のトンボが窓からはいって来た。
 木の葉が一つ落ちて来ても、花びらが一つ飛んで来ても、直ぐにそれを拾っていろんな連想に耽りながら、暫くはそれをおもちゃにしているのだった。春なぞにはよく、桜の花びらが、何処からとも知れず飛んで来た。窓から見えるあたりには桜の木は一本もなかった。窓に沿うて並んでいる幾本かの青桐の若木と、堺が「雀の木」と呼んでいた何時も無数の雀が群がっては囀っている何にかの木が一本向うに見えるほかには、草一本生えていなかった。されば、あの高い赤い煉瓦の塀のそとの、何処からか飛んで来たとしか思えない此の一片の桜の花は、たださえ感傷的になっている囚人の心に、どれ程のうるおいを注ぎこんだか知れない。
 何んでも懐かしい。殊に世間のものは懐かしい。多分看守の官舎のだろうと思われる子供の泣声。小学校の生徒の道を歩きながらの合唱の声。春秋お祭時の笛や太鼓の音。時とすると冬の夜の「鍋焼きうどん」の呼び声。殊には又、生命のあるもの少しでも自分の生命と交感する何物かを持っているものは、堪らなく懐かしい。空に舞う鳶、夕暮近く飛んで行く烏。窓のそとで呟く雀。
 然るに今、其の生物の一つが、室の中に飛びこんで来たのだ。僕は直ぐに窓を閉めた。そして箒ではらったり、雑巾を投(ほう)ったりして、室ぢゅうを散々に追い廻した末に、漸くそれを捕えた。
 僕は此のトンボを飼って置くつもりだった。馴れるものか馴れないものか、僕はそれを問題にする程、トンボに智恵があるかとは思っていなかった。が、出来るものなら、何にか食わせて、少しでも此の虫に親しんで見たいと思った。
 僕はトンボの羽根を本の間に挟んでおさえて置いて、自分の手元にある一番丈夫そうな片(きれ)の、帯の糸を抜き始めた。其の糸きれを長く結んで、トンボをゆわえて置くひもを作ろうと思ったのだ。
 が、そうして、厚い洋書の中に其の羽根を挟まれて、切りにもみ手をするように手足をもがいているトンボに、折々目をくばりながら、もう大ぶ糸も抜いたと思う頃に、ふと、電気にでも打たれたかのようにぞっと身慄いがして来た。そして僕はふと立ちあがりながら、其のトンボの羽根を持って、急いで窓の下へ行って、それをそとに放してやった。
 僕は再び自分の席に帰ってからも、暫くの間は、自分が今何をしたのか分らなかった。其時の電気にでも打たれたような感じが何んであったか、と云う事にすらも思い及ばなかった。僕はただ、急に沈みこんで、ぼんやりと何にか考えているようだった。そして其のぼんやりとしていたのがだんだんはっきりして来るにつれて、何んでも糸を抜いている間に、「俺は捕えられているんだ」と云う考がほんのちょっとした閃きのように自分の頭を通過した事を思い出した。それで何にもかもすっかり分った。此の閃きが僕にある電気を与えて、僕のからだを窓の下まで動かして、あのトンボを放してやらしたのだ。

 僕は、今世間で僕を想像しているように、今でもまだ極く殺伐な人間であるかも知れない。少なくともまだ、僕のからだの中には、殺伐な野蛮人の血が多量に流れていよう。折りを見ては、それがからだの何処かから、ほど走り出ようともしよう。僕は決してそれを否みはしない。殺伐な遊戯、殺伐な悪戯、殺伐な武術。其他一切の殺伐な事にかけては、子供の時から何によりも好きで、何人にも負を取らなかった僕は、そしてそれで鍛えあげて来た僕は、今でもまだ其の気が多分に残っていないとは決して云わない。
 子供の時には、誰でもやるように、トンボや、蝉や、蛙や、蛇や、猫や犬をよく殺した。猫狩りや犬狩りをすらやった。そしてほかの子供等が或は眼をそむけ、或は逃げ出して了う程の残忍を敢てして、得々としていた。虫や獣が可愛いとか、可哀想だなぞと思う事は殆んどなかった。ただ獣で可愛いのは馬だけだった。父の馬は、よく僕を乗せて、広い練兵場を縦横むじんに駈け廻ってくれた。が、小動物は総て皆な、見つけ次第になぶり殺すもの位に考えていた。
 それが今、獄中でも此のトンボの場合に、ただそれを自分のそばに飼って見ようと云う事にすら、それ程のショックを感じたのだ。動物に対する虐待とか残忍とか云う事は、大きくなってからは、理性の上には勿論感情の上にも多大のショックを感じた。しかし殊に自分がそれをやっている際に、こんなに強く、こんなに激しく、こんなに深く感じた事はまだ一度もなかった。そして其時に僕は、僕のからだの中に、或る新しい血が滔々として溢れ流れるのを感じた。
 其後僕は、いつも此の事を思い出すたびに、僕は其時のセンティメンタリズムを笑う。しかし又翻って思う。僕のセンティメンタリズムこそは本当の人間の心ではあるまいか。そして僕は、此の本当の人間の心を、囚われ人であったばかりに、自分のからだの中に本当に見る事が出来たのではあるまいか。

 手枷足枷

 やはり此の千葉での事だ。
 或日の夕方、三四人の看守が何にかガチャガチャ云わせなかがら靴音高くやって来るので、何事かと思ってそっと例の「のぞき穴」から見ていると、てんでに幾つもの手錠を持って、僕の向いの室の戸を開けた。其の室には、其日の朝、しばらく明いていたあとへ新しい男がはいったのであった。
「いいから立て!」
 真先にはいった看守が、お辞儀をしている其の男に、大きな声であびせかけた。其の男はおづおづしながら立ちあがった。まだ二十五六の、色の白い極く無邪気らしい男だった。
「両手を前へ出せ!」
 再び其の看守は呶鳴るように叫んだ。そして其の中にほかの看守等もどやどやと靴ばきのまま室の中にはいった。何をしているのかは見えない。ただ手錠をしきりにガチャガチャ云わしていると、これじゃ小さいとか大きいとか看守等がお互いに話しているのとで、其の男に手錠をはめているのだと云う察しだけはついた。
「今時分になって、何んだってあんな事をするんだろう。」
 始め僕は、其の男に手錠をはめて、何処かへ連れ出すのかと思った。そんな時か、或はあばれて仕末に終えない時かのほかには、手錠をはめるのをまだ見た事がなかった。其の男は来てからまだ一度もあばれた事もなければ、声一つ出した事もなかった。しかし看守等は、其の男の腕にうまくはまる手錠をはめて了うと、「さあ、よし、これで寝ろ」と云いすてさっさと帰って了った。僕にはどうしても其の意味が分らなかった。
 翌朝早く、又二三人の看守が其の男の室に来て、こんどは其の手錠をはづして持って帰った。僕は益々其の意味が分からなくなった。
 昼頃になって、雑役が仕事の麻束を持って来た時に、僕は看守のすきを窺って聞いた。
「何んだい、あの向いの奴は?」
「うん、何んでもないのだよ。今まで向うの雑房にいたんだがね、首をつって仕方がないんで、とうとうこっちへ移されちゃったんだ。それで夜ぢゅう、ああして手錠をはめられて、からだが利かないようにされてるんだよ。」
 斯うして、夜になると手錠をはめられ、麻になるとそれをはづされて、それが幾日も幾日も、たしか二三ケ月は続いたかと思う。僕は其の男が何んで自殺しようとしたのか、其の理由は知らなかった。ただ、もう三度も四度も、五度も六度も、首をつりかけたり或は既につっていたりするのを発見された、と云う事だけを聞いた。
 そして或晩、其の男が両手を後ろにして帯のところで手錠をはめられているのを見て、どうしてあんな風をして寝られるのだろうと思って、試に僕も手拭で苦心して両手を後ろでくくりつけて寝て見た、始めはからだを横にして寝て見たが、肩や腕が痛くて堪らんので、こんどはうつ伏せになった。しかしそれでは猶苦しいので、又からだを前とは反対に横にした。斯うして一晩ぢゅう転輾して見ようかとも思ったが、どうしても堪えられないで、直ぐに手拭を解いて了った。
 それから、これは僕等のとは違う建物にいた男だが、湯へ往復する道で、やはり手錠をはめて、足枷までもはめて、そして重い分銅のようなものを鎖で引きづって歩いているのによく出食わした。
 其の男もやはり二十五六の、細面の、どちらかと云えば優男であった。
 分銅のような謂わゆるダ(漢字を忘れた)と云う奴を引きずって歩かせる、と云う懲罰のある事は、かねて聞いていた。嘗て幼年学校時代に、陸軍監獄の参観に行って其のダの実物を見た事もあった。しかし、それともう一つの、何んでも革具で、ハンドルを廻すとそれがぎゅうぎゅうからだを締めつけると云う、そして二三分もそれを続けるとどんな男でも真蒼になって了うのは、今ではもう殆んど使わないと云う事は、其時にも聞いた。
 然るに今、其のダを引きずっているのを、眼の前に見るのだ。其の男は、一列になった大勢の一番あとに、両足を引きずるようにして、のろのろと云うよりも寧ろ漸く足を運んで行った。が、其の足の運びかたよりも、更に見るに堪えなかったのは、其の気味の悪い程蒼ざめた痩せ細った其の手足とであった。
 どんな悪い事をしてこんな懲罰を食っているのか、又いつからこんな目に遭っているのか、僕は誰れにもそれを聞く機会がなかった。又誰れにもそれを聞いて見る勇気がなかった。よし又、それを知ったところで、それが何んになるとも思った。
 おしゃべりの僕等の仲間も、其の男に会った時には、皆な黙ってただ顔を見合わせた。いつも僕の隣にいた荒畑は泣き出しそうな顔をして眉をぴりぴりさせた。そして誰れも、其の男の方をちょっと振り向いただけで、幾秒時間の間でも直視しているものはなかった。

 幾度懲罰を食っても

 此の懲罰で思い出すが、囚人の中には、どんな懲罰を、幾度食っても獄則を守らないで、とうとう一種の治外法権になっている男がある。何処の監獄でも、いつの時にでも、必ず一人はそう云う男がある。
 もう幾度も引合に出した、東京監獄のあの死刑囚の強盗殺人君も、其の一人だ。
 巣鴨では例の片輪者の半病監獄にいたのだから、さすがにそう云うのには出遭わなかったが、それでも裁判所の仮監で同じ巣鴨の囚人だと云うそれらしいのに会った。
 長い間仮監で待たせられている退屈しのぎに、僕は室の中をあちこちとぶらぶら歩いていた。そこへ看守が来て、動かずに腰掛けてぢっとして居れと云う。裁判所の仮監は、あの大きな建物の地下室にあって、床がタタキで其処に一つ二つの腰掛が置いてある。が、長い間木の腰掛に腰掛けているのは、臀が痛くもあり退屈もするので、そんな時には室の中をぶらぶらするが僕の常となっていた。そして其のために今まで一度も叱られた事はなかったので、直に僕は其の看守と議論を始めた。遂には其の看守が余り訳の分からぬ馬鹿ばかり云うので、ほかの看守等は皆な走って飛んで来た程の大きな声で、其の看守を罵り出した。それが其時一緒にいたもう一人の囚人に、余程気に入ったらしい。
「君なんかはまだ若くて元気がいいからいい、うんと確っかりやりたまえ。何でも中ぶらりんでは駄目だ。うんと音なしくしてすっかり役人共の信用を得て了うか。そうなれば多少の犯則も大目に見て貰える。それでなきゃ、うんとあばれるんだ。あばれてあばれ抜くんだ。減食の二度や三度や、暗室の二度や三度は、覚悟の上で、うんとあばれるんだ。そうすれば、終いにはやはり、大がいの事は大目に見て貰える。だが中ぶらりんぢゃ駄目だ。いつまで経っても叱られてばかりいる。屁を放ったと云っては減食を食う。それぢゃつまらない。僕なんぞも前には随分あばれたもんだ。それでも減食を五度暗室を三度食ってからは、もう大がいの事は叱られない。歌を歌おうと、寝ころんでいようと、何んでも勝手気儘な振舞が出来るようになった。」
 四十余りになる其の男は、僕を何んと思ったのか、切りに説いて聞かせた。実際其の男は減食の五度や六度や、暗室の三度や四度や、又五人十人の看守の寄ってたかっての蹴ったり打ったりには、平気で堪えて来れそうな男だった。からだもいいし、話っぷりもしっかりしているし、如何にもきかぬ気らしいところも見えた。
 僕は例の強盗殺人君で随分其の我儘を通している囚人のある事は知っていた。しかしそれは死刑囚だからとばかり思っていた。死刑囚では、猶其のほかにも、其後そんなのを二三人見た。が死刑囚でない囚人が、それだけの犠牲を払って自由をかち得ていると云う事は、此の話で始めて知った。
 そして其後千葉で、始めて、そう云う男に実際にぶつかった。今でも其の名を覚えているが、渡辺何んとか云う、僕と同じ罪名の官吏抗拒で最高限の四年喰っている男だった。
 此の男とは、東京監獄でも同じ建物にいて、よく僕の室の錠前の掃除をしに来たので、其の当時から知っていた。初め窃盗か何にかで甲府監獄にはいっていたのを、看守等と大喧嘩して、其のために官吏抗拒に問われて東京監獄へ送られて来ていたのであった。額から鼻を越えて眼の下まで延びた三寸ばかりの大きさの傷があった。又、同じ大きさの傷が両方の頬にもあった。其他頭にも数ケ所の大きな禿になった傷あとがあった。それは皆な甲府で看守に刀で斬られたのだそうだ。
「初めは私等の室の十二三人のものが逃走しようと云う相談をきめて、運動に出た時に、ワアアと凱(とき)の声をあげたんです。」
と或時其の男は錠前を磨きながら、元気のいいしかし低い声で話し出した。
「すると、一緒にいた何十人のものが、やはり一緒にワアアと凱の声をあげたんです。看守の奴等びっくりしやがってね。其の間に私等十何人のものは、運動場の向の炊事場へ走って行って、其処に積んであった薪ざっぽを一本づつ持って、新しく凱の声をあげて看守に向って行ったんです。すると看守の奴等青くなって、慄えあがつて、手を合わせて、どうか助けてくれって、あやまるんです。」
 渡辺はちょいちょい看守の方を窃み見ながら、少し開けた戸の蔭に顔をかくして、うれしそうに話し続けた。
 それから皆んなはどやどや門の方に走って行ってとうとう門番を嚇しつけて、先頭の十幾人だけが一旦門外に出たのだそうだが、やがて又こんな風で逃げ出しても直ぐに捕るだろうと云うので引帰して来た。そして皆んな監房へ入れられた。
 其後二三日の間は、監房の内と外とで囚人と看守との間の戦争が続いた。囚人が歌を歌う。看守がそれを叱る。と云うような事がもとで唾の引っかけ合い、罵詈雑言のあびせ合いから、遂に看守が抜刀する。竹竿を持って来て、其のさきにサアベルを結びつけて、それを監房の中へ突きやる。囚人は便器の蓋や、はめ板をはづして、それを防ぐ、やがて看守はポンプを持って来て煮湯を監房の中に注ぎこむ、囚人等は布団をかぶってそれを防ぐ。と云うような紛擾の後に、とうとう渡辺は典獄か看守長かの室に談判に行く事になった。其処で数名の看守に斬りつけられたのだと云う。
「ね、旦那、其の斬った奴が皆んな前に運動場で手を合わせてあやまった奴等でしょう。実に卑怯なんですよ。」
 渡辺は斯う話し終って、もうとうに磨いて了った錠前の戸を閉めて、又隣りの室の錠前磨きに移って行った。
 此の男は、東京監獄では、まだ裁判中であったせいか、極くおとなしくしていた。そしていよいよ官吏抗拒の刑がきまって千葉へ移された時にも、其の当座は至極神妙にしていたが、やがて何んに怒ったのか、又手のつれられない暴れものになって了った。
「ね、旦那、こんどはもう私は出たら泥棒はやめです。馬鹿々々しいですからね。いくら暴れたって、泥棒ぢゃ誰しも相手にしちゃくれないでしょう。だから、こんどは私、旦那のところへ弟子入りするんです。ね、いいでしょう、旦那、出たらきっと行きますよ。旦那の方ぢゃ、暴れれば暴れる程、名誉になるんでしょう。そして監獄に来ても、まるで御大名で居れるんですからな。」
 僕がもう半年ばかりで出ようと云う時に、渡辺が来て、こんな事を云った、僕は少々困ったが「ああ来たまえ」とだけは云って置いた。
 が、いまだにまだ、此の男は其の謂わゆる「弟子入り」に来ない。何処に、どうしているんだか。多分又、何処かの監獄にはいっているんだろうと思うが。泥棒には丁度いい、小柄の、はしこそうな、まだ若い男だったが。
 しかし此の「弟子入り」は、向うで来なくっても、既に僕の方で向うに「弟子入り」していたのだった。其後僕は、「野獣」と題して、僕の雑誌(「近代思想」)に彼を歌った事があった。

 また向う側の監房で荒れ狂う音がする、
 怒鳴り声がする、
 歌を歌う、
 壁板を叩いて騒ぎ立てる。
 それでも役人は知らん顔をしてほうって置く。

 いくど減食を食っても、
 暗室に閉じこめられても、
 鎖づけにされても、
 依然として騒ぎ出すので、
 役人ももう手のつけようがなくなったのだ。
 まるで気ちがいだ、野獣だ。

 だが僕は、この気ちがい、この野獣が、
  羨ましくて仕方がない。
 そうだ! 僕はもっと馬鹿になる修業を積まなければならない。

 獄死はいやだ

 囚人で羨ましかったのは、此の野獣と、もう一つは小羊のような病人だった。
 巣鴨の病監は僕等のいたところからは見えなかったが、東京監獄でも千葉でも、運動場へ行く道には必ず病監の前を通った。普通の家のような大きな窓のついた、或は一面にガラス戸のはまった、風通しのよさそうな、暖かそうな、小奇麗な建物が、殆んど四季を通じて草花や何にかの花に囲まれて立っている。そして其の花の間を、呑気そうに、白い着物を着た病人がうろついている。
 僕は本当にどうにかして病人になりたいと思った。若し五年とか、十年とか、或は終身とか云うような刑ではいった時には、僕は此の病人のほかには僕の生きかたがあるまいとすら考えた。肺病でもいい。何んでもいい。とにかく長くかかる病気で、あすこにはいらなくちゃならんと思った。
 が、一度、巣鴨で此の病監にはいることが出来た。前に話した徒歩で裁判所へ行く道で、つまづいて足の拇指の爪をはいだ。其処にうみを持ったのだった。
 巣鴨の病監は、精神病患者のと、肺病患者のと、普通の患者のと、三つの建物に分れている。僕は其の最後のにはいった。いい加減な病院の三等や二等よりも余程いい。僕のは三畳の室で、さすがに畳も敷いてある。其処へ藁布団を敷いて、室いっぱいの窓から一日日光を浴びて、そとのいろんな草花を眺めながら寝て暮らせばいいんだ。看護人には、囚人の中から選り抜きの、殊に相当の社会的地位のあったものを採用する。僕には早稲田大学生の某芸者殺し君が専任してくれた。
 嘗て幸徳は、此の病監にはいって、或る看守を買収して、毎朝万朝報を読んで、毎晩一合か二合かの晩酌をやっていたそうだ。
 僕も若し酒が飲めれば、葡萄酒かブランデエなら何時でも飲めた。それは看護人が薬室から泥棒して来るのだった。
 医者も役人ぶらずによく待遇してくれた。看守も皆仏様で、僕は殆んど自分が看守されているのだと云う気持も起らなかった、位によく謹んでいられた。
 御馳走も普通の囚人よりは余程よかった。豚汁が普通には一週間に一回だったのが二回あった。それに豚の実も普通よりは数倍も多かった。
 僕は此の病監で、自分が囚人だと云う事も殆んど忘れて一ケ月余り送った後に、足の繃帯の中に看護人等の数本の手紙を巻きこんで出獄した。
 しかしこれがほんのちょいと足の指を傷つけた位の事だから、こんな呑気な事も云って居られるものの、若しもっと重い病気だったらどんなものだろう。僕は先に肺病でもいいから病監にはいりたいと云った。今僕は、現に、千葉の御土産として其の病気を持って来ている。もう殆んど治ってはいるようなものの、今後又幾年かはいるような事があって、再び病気が重くなって、病監にはいらなければならぬようになったらどうだろう。
 千葉では、僕等が出たあとで直ぐ、同志の赤羽厳穴が何んでもない病気で獄死した。其後大逆事件の仲間の中にも二三獄死した。今後もまだ続々として死んで行くだろう。
 僕はどんな死にかたをしてもいいが、獄死だけはいやだ。少なくとも、有らゆる死にかたの中で、獄死だけはどうかして免れたい。

 収賄教誨師

 獄中で一番いやなのは冬だ。
 綿入一枚と襦袢一枚。シャツもなければ足袋もない。火の気は更にない。日さえ碌には当らない。これで油っ気なしの食物でいるのだから、とても堪るものではない。
 体操をやる、壁を蹴る。壁にからだを打つける。運動に出れば、毎日三十分づつ二回の運動時間を殆んど駈足で暮らす。しかしそんな事ではどうしても暖くならない。 冷水摩擦をやる。しかもゆうべからの汲み置きの殆んどいつも氷っている水だ。此の冷水のほかには殆んど全く暖をとる方法がない。それで朝起きると先づ摩擦をやる。夜寝る前にも、からだぢゅうが真赤になるまで摩って、一枚こっきりの布団に海苔巻きになって寝る。かしわ餅になって、と人はよく云うが、そんな事で眠れるものではない。昼も、膝っこぶのあたりから絶えずぞくぞくして来て、時とすると膝が踊り出したように慄える。そして上下の歯ががちがちと打ち合う。そんなふうになると、日に二度でも三度でも素裸になってからだをふく。これで少なくとも一時間は慄えを止める事が出来る。
 冬の間の一番のたのしみは湯だ。「脱衣!」の号令で急いで着物を脱いで、「入浴!」で湯にとびこむ。
「洗体!」の号令すらもある。多くは熱くてはいれない程の湯に、真赤になって辛棒している。それ程でないと、夕飯前の湯が夜寝る時までの暖を保ってくれない。
 稀に、夕飯の御馳走が、鮭か鱒かの頭を細かく切ったのを実にしたおつけの時がある。其の晩は、さすがに、少し暖かく眠れる。
 それでも不思議な事には滅多に風もひかない。この二月の初めに、四ケ月の新聞紙法違犯を勤めて来た山川の如きは、やはり肺が悪くて殆んど年中風を引き通している男だが、向うではとうとう風一つ引かずに出て来た。そして出ると直ぐ例の流行性感冒にやられて一月近く寝た。

 斯ういった冬の、又千葉での或日の事。教務所長と云う役目の、年老った教誨師の坊さんが見舞に来た。
 監獄には此の教誨師と云う幾人かの坊さんがいる。ところによってはヤソの坊さんもいるそうだが、大がいは真宗の坊さんだ。
 普通の囚人には、毎週一回、教誨堂とか云う阿弥陀様を飾った広間に集めて、此の坊さんが御説教を聴かせるのだそうだが、僕等には坊さんの方から時折り僕等の室へ訪ねて来る。大がいの坊さんは別に御説法はしない。ただ時候の挨拶や、ちょいとした世間話をして、監獄の待遇に就いてのこちらの不平を聞いて行く。
 千葉の此の教務所長と云うのは、其頃もう六十余りの老人で、十幾年とか二十幾年とか監獄に勤めて地方での徳望家だと云ううわさだった。僕にはどうしても其のうわさが正当には受けとれなかった。何によりも先づ、其の小さいくるくるした眼に、狐のそれを思わせる或る狡猾さが光っていた。何にか話しするのでもとかくに御説法めく。本当に人間と人間とが相対しているのだと云うような暖かみや深切は見えない。そしていつも、俺は役人だぞ、教務所長だぞ、と云う心の奥底を裏切る何者かが見える。僕は此の男が見舞に来るのを千葉での不愉快な事の一つに数えていた。
「如何です。今日は大ぶ暖かいようですな。」
 わざとらしい、何処かにこちらを見下げているような嘲笑の風の見える微笑を洩らしながら、はいって来ると直ぐいつもの天気の挨拶をした。僕は此の男のいやな中にも、此の微笑が一番いやだった。それに今、折角読みかけていたトルストイの『復活』の邪魔をされたのが、其の足音を聞いて急に本をかくして仕事をしているような真似をさせられたのが、猶更に其の微笑に悪感を抱かせた。
「何にが暖かいんだ。俺れが今斯うしてブルブル慄えているのが見えないのか。」
 僕は腹の中で斯う叫びながら、再び其の顔を見あげた。そしていきなり、
「ふん! 綿入の五六枚も着てりゃ、いい加減暖かいだろうよ。」
と毒づいてやった。実際彼れは、枯木のような痩せたからだを、ぶくぶくと着太っていた。そして其の癖、両手を両脇のところでまげて、まだ寒そうに其の両手でしっかりとからだを押えていた。
 教務所長の痩せ細った蒼白い顔色が、急に一層の蒼味を帯びて、其の狐の眼が更に一層意地わるく光った。僕は仕事の麻縄をなう振りをしながら黙って下を向いていた。
 教務所長のからだがふいと向きを変えたと思うと、彼れは廊下に出て、恐ろしい音をさせて戸を閉めて行った。僕は直ぐ麻縄をそばへ投って、布団の下にかくしてある『復活』をとり出した。そしていい気持になって、さっきの続きを読み始めた。

 其後数ケ月の間、或はとうとう出る最後の時までであったかもしれない、僕は其の不愉快な老教誨師の顔を見ないで済んだ。
 出獄後聞くと、此の教務所長は面会に来る女房に切りに自宅へ来るようにと云っていたそうだ。そしてそれは、本人の行状に就いて詳しく話しも聞きもしたいと云う事であったそうだが、来るにはどうせ手ぶらでは来まいと云う下心があるらしかったそうだ。現に同志の一人の細君は、面会へ行く度に御土産物を持って彼れを訪うて、随分歓待されたと云う話しだ。が、僕の女房は、早く出獄した他の同志から僕と彼れとの間柄をよく聞き知っていたので、とうとう訪ねても見なかったそうだ。
 それから二年ばかりして、或日の新聞に、此の教務所長が収賄をして千葉監獄に収監されたと云う記事を発見した。尤も其後証拠不十分で放免になったと聞いたが。

 教誨師に就いては先日面白い話を聞いた。荒畑と山川とが東京監獄から放免になるのを、門前の或る差入屋まで迎えに行った。二人とも少し痩せて顔の色も大ぶ蒼白くはなっていたが、それでも元気で出て来た。
 差入屋の一室で暫く皆んなで快談した。迎えられるものも迎えるものも大がい皆獄通だ。迎えられるものは盛んに其の新知識をふりまく。迎えるものは急転直下した世間の出来事を語る。
「おい、抱月が死んで、須磨子が其のあとを追って自殺したのを知っているかい?」
とたしか堺が二人に尋ねた。
「ああ知っているよ。実はそれに就いて面白い事があるんだ。」
 荒畑が堺の言葉のまだ終らぬうちに、キャッキャと笑いながら云った。
 荒畑の細君が、何んとかして少しでも世間の事情を知らせようと思って、さも親しい間柄のように書いて抱月の死を知らせたのだそうだ。
「ええ、先生には随分長い間学校でお世話になったもんですから。」
 荒畑は其の手紙を見てやって来た教誨師にでたらめを云った。荒畑は抱月とはたった一度何にかの会で会ったきりだった。勿論師弟関係もなんにもない。
「就いちゃ、御願いがあるんですが。」
と荒畑はちょっと考えてから云った。
「そんな風ですから、別に近親と云うわけでもないんですが、一つ是非回向をして下さる事は出来ないものでしょうか。」
 教誨師は又何か厄介な「御願い」かと思ってちょっと顔を顰めていたが、其の「御願い」の筋を聞いて、額の皺を延ばした。そして今までは死んだ人の話しをするのでもあり、殊更に沈鬱らしくしていた顔色が急ににこにこと光り出した。
「え、ようござんすとも、お安い御用です。」
教誨師は斯う云って、荒畑を教誨堂へ連れて行った。荒畑は此の教誨堂なるものを一度見たかったのだ。そして坊さんにお経でも読まして、其の単調な生活を破る皮肉な興味をむさぼりたかったのだ。
「どうだい、それで坊さん、お経をあげてくれたのかい?」
 荒畑がお茶を一杯ぐっと飲み干している間に僕が尋ねた。
「うん、やってくれたともさ。しかも大に殊勝とでも思ったんだろう。随分長いのをやってくれたよ。」
「それや、よかった。」
と皆んなは腹をかかえて笑った。
「で、こんな因縁から、お須磨が自殺した時にも直ぐ其の教誨師がやって来て知らせてくれたんだ・・・」

 まだ書けばいくらでもあるようだが、此の位でよそう。書く方も飽きた。読む方でももういい加減いやになった頃だろう。


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