大杉 栄 13


 

続獄中記      (1919年4月)


 畜生恋

 僕はいつも独房にばかりいて、雑房の方の事はよく知らない。雑房と云うのは、詳しく云えば雑居房だ。六人も八人も十人も、或はもっと多くの囚人が六畳敷か八畳敷きかの一室にとぢ籠められている。定員四名、現在十二名、と云うような札が、監房の入口にかけられてあるのも珍らしくはない。
 多くは同じ性質の犯罪、たとえば泥棒は泥棒と、詐欺は詐欺と一緒に置かれて、数ヶ月乃至数ヶ年の間、仲よく泥棒や詐欺の研究をしている。実際皆な随分仲がいい。しかし其の間にも、他の何処ででもあるように、よく喧嘩がある。時としては殺傷沙汰にまでも及ぶ。が、其の喧嘩のもとは、他の正直な人々の間のようには、慾得ではない。其の殆んど総てが恋のいきさつだ。
 ちょっと色の生っ白い男でもはいって来れば、皆んなして盛んにちやほやする。全くの新入りでも、監房や工場のいろんな細かい規則に、少しもまごつく事はない。なにかにつけて、うるさい程丁寧に、よく教えてくれる。庇ってもくれる。皆んなは、ただそれだけの事でも、どれ程嬉しいのか知れない。
 斯うして皆んなが、若い男のやさしい眼つきの返礼に、何物にも換え難い程の喜びを分ち合っている間は無事だ。が、それだけでは満足の出来ない男が出て来る。其の眼の返礼を独占しようとする男が出て来る。平和が破れる。囚人の間の喧嘩と云うのは、殆んど皆な、直接間接に此の独占慾の争いに基づく。之れは世間の正直な人々の色恋の争いと何んの変りもない。
 何処の監獄の囚人の間にも、此種の色情は随分猛烈なものらしい。
 尤も、これだとて、決して囚人特有の変態性慾ではない。女っ気のない若い男の寄宿舎なぞには何処にでもある事だ。現に僕は陸軍の幼年学校で、それが知れれば直ぐに退校されると云う危険をすら冒して、忠勇なる軍人の卵共が、随分猛烈に此の変態性慾に耽っているのを見た。甚だお恥かしい次第ではあるが、僕もやはり其の仲間の一人だった。
 其の僕が、しかも同志の間では丁度ピストル強盗と云ったような形で赤い着物がよく似合うとからかわれていた程の物騒な面構えなのにも拘わらず、危く監獄で此の犠牲になろうとした事があった。
 千葉での或日、湯にはいっていると、其処へ見知らぬ男が一人不意に飛込んで来た。監獄の湯は、どこでもそうらしいが、大勢一緒にはいる大きいのと一人づつ入れる小さいのとがある。僕等は、いつもは其の大きいのに仲間だけが一緒にはいるか、或は何にかの都合で小さいのに一人づつ入れられた。其の日は一つ一つ板で隔てて一列に並んでいる小さい方へ、皆んなが別々に入れられた。ほかの囚人を一緒に入れる筈はないのに、とは思ったが、看守の間違にしろ何んにしろ、とにかくほかの囚人と接触するのは面白いと思って黙っていた。
 其の男は僕がわざわざ隅に寄って前の方をあけてあるのに、「失敬」と云いながら僕の肩を叩いて、後ろへはいろうとした。妙な奴だとは思いながら僕は少し前へ出た。すると、いきなり其の男は飛びこんで来て、後ろから僕を抱きかかえた。
 僕は飛びあがって、そいつの横面を一つうんと殴りとばして、そとへ出た。もう「出浴」の号令のかかる間近でもあったのだ。
 脱衣場では、同志の村木と云うまだ未丁年の男が一人、蒼い顔をして着物を着かけていた。
「どうした?」
 僕は又例の脳貧血かと思って、そばへ寄って尋ねた。少し長く湯にはいっていると、僕等の仲間はよく、此の脳貧血を起した。
「今、変な奴がはいって来てね、いきなり後ろから抱きかかえやがったもんだから、急いで逃げ出して来たんだ。」
と村木がまだ驚いた顔つきのまま話していたところへ、他の仲間も皆な出て来た。そして村木だけならまだしも、ピストル強盗までもやられたと云うんで、皆んなで大笑いした。
 が、実際笑い事ぢゃないんだ。

 女の脛の白きを見て

 此の畜生同様の囚人の間にあって、僕自身は聖人か仙人かのようであった事は、前にちょっと云った。しかしそれも、僕が特別にえらい非常な修行を積んだ人間だからと云う、何んの証拠にもならない。
 人はよく、牢にはいったら煙草が吸えないで困るだろうな、と云う。僕は随分の煙草飲みだ。が、今だ嘗つて、其のために牢で困った事はない。はいると直ぐ、殆んど其の瞬間から、煙草の事などはまるで忘れて了う。始(はじめ)てはいった東京監獄では、看守等が休憩所でやっているのをよく窓から見たが、まるい棒片のようなものを喫えてパッパと煙をはき出しているのが、羨ましいどころではなく本当に馬鹿馬鹿しく思われて仕方がなかった。其頃は、まだ一人身で堺の家に同居していた、僕の女房の保子が、からかい半分に猫が煙草を吸っている絵はがきを送って来た。僕は直ぐに「あれは物の本で見る煙草と云うものらしいが、さては人間の食物ではなくして猫の食物か」と云うような返事を出して、本当に強情な人だと云って笑われた。しかしそれは、僕の痩せ我まんでも強情でも、何んでもない。実際そう云う風に感じたのだ。  僕は何にも牢にはいったら煙草は吸えぬものと覚悟をきめていた訳ではない。反対に、煙草位は吸えるだろうと云う極く呑気なつもりで、迎いに来られた時には、わざわざ其の用意までして出掛けたのだ。僕は又、克己とか節制とか云う事の、殊更の何んの修養をも積んでいた訳ではない。反対に、そう云う謂わゆる道徳にはわざと反抗して、つまらぬ放縦を尊んでいた位だ。
 それだのに、警察で煙草を取り上げられた時には少なからず口惜しかったが、其後はぴったりと煙草と云うものを忘れて了った。そして今云ったように却って反感に似たものを持つようにすらなった。
 僕がえらいんでも何んでもない。誰れでもが経験する通り、電車に乗っていて、そとを通る人間が巻煙草を吸っているのを見ても、別に羨ましがりもせず、時としては却ってそれを馬鹿馬鹿しく思う事があると同じだ。
 性慾に就いてでもやはりそうだ。尤もこれは、煙草の場合のようには、無意識のあきらめと其の結果の客観的批評のせいだとは思えない。もう少しこみ入った事情があるように思う。
 其の一つは、たかだか大根か芋を最上の御馳走とする、殆んど油っ気なしの食物だ。次ぎには、殊に独房では、性慾に就いて殆んど何んの刺激もない事だ。そして最後には、終日、読書と思索とで根を疲らし切って了う事だ。
 此の三つの条件さえ具えていれば、誰れでも、何んの修養も何んの苦悶も何んの努力もなしに、直ちに五慾無漏の名僧知識になれる。山にはいるか牢にはいるかだ。
 しかし久米の仙人も雲から足を踏みはづしたように、此の牢屋の仙人も時々凡夫に帰る。
 ほかでそんな機会はなかったが、東京監獄での第一の楽しみは、女の被告人か囚人かを見る事であった。此の事も前にちょっと云った。
 僕等はいつも独房の四監か八監かに置かれた。此の何監と云うのは其の建物の番号で中央から半星形に射出した四つの建物に、二階は一監から四監、下は五監から八監の名がついていた。四監は二階で八監は其の下だ。そして僕はいつも運よく日当りのいい南側の室に置かれた。
 此の建物の南側に沿うて、其処から五間ばかり隔てて、女監へ行くタタキの廊下がある。毎日一度か二度か三度か、必ず十数名づつの新入りが此処を通って行く。なかなか意気な、きちんとした風のおかみさんらしいのもある。伊達巻姿や、時とすると縄帯姿の、頗るだらしのないのもある。其の大部分は謂わゆる道路妨の拘留囚だそうだ。此の道路妨と云うものに就いては又あとで話しする。
 此の連中が廊下の向うからカランコロン、カランコロンと喧ましく足音を立ててやって来る。それが聞え出すと、八監や八監の南側の先生等は、そら来た! とばかり、何事をさし置いても窓ぎわへ走って行く。
 僕はいつも走って行って、漸く眼のところが窓わくにとどく位なのを、雑巾桶を踏台にして首さしのばして、額を鉄の冷たい格子に押しつけて、見た。そして、あの二番目のはよさそうだなとか、五番目のは何んて風だとか云うような事を、隣り近所の窓と批評し合った。時とすると、
「おい、三番目の姉さん、ちょいと顔をお見せよ。」
などと呼ぶ奴もある。
 女共の方でも、自分からちょっと編笠を持ちあげて、こっちを見るのか自分の顔を見せるのか、する奴もある。時とすると、舌を出したり、赤んべをして見せたりする奴すらある。
 僕はぼんやりそれを見ていて、よく看守に怒鳴りつけられた。
 たしか屋上演説事件の治安警察法違犯の時と思う。例の通り警察から警視庁、警視庁から東京監獄へと連れて行かれて、先づ例のシャモ箱の中へ入れられた。尤もこれは男三郎君の時に話したような面会所のそばのではない。そんなのがあちこちにあるんだ。こんどのは、連れて来られると直ぐ、所持品を調べられたり、着物を着換えさせられたり、身分罪名人相などの例のカアドを作られたりする、其の間自分の番の来るのを待っている、シャモ箱だ。
 暫くすると、背中合せのシャモ箱の方へも人がはいったような気はいがする。ぺちゃくちゃと女のらしい声がする。
「おい、うしろへ女が来たようだぜ。一つ話しをして見ようぢゃないか。」
と両隣りの堺と山川とに相談して、コツコツとうしろの板を叩いた。向うでも直ぐにやはりコツコツとそれに応じた。
「おい、何んで来たんだい?」
「お前さんは?」
「泥棒さ。」
「ぢゃ頼もしいわね。わたしはどうろぼうよ。いくら食ったの?」
「たった半年だ。君は?」
「わたしの方は二週間よ、直ぐだわ。こんど出たら本当に堅気になろうと思っているの。お前さん出たらやって来ない? うちは何処?」
と云うような話しで、でたらめの処や名を云い合って、とうとう出たら一緒になろうと云う夫婦約束までもして了った。
「大ぶお安くないな。だが、あのどうろぼうと云うのは何んだい?」
「さあ、僕にもよく分らないがね。」
と堺と話している中へ、山川もその詮議に加わって、漸くそれが道路妨害の道路妨だと云う事が分った。そして、
「泥棒に道路妨はいいな。」
と三人で大笑いした。さすがの彼女もあからさまに其の本職を云いかねたのか、それともほんの語呂合せのいたづらをやったのか。

 又、未決監から裁判所へ喚び出される。其他にも僕はよく、余罪があって、既決監からも裁判所へ喚び出された。大がいは馬車でだが、巣鴨からは歩いたり車に乗せられたりした。
 あの赤い着物を着て、編笠を被って、素足に草蛙をはいて、腰縄をつけられて引っぱられて行くさまは、たしかに道行く婦女子等をして顔そむけしめ唾はかしむるに足るものであろう。しかし向うの思わくなぞはどうでもいい。こっちはただ、こっちの顔の見えないのを幸いに、向うの眼のさめるような着物の赤い色と、白い生々とした柔しい顔の色とに黙って眼じりを下げていればいいんだ。
 西洋の野蛮国たるロシヤでは、「乞食と囚人とは馬鹿にするな、いつそれが誰れの運命になろうものでもない」と云うような意味の諺があって、囚人が送られる時なぞには、百姓の婆さんや娘さん達が争って出て来て、牛乳やパンや時とすると銅貨までも施してくれる。そして頬にキッスして「天にまします吾等の神よ、此のいと憐れなる汝の子に殊更のお恵みと仕合とを与えたまえ」とお祈りをしてくれる。と云うような醜態は、東洋の君子国たる日本では、とても望まれない。ましてや道路妨君のようには、「頼もしい人だ」なぞとは誰れ一人思っちゃくれない。
 それでいいんだ。こっちはただ諸君の姿さえ拝まして貰えればいいんだ。久しぶりでそとへ出て、見るものが総て美しい。と云うよりは珍らしい。総てがけばけばしく生々として見える。殊に女は、女でさえあれば、どれもこれも、皆弁天様のように美しく見える。
 馬車では、僕はいつも、前か後ろかの一番はじに置かれた。此のはじにいなければそとはよく見えない。横はよろい戸になっていて、前後にだけ小さな窓の金あみが張ってある。僕は馬車に乗っている間、始めから終りまで、此の金あみに顔を押しつけて、額に赤く金あみのあとがつく程に、貪るようにしてそとを眺めた。

 面会に来る女の顔も美しい。もう幾年も連れ添って見あきる程見た顔だのに、黙って其の顔を眺めているだけでもいい気持だ。眼のふちの小皺や、まだらになった白粉のあとまでが艶めかしい趣きを添える。

 僕の故郷

 こんなちょいちょいしたエピソドのほかには、うちにいる間は、読書か思索か妄想かのほかに時間の消しかたがない。
 読書にも飽き、思索にも飽きて来ると、ひとり手に頭が妄想に向う。それも、そとの現在の事は一切例の無意識的にあきらめて、考えても仕方のない遠い過去の事か、出獄間近になれば出てからの将来の事などが思い浮べられる。
 現在の女房の事でも、面会に来るか手紙が来るかの時でもなければ、それも二ヶ月に一度づつしかないのだが、滅多には思い出さない。そして古い女の事や、子供の頃の女友達の事なぞが切(しき)りに思い出される。
 元来僕には故郷と云うものがない。
 生れたのは讃岐の丸亀だそうだ。が、生れて半年経つか経たぬうちに東京へ来た。そして五つの時に父や母と一緒に越後の新発田へ逐いやられた。東京では父は近衛にいた。うちは麹町の何番町かにあった。僕は其の近衛連隊の門の様子と、うちの大体の様子と、富士見小学校附属の幼稚園の大体の輪郭とのほかには、殆んど何んの記憶もない。
 僕の元来の国、則ち父祖の国は、名古屋を西にさる四五里ばかりの津島に近い或る村だが、其処には自分が覚えてからは十四の時に始めてちょっと伯父の家を訪うて、其の翌年名古屋の幼年学校にはいってから時々ちょいちょい遊びに行ったに過ぎない。少しも自分の国と云うような気はしない。本籍は其処にあったのだが、其後東京の自分の住んでいた家に移した。
 ただ越後の新発田にだけは、五つから十五までのまる十年間いた。其後も十八の時までは毎年暑中休暇に帰省した。従って若し故郷と云えば其処を指すのが一番適切らしい。
 名古屋から始めて暑中休暇に新発田へ帰る途で、直江津から北越鉄道に乗換えて長岡を超えて三条あたりまで行った頃かと思う。ふと僕は、窓の向うに東北の方に長く連なっている岩越境の山脈を眼の前に見て、思わず快哉を叫びたい程の或るインスピレションに打たれた。其の山脈は僕が嘗て十年間見た其儘の姿なのだ。そして其のあちこちには、僕が嘗て遊んだ、幾つかの山々が手にとるように見えるのだ。
 始めて僕は故郷と云うものの感じを味わった。
「故郷はインスピレションなり」と云った蘇峰か誰れかの言葉が、始めて身にしみて感じられた。が、嬉しさの余り、其時にはまだ、これが故郷の感じだと云う理智は、其の感じの解剖は、本当には出来ていなかった。蘇峰か誰れかの言葉と云うのも、どうやら、其後の或時に思い出したもののようだ。
 此の故郷の感じは、其の「或時」になって、再び十分に味わった。そしてこれが謂わゆる故郷の感じだと云う事は、其の「或時」になって始めて十分に知った。
 始め半年ばかりいて、出てからまだ二月とは経たぬうちに、再び巣鴨へやられた時の事だ。巣鴨のあの鬼ヶ島の城門を、護送の看守が「開門!」と呼ばわって厚い鉄板ばりの戸を開かせて、敷石の上をガラガラッと馬車を乗りこませた時だ。
 僕はいつものように、馬車の中の前のはじに腰をかけて、金あみ越しにそとを眺めていた。門が開くと監獄の建物の前の、広い前庭の景色が眼にはいった。其の瞬間だ。僕は思わず腰をあげて、金あみに顔を寄せて、建物の直ぐ前に並んでいる檜か青桐かの木を見つめた。そして暫く、と云っても数秒の間だろうが、或る一種の感に打たれてぼんやり腰を浮かしていた。それに気がつくと、直ぐに僕は、嘗て帰省の途に汽車の中で打たれた彼のインスピレションを思い出した。ちっとも違わない、同じ親しみと懐かしさとの、そして一種の崇高の念の加わった、インスピレションだ。
 僕は始めて、これが本当の故郷の感じなのだ、あの時もやはりそうだったのだ、と本当に直覚した。
 馬車から降りる。何に一つ親しみと懐しみとの感ぜられないものはない。会う看守毎に、
「やあ、又来たな。」
と云われるのすらも、古い幼な友達か何かの、暖かい挨拶に聞える。そしていよいよ、前にいた例の片輪者の建物に連れて行かれて、お馴染の皆んなのにこにこした目礼に迎えられて、前にいた隣りの室に落ちついた時には、本当に久しぶりで自分のうちへ帰ったような気がした。
 監獄を自分の故郷や家と同じに思うのは、甚だ怪しからぬ事でもあり又甚だ情けない事でもあるが、どうも実際にそう感じたのだから仕方がない。巣鴨は僕が始めて既決囚として入監させられた、従って最も印象の深い生活を送らせられた監獄だ。それに囚人は、他の一切の世界と遮断されて、極めて狭い自然と極めて狭い人間の間に、其の情的生活を満足させなければならないからだ。かてて加えて、囚人の生活は、とかくに主観に傾きがちの頗る暗示を受け易い、其の一切の印象の極めて深い点に於て、たしかに獄外での普通の生活の十年や二十年に相当する。

 此の故郷のことが、自分の幼少年時代の事が、切りに思い出される。殊に刑期の長かった千葉ではそうだった。
 僕は出たが、どうせ当分は政治運動や労働運動は許されもすまいから、せめては文学にかこつけて、平民文学とか社会文学とかの名のつく文芸運動をやって見ようかと思った。そして其の手始めに、自分の幼少年時代の自叙伝的小説を書いて見ようかと思った。軍人の家に生れて、軍人の周囲に育って、そして自分も未来の陸軍元帥と云ったような抱負で陸軍の学校にはいった、ちょっと手におえなかった一腕白少年が、其の軍人生活のお蔭で、社会革命の一戦士になる。と云う程のはっきりしたものではなくても、とにかく此の径路を其の少年の生活の中に暗示したい。少なくとも、自分の幼少年時代の一切の腕白が、有らゆる権威に対する叛逆、本当の生の本能的生長のしるしであった事を、書き現わして見たいと。
 僕は自分の遠い過去の事を思い出しては此の創作の腹案に耽った。そして其の傍ら、語学の稽古がてらに、原文のトルストイの『幼年時代、少年時代、青年時代』や、ドイツ訳のコロレンコの『悪い仲間』などを見本に読んだ。トルストイのには、其の生活が余りに僕自身のとはかけ離れているので、殆んど何んの興味もひかなかった。『悪い仲間』にはすっかり同感した。其の主人公の父は裁判官であった。裁判官と軍人とに大した違いはない。が僕には不幸にも、裁判官がどんな性質のものであるかを教えてくれる、友達の乞食の父はなかった。其のために僕は、軍人と云うものの本当の性質が分るまでには、随分余計な時間を費した。それが其時の僕にどれ程口惜しかったか。
 が、当時の此の創作慾は今に到ってまだ果されない。と云うよりは寧ろ殆んど忘れ果てて、社会評論とも文学評論ともつかない妙な評論書きになって了った。そして今では又、こんな甘い雑録に、漸く口をぬらしている。

 監獄人

 しかし、今だってまだ、多少の野心のない事はない。現に此の獄中記の如きは、此の雑誌に書く前には、「監獄人」とか「監獄で出来あがった人間」とか云うような題で、余程アンビシャスな創作にして見ようかと云う気もあったのだ。
 僕は自分が監獄で出来あがった人間だと云う事を明かに自覚している。自負している。
 入獄前の僕は、恐らくはまだどうにでも造り直せる、或はまだ碌には出来ていなかった、ふやふやの人間だったのだ。
 外国語学校へはいった始めの頃には、大将となって何んとかする事が出来なければ、敵国に使して何んとかすると云うような支那の言葉に囚われて、或は外交官になって見ようかと云う多少の志がないでもなかった。又、学校を出る当座には、陸軍大学の教官となって、幼年学校時代の同窓等に、しかも其の秀才等に「教官殿」と呼ばして鼻を明かしてやろうかと云うような、子供らしい考がないでもなかった。学校を出てからも、僕の旧師であり且つ陸軍でのフランス語のオーソリティであった某陸軍教授を訪ねて、陸軍大学への就職を頼んだ事もあった。其の話が余程進行している間に、しかも其の教授の運動の結果を聞きに行く筈の日の数日前に、電車事件で投獄された。そして此の投獄と共に其の後の運命はきまって了った。
 そればかりではない。僕の今日の教養、知識、思想性格は、総て皆な、其後の入獄中に養いあげられ、鍛えあげられたと云ってもよい。二十二の春から二十七の暮れまでの獄中生活だ。しかし、前に云ったように、極めて暗示を受け易い心理状態に置かれる獄中生活だ。それがどうして、僕の人間に、骨髄にまでも食い入らないでいよう。
 故郷の感じを始めて監獄で本当に知ったように、僕の知情意は此の獄中生活の間に始めて本当に発達した。いろいろな人情の味、と云うような事も始めて分った。自分とは違う人間に対する、理解とか同情とか云うような事も始めて分った。客観は愈々益々深く、主観も亦愈々益々強まった。そして一切の出来事をただ観照的にのみ見て、それに対する自己を実行の上に現わす事の出来ない囚人生活によって、此の無為(イナクティブ)を突き破ろうとする意志の潜勢力を養った。

 僕は又、此の続獄中記を、「死処」と云うような題で、僕が獄中生活の間に得た死生問題に就いての、僕の哲学を書いて見ようかとも思った。現に、一と晩夜あけ近くまでかかって、其の発端だけを書いた。
 東京監獄で押丁(おうてい)を勤めていて、僕等被告人の食事の世話をしていた、死刑執行人に就ての印象。友人等の死刑後の、其の首に残った、紫色の広い帯のあとに就いての印象。千葉監獄在監中の、父の死に就いての印象。一親友の死についての印象。又、牢獄の梁の上からぽたりぽたりと落ちて来る蠅の自然死に就いての印象。一同志の獄死に就いての印象。一同志の出獄後の狂死に就いての印象。其他数え立てれば殆んど限りのない、いろいろな深い印象、と云うよりは寧ろ印刻が、死と云う問題に就いての僕の哲学を造りあげた。

 実際僕は、最後に千葉監獄を出た時、始めて自分が稍々真人間らしくなった事を感じた。世間の何処に出ても、唯一者としての僕を、遠慮なく発揮する事が出来るようになった事を感じた。そして僕は、僕の牢獄生活に対して、神の与えた試練、み恵み、と云うような一種の宗教的な敬虔な感念を抱いた。
 牢獄生活は広い世間的生活の縮図だ。しかも其の要所要所を強調した縮図だ。そして此の強調に対するのに、等しく又強調された心理状態を以て向うのだ。これ程いい人間製作法が他にあろうか。
 世間的生活は広い。いくらでも逃げ場所はある。従って其処に住む人間の心はとかくに弛緩し易い。本当に血の滴るような深刻な内面生活は容易に続け得られない。其他種々なる俗的関係の顧慮もある。一切を忘れる種々なる享楽もある。なまけ者には到底其の人間は造れない。そして人間は元来がなまけ者に出来ているのだ。
 僕は最後に出獄して、先づ世間を見て、其の人間共の頭ばかり大きく発達しているのに驚かされた。頭ばかり大きく発達しているのはなまけ者の特徴だ。彼等はどんなに深刻な事でも考えると云う。しかし其の考や言葉には、其の表に見える深刻さが、其儘裏づけられている、と云うようなのは殆んどない。裏づけられた実感の方が、其の現わされた考や言葉よりも更に一層深い、と云うようなのは滅多にない。其の考や言葉が其儘直ちに実行となって現われなければ已まない、と云うようなのは更に少ない。
 僕は此のなまけ者共の上の特権者だ。監獄人だ。

 が、こんな事を一々事実に照らして具体的に暗示し説明して行くことは、此の雑誌の編輯者の希望ではない。せいぜい甘い、面白可笑しいものと云う註文なんだ。
 つい脱線して飛んだ気焔になって了ったが、ちょっと籐椅子の上に寝ころんで、日向ぼっこをしながら一ぷくして、又始めの呑気至極な思い出すままだらりだらりと書いて行く与太的雑録に帰ろう。

 死刑執行人

 と云ってもやはり、先づ思い出すのは、先きに書きかけた「死処」の中の材料だ。これはいづれ物にするつもりであるが、従って今洩らすのは大ぶ惜しい気もするが、其の中のたった一つだけを見本のつもりで書いて置こう。
 東京監獄に、今はもういないが、もと押丁と云うのがいた。看守の下廻りのようなもので、被告人等に食事を持ち運んだりする役を勤めていた。いつも二人か三人かはいたようだが、皆んなまだ若い男で、一二年勤めているうちには、小倉のぼろ服を脱いでサアベルをつった看守になった。
 が、其の中にただ一人、十年か二十年か或はもっと長い間か、とにかく最後まで、押丁で勤め終わせた一老人があった。僕が始めて見た時には、もう六十を二つ三つは越した年齢であったろうが、小造りながら厳丈な骨組の、見るからに気味の悪い形相の男だった、実際僕は始めて東京監獄にはいった翌朝、例の食器口のところへぬうと此の男に顔を出された時には、思わずぞっとした。栄養不良らしい蒼ざめた鈍い土色の顔を白毛まじりの灰色の濃い髯にうづめて、其の中から余り大きくもない眼をぎょろぎょろと光らしていた。其の光りの中には、強盗殺人犯か強盗強姦犯かの眼に見る獰猛な光りと、高利貸かやりて婆さんかの眼に見る意地の悪い執拗な光りとを併せていた。それに其の声までが、少ししゃがれ気味の低い、しかし太い、底力の籠った、何処までも強請して来る声だった。ちょっと何にか云うのでも、けだ物の吠えるように聞えた。
「これに拇印をおして出せ。」
 不意に斯う怒鳴られるように呼ばれて、差入弁当と其の差入願書とを突き出されたものの、其の突き出して来た太い皺くちゃな土色の指を気味悪く見つめたまま、暫く僕はぼんやりしていた。
「早くしろ。」
 僕は再び其の声に驚かされて、あわてて拇印をおして、願書をさし出しながらそうっと其の男の顔をのぞいた。そして不意に、本能的に、顔をひっこめた。何んと云う恐ろしい、気味の悪い、いやな顔だろう。
 始めての差入弁当だ。麹町の警察と警視庁とに一晩づつを明かして、二日半の間、一粒の飯も一滴の湯も咽喉を通さなかった今、始めて人間の食物らしい弁当にありついたのだ。それだのに、どうしても僕は、直ぐに箸をとる気になれなかった。今の男の声と指とが眼の前にちらつく。殊に、あの指で、と思うと、漸く箸を持ち出してからも、はき気をすらも催した。
 被告人等は皆な、他の押丁とは、よくふざけ合っていた。おつけの盛りかたが少ないとか、実の入れかたが少ないとか、云うような我がまままでも云っていた。どうかすると「なんだ押丁のくせに」と食ってかかるものすらもあった。又、其の押丁が看守になってからでも、皆んなはやはり、前と同じように親しみ狎れ、又は軽蔑していた。或る押丁あがりの看守の如きは、其の男は今でも看守をしているが、其の姓が女郎の源氏名めいているところから、夜巡回に来て二階の梯子段をかたかた昇って行く時なぞに、「◯◯さんへ」と終りの方を長くのばした黄いな声で呼ばれて、からかわれていた。
 しかし彼の老押丁とは誰れ一人口をきくものもなかった、先きに云った僕との獄友の強盗殺人君ですらも、此の老押丁とは多くはただ睨み合ったまま黙っていた。看守も、他の押丁に対しては時々大きな声で叱ったりする事もあるが、此の老押丁に対してだけは余程憚っていた。用事以外には口もきかなかった。
 老押丁は斯うして皆んなに憚かられ気味悪がられ恐れられながら、いつも傲然として、黙々として自分の定められた仕事をしていた。そして自分のする仕事に就いて少しでも口を出すものがあれば、被告人でも上役のものでも誰れ彼れの別なく、直ぐに眼をむいて怒鳴りつけた。僕は此の男が一度でも笑い顔をしたのを見た事がなかった。

 やがて僕は、此の男に、だんだん興味を持ち出して来た。気味の悪いのや、折々怒鳴りつけられて癪にさわるのは、始めからと変りはなかったが、それだけ此の男に就いての印象は益々深く、其の人間を知ろうとする興味も益々強まって行った。
 或日の運動の時、僕は獄中の何事に就いてでも其の男に尋ねるのを常としていた、そして又何事に就いてでもいつも明快な答を与えてくれた例の強盗殺人君に此の老押丁の事を話しかけた。
「あの爺の押丁ね、あいつは一体何者なんだい。」
 なんでも其の日の朝、食事の時に、おつけの実の盛りかたが少ないと云うような小言を云って、強盗殺人君は老押丁に怒鳴られていた。で僕はそれを思い出して、何気なく聞いて見たのだった。そして僕は、せいぜい、
「うん、あいつか。あれはもと看守部長だったのが、典獄と喧嘩して看守に落されて、其後とうとう押丁に落されちゃったんだ。」
位の返事を期待していたに過ぎなかった。が僕は、僕の問の終るか終らぬうちに、急に強盗殺人君の顔色の曇ったのを見た、そして其の答の意外なのに驚かされた。
「あいつがこれをやるんだよ。」
 殺人君は親指と人さし指との間をひろげて、それを自分の咽喉に当てて見せた。  僕は其儘黙って了った。殺人君もそれ以上には何んにも云わなかった。
 それ以来僕は、先きに気味悪かった此の老押丁の太い皺くちゃな土色の指を、食事を突き出される度に、益々気味悪く見つめた。時としては、思わずそれから、眼をそむけた。
 其後幸徳等が殺された時に聞いた話だが、死刑執行人は執行のたびに一円づつ貰うのだそうだ。そしてあの老押丁はそれを皆んな其の晩に飲んで了うのだったそうだ。 彼れは、幸徳等十数名が殺された直ぐあとで、何故か職を辞した、と聞いた。
 今僕は、ここまで書いて来て、暫く忘れていた、「あの指」を思い出し、又友人等の死骸に見た咽喉のまわりの広い紫色の帯のあとを思い出して、其の当時の戦慄を新しくしている。
 嘗つて僕はユウゴオの『死刑五分間』を読んだ。又アンドレイエフの『七死刑囚』を読んだ。殊に後者は、余程後に、千葉の獄中で読んだ。其の時にはたしかに或る戦慄を感じた。しかし今、其の筋を思い出して見ても、嘗つての時の戦慄の実感は少しも浮んで来ない。其の悽惨な光景や心理描写が、極めて巧妙に極めて力強く、描き出されてあった事の記憶が思い浮べられるに過ぎない。けれどもあの二つの事実だけは、思い出すと同時に直ぐに其の当時の実感が湧いて来る。周囲の光景や場面の、又其の時の自分の心持の記憶なぞよりも先きに、先づぶるぶると慄えて来る。


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