大杉 栄 12


 

獄中記      (1919年1-2月)


[千葉の巻]

 うんと鰯が食えるぜ

 が、又半年も経つか経たぬ間に、こんどは例の赤旗事件で官吏抗拒治安警察法違犯と云う念入りの罪名で、其の事件の現場から東京監獄へ送られた。同勢十二名、内女四名。堺、山川、荒畑なぞも此の中にいた。女では、巡査の証言のまづかった為めにうまく無罪にはなったが、後幸徳と一緒に雑誌を創めて新聞紙法違犯に問われ、更に又幸徳と一緒に死刑になった、彼の菅野須賀子もいた。
 と同時に、二年前に保釈出獄した電車事件の連中も、一審で無罪になったのを検事控訴の二審で又無罪になり、更に検事の上告で大審院から仙台控訴院に再審を命ぜられ、そこで初めて有罪になったのをこんどはこちらから上告して大審院で審議中であったのだが、急に保釈を取消されて矢張り東京監獄に入監された。此の連中が西川、山口などの七八名。僕は此の両方の事件に跨がっていた。
 東京監獄は仲間で大にぎやかになった。しかし、やがて女を除く皆んなが有罪にきまった時、東京監獄ではこれだけの人数を一人一人独房に置くだけの余裕も設備もなかった。僕等は一種の悪伝染病患者のようなもので、他の囚人と一緒に同居させる事も出来ず、又仲間同士を一緒に置く事は更に其の病毒を猛烈にする恐れがある。そこで皆んなは、最新式の建築と設備とを以て模範監獄の称のある、日本では唯一の独房制度の千葉監獄に移されることになった。
 千葉は東京に較べて冬は温度が五度高いと云うのに、監獄は其の千葉の町よりももう五度高いと云う程の、そして夏もそれに相応して冷しい、千葉北方郊外の高燥な好位置に建てられていた。
「あれが皆んなの行くとこなんだ。」
 汽車が千葉近くなった時、輸送指揮官の看守長が、丁度甥共を初めて自分のうちへ連れて行く伯父さんのような調子で、(実際此の看守長は最後まで僕等にはいい伯父さんだった)いろいろ其の自分のうちの自慢をしながら、左側の窓からそとを指さして云った。皆んなは頸をのばして見た。遥か向うに、小春日和の秋の陽を受けて赤煉瓦の高い塀をまわりに燦然として輝く輪奐の美が見えた。何にも彼もあの着物と同じ柿色に塗りたてた建物の色彩は、雨の日や曇った日には妙に陰鬱な感じを起させるが、陽を受けると鮮やかな軽快な心持を抱かせる。
「鰯がうんと食えるそうだぜ。」
 僕は直ぐそばにいた荒畑に、きのう雑役の囚人から聞いた其儘を受け売りした。幾回かの入獄に、僕等はまだ、塩鱈と塩鮭との外の何等の魚類をも口にした事がなかったのだ。で、此の話を聞いた僕には、それが唯一の楽しい期待になっていたのだ。
「それゃいいな。早く行って食いたいな。」
 荒畑も、そばにいた他の二三人も、嬉しそうに微笑んだ。

 下駄の緒の心造り

 着いて見ると、成程建物は新築したばかりでてかてか光っている。室は四畳半敷き位の、南向きの、明るい小綺麗な室だ。何によりも先づ窓が低くて大きい。東京のちょっとした病院の室よりも余程気持がいい。
 が、第一に先づ役人の利口でないのに驚かされた。着くと直ぐ、皆んな一列にならべさせられて、受持の看守部長の訓示を受けた。
「こんどは皆んな刑期が長いのだから、よく獄則を守って、二年のものは一年、一年のものは半年で出られるように、自分で心掛けるんだ。」
と云うような意味の事を繰返し繰返し聞かされた。僕等はあざ笑った。こんなだましが僕等にきくと思っているんだ。又、よし本当に好意でそう云ってくれたものとしても、僕等に仮出獄なぞと云う謂わゆる恩典があるものと思うのも余りに間が抜けている。まるで僕等を知らないんだ。それだけならまだいい。此の訓示が済んで、一行八人(電車事件の方は一足先きに来た)が別々に隣り合った室へ入れられた時、こんどは受持の看守が、
「つまらん事で大ぶ食ったもんだな。一度はいると大ぶ貰えると云う話しだが、こんどは皆んな幾らづつ貰ったんだ。」
と云う情ないお言葉だ。政党か何にかの壮士扱いだ。さすがの堺を初め皆んなは顔見合わせて苦笑するの外はなかった。ただ、ふだんは神経質に爪ばかり噛っているように見えたのが、入獄以来其の快活な半面を切りに発揮し出した荒畑が、「アハハア」と大きな声を出して笑った。看守はけげんな顔をしていた。
 上典獄を始め下看守に至るまでが殆ど総て此の調子なのだからやり切れない。
 それに、第一に期待していた例の鰯が、夕飯には菜っ葉の味噌汁、翌日の朝飯が同じく菜っ葉の味噌汁、昼飯が沢庵二た切と胡麻塩、と来たのだから益々堪らない。
 加うるにこんどは今迄の禁錮と違って、懲役と云うのだから、一定の仕事を課せられる。しかも其の仕事が、東京監獄では極く楽で綺麗な経木あみであったのが、南京麻の堅いのをゴシゴシもんで柔らかくして、それで下駄の緒の心をなうのであった。手があれる。だけなら未だしも下手をやると赤むけになる。埃が出る。可なり骨が折れる。それを昼の間十時間位やって、其の上に又夜業を二三時間やらされる。始めの一日でうんざりして了った。

 三度減食を食う

 三日目か四日目の事だ。毎日の此の仕事に疲れ果てて、少しでも仕事の手を休めていると、うとうとと眠って了う。座りながら幾度か眠っては覚め、眠っては覚めしているうちに、とうとう例の胡麻塩の昼飯後の三十分か一時間かの休憩時間に、いつの間にか居眠りのまま横に倒れて了った。
「こら、起きろ!」
と云う声にびっくりして目を覚ますと、僕は自分のそばに畳んである布団の上に半身を横たえて寝ていた。
「横着な奴だ。はいる早々もう真っ昼間から寝たりなんぞしやがって。貴様は監獄の規則なんぞ何んとも思ってないんだな。」
 看守は、貴様のような壮士が何んだと腹を見せて、威丈高になって怒鳴りつづけた。
 暫くして典獄室へ呼びつけられた。僕はみちみち、甚だ意気地のないことだが馴れない仕事に疲れてつい、と有りのままの弁解をするつもりで行った。ところが典獄室にはいって一礼するかしないうちに、
「貴様は社会主義者だな。それで監獄の規則まで無視しようと云うんだろう。減食三日を仰せつける。以後獄則を犯して見ろ。減食位ぢゃないぞ。」
と恐ろしい勢で怒鳴りつけられた。
「ええ、何んでもどうぞ。」
と僕は、外国語学校の一学友の、海軍中将だとか云う親爺の、有名な気短屋で怒鳴屋だと云うのを思い出しながら、(典獄は此の学友の親爺と云ってもいい位によく似ていた)其のせりふめいた怒鳴り方の可笑しさを噛み殺して答えた。
「何に!」
と典獄は椅子の上に上半身をのばして正面を切ったが、こちらが黙って笑顔をしているので、
「もういいから連れて帰れ。」
と、こんどは僕のうしろに不動の姿勢を取って突っ立っている看守に怒鳴りつけた。僕は幼年学校仕込みの「廻れ右」をわざと角々しくやって、典獄室を出た。これは幼年学校時代の叱られる時のいつもの癖であったが、此の時は皮肉でも何んでもなく、思わず古い癖が出たのだった。

 幼年学校時代の癖と云えば、もう一つ、妙な癖を屋張り此の監獄で発見した。
 これは其後余程経ってからの事だが、矢張り何にか叱られて、看守長室へ呼ばれた事があった。其の看守長はせいの低い小太りで猫背の濃い口髯の、そしていつも顔中髯だらけにして其中から意地の悪るそうな細い眼を光らしている男だった。僕等は此の男を「熊」と呼んでいた。
 はいると、いきなり、
「そこへ座れ。」
と顎で指さした。見ると、足下にはうすべりが二枚に折って敷かれている。僕は黙って知らん顔をしていた。煉瓦造りの西洋館の中で椅子テエブルを置いて、しかも向うは靴をはいて其の椅子に腰掛けながら、こちらには土下座をしろと云うのだ。僕は殆どあきれ返った。
「なぜ座らんか。」
「いやだから座らない。」
「何にがいやだ。」
「立っていたって話しが出来るぢゃないか。」
「理窟は云わんでもいいから座れ。」
「君も座るんなら僕も座ろう。」
と云うような押問答の末に、さっきから其の濃い眉をびくびくさせていた看守長は、決然として起ちあがった。
「命令だ! 座れ!」
 僕は此の命令と云う声が僕の耳をつんざいた時に、其の瞬間に、僕のからだ全体が「ハッ」と恐れ入る何者かに打たれた事を感じた。そしてそれを感じると同時に、其の瞬間の僕自身に対する反抗心がむらむらと起って来た。
「命令が何んだ。座らせるなら座らせて見ろ。」
 さっきまでの冷笑的の態度が急に挑戦の態度に変った。そして此の時も矢張り、前の典獄室に於けると同じように、其儘自分の室へ帰された。叱られる筈の事には一言も及ばないうちに。
 此の命令だと云う一言に縮みあがるのは、数千年の奴隷生活に馴れた遺伝のせいもあろうが、僕には矢張り大部分は幼年学校時代の精神的遺物であろうと思われる。  僕は元来極く弱い人間だ。若し強そうに見える事があれば、それは僕の見え坊から出る強がりからだ。自分の弱味を見せつけられる程自分の見え坊を傷つけられる事はない。傷つけられたとなると黙っちゃいられない。実力があろうとあるまいと、とにかくあるように他人にも自分にも見せたい。強がりたい。時とすると此の見え坊が僕自身の全部であるかのような気もする。
 こんど犯則があれば減食位では済まんぞと云う筈のが、其後三日間と五日間との二度減食処分を受けた。一度は荒畑と運動場で話ししたのを見つかって二人ともやられた。もう一度のは何にをしたのだったか今ちょっと思い出せない。
 荒畑も僕と同じようによく叱られていたが、或晩あまり月がいいので窓下へ行って眺めていると、
「そんなところで何をぼんやりしている。・・・何に、月を見てるのだ? 月なんぞ見て何んになる? 馬鹿!」
とやられたと云って、あとで其の話をして大笑いした事があった。

 もう半年はいっていたい

 要するに僕等は監獄にはいってこれ程の扱いを受けるのは始めてだった。しかし僕等は、先方の扱い如何に拘わらず、一年なり二年なりの長い刑期を何んとかして僕等自身に最も有益に送らなければならない。
 僕は其の方法に就いて二週間ばかり頭を悩ました。方法と云っても読書と思索の外にはない。要はただ其の読書と思索の方向をきめる事だ。
 元来僕は一犯一語と云う原則を立てていた。それは一犯毎に一外国語をやると云う意味だ。最初の未決監の時にはエスペラントをやった。次ぎの巣鴨ではイタリー語をやった。二度目の巣鴨ではドイツ語をちっと噛った。こんども未決の時からドイツ語の続きをやっている。で、刑期も長い事だから、これがいい加減ものになったら、次ぎにはロシア語をやってみよう。そして出るまでにはスペイン語もちょっと噛って見たい。と先づきめた。今までの経験によると、ほぼ三ヶ月目に初歩を終えて、六ヶ月目には字引なしでいい加減本が読める。一語一年づつとしてもこれだけはやられよう。午前中は語学の時間ときめる。
 斯う云うと、僕は大ぶえらい博言学者のように聞えるが、実際又此の予定通りにやり果して大威張りで出て来たのだが、其後すっかり怠け且つ此の監獄学校へも行かなくなったので、今ではまるで何にも彼も片なしになって了った。
 それから、以前から社会学を自分の専門にしたい希望があったので、それを此の二ヶ年半に稍々本物にしたいときめた。が、それも今迄の社会学のではつまらない。自分で一個の社会学のあとを追って行く意気込みでやりたい。それには、先づ社会を組織する人間の根本的性質を知る為めに、人類学殊に比較人類学に進みたい。そして後に、此の二つの科学の上に築かれた社会学に到達して見たい。と今考えると誠にお恥かしい次第だが、ほんの素人考えに考えた。それには、あの本も読みたい、この本も読みたい、と数え立ててそれを読みあげる日数を算えて見ると、どうしても二ヶ年半では足りない。少くとももう半年は欲しい。
 斯うなると、今まで随分長いと思っていた二ヶ年半が急に物足りなくなって、どうかしてもう半年増やして貰えないものかなあ、なぞと本気で考えるようになる。
 仕事はある。しかしそれは馴れさえすれば何んとでもなる。一日幾百足と云う規定ではあるが、其の半分か、四分の一か、或はもっと少なくってもいい。何んと云われてもこれ以上は出来ませんと頑張ればいい。皆んなで相談して窃かに或る程度にきめれば更に妙だ。現に此の相談は殆ど最初から、自然に出来あがっている。とにかく、出来るだけ仕事の時間を盗んで、勉強する事だ。
 斯うきめて以来は滅茶苦茶に本を読んだ。仕事の方は馴れるに従って益々早くやれるようになる。それに、下等の南京麻ではない上等の日本麻をやらしてくれる。愈々益々仕事はし易い。しかし仕事の分量は最初から少しも増やさない。ただもう看守のすきを窺っては本を読む。
 斯くして僕は、嘗て貪るようにして掻き集めた主義の知識を殆ど全く投げ棄てて、自分の頭の最初からの改造を企てた。

 鱈腹食う夢を見て下痢をする

 一方に学究心が盛んになると共に、僕は僕の食慾の昂進、と云うよりも寧ろ食っ気のあまりにもさもしい意地ぎたなさに驚かされた。
 最初の東京監獄の時は弁当の差入れがあるのだから別としても、其の次ぎの巣鴨の時にも、二度目の巣鴨の時にも、刑期の短かかったせいかそれ程でもなかったが、こんどは自分ながら呆れる程にそれがひどくなった。好き嫌いの随分はげしかったのが、何んでも口に入れるようになったのは結構だとしても、以前には必ず半分か三分の一か残った、あのまづかった四分六の飯を本当に文字通り一粒も残さずに平げて了う。おはちの隅にくっついているのも、おしゃもにくっついているのも、落ちこぼれたのでさえも、一々丁寧にほじくり取り、撫で取り、拾い取る。ちゃんと型に入れて、一食何合何勺ときまっている飯の塊りを、きょうのは大きいとか小さいとか云って窃に喜び又は呟く。看守が汁をよそってくれるのに、ひしゃくを桶の底にガタガタあてるかどうかを、耳をそばだて眼を円くして注意する。底にあてればはいって来る実が多いのだ。それも茶碗を食器箱の蓋に乗せてよそって貰うのだが、其の蓋の中にこぼれた汁も、蓋を傾けてすすって了う。特に残汁と云って、一と廻り廻った残りを又順番によそって歩くことがある。其の番の来るのがどれ程待ち遠しいか知れない。
 小説なぞを読んでいて、何にか御馳走の話が出かかって来れば、急いでペエジをはぐって、其の話を飛ばして了う。とても読むには堪えないのだ。そうかと思うと、本を読んでいる時でも、何んでもない事がふと食物と連想される。
 折々何にか食う夢を見る。堺もよく其の夢を見たそうだが、堺のはいつも山海の珍味と云ったような御馳走が現われて、いざ箸をとろうとすると何にかの故障で食えなくなるのだそうだ。堺はひどくそれを残念がっていた。然るに僕のは、しるこ屋の前を通る、いろんな色の餅菓子やあんころ餅などが店先にならべてある、堪らなくなって飛び込む、片っ端から平らげて行く、満腹どころか満のどにまでもつめこんでうんうん苦しがる、と云うような頗る下等な夢だ。そして妙な事には、苦しがって散々もがいたあげく、ふと眼をさますと腹具合が変だ。急いで便所へ行くと一瀉千里の勢で跳ね飛ばす。そうでなくても翌朝起きてからきっと下痢をする。まるで嘘のような話だ。
 然らば色慾の力はどうかと云うに、是れ亦頗る妙だ。先きの東京監獄や巣鴨監獄では時々妙な気も起きたが、ここへ来てからまるでそんな事がない。
 僕は子供の時には、性慾を絶った仙人とか高僧とか云うものは非常に偉いものと思っていたが、稍々長じてからは、そんな人間があるとすれば老耄の廃人位に考えていた。しかしそれはどちらも誤っていた。僕のような夢にまで鱈腹食って覚めてから下痢をすると云う程の浅ましい凡夫でも、時と場合とによれば、境遇次第で、何んの苦心も修養も煩悶もなく、直ちに聖人君子となれるのだ。或る夜などは、自分が不能者になったのかと思って少々心配し出して、わざといろんな場面を回想若しくは想像して見た。が、遂に其の回想や想像が一つとして生きて来ない。僕は殆んど絶望した。

 危く大逆事件に引込まれようとする

 一ヶ年の刑期のものはとうに出た。一ヶ年半のものも出た。二ヶ年の堺と山川ももう残り少なくなった。そこへ突然検事が来て、今お前等の仲間の間に或る大事件が起っているが知っているかと云う御尋ねだ。何にか途方もない大きな事件が起きて、幸徳を始め大勢拘引されたと云う事は薄々聞いていた。其の知っただけの事を、又どうしてそれを知ったのか、監獄の取締上一応聞いて置きたいと云うのだ。うろん臭いのでいい加減に答えて置いた。
 すると数日経って、不意に、恐ろしく厳重な警戒の下に東京監獄へ送られた。そして検事局へ呼び出されて、こんどは本式に、謂わゆる大逆事件との関係を取調べられた。
「此の事件は四五年前からの計画のものだ。お前等が知らんと云う筈はない。現にお前等も其の計画に加わっていたと云う事は、他の被告等の自白によっても明らかだ。」
とくどくどと嚇されたりすかされたりするのだが、何分何にも知らない事はやはり知らないと答える外はない。
 監獄では典獄を始めどの看守でも、切りに、気の毒そうに同情してくる。
「こんな事件にひっかかったんでは、とても助かりっこはない。本当に気の毒だな。」
と明らさまに慰めてくれる看守すらある。皆んなで僕等を大逆事件の共犯者扱いするのだ。
 最初はそれを少々可笑しく思っていたが、此の同情が重なるに従ってだんだん不安になり出して来た。監獄の役人がこれ程まで思っているのだから、或は実際検事局で僕等を其の共犯者にして了ってあるのぢゃあるまいか、と疑われ出して来た。まさかと打消しては見るが、どうしても打ち消し得ない或者が看守等の顔色に見える。そうなったところで仕方がない、とあきらめても見るが、そうなったのかならぬのか明らかにならぬうちは、矢張り不安になる。
 やがて堺は無事に満期出獄した。それで此の不安は大部分おさまった。しかしまた役人等の僕に体する態度には少しも変りがない。僕自身ももう満期が近づいたのだから、出獄の準備をしなければならぬと思って、二ヶ月に一回づつしか許されない手紙や面会の臨時を願い出ても、典獄や看守長はそんな事をしても無駄だと云わんばかりの事を云って、一向とり合ってくれない。ただ気の毒そうな顔色ばかり見せている。どうかすると僕一人があの中に入れられるのかな、と疑えば疑えない事もない。が、其後少しも検事の調べがないのだから、と又それを打消しても見る。
 其の間に僕は大逆事件の被告等の殆んど皆んなを見た。丁度僕の室は湯へ行く出入口のすぐそばで、其の入口から湯殿まで行く十数間のそと廊下をすぐ眼の前に控えていた。で、すきさえあれば、窓から其の廊下を注意していた。皆んな深いあみ笠をかぶっているのだが、知っているものは風格好でも知れるし、知らないものでも其の警戒の特に厳重なのでそれと察しがつく。
 或日幸徳の通るのを見た。「おい、秋水! 秋水!」
と二三度声をかけて見たが、そう大きな声を出す訳にも行かず、(何んと云う馬鹿なな遠慮をしたものだろうと今では後悔している)それに幸徳は少々つんぼなので、知らん顔をして行って了った。
 とうとう満期の日が来た。意外なのを喜ぶ看守等に送られて、東京監獄の門を出た。そとでは六七人の仲間が待っていた。皆んなで手を握り合った。

 出獄して唖になる

 僕は出た一日は盛んに獄中の事なぞのお饒舌をしたが、翌日からはまるで唖のようになった。殆んど口がきけない。二年余りの間殆んど無言の行をしたせいか、出獄して不意に生活の変った刺激のせいか、とにかくもとからの吃が急にひどくなって、吃りとも云えない程ひどい吃りになった。
 で、其後まる一ヶ月間位は殆んど筆談で通した。うちにいるんでも、そとへ出掛けるんでも、ノオトと鉛筆を離した事がない。
「耳は聞えるんですか。」
とよく聞かれたが、勿論耳には何んの障りもない。それでも知らない人は、僕がノオトに何にか書いて突き出すので、向うでも同じように其のノオトに返事を書いて寄越したりした。
 これは僕ばかりではない。其後不敬事件で一年ばかりはいった仲間の一人も、やはり吃りであったが、出た翌日から殆んど唖になって了った。そして矢張り僕と同じように、一ヶ月ばかりの間筆談で暮らしていた。

 牢ばいりは止められない

 又少々さもしい話になるが、出る少し前には、出たら何にを食おう、彼を食おうの計画で夢中になる。しかし出て見ると、殆んど何にを食っても極りなくうまい。
 先づあの白い飯だ。茶碗を取り上げると、其の白い色が後光のように眼をさす。口に入れる。歯が、丁度羽布団の上へでも横になった時のように、気持よく柔らかいものの中にうまると同時に、強烈な甘い汁が舌のさきへほとばしるように注ぐ。此の白い飯だけで沢山だ、ほかにはもう何んにも要らない。
「あれを思いだしちゃ、とても牢ばいりはやめられないな。」
 前科者同士がよく出獄当時の思出話しをしながら、斯う云っては笑う。実際日本飯の本当の味なぞは、前科者ででもなければ到底味えない。


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