幸徳秋水 3


 

 或点迄の賛成     (1904年10月)


 世間には、左も心得たりげの顔して、「予も或点までは社会主義者也」と語る人あり、然り此種類の人甚だ多し、多過ぎるほど之有り。
 此人や、亦「或点までは」個人主義者たり、「或点までは」帝国主義者たり、「或点までは」進歩党とも合い、「或点までは」政友会にも賛するの人也、実に彼は何人に対しても、何党員、何主義者に対しても、「或点まで」同意見なることを宣言し、以て相手の機嫌を損ぜざらんことを注意するの人也。
 此人が「予も或点までは社会主義者也」というの時は、即ち「それにて満足されんことを希望す」ということを意味し、「それ以上を問詰むること勿れ」ということを意味する也、試みに彼に向って「或点とは何の点なりや」と問わば、彼は答うる所を知らざれば也、然り、実際彼が社会主義に関して知る所は唯だ一のみ、曰く、社会主義は進歩発達しつつありということ是れのみ、彼は此以上此以外を知らず、亦知らんとも力めず、所詮かれは大多数に附和雷同するの人也、而して将来社会主義が大多数を占め得ずとも限られざれば「或点までは」賛成し置くもの也。
 彼は慎重の美徳なることを聞けり、彼は他と忤わざるを以て、良好の政略なりと解せり、彼は社会主義に関して特に興味を有する者にはあらざるも、有するが如くに装うを以て、愛嬌を保の秘訣となすなり、彼は平生穏和なる答弁が、他の敵意を除去する所以の術なるを知る、而て彼が考案せる答弁の尤も穏和なるは「或点までは足下と同意見なり」という一語也。
 此人や、熱心なる社会主義者より之を見れば、到底説得の見込なき人物なるが如しと雖も、而も、彼れも多少の進化を経来り、今後も多少の進化を為し得べき者なることを忘る可らず、若し今より三年以前に在しめば、彼は多分社会主義に対しては殆ど唾も仕かけざりしならん、而して彼が社会主義を知らざることは今猶お旧の如しと雖も、而も三年後の今日に於て「或点までは」之に賛するを躊躇せざるに至りしは、実に社会の多数が社会主義に就て喋々するに至れることを看取したれば也、社会主義者の数の漸次に増加し行くを見ては、其全く唾棄す可らざる者なるべし位の考えは出来りたれば也。
 故に此人や極めて不真面目なりと雖も、一般社会に於ける社会主義の進歩弘通の里程標たるもの也、而して社会主義者の勢力増加すると共に此種の人物亦従って増加し行く可し。
 故に此種の人に向って、社会主義を賛成せしめんが為に、時を費し力を費すは無用也、吾人の大に勉強して勧説伝道すべきは、此種の人にあらずして、寧ろ激烈に社会主義に反対して、之に抗論せんと試むるの人々か、若くば誠実に之を研究せんと欲するの人々なり、是等の人々は、十分に社会主義の真理たることを知り得べきの人にして、而して一たび其真理たるを知れる以上は、熱心に社会主義の為めに尽力するに至るや必せり、然り、是等の人々は頼母しき人々也、否な、彼の「社会主義が勢力を得るに至らば、予も之に加盟すべし」と明言するの人すらも、「或点までの社会主義者」と自称する体裁よき紳士に比すれば、優ること万々也。
 然れども時は近づけり、吾人万人が資本家制度乎、社会主義乎、朽廃の組織乎、新興の勢力乎、二者其一を撰ばざる可らざるの時は確かに近づけり、此時一たび到来せば、我が慎重なる友、即ち「或点までの社会主義者」も、亦頭数に数えらるるを得ん、吾人が此種の人に期待する所は唯だ如此きのみ、夫れ禍災も三年を経ば、利益となるべしといえり、彼れも亦た我主義の為めに「或点まで」利す所あらん哉、「或点まで」とは、時節到来の暁に、一個の頭数を加うるの点也。  (平民新聞第四十九号)


 

 露国革命が与うる教訓   (1905年2月)


 露国革命運動の由来は極めて古い。
 前世紀の初めに於て、仏国大革命の後ち西欧から帰った軍隊が齎(もたら)したものは、其戦勝の光栄よりも仏人と接触して得た革命的思想の方が多かったのである。左れば一八二五年十二月に於て、早く既に十二月党の謀叛がニコラス皇帝を危うくしたことがある、次で四十年代より五十年代にかけて、ヘルツェン、バクーニン等の諸先党が激烈なる運動は、露国の思想界に著しく革命の種子を撒布した。
 而して此種子をして忽ち青々と萌出しめた肥料は、実に一八六一年アレキサンドル二世の農奴解放の一事である。
 農奴解放の結果、農民は、従来の生活の保障を失うと同時に、苛重なる負担は増加した、其分賦せられた少許の土地は決して彼等の衣食を支うるに足りなかった、農民の三分の一なる二千万人は忽ち土地を失うて漂泊の民となった、露帝が与えた自由は、其実「飢餓の自由」であった。
 不平と痛苦と貧乏とは、一時に露国全土を掩うて、二年の間に一千余回の農民一揆は起った、革命党が社会改造を叫び出したのは、実に此経済的状態より多数農民を救い出さんが為めであった。

 地方生活の苦痛の半面は、都会に於ける激烈な自由競争である。
 地方の青年は皆な月給取とならんが為めに、都会の学校に集注した、是迄制限された僧侶の子弟も職業選択の自由を得て競争中に飛込んで来た、二十年前迄は学生は貴族が六割を占めて居たのに一八七八年には二割三分となった、他は大抵平民の青年である。
 斯くて教育の普及と智識の進歩が下層の不平を激成するのは必然の結果である、殊に注意すべきは当時の女子教育の影響である。
 生活の苦痛は女子をして独立の職業を求むるに急ならしめる、一八七二年には露京医学校に五百人の女生徒が居た、一八七三年にはスイスツーリヒに遊学して医学を修める女生徒が七十三人もあった、下層の女子が教育を求めると同時に、貴族の女子も亦教育を求めることが熾んになった、彼等は父兄の許を待ず家を抜け出でて外国へ遊学するものすら多かった。
 青年男女が西欧文明の学術智識を抱いて野蛮なる自国の実際社会の状態に接した時には、彼等は革命党とならざるを得なかった、殊に感情の鋭い婦女の多数が、従来の圧制束縛と無知蒙昧の境涯を免れると同時に、一躍して革命党に投じたのは無理ならぬ次第である、そして是等数千の青年男女が「人民の中に行け」という大運動、大伝道の結果は、即ち一八七三−四年にかけての大捕縛となり、此大捕縛の反動は「民意党」の暗殺手段となった。
 ウェラ・ザシュリッチなる少女が時の警務総監トレポフ将軍を射殺したのを手始として、ウェラ・フィグネル女子のストリーニコツフ将軍の狙撃となり、ミスイワノフ嬢の如きは秘密印刷発見の折短銃を以て警官と戦うた、而して遂に一八八一年のアレキサンドル二世弑逆の惨劇を演ずるに至った、是等の例は殆ど枚挙に遑ま非ずして、其多くは年少の婦人が与って居る。
 殊に今も猶お人心を感奮せしむるのは、ソフィア・ペロブスカヤ女子の事跡である。
 ペロブスカヤ女子は露国貴族中、極めて名門の家に生れ、十五歳から革命運動に投じ、七十三年の大捕縛に一年入獄の後北部ロシアへ追放されたが、配所より遁走し諸種の暗殺に与った後、皇帝弑逆の時、合図の役を力(つとめ)て死刑に処せられた、行年二十六歳で有名な美人であった。
 如此き政府と革命党間の激烈なる戦闘(政府は警察力を以てし革命党は暗殺を以てする)の結果、一八六二年より一八八〇年に至る間、政治上の犯罪でシベリアへ流された男女は、一万七千人の多きに達した、而も革命思想なるものは到底根絶し得なかったのである。

 成程単純なる破壊活動と、個人的の暗殺手段は其後一時火の消えた如くになった、併し夫は革命運動の消滅ではなくて、寧ろ運動が巧妙になったのだ。
 一八八三年スイスゼネワに社会民主労働党は創立された、其創立者はプレカノフ(片山潜氏と握手せる人)、ザシュリッチ(トレポフ将軍を射殺せし婦人)、ドウィッチ(平民新聞紙上神愁鬼哭の著者)とアキセルロッドの四氏である、目的綱領は純然たるマルクス派の社会主義で、創立以来非常の勢力を得来った、彼等は四年前より「イスクラ」(火花)と題する雑誌を中央機関として発行し、其他年々数万部の図書冊子檄文等を露国に密輸入して居る。
 武力手段に関しては、一八九八年第一回の大会に於て左の如く決議した。

 大会は組織的の武力の攻撃を以て、未だ其時機に達せざるものと宣言する、併し個人的の武力事件の起った場合には、之を以て労働者の政治的自覚を発達せしむるの手段として利用すべきである。
 此党派は今露国各地に於て三十九の支部と十一派の団体とを有して居る、右社会民主党の外に、近年社会革命党なる一派が出来た、其理想は別に前者と異なる所はないが、唯だ聊(いささ)か実行手段を異にする。
 社会革命党の創立は確か一八九八年頃だと思う、去一九〇二年第一回の大会の宣言には、其目的は社会主義の基礎の上に社会を改造せんとすること、併し我等は専制政治の下に在って現制度に対する一言の批評も出来ない故に、先づ政治上の自由を得ねばならぬことを主張して居る、而して其手段としては一面腕力を用ゆること、一面多数を団結するの必要を説き殊に暗殺の手段は敵の力を分裂せしめ平民の戦闘的精神を鼓吹し、探偵及び裏切を防ぐのには已むを得ぬと称して居る。
 其結果として革命社会党中に一部は新たに「戦闘団」なる者を組織し、其幹部の決議に依て着々暗殺の実行に取り掛った。
 其手始めには一九〇二年(一昨々年)四月学生バルマシエツフが内相シピアギンを暗殺し、同年七月にはカルコツフ太守オボレンスキー(現フィンランド太守)暗殺の陰謀となり、一昨年五月にはウフアの太守ボグダノウィッチ(神愁鬼哭参照)の狙撃となり、其他例の有名なるポベドノスチエツフに対しても二回まで暗殺の準備が出来て居たが遂げ得なかった。
 而して昨年世界を驚したる内相プレーヴェの暗殺の如きも、実に彼等の計画に成ったのである。
 彼等は昨年七月二十九日付を以て「文明世界の市民に訴う」と題する一文を発表した、プレーヴェの罪悪五ケ条を挙げて暗殺の理由を述べ且つ文明の世界には暗殺は排斥すべきも露国に於ては已むを得ざる旨を論じて居る、此一文は露国革命社会党の中央委員の署名で、現に吾人の手にも仏英両国語に訳したのが来た、五ケ条の中には、人心転向の政略の為めに皇帝を勧めて日本と開戦せしめ、国家を挙げて有史以来未曾有の難境に陥らしめ、数十万の青年の生命を犠牲とし、全人民の労働の結果たる数十億の財富を麋(び)するの罪云々の条項もある。
 現在「革命社会党」は二十六の団体と十六の支部を露国各要地に置き、一昨年の春にはニューヨークにも支部を置いた、機関には「革命のロシア」其他二三の雑誌を発行し、且つ年々数万部の小冊子檄文引札様の物を配分して居る。
 是れまで何国の歴史でも政治的革命が先づ完成して然る後ち経済上の革命運動が始まって居る、前者に於ては多く腕力武力を用いたが、後者は投票権及び同盟罷工を武器とする順序になって居る、独り露国に至っては民権自由の革命と社会主義の革命とが同時に来たので、個人的の腕力手段と社会的の同盟罷工の方遥かに功果多きは何人も之を認むるであろう。
 今回の革命運動には、諸種の分子が加わって居るには違いないが、此気運を醸成し、又其重なるパートを働いて居るのは実に右の「社会民主労働党」と「革命社会党」の二派である。

 以上述べ来った革命運動の歴史は吾人に如何なる教訓を与うるであろう乎。
 第一に、革命の来るや決して一朝夕でない、其成るや又一朝夕でない、多くの年月と多くの犠牲とは常に之が為めに費されるのである。而も年月の長きと犠牲の多きが為めに、一たび萌した革命思想は決して消滅するものでない、早晩大衝突、大破裂の暁に到達せずんば止まぬのである。
 教育の普及、智識の進歩が、如何に露国国民をして自覚せしめたかを見よ、殊に女子教育が如何に革命運動に影響したかを見よ、革命を防圧せんとするには大に言論出版の自由を束縛すべしというの議論があるのは無理のないことである、併し露国に於ては毫も言論出版の自由束縛の功果は無かったのである。
 殊に驚く可きは警察力の無効なることで、露国警察の峻厳苛酷にして其探偵の機慧敏活なるは古今類例なき所である、二十年間に数万の男女は、政治犯で捕えられた、一人の犯罪者を捕うるに数万円の金を費ったのは珍しくない、而も革命思想は少しも之が為めに衰えなかった、如何に露国の警察力という者の無能なるよ。
 若し露国政府にして、今少しく人権を重んじ、自由を重んずるの心あって、早く十年二十年の前に憲法を与え議会を起して、民衆の不平を放散するの権を有せしめば、斯る忌むべく恐るべき血なまぐさき歴史を染成すには至らなかったであろう、吾人は露国革命の史を読む毎に、深く自ら戒め且つ自ら奮う所以の者多きを感ずるのである。  (「直言」二巻三号)


 

 余が思想の変化     (1907年2月)


 一

 余は正直に告白する。余が社会主義運動の手段方針に関する意見は、一昨年入獄当時より少しく変じ、さらに昨年の旅行において大いに変じ、いまや数年以前をかえりみれば、われながらほとんど別人の感がある。
 余はこれがために堺君とは数十回の激論を闘わせ、他の二三人の友人ともしばしば談論を試みた。しかして「光」の紙上にも折々その一端を記したので、すでに大体を諒知せらるる人もあるであろう。しかし余はこれまで適当な機関がなかったのと、病気で執筆が難儀であったがために、すべての同志諸君に向って、大体の趣旨を明言することを得なかった。いまや機会は来た。永く黙するのは主義のためにけっして忠実なものではない。
 ゆえに余は正直に告白する。「かの普通選挙や議会政策では真個の社会主義革命をなしとげることはとうていできぬ。社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(ジレクト・アクション)によるのほかはない。」余が現時の思想は実にかくのごとくである。

 余がかつてドイツ社会主義者もしくばその流れを汲める諸先輩の説のみを聴きて、あまりに投票と議会の効力に重きを置いた。「普通選挙にして行なわるればかならず多数の同志が選出される。同志が議会の多数を占むれば、議会の決議で社会主義を実行することができる」と思っていた。無論これと同時に労働者団結の急務をも認めていたには相違ないが、少なくも日本の社会運動の第一着は、普通選挙のほかにはないと信じて、口でも論ずれば筆にも書いた。がこれははなはだ幼稚な単純な考えであったと思う。
 細かに察すると、今のいわゆる代議制なるもので多数の幸福が計り得らるるはずがない。まずその選出の初めから、候補者、運動者、壮士、新聞紙、瞞着、脅嚇、饗応、買収とゴッタ返して選出せられた代議士に、はたして幾人か国家とか人民とかいう真面目な考えを持つものがあろう。かりに適当な人物が選出されたとしたところで、居は気を移す、議員としてのかれらはもはや候補者としてのかれらでない。首都の政治家としてのかれらはもはや田舎の有志としてのかれらでない。幾人がはたしてよく選挙以前の心持を持続し得るものがあろう。議員の全部、少なくもその大多数の生命とするところは、いつも一番上が名誉で、中が権勢、その他は利益のみではないか。かれらの眼中、一身あるのみ、一家あるのみ、もっとも高い人物でも一党派あるのみではないか。
 これ今日の日本のことのみではない、日本の制限選挙の下においてのみのことではない。スイスでもドイツでも仏国でも米国でも、その他いかなる普通選挙の下においても、選挙に勝利を占むる者は多くはもっとも金ある者、もしくはもっとも鉄面なる者、もしくはもっとも人気取りに巧みな者で、国中、もしくは党中の第一流の人物が選出されるのはきわめて稀な事実である。ゆえにこれまで厳正な意味において民意の代表されている議会は、世界を通じて皆無といってよいくらいだ。しかり、たとえ普通選挙の下においても議会はけっして完全に民意を代表し得ないというのは、今日では万国学者の多数が認むるところである。ここにおいてか公平選挙法(プロポーショナル)だの直接投票(レファレンダム)だの、人民発議権(イニシェチーヴ)だのと、種々の救治策が講ぜらるるのである。
 しかしこれらの救治策の利弊を詳論するのはしばらく措く。しょせん議会は人民の多数すなわち労働階級から組織さるるものではなくて、労働階級を敵視し、もしくは踏台とする紳士閥から組織さるるは、現今の事実である。クロポトキン翁がその『賃銀制度論』(ウェージ・システム)中に、代議政体は中等階級が一面王家に反抗して頭を抬げ、同時にかれらが労働階級を支配抑制せんがために拵えた一組織である。すなわち中等階級の統治にともなう特有の形式であると論じたのは肯綮にあたった言である。もとより議員は紳士閥出身のみでなく、普通選挙となれば多くの労働者議員も出るであろう。英国は去年すでに五十名の労働者を出した。しかもこれらの議員は当選するや否や、その多くはただちに労働者気質をなくしてしまって、美衣美食の紳士閥の風にカブレて得々たるので、はげしく攻撃されてるではないか。
 番頭がその店主のために計るものは多い、弁護士がその依頼人のために計るものも多いが、議員ばかりはけっして労働階級全体のために計るものではない。かりにかれらが人民のために有害な法律を改廃し、もしくは便利な法律を作ったとしても、これは常に自身が一時の名誉もくしくば利益と一致し、あるいは再選の準備と一致する場合に限るのである。

 三

 現時の議員はかくのごとく卑しくても、社会党の議員となればみな真面目だから民意に背く恐れはないとの説がある。なるほど今日日本の社会主義者はみな真面目である。いずれの党派でもその逆境にある時には、不真面目の人は少ないのである。逆境の党派では利するところなきがゆえに、かれらは来り加わらぬためである。しかも一朝社会主義が勢いを得て選挙場裡に多数を得るの日ありとせよ、その時、社会主義を標榜して選挙を争う多くの候補者は、かならず今日の真面目なる人々ではなくて、実に自身の名誉のために権勢のために利益のために、もしくは単に一議席を得んがために社会党に加盟せるものに違いはない。しかしてその当選者の多くはやはりもっとも金ある者、鉄面なる者、人気取りに巧みなる者に違いないのである。
 旧自由党の逆境にあるや、党員はみな慷慨の志士で、その意気精神は今日の社会主義者の遠くおよぶところではなかったのだ。しかるにかれら議会の一勢力となるや否や、かれらはもはや人民の利害を考うるよりも、まずその勢力の維持に急なるにいたった。その議席を確保すること、その利益を増進することに急なるにいたった。しかしてほどなく提携、妥協、交譲等の美名の下に、昔年の革命党はまったくその深仇たる藩閥の奴隷となってしまったではないか。これ少しも怪しむに足りない。単に国会開設を目的とし、議会の多数を占むるを目的として進んだ政党が、その目的を達するやただちに腐敗し去るは当然である。もし社会党にしてかく投票の多数、議席の多数という世俗的勢力に眩惑し垂涎して、これをもってその第一着の事業となすにおいては、殷鑑遠からず自由党の末路にあり、その前途やきわめて危険と言わねばならぬ。
 否自由党のみでない。現に社会党にあっても仏国のミレランはさきに紳士閥と妥協して内閣に入ったではないか。英国のジョン・バーンスも今回個人主義者と提携して内閣に入ったではないか。余は個人としてのミレランやバーンスを尊敬する。しかも革命党としてのかれらは確かに一歩を堕落したものである。投票および議席の多数を望むの心は、やがて政権に近づくを望むの心である。政権に近づくを望むの心は、すなわち提携妥協の基ではないか。
 英仏の社会党は幸にかれらとともに堕落せず、かれらと手を分って、みずから潔くしたものの、しかもその由来に遡ればミレランもバーンスも実に社会党全体の投票政策、議会政策の産物なることを知らねばならぬ。

 四

 もし百歩を譲って、選挙というものがはたして公平に行なわれ、適当なる議員は選出され、しかしてその議員は常に眷々として民意を代表することが確かであると仮定するも、これによってわれらははたして社会主義を実行することができようか。マルクスの国たり、ラサールの国たるドイツが、普通選挙の下において初めて選出した同志はわずかに二人であった。爾来八十一人まで漕ぎつけるのに、実に三十余年の日月を費したのである。しかしてこの三十余年の難戦苦闘の結果が、わずかに一片の解散詔勅のために吹飛ばされてなんらの抵抗もできぬというにいたっては、投票の多数というものはいかにはかないものではないか。
 憲法は中止されるの時がある。普通選挙権は侵奪されるの時がある。議会は解散されるの時がある。議会における社会党の勢力熾んで抑え難いと見れば、暴横なる権力階級はかならずこれを断行するのだ。現にドイツではしばしば断行されたのだ。事ここにいたればもはや労働者の団結の力に待つのほかはない。団結せる労働者の直接行動に待つのほかはないのだ。しかるに平生労働階級自身の団結訓練に力をいたさないで、ただちに直接行動を執ることができるであろうか。
 英国の社会民主同盟首領ハインドマン氏は去年米国ウイルシャー雑誌において嘆じていわく、日本人はわずかに四十年間において、中世紀の封建制度から近世資本家制度まで突進した。
 かれらは他の諸帝国が数世紀を経てなしたる事業を四十年間に成し遂げた。しかるにこの同じ四十年間にわれわれ社会党は何事をなし得たか。ドイツ社会民主党は三百万の人員を有する。ドイツ軍隊の五分の二以上を有するかれらはかれらの目的を知り、時機の到来したのを知る。しかも未だ起たないのは、あまりに忍辱謙遜温良に過ぎるのではないか。四十年間革命党たりしかれらは何事をなさんとするか。余はかれらおよびその国民に問わん、欧米における死は満州における死よりもさらに大いに恐ろしいのであるか、云々。ハインドマン氏の激語は実に無理ならぬことである。もし三百万の党員が真に自覚した党員ならば、革命はとっくの昔にできているはずである。
 しかし投票の党員と自覚の党員とは別物である。選挙の目的に向って訓練した三百万も、革命の目的に向っては何の用をもなさないのだ。かれら普通選挙論者、議会政策論者は常に労働階級に向って説くのに「投票せよ。投票せよ。わが同志の議員さえ選出すれば、同志が議会の多数を占めさえすれば、社会的革命はなるのである。労働者はただ投票すればよいのだ」と言っている。しかして正直なる労働者はこれを信じて一に議会に依頼する、しかして投票する。そこで投票三百万の多きに達する。これただ投票の三百万で、自覚団結の三百万ではないのである。ゆえにイザ革命だ、起てと言われても、そんなはずではなかったのだ、投票でダメならさらに考え直さねばならぬと来る。議会政策が勢力を得れば得るほど、革命運動が沮喪するのはかくの次第である。ドイツ連邦中、サキソニーや、ルーベックや、ハンブルヒなどの社会主義のもっとも盛んな地方では、一昨年ごろ選挙の権利がはなはだしく制限された。しかも人民はこれに反抗して起つことなく、泣寝入となってしまった。ベーベル氏は、総同盟罷工その他の直接行動は最後の手段で、選挙権のある間は議会において戦うのが当然だと言っている。余はいつまで同一事を繰り返すかを怪しまざるを得ない。

 五

 ドイツ社会党にして、過去四十年間、その選挙運動に費した時間と労力と苦辛と金銭とをもって、真に労働者の自覚と団結とに費さしめたならば、皇帝宰相をして今日のごとき万歳を叫ばしむることはなかったであろう。余はドイツの社会党がまったく労働者を教育せぬとは言わぬ。しかしかれらの事業の大部が、選挙という一目的に傾注されたのは争えないのである。
 普通選挙論者、議会政策論者も、無論労働者の自覚と団結を必要としている。たとい普通選挙が行なわれても、かれらの自覚団結がなければ議会において何事もできぬのを認めている。しかし労働者にして真に自覚と団結ができるならば、かれらの直接行動で何事でもできるのではないか。いまさら、代議士を選み、議会に頼む必要はないのである。
 議員は堕落すればそれきりである。議会は解散さるればそれきりである。社会的革命、すなわち労働者の革命は、結局労働者自身の力によらねばならぬ。労働者は紳士閥の野心家たる議員候補者の踏台となるよりも、ただちにみずから進んでその生活の安固を図るべきである、衣食の満足を得べきである。
 普通選挙の運動、議員の選挙もまた一種の伝道になるかも知れぬ。しかし伝道のためにすとならば、何故に直接の伝道をしないでかかる間接の手段を取るのであるか。有力なる団結訓練をこととしないで、果敢ない投票に信頼せしむるのであるか。一人の選挙競争に費すところ、今の日本で少なくも二千金を下らぬのである。かかる費用のみにてもこれを純然たる労働者の伝道団結に費したならば、いかに大なる効果を見ることであろう。
 いまや欧州社会党の多数は議会の勢力の効果少なきに厭きてきた。大陸諸国の社会党員と労働階級とは、常に相和せざる傾きを生じてきた。英国の労働組合では議員選出に狂奔するものは、その組合員と積立金が漸次に減少する事実がある。これわれら日本の社会党のもっとも注意すべき点ではないか。
 労働階級の欲するところは、政権の略取でなくて「パンの略取」である。法律でなくて衣食である。ゆえに議会に対してほとんど用はないのである。もしわが議会の何条例の一項や何法案の数条を、あるいは作りあるいは改むることのみに依頼し安心するほどならば、われらの事業は社会改良論者、国家社会党に一任して置いてたくさんである。これに反して真に社会的革命を断行して、労働階級の実際生活を向上し保全せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。しかして労働者諸君自身もまた紳士閥の議員政治家なぞに依頼することなくして、自身の力で、自身の直接行動で、その目的を貫くの覚悟がなければならぬ。繰り返していう、投票や議員はけっして頼みになるものではない。

 六

 かく言えばとて、余はけっして選挙権の獲得をもって悪事となすものではない。選挙法改正の運動に強いて反対するものではない。普通選挙が行なわれれば、議会が法律を制定改廃するに際して、多少労働者の意嚮を参酌する。これだけの利益は確かにある。されどこの利益やなお労働保険、工場取締、小作人法などの設定や、治安警察法、新聞条例の改正廃止や、その他の労働保護、貧民救助に関する法律、および社会改良事業等と同一の利益に過ぎないのである。ゆえにこれらの運動をなすのは悪事ではない、否、善事には違いないが、とくに社会主義者たるがゆえに是非ともなさねばならぬことではないと思う。
 余はまた同志諸君が議員候補に立って選挙を争うのをもけっして悪事とする者でない。諸君が議会内における運動にけっして反対する者ではない。余は政府部内にも実業社会にも、陸海軍にも、教育界にも、職工にも、農夫にも、その他すべての社会、すべての階級にわが同志の増加するのを喜ぶと同一の理由をもって、議員中にも同志の増加するのを喜ぶのである。ゆえに選挙競争もなし得るならばなすのもよいが、とくに社会党としてなさねばならぬ急要事とは認め得ない。
 少なくとも社会主義者として、社会党員としての余は、われらの目的たる経済組織の根本的革命、すなわち賃銀制度の廃止をなし遂げんがためには、千人の普通選挙請願の調印よりも、十人の労働者の自覚をさらに緊要なりと信ずる。二千円の金を選挙の運動に費すよりも、十円の金を労働者の団結のために使うのを一層急務と信ずる。議会に十回の演説をなすよりも労働者に向って一回の座談を試むるをはるかに有効なりと信ずる。
 同志諸君、余は以上の理由において、わが日本の社会主義運動は、今後議会政策をとることを止めて、一に団結せる労働者の直接行動をもって、その手段方針となさんことを望むのである。
 いまや同志諸君の間で、熱心に普通選挙の運動に従事している時に際して、余が此言をなすのは、いかにも忍びない気持がした。そして幾回か筆を執りかけて躊躇した。けれど余の良心は余の永く黙するのを許さなかった。永く黙するは、主義のためにはなはだ忠実ならぬことを感じた。しかして該運動に従事せらるる諸君もまた快よく余の告白を慫慂せられたので、あえて諸君の批評と教諭を乞うことにした。
 諸君、乞う余の心事の他なきを諒とせられんことを。  (日刊平民新聞第十六号)


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