幸徳秋水 1


 

陳弁書    (1910年12月)


 磯部先生、花井、今村両君足下。私どもの事件のために、たくさんな御用をなげうち、貴重な時間をつぶし、連日御出廷くださるうえに、世間からは定めて乱臣賊子の弁護をするとて種々の迫害も来ることでしょう。諸君が内外におけるすべての労苦と損害と迷惑とを考えれば、実にお気の毒に堪えません。それにつけてもますます諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。
 さて頃来の公判の模様によりますと「幸徳が暴力革命を起し」云々の言葉が、この多数の被告を出した罪案の骨子の一となっているにもかかわらず、検事調べにおいても、予審においても、われら無政府主義者が革命に対する見解も、またその運動の性質なども一向明白になっていないので、勝手に臆測され解釈され、付会されてきたために、よほど事件の真相が誤られはせぬかと危ぶむのです。ついては、一通りそれらの点に関する私の考え、および事実を御参考に供しておきたいと思います。

無政府主義と暗殺
 無政府主義の革命といえば、すぐ短銃や爆弾で主権者を狙撃するもののごとくに解する者が多いのですが、それは一般に無政府主義の何たるかが分っていないためであります。弁護士諸君にはすでに承知になっているごとく、同主義の学説はほとんど東洋の老荘と同様の一種の哲学で、今日のごとき権力、武力で強制的に統治する制度がなくなって、道徳、仁愛をもって結合せる相互扶助、共同生活の社会を現出するのが、人類社会必然の大勢で、吾人の自由幸福を完くするには、この大勢に従って進歩しなければならないというにあるのです。
 したがって無政府主義者が圧政を憎み、束縛を厭い、同時に暴力を排斥するのは必然の道理で、世にかれらほど自由、平和を好むものはありません。かれらの泰斗と目せらるるクロポトキンのごときも、判官は単に無政府主義者かとお問いになったのみで、やはり乱暴者と思召しておいでかも知れませんが、彼は露国の伯爵で、今年六十九歳の老人、初め軍人となり、のちに科学を研究し、世界第一流の地質学者で、これまで多くの有益な発見をなし、その他哲学、文学の諸学通ぜざるなしです。二十余年前、仏国リヨンの労働者の爆弾騒ぎに関係せる嫌疑で入獄した際、欧州各国の第一流の学者、文士連署して仏国大統領に陳情し、世界の学術のために彼を特赦せんことを乞い、大統領はただちにこれを許しました。その連署者には大英百科全書に執筆せる諸学者もすべてこれに加わり、日本で熟知せらるるスペンサー、ユーゴーもとくに数行を書添えて署名しました。もってその学者としての地位、名声のいかに重きかを知るべしです。そして彼の人格はきわめて高尚で、性質はきわめて温和、親切で、けっして暴力を喜ぶ人ではありません。
 またクロポトキンと名をひとしくしたフランスの故エリゼー・ルクリュス(Ruclus)のごときも地理学の大学者で、仏国は彼がごとき大学者を有することを名誉とし、市会は彼を記念せんがためにパリの一道路に彼の名を命けたくらいです。彼は殺生を厭うのはなはだしきため、ぜんぜん肉食を廃して菜食家となりました。欧米無政府主義者の多くは菜食者です。禽獣をすら殺すに忍びざる者、なんぞ人の解するごとく殺人を喜ぶことがありましょうか。これら首領と目さるる学者のみならず、同主義を奉ずる労働者は、私の見聞したところでも、他の一般労働者に比すれば、読書もし、品行もよく、酒も煙草も呑まぬものが多いのです。彼らはけっして乱暴ではないのであります。
 なるほど無政府主義者中から暗殺者を出したのは事実です。しかしそれは同主義者だから必ず暗殺者だというわけではありません。暗殺者の出るのはひとり無政府主義者のみでなく、国家社会党からも、共和党からも、自由民権論者からも、愛国者からも、勤王家からもたくさん出て居ります。これまで暗殺者といえばたいてい無政府主義のように誣いられて、その数も誇大に吹聴されています。現に露国アレクサンドル二世帝を殺したごときも、無政府党のようにいわれますが、アレは今の政友会の人々と同じ民権自由論者であったのです。実際歴史を調べると、他の諸党派に比して無政府主義者の暗殺がいちばん僅少なので、過去五十年ばかりの間に全世界を通じて、十指にも足るまいと思います。かえりみてかの勤王家、愛国家を見ますれば、同じ五十年間に、世界でなくて、わが日本のみにしてほとんど数十人あるいは数百人を算するではありませんか。 単に暗殺者を出したからとて暗殺主義なりと言わば、勤王論、愛国思想ほど激烈な暗殺主義はないはずであります。
 ゆえに暗殺者の出るのは、その主義の如何に関するものではなくて、その時の特別の事情とその人特有の気質とが相触れてこの行為に立ちいたるのです。たとえば政府が非常な圧制をやり、そのために多数の同志が言論、集会、出版の権利自由を失なえるはもちろん、生活の方法すらも奪わるるとか、あるいは富豪が横暴をきわめたる結果、窮民の飢凍悲惨の状見るに忍びざるとかいうがごときに際して、しかもとうてい合法平和の手段をもってこれに処するの途なきとき、途なきがごとく感ずるの時において、感情熱烈なる青年が暗殺や暴挙に出るのです。これ彼らにとってはほとんど正当防衛ともいうべきです。かの勤王、愛国の志士がときの有司の国家を誤らんとするを見、または自己らの運動に対する迫害急にして他に緩和の法なきのとき、憤慨の極暗殺の手段に出ると同様です。彼らもとより初めから好んで暗殺を目的とも手段ともするものでなく、みな自己の気質と時の事情に駆られてここにいたるのです。そしてその歴史を見れば、初めに暴力を用うるのはむしろ時の政府、有司とか富豪、貴族とかで、民間の志士や労働者は常に彼らの暴力に挑発され、酷虐され窘窮のあまり、やむなくまた暴力をもってこれに対抗するに至るの形跡があるのです。米国大統領マッキンレーの暗殺でも、イタリア王ウンベルトのでも、またスペイン王アルフォンソに爆弾を投じたのでも、みなそれぞれその時に特別な事情があったのですが、あまり長くなるから申しません。
 要するに、暗殺者はその時の事情とその人の気質と相触るる状況如何によっては、いかなる党派からでも出るのです。無政府主義者とは限りません。否、同主義者はみな平和、自由を好むがゆえに、暗殺者を出すことはむしろきわめて少なかったのです。私は今回の事件を審理さるる諸公が「無政府主義者は暗殺者なり」との妄見なからんことを希望に堪えませぬ。

革命の性質
 爆弾で主権者を狙撃するのでなければ、無政府革命はどうするのだという問題が生ずる。革命の熟語は支那の文字で、支那は甲性の天子が天命を受けて乙性の天子に代るを革命というのだから、主に主権者とか、天子とかの更迭をいうのでしょうが、私どもの革命はレヴォリューションの訳語で、主権者の変更如何には頓着なく、政治組織、社会組織が根本的に変革されねば革命とは申しません。足利が織田になろうが、豊臣が徳川になろうが、同じ武断封建の世ならば革命とは申しません。王政維新は天子は依然たるも革命です。それも天子および薩長氏が徳川氏に代ったがために革命というのではなく、旧来凡百の制度、組織が根底から一変せられたから革命というのです。一千年前の大化の新政のごときも、やはり天皇は依然たるも、また人民の手でなく天皇の手によって成されても、ほとんど革命に近かったと思います。すなわち私どもが革命というのは、甲の主権者が乙の主権者に代るとか、丙の有力な個人もしくは党派が丁の個人もしくは党派に代って政権を握るというのでなく、旧来の制度、組織が朽廃衰弊の極崩壊し去って、新たな社会組織が起り来るの作用をいうので、社会進化の過程の大段落を表示する言葉です。ゆえに厳正な意味においては、革命は自然に起り来るもので、一個人や一党派で起し得るものではありません。
 維新の革命にいたしましても、木戸や西郷や大久保が起したのではなく、徳川氏初年に定めた封建の組織、階級の制度が三百年間の人文の進歩、社会の発達に伴わなくて各方面に朽廃を見、破綻を生じ、自然に傾覆するにいたったのです。この旧制度、旧組織の傾覆の気運が熟しなければ、百の木戸、大久保、西郷でもどうすることもできません。彼らをしていま二十年早く生れしめたならば、やはり吉田松陰などといっしょに馘られるか、なにごともなし得ずに埋木になってしまったでしょう。彼ら幸いにその時に生れてその事に与り、その勢いに乗じたのみで、けっして彼らが起したのではありません。革命の成るのはいつでも水到渠成るのです。
 ゆえに革命をドウして起すか、ドウして行うかなどということは、とうていあらかじめ計画し得べきことではありません。維新の革命でも形勢は時々刻々に変じて、何人も端倪、揣摩し得るものはありませんでした。大政返上の建白で平和に政権が引渡されたかと思うと、伏見、鳥羽の戦争がはじまる。サア開戦だから江戸が大修羅場になるかと思えば勝と西郷とでこの危機をソッとコワしてしまった。まず無事にいったかと思うと、また彰義隊の反抗、奥羽の戦争があるという風である。江戸の引渡しですらも、勝、西郷のごとき人物が双方へ一時に出たからよかったものの、この千載稀な遇合がなかったら、ドンな大乱におちいっていたかも知れぬ。これとうてい人間の予知すべからざるところではありますまいか。さすれば識者、先覚者の予知し得るは、来るべき革命が平和か、戦争か、いかにして成るかの問題ではなくして、ただ現時の制度、組織が、社会、人文の進歩、発達に伴わなくなること、その傾覆と新組織の発生は不可抗の勢いとなること、封建性がダメになれば、その次にはこれと反対の郡県制によらねばならぬこと、専制の次には立憲自由制になるのが自然なることなどで、この理を推して、私どもは、個人競争、財産私有の今日の制度が朽廃し去った後は、共産制がこれに代り、近代国家の圧制は無政府的自由制をもって掃蕩せらるるものと信じ、この革命を期待するのです。
 無政府主義者の革命成るのとき、皇室をドウするかとの問題が先日も出ましたが、それもわれわれが指揮、命令すべきことではありません。皇室みずから決すべき問題です。前にも申すごとく、無政府主義者は武力、権力に強制されない万人自由の社会の実現を望むのです。その社会成るのとき、何人が皇帝をドウするという権力をもち、命令を下し得るものがありましょう。他人の自由を害せざる限り、皇室は自由に、勝手にその尊栄、幸福を保つの途に出で得るので、なんらの束縛を受くべきはずはありません。
 かくてわれわれは、この革命がいかなる事情の下に、いかなる風に成し遂げられるかは分りませんが、とにかく万人の自由、平和のために革命に参加する者は、でき得る限り暴力を伴わないように、多く犠牲を出さぬように努むべきだと考えます。古来の大変革の際に多少の暴力を伴い、多少の犠牲を出さぬはないようですが、しかしかかる衝突は常に大勢に逆行する保守、頑固の徒から企てられるのは事実です。今日ですら人民の自由、平和を願うと称せられている皇室が、そのときにおいてかかる保守、頑固の徒とともに大勢に抗し、暴力を用いらるでしょうか。今日においてこれを想像するのは、寛政頃に元治、慶応の事情を想像するごとく、とうてい不可能のことです。ただ私は、無政府主義の革命とはただちに主権者の狙撃、暗殺を目的とするものなりとの誤解なからんことを望むのみです。

いわゆる革命運動
 革命が水到渠成るように自然の勢いなれば、革命運動の必要はあるまい。しかるに現に革命運動がある。その革命運動はすなわち革命を起して爆弾を投ぜんとするものではないか、という誤解もあるようです。
 無政府主義者が一般に革命運動と称しているのは、すぐ革命を起すことでもなく、暗殺、暴動をやることでもありません。ただ来らんとする革命に参加して応分の力をいたすべき思想、知識を養成し、能力を訓練するすべての運動を称するのです。
新聞、雑誌の発行も、書籍、冊子の著述、頒布も、演説も、集会もみなこの時勢の推移、社会の進化するゆえんの来由と帰趨とを説明し、これに関する知識を養成するのです。そして労働組合を設けて諸種の協同の事業を営むがごときも、また革命の新生活をなし得べき能力を訓練しておくに利益があるのです。しかし日本従来の労働組合運動なるものは、単に眼前労働者階級の利益増進というのみで、遠き将来の革命に対する思想よりせるものはなかったのです。無政府主義もまた労働組合に手をつけたことはありません。
 ゆえにいま一個の青年が、平生革命を主張したとか、革命運動をなしたといっても、ただちに天皇暗殺もしくは暴挙の目的をもって運動せりと解してこれを責めるのは残酷な難題です。私どもの仲間では、無政府主義の学説を講ずるのでも、またこの主義の新聞や引札を配布しているのでも、これを称して革命運動をやってるなどというのは普通のことです。しかしこれは革命を起すということは違います。
 革命が自然に来るのなら、運動は無用のようですが、けっしてそうではありません。もし旧制度、旧組織が衰朽の極に達し、社会が自然に崩壊するとき、いかなる新制度、新組織がこれに代るのが自然の大勢であるかに関して、なんらの思想も知識もなく、これに参加する能力の訓練もなかった日には、その社会は革命の新しい芽を吹くことなくして、旧制度とともに枯死してしまうのです。これに反して知識と能力の準備があれば、元木の枯れた一方から新たな芽が出るのです。ローマ帝国の社会は、その腐敗に任せてなんらの新主義、新運動のなかったために滅亡しました。フランスはブルボン王朝の末年の腐敗がアレほどになりながら、一面ルーソー、ヴォルテール、モンテスキューなどの思想が新生活の準備をしたために、滅亡とならずして革命となり、さらに新しきフランスが生れ出た。日本維新の革命に対してもその以前から準備があった。すなわち勤王思想の伝播です。水戸の大日本史でも、山陽の外史、政記でも、本居、平田の国学も、高山彦九郎の遊説もそれであります。彼らは徳川氏の政権掌握ということが漸次日本国民の生活に適しなくなったことを直覚し、むしろ直感した。彼らはあるいは自覚せず、あるいはおぼろ気に自覚して革命の準備をなしたのです。徳川家瓦解のときは、王政復古に当ってマゴつかないだけの思想、知識がすでに養成せられていた。かくて滅亡とならずして立派な革命は成就せられた。もしこれらの革命運動がその準備をしていなかったなら、当時外人渡来という境遇の大変に会って、危いかな、日本はあるいは今日の朝鮮の運命を見たかも知れませぬ。朝鮮の社会がついに独立を失ったのは、永くその腐敗に任せ、衰朽に任せて、みずから振作し、刷新して新社会、新生活に入る能力、思想のなかったためであると思います。
 人間が活物、社会が活物で、常に変動進歩してやまざる以上、万古不易の制度、組織はあるべきはずがない。かならず時とともに進歩、改新せられねばならぬ。その進歩、改新の小段落が改良あるいは改革で、大段落が革命と名づけられるので、われわれはこの社会の枯死、衰亡を防ぐためには、常に新主義、新思想を鼓吹すること、すなわち革命運動の必要があると信ずるのです。

直接行動の意義
 私はまた今回の検事局および予審廷の調べにおいて、直接行動ということが、やはり暴力革命とか、爆弾を用うる暴挙とかいうこととほとんど同義に解せられている観があるのに驚きました。
 直接行動は英語のジレクト・アクションを訳したもので、欧米で一般に労働運動に用うる言葉です。労働組合の職工の中には無政府党もあり、忠君愛国論者もあるので、別に無政府主義者の専有の言葉ではありません。そしてその意味するところは、労働組合全体の利益を増進するのには、議会に御頼み申しても埒が明かぬ、労働者のことは労働者自身で運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして、労働者自身が直接に運動しよう、すなわち総代を出さないで自分らで押し出そうというに過ぎないのです。いま少し具体的に言えば、工場の設備を完全にするにも、労働時間を制限するにも、議会に頼んで工場法をこしらえて貰うよりも、直接に工場主に談判する、聞かなければ同盟罷工をやるというので、多くは同盟罷工のことに使われているようです。あるいは非常に不景気、恐慌で餓孚途に横わるというような時には、富豪の家に押入って食品を収用するもよいと論ずる者もある。収用もまた直接行動の一といえぬではない。また革命の際において、議会の決議や協定を待たなくても、労働組合ですべてをやってゆけばよいという論者もある。これも直接行動ともいえるのです。
 しかし、今日直接行動説を賛成したといっても、すべての直接行動、議会を経ざる何事でも賛成したということは言えませぬ。議会を経ないことなら、暴動でも、殺人でも、泥棒でも、詐偽でもみな直接行動ではないかという筆法で論ぜられては間違います。議会は欧米いたるところ腐敗している。中には善良な議員がないでもないが、少数でその説は行われぬ。ゆえに議院をアテにしないで直接行動をやるというので、直接行動なら何でもやるというのではありません。同じく議会を見限って直接行動を賛する人でも、甲は小作人同盟で小作料を値切ることのみやり、乙は職工の同盟罷工のみを賛するというように、その人とその場合とによって目的、手段、方法を異にするのです。ゆえに直接行動をただちに暴力革命なりと解し、直接行動論者たりしということを今回の事件の有力な一原因に加えるのは理由なきことです。

欧州と日本の政策
 今回の事件の真相とその動機とがどこにあるかはしばらく措き、以上述べるがごとく、無政府主義者はけっして暴力を好むものではなく、無政府主義の伝道は暴力ではありません。欧米でも同主義に対してははなはだしき誤解を抱いています。あるいは知ってことさらに曲解し、ざん誣、中傷していますが、しかし日本や露国のように乱暴な迫害を加え、同主義の自由、権利をすべて剥奪、蹂躙して、その生活の自由まで奪うようなことはまだありません。欧州の各文明国では無政府主義の新聞、雑誌は自由に発行され、その集会は自由に催されています。仏国などには同主義の週刊新聞が七、八種もあり、英国のごとき君主国、日本の同盟国でも、英文や露文やユダヤ語のが発行されています。そしてクロポトキンはロンドンにいて自由にその著述を公にし、現に昨年出した『露国の惨状』の一書は、英国議会の「露国事件調査委員会」から出版いたしました。私の訳した『パンの略取』のごときも、仏語の原書で、英、独、露、伊、西等の諸国語に翻訳され、世界的名著として重んぜられているので、これを乱暴に禁止したのは、文明国中日本と露国のみなのです。
 なるほど、無政府主義は危険だから、同盟して鎮圧しようということを申し出した国もあり、日本にもその交渉があったように聞きましたが、しかし、この提議をするのは大概ドイツとか、イタリアとか、スペインとかで、まず乱暴迫害を無政府主義者に加え、彼らの中に激昂の極多少の乱暴する者あるや、ただちにこれを口実として鎮圧策を講ずるのです。そしてこの列国同盟の鎮圧条約は、しばしば提議されましたが、かつて成立したことはありません。いくら腐敗した世の中でも、とにかく文明の皮を被っている以上、そう人間の思想の自由を蹂躙することはできないはずです。とくに申しますが、日本の同盟国たる英国はいつもこの提議に反対するのです。

一揆暴動と革命
 単に主権者を更迭することを革命と名づくる東洋流の思想から推して、強大なる武力、兵力さえあればいつでも革命を起し、もしくは成し得るように考え革命家の一揆暴動なればすべて暴力革命と名づくべきものなりときめてしまって、今回の「暴力革命」という語が出たのではないかと察せられます。しかし私どもの用うる革命という語の意義は前申上げるとおりで、また一揆暴動は文字のごとく一揆暴動で、この点は区別しなければなりません。私が大石、松尾などに話した意見(これが計画というものになるか、陰謀というものになるかは、法律家ならぬ私には分りませんが)には、かつて暴力革命という語を用いたことはないので、これはまったく検事局あるいは予審廷で発明せられたのです。
 大石は予審廷で、「幸徳からパリ・コンミュンの話を聞いた」と申し立てたということを予審判事から承りました。なるほど私はパリ・コンミュンの例を引いたようです。磯部先生のごときフランス学者はもとより詳細ご承知のごとく、パリ・コンミュンの乱は、一千八百七十一年の普仏戦争講和の屈辱や、生活の困難やで人心恟々のとき、労働者が一揆を起してパリを占領し、一時市政を自由にしたことであります。このときも政府内閣はヴェルサイユにあって、べつに転覆されたわけでもなく、ただパリ市にコンミュン制を一時建てただけなんです。ですらか一千七百九十五年の大革命や一千八百四十八年の革命などと同様の革命というべきではなく、普通にインサレクションすなわち暴動とか一揆とかいわれています。公判で大石はまたフランス革命の話など申し立てたようですが、それはこのパリ・コンミュンのことだろうと思います。彼はコンミュンの乱を他の革命の時にあった一波瀾のように思い違えているのか、あるいは単にパリ・コンミュンというべきを言い違えたのであろうと思われます。
 コンミュンの乱ではコンナことをやったが、それほどのことはできないでも一時でも貧民に煖かく着せ、飽くまで食わせたいというのが話の要点でした。これとても無論ただちにこれを実行しようというのではなく、今日の経済上の恐慌、不景気がもし三、五年も続いて、餓孚途に横わるような惨状を呈するようになれば、この暴動をなしても彼らを救うの必要を生ずるということを予想したのです。これは最後の調書のみでなく、初めからの調書を見てくだされば、この意味は十分現れていると思います。
 たとえば天明や天保のような困窮の時において、富豪の物を収用するのは、政治的迫害に対して暗殺者を出すがごとく、ほとんど彼らの正当防衛で必至の勢いです。このときにはこれが将来の革命に利益あるや否やなどの利害を深く計較していることはできないのです。何の必要もなきに平地に波瀾を起し、暴動をあえてすることは、財産を破壊し人命を損じ、多く無益の犠牲を出すのみで、革命に利するところはないと思います。が、政府の迫害や富豪の暴横その極に達し人民溝壑に転ずるとき、これを救うのは将来の革命に利ありと考えます。さればかかることは利益を考えていてできることではありません。そのときの事情と感情とに駆られてわれ知らず奮起するのです。
 大塩中斎の暴動などもさようです。飢饉に乗じて富豪が買占をやる、米価はますます騰貴する。これ富豪が間接に多数の殺人を行っているものです。坐視するに忍びないことです。この乱のために徳川氏の威厳はよほど傷つけられ、革命の気運が速められたことは史家の論ずるところなれど、大塩はそこまで考えていたか否か分りません。また「彼が革命を起せり」ということはできないのです。
 しかるに連日の御調べによって察するに、多数被告はみな「幸徳の暴力革命に与せり」ということで公判に移されたようです。私も予審廷において幾回となく暴力革命云々の語で訊問され、革命と暴動との区別を申立てて文字の訂正を乞うのに非常に骨が折れました。「名目はいずれでもよいではないか」と言われましたが、多数の被告は今やこの名目のために苦しんでいると思われます。私の眼に映じたところでは、検事、予審判事はまず私の話に「暴力革命」という名目を付し、「決死の士」というむつかしい熟語を案出し、「無政府主義の革命は皇室をなくすることである。ゆえにこれに与せるものは大逆罪を行なわんとしたものに違いない」という三段論法で責めつけられたものと思われます。そして平生直接行動、革命運動などということを話したことが彼らに累しているというに至っては、実に気の毒に考えられます。

聴取書及び調書の杜撰
 私ども無政府主義者は平生今の法律裁判という制度が完全に人間を審判し得るとは信じないのでしたけれど、今回実地を見聞してさらに危険を感じました。私はただ自己の運命に満足する考えですから、この点についてもはや呶々したくはありませんが、ただ多数被告の利害に大なる関係があるようですから一応申上げたいと思います。
 第一、検事の聴取書なるものは、何と書いてあるか知れたものではありません。私は数十回検事の調べに会いましたが、初め二、三回は聴取書を読み聞かされましたけれど、その後は一切その場で聴取書を作ることもなければ、したがって読み聞かせるなどということもありません。その後予審廷においてときどき、検事の聴取書にはこう書いてあると言われたのを聞くと、ほとんど私の申立と違わぬはないのです。たいてい、検事がこうであろうといった言葉が、私の申立として記されてあるのです。多数の被告についてもみな同様であったろうと思います。そのときにおいて予審判事は聴取書と被告の申立と、いずれに重きを置くでしょうか。実に危険ではありませんか。
 また検事の調べ方についても、常にいわゆる「カマ」をかけるのと、議論で強いることが多いので、このカマを看破する力と、検事と議論を上下し得るだけの口弁を有するにあらざる以上は、たいてい検事の指示するとおりの申立をすることになると思われます。私はこの点について一々例証を挙げ得ますけれど、クダクダしいから申しません。ただ私の例をもって推すに、他のかかる場所になれない地方の青年などに対しては、ことにヒドかったろうと思われます。石巻良夫が、「愚童より宮下の計画を聞けり」との申立をなしたということのごときも、私も当時聞きまして、また愚童をおとしいれんがために奸策を設けたなと思いました。宮下が爆弾製造のことは、愚童、石巻の会見よりはるか後のことですから、そんな談話のあるはずがありません。このことのごときはあまりに明白ですぐ分りますけれど、巧みな「カマ」には何人もかかります。そして「アノ人がそう言えば、ソンナ話があったかも知れません」くらいの申立をすれば、すぐ「ソンナ話がありました」と確言したように記載されて、これがまた他の被告に対する責道具となるようです。こんな次第で、私は検事の聴取書なるものは、ほとんど検事の曲筆舞文、牽強付会ででき上がっているだろうと察します。一読しなければ分りませんが。
 私は予審判事の公平、周到なることを信じます。他の予審判事は知らず、少なくとも私が調べられました潮判事が公平、周到を期せられたことは明白で、私は判事の御調べにほとんど満足しています。
 けれど、いかに判事その人が公平、周到でも、今日の方法制度では完全な調書のできるはずはありません。第一、調書は速記でなく、一通り被告の陳述を聞いたあとで、判事の考えでこれを取捨して問答の文章を作るのですから、申立の大部分が脱することもあれば、言わない言葉が挿入されることもあります。ゆえに被告の言葉を直接聞いた予審判事には被告の心持がよく分っていても、調書の文字となって他人が見れば、その文字次第で大分解釈が違うてまいります。
 第二は、調書訂正の困難です。できた調書を書記が読み聞かせますけれども、長い調べで少しでも頭脳が疲労していれば、早口に読み行く言葉を聞き損じないだけがヤットのことで、少し違ったようだと思っても、咄嗟の間に判断がつきません。それを考えるうちに読声はドンドン進んで行く。何を読まれたか分らずにしまう。そんな次第で数か所十数か所の誤りがあっても、指摘して訂正し得るのは一か所くらいに過ぎないのです。それも文字のない者などは適当な文字が見つからぬ。「こう書いても同じではないか」と言われれば、争うことのできぬのが多かろうと思います。私なども一々添削するわけにもゆかず、大概ならと思ってそのままにした場合が多かったのです。
 第三には、私初め予審の調べに会ったことのない者は、予審は大体の下調べだと思って、さほど重要と感じない。ことに調書の一字、一句がほとんど法律条項の文字のように確定してしまうものと思わないで、いずれ公判があるのだからそのとき訂正すればよいくらいで、強いて争わずに捨ておくのが多いと思います。これは大きな誤りで、今日になって見れば、予審調書の文字ほど大切なものはないのですけれど、法律裁判のことにまったく素人なる多数の被告は、そう考えたろうと察します。こんな次第で予審調書もはなはだ杜撰なものができ上がっています。私は多少文字のことに慣れていてずいぶん訂正もさせました。けれど、それすら多少疲れているときは面倒になって、いずれ公判があるからというのでそのままにいたしたのです。いわんや多数の被告をやです。
 聴取書、調書を杜撰にしたということは、制度のためのみでなく、私どものかかることに無経験なるより生じた不注意の結果でもあるので、私自身は今に至ってその訂正を求めるとか、誤謬を申し立てるとかいうことはいたしませんが、どうかかの気の毒な多数の地方青年のために御含み置きを願いたいと存じます。

 以上、私の申し上げて御参考に供したい考えの大体です。なにぶん連日の公判で頭脳が疲れているために、思想が順序よくまとまりません。加うるに、火のない室で、指先が凍ってしまい、これまで書く中に筆を三度も取り落したくらいですから、ただ冗長になるばかりで、文章も拙く、書体も乱れて、さぞ御読みづらいでありましょう。どうか御諒恕を願います。
 とにかく右述べました中に、多少の取るべきあらば、さらにこれを判官、検事諸公の耳目に達したいと存じます。

 明治四十三年十二月十八日午後

東京監獄監房にて   幸徳伝次郎


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