ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年

英語版への序文


アグスティン=ギリャモンの「ドゥルティの友」に関するモノグラフは、英語圏の読者に、このグループの歴史と思想について最も包括的で最も徹底的な探求と解説を提供してくれる。全てとは言わないが、これほど大きな誤解・誇張・興味深いほど誤った記述をされたグループはまずない。ギリャモンは新しい証拠を明らかにし、最も長く述べられ続けている誤りの幾つかを上手く整理している。

自由主義者・スターリン主義者・マルクス主義者・リバータリアンは、互いに競ってこのグループとそのメッセージを非難し、不当に記述してきた。イタリアのスターリン主義者は、このグループと繋がりがあるというだけで政治的敵対者を処刑するのに充分な根拠である、と示した。1937年5月29日、イタリア共産党機関紙「イル=グリード=デル=ポポロ」は、カミーロ=ベルネリを「カタロニアの人民戦線政府に対する血なまぐさい蜂起を引き起こした(中略)ドゥルティの友グループの指導者の一人であり、この叛乱の中で民主的革命の手によって自身にふさわしい結果を与えられた。その正当な自己防衛権は、反ファシストならば誰も否定できない。」とする記事を載せた。ベルネリがドゥルティの友と関係していた証拠は全くない。「エンリコ=マラテスタ」グループを代表して、イタリア人アナキストであるドメニコ=ルドヴィチ(Domenico Ludovici)は次のように報告した。「不運な同志ベルネリは、『ドゥルティの友』グループのメンバーではなかった。だが、メンバーだったとしても何か悪いわけではない。彼が犠牲になった卑劣な殺人が許されるわけではないのだ。「イル=グリード=デル=ポポロ」の民主的『ジャーナリスト』は野蛮な行為を行う工作員と同じ教理を信じていたに違いない。だからこそ、血なまぐさい工作員として『ドゥルティの友』を懸念したのだ。全世界の誰もが−−「イル=グリード=デル=ポポロ」を除いて−−知っているように、血なまぐさい工作員は『民主的』起源を持っている。」(原註1)興味深いことに、アスカソ縦隊のイタリア人アナキスト達は、実用主義ではなく原則を実直に守っていたため、スペインの仲間達と頻繁に衝突したが、彼らはどちらかといえばドゥルティの友の行動に批判すべきことを見いだせなかったようである。エルネスト=ボノミニは、10年後に回想したときでさえ、このグループについて賛同的に話すことができた。(原註2)

ドゥルティの友が5月のバルセロナでの戦いを扇動したという主張に関しては、「ラス=ノティシアス」紙に掲載された際に、彼ら自身が反駁した。「彼らは、我々を本物のバカだと思っているはずだ。彼らが挙げたグループ(ドゥルティの友とリバータリアン青年)が叛乱の扇動者ならば、我々が街路を明け渡すことなどしなかっただろう。」(原註3)ドゥルティの友は、確かに、1937年5月の事件を扇動しなかった。そうだとしても、彼らは、同様に確かに、その事件に即座に反応した数少ないグループの一つだった。彼らは、かなり以前から、復活したカタロニア国家とブルジョア階級の侵略に敏感だった。そして、1936年7月にファシストに対する勝利に伴って展望をもたらした率直な徹底的対決に戻りたいと切望した。(原註4)こうした感情は、カタロニアのリバータリアン運動の多くの部門にかなり広く存在していた。組織の高次委員会が政治家と戯れ、政治家と取り引きする上で手助けとなる規律ある統一の取れた一つの政策を追求することで、こうした組織の日常実践に歓迎されない変化を幾つかもたらした。1937年1月に、「イデアス」(思想)紙が、大文字で書かれた警告と共に、労働組合連合主義の正当性を思い出させる文章を発表した。「いわゆる高次委員会は、労働組合組織の合意に拘束されねばならない。組合が取り決め、委員会はこの取り決めが実行されるよう責任を持つ。これこそ連合主義の姿である。それ以外の事が行われるならば、それは独裁であり、一分たりとも許すわけには行かない。」(原註5)この同じ月、リバータリアン青年の機関紙「ルタ」(道程)は、読者にあからさまに次のように指摘した。「絶対確実な指針として振る舞おうとしている自惚れの強い少数派に期待できることなど、独裁と弾圧だけである。」(原註6)

革命の停滞と退潮に不安な人々の中には三つの主要な関心事があったと思われる。(1)戦争の準備の背後で革命を第二段階へと持ち込もうとする試み、(2)高次委員会の説明責任の弱体化、(3)外部の力によって仲介された何らかの妥協的決議が生まれたという疑い。(原註7)多くの人々が、まさに自分達の指導者こそが、政治家との関係によって唆され、腐敗したと憶測した。

ドゥルティの友は、こうした懸念を全て共有し、解決すべく努力した。リバータリアン陣営の叛乱分子全ての中で唯一、彼らは一貫した代案を発明しようとした。だが、組織に対する規律の強制と感情的結合の強さが、彼らの努力を妨害し、その聴衆を少なくした。規律と心情の混合は、ドゥルティの友の二人のメンバーが1937年5月29日に「ソリダリダー=オブレラ」(労働者の連帯)紙のページに公刊した手紙にハッキリと現れている。CNTとFAIの地方委員会とCNTのバルセロナ地方連合が、グループとの関係を公的絶たなかったドゥルティの友のメンバーは皆除名すると脅迫したことを受けて、ホアキン=アウビとロサ=ムニョスはグループを脱退した。しかし、次のようにハッキリと記していた。「私は、『ドゥルティの友』に属している同志達を同志として見なし続ける。ただ、ここで、私が常にバルセロナの総会で述べていることをもう一度言おう。『CNTは私の母胎だったし、私の墓穴となるであろう。』」

実際、この格言は、ドゥルティの友全体の墓碑銘となり得ただろう。除名を進める委員会の決定がそもそも実施されたのかどうかは分からない。ただ、「『ドゥルティの友』グループの重要人物を組織から除名し、この結果としていかなる分裂も起こらないことを保証するために必要なあらゆる処置を取る」というカタロニアの意図をCNT地方支部全国総会が承認した以上、このこと自体が、ドゥルティの友を一般民衆がどの程度まで支持していたのか確認しているように思える。(原註8)

ここでも、ドゥルティの友は「上役」に組織規範を思い起こさせたはずである。誰も一度たりともCNT、連合に参加してはいなかった。全てのCNTメンバーは地元の組合と連合に属し、主権はそこにあった。「我々を連合組織から除名できるのは組合の集会だけだ。地元と地方の総会は一人の同志も除名する権限を持たない。我々は、委員会にドゥルティの友の件を集会で提起するよう求める。集会にこそ組織の主権が存在する。」(原註9)

サンジカリズム党の指導者である三〇人派の大物アンヘル=ペスターニャがCNTの側に再加入することを許されたというニュースに対するドゥルティの友の反応に、合憲手続きに関する同様の懸念を見ることができる。「別の機会に彼の再加入の話があった際は、サンジカリズム党の始末を付けることが加入条件として要求されたが、この前提条件を求められないまま、ペスターニャがどのように承認されたのか我々には理解できない。」(原註10)

実際に、共和国同盟内部でCNT-FAI勢力を保持することに心を奪われても、この集合体の指導部は潜入とその頭文字の乱用に常に警戒していた。そして、ドゥルティの友をその二つに対する脅威だと見なすよう促した。極めて小さいボルシェヴィキ−レーニン主義代表団の声明とドゥルティの友の声明とにある種の共通性があり、同時に、POUMが5月の市街戦の最中に振る舞ったやり方をドゥルティの友が無党派的に認めたことで、「マルクス主義」の暗澹たる気配があった。ここでまた、誤解が広まっている。バリウスは、自分の中傷をする人々に、自分に対して非難されたり密かに言われたりしていた「マルクス主義者」の嫌疑を立証するよう挑もうと動いた。(原註11)ギリャモンは、POUMやトロツキストとの繋がりの疑惑を断固として扱い、こうした疑惑を鎮めている。扱いが難しいのは、ドゥルティの友自身が「ちょっとした発明」だったと認めている革命フンタをめぐる神話である。

まず最初に述べねばならないが、スペイン語のフンタ(軍事政権、評議会)には、英語と同じ侮蔑的意味はない。個々のCNT組合はフンタが運営していた。メヒコで、マゴーン兄弟のメヒコ自由党を運営していたのはフンタだった。従って、この言葉それ自体に、権威主義を示すものは何もない。

次の点も明らかにしておきたい。ドゥルティの友はフンタを扇動していたのであって、フンタ形成を報告してはいなかった。フンタを実際に作り、自分達と共にPOUMをそこに認めたとすれば、彼らに向けられた「アナルコ−ボルシェヴィズム」という嫌疑は、この代用主義(substitutionism)に基づき、有効だったであろう。しかし、ホセ=ペイラツなどが主張しているのと異なり、フンタは一度も形成されなかった。(原註12)

ドゥルティの友に関わる最も不愉快な表現、もしくは不当表現は、セザール=M=ロレンソがその著書「スペインのアナキストと権力」(パリ、1972年)の脚注で、共産主義者同盟宣言に言及し、ドゥルティの友・POUM・リバータリアン青年の一部を代弁するものだと示す判断をしたことである。その文面では、このことは、ドゥルティの友が自称前衛同盟の中でマルクス主義分子と関係していた、実際、融合した事実がある、と確定させている。だが、決してそのようなものではない。ロレンソは、場所を特定せずに、この宣言が「6月の初めに配布」されたと述べている。(原註13)実際、彼が引用しているテキストは、1937年6月16日にパリのヴェロドゥローム=ディヴェールで1937年5月に名指しされた三つのグループが示した革命主義を、公式的CNT-FAI路線と対比させるために、ガルシア=オリベルとフェデリカ=モンセニーに論駁する目的で、ちっぽけなフランス共産主義者同盟の闘士が配布したリーフレットからのものだった。ロレンソがこのことをハッキリさせることができなかった理由が、見落としたためなのか、ドゥルティの友をアナルコ−ボルシェヴィキを形成するものだと示す目的に役立つからなのかは分からない。だが、この不当な陳述を他者は無批判に取り上げ、このグループとその思想に対して持ち越されている無知の影を助長してきた。(原註14)

共産主義者同盟は、1937年12月に、「エル=アミーゴ=デル=プエブロ」(民衆の友)の掲載論文を自分達の機関紙である「L'Internationale」に翻訳転載することで、ドゥルティの友のシンパであるアナキスト達(例えば、アンドレ=プリュドモ)を出し抜いた。だが、共産主義者同盟は、次のコメントを加えることで、事実を幾分誇張している。「秘密出版物の論説という狭い範囲の中でドゥルティの友が述べることができなかったことは、この革命理論は前衛の手による仕事だということである。革命理論の必要性は、組織された前衛の必要性を暗示する。前衛は闘争によって創り出され、革命綱領の諸要素を討議し、発明する。従って、『党』は必要なのだ。党という言葉は当てにならない組織を指すために乱用されてきたが、最も明敏で、最も能動的で、最も明確な社会意識を持った労働者が団結した組織が必要なのだ。」そして、次のように予測している。「ドゥルティの友は、確実に、POUMの左派分子と結合せしめたこの傾向を継続し、このことが、スペインのプロレタリア階級に近年の戦いで欠落していた革命党の設立を導くであろう。」ギリャモンが明らかにしているように、この予測は全くの見当はずれであった。(原註15)

民衆の友の紙面や、ドゥルティの友の十全な宣言文である「新しい革命に向けて」で提起されてはいるが、完全に解明されていない幾つかの問題があったことは否定できない。ドゥルティの友は、アナキズムの慣用句を明確に述べる正直な活動を行っていた。この活動が、他の反ファシストに対して非常に乱用されていた寛容さによる行き詰まりから脱出させ、反ファシズムの傘の下に行われている協調路線によって変質させられている革命を正常な状態に戻してくれると彼らは考えた。何度も繰り返されたフレーズの一つは、革命はケマール=ウナ=エタパ(段階を飛ばす)でなければならない、というものだった。彼らは、労働者階級リバータリアン分子の覇権を主張することで、費やされた努力に正当な報酬が支払われるよう保証しながら、反ファシズムを再構築しようとした。当時、停滞してはいないものの次第に活気を失いつつあった労働組合を、その自律性を取り戻し、協調路線に奪われた主役性を再び主張することで、生き返らせようとしたのだ。(原註16)

最近では、ドゥルティの友とハイメ=バリウスの性格に関する事実について、スペインの大学にいる歴史家エンリク=ウセライ=ダ=カルとスサナ=タベラ二人の筆によるかなりバカげた読み物が出現している。カタロニアにおけるリバータリアン集団の中での集団力学をなぞるという素晴らしい意図から始まり、「労働者の連帯」の編集者・カタロニアにおけるCNT-FAI「公式路線」のスポークスマンという座にあったハシント=トリオ(Jacinto Toryho)に特に依拠しながら、著者らは、バリウスの挫折したジャーナリズム的野望が、反対意見を唱えるリバータリアンの疑念と憤慨を自分のためにシニカルに利用する事へと悪化したというマキャヴェリ的逸話をでっち上げている。ギリャモンは、当該論文を「ナンセンス」で「恥知らず」で「中傷的」であり、疑いもなく非常に卑しく粗雑な一編の歴史研究がこの著者等の学者としての名声によって生き生きとしたものになり、両者の自己満足を一層助長するのであれば、哀れなものだとして正しく却下している。彼らの捏造は、1937年3月のドゥルティの友の設立を「反革命とスターリン主義者を、そしてそこまでではないにせよ、CNT内部にいる自分の(バリウスの)除名に責任ある人々を、敵だと指摘しながら、重要な政治的内容を個人的挫折へ注入しようとする試み」だと記述していることからも分かる。(原註17)

アグスティン=ギリャモンは、科学的調査の精神を持って自分の研究を行ったことで賞賛されるであろう。彼は、よく見られる作り話を包括的に扱い、1937年という重要な年にスペインのリバータリアニズムの大きな仲間の中にいる反体制派グループの中で今も最も魅力的な、最も明確に自分達の考えを表明したグループの思想と目的を実直に正確に解説している。


序文の原註

1. 「思想」(バホ=リョブレガト)、第24号(1937年6月17日)、4ページに記載。

2. エルネスト=ボノミニは、「ヴォロンタ」、第11号(1947年5月1日)に5月の事件の目撃証言を書いている。

3. 「民衆の友」、第4号(1937年6月22日)3ページ、"El asalto a la Telefo'nica"

4. スペインのアナキズムは、例えば反ファシズムという傘やそれ以前の共和主義同盟が作り出した曖昧な輪郭よりも、極端な対照に満足していた。「我ら、スペインのアナルコサンジカリストは、とことんまで弁証法原理に忠実だった。我々は、自由主義政府や改良主義政府を、内なる競争の感情から、我々の特別な怒りの標的とした。我々は失業手当よりも失業者の列を選ぶ。ボスの奴隷になるか協同主義の奴隷になるか選べる以上、我々は前者を選んだ。そして、断固として後者を拒絶した。」−−ホセ=ペイラツ著、Examen critico constructivo del Movimiento Libertario Espan~ol (Editores Mexicanos Unidos, Mexico DF, 1967) p. 42.

5. 「思想」、第4号(1937年1月21日)、4ページ

6. 「道程」(バルセロナ)、第13号(1937年1月7日)、6ページ、"Centralismo."

7. 「民衆の友」、第2号(1937年5月26日)の第一面に次の記事がハッキリと示されている。「我々はいかなる停戦条約にも反対である。スペインの労働者が流した血は堅牢な防波堤であり、地元出身の政治家と世界中にいる資本主義の外交家が出資している陰謀を打倒するだろう。勝利か、死か。他の解決などあり得ない。」「思想」紙や「道程」紙などの紙面も、戦争を外向的に解決し、スペイン労働者の手から物事を奪い取ろうと策定された怪しげな陰謀に対して同じような反抗的態度を示していた。

8. ホセ=ペイラツ著、「スペイン革命におけるCNT」(Ed. Madre Tierra, Madrid, 1988, Vol. 11, p. 220) は、CNT全国委員会が1937年5月23日の全国地方支部会議で到達した合意のレジュメを引用している。

9. 「民衆の友」、第2号、1937年5月26日、3ページ。ドゥルティの友は辛辣に次のように付け加えている。「連合のあらゆる指針に違反して、誰かが、集会と闘士の頭上を飛び越え、自分を将軍だと見なし、誤りを犯し続けているのならいつでも、その人には−−一縷の尊厳が残っているとすればだが−−非難される以外に選択肢などない。ガルシア=オリベルこそこの条件を満たしているのだ!」

10. 「民衆の友」、第8号、1937年9月21日、2ページ。「ペスターニャの加入許可は、広い連合諸集団の帯の中にブルジョア民主主義のメンタリティの侵入を承認することである。同志達、注意せよ。」

11. 「民衆の友」、第4号(1937年6月22日)、3ページ、"En defensa propia: Necesito una aclaracio'n." 「私は、マルクス主義者というレッテルが自分に幾度となく貼られていることに愕然としている。私は、100%革命家なのに。」このコメントは、マルクス主義者は100%革命家ではない、とバリウスが見なしていることを示している。だが、ドゥルティの友は、POUMが1937年5月にバルセロナの市街戦で上手く立ち回ったことを認めるほど充分に寛大だった。マルクス主義をこのように拒絶していることは、資本主義経済のマルクス主義分析に対してではなく、社会変革に対するマルクス主義の手段に対して、記述的要素ではなく、規範的要素に、当てはまるだろう。

12. ホセ=ペイラツ著、「スペイン革命におけるCNT」 Vol 11, p. 147. ペイラツは、「革命フンタがバルセロナで形成された」(強調は筆者)で始まるテキストを再掲している。セサール=M=ロレンソは、ペイラツが示したこの文章を再掲している。だが、ペイラツのテキストは引用文ではなく、誤った言い換えである。

13. セサール=M=ロレンソ著、「スペインのアナキストと権力」(Ruedo Iberico, Paris, 1972) p. 219, n. 32.

14. ロレンソが引用しているリーフレットの全テキストは、ヘンリ=チャセ著、「Chronique de la revolution espagnole: Union Communiste (1933-1939) 」(Paris, Cahiers Spartacus, 1979) pp. 114-115 で見ることが出来る。ヒュアン=ゴメス=カサス著、「Anarchist Organization: The History of the FAI」(Black Rose Books, Montreal-Buffalo, 1986, p. 210) は、ロレンソの奇妙な脚注を、あたかもドゥルティの友のテキストであるかのように、無批判に再掲している。

15. ヘンリ=チャセ著、前掲書、 p. 82 (L'lnternationale No 33, December 18, 1937 より)

16. 共和国「同盟」に対する憤慨は、1937年の夏以前に広がっていた。アナキストの無邪気さを辱めた議論すらあった。「原則をハッキリさせておこう。自分達に不実の人にいかなる忠義も負うことはない。秘密裏に我々を裏切る人を尊敬する義務などない。強制しても罰を受けない程の力を持ったとたんに我々を強制しようとする人に寛容になる義務などない。この原則が、我々の自由を取り上げる人の自由を尊重するよう義務づけるはずがないのだ。」(Beobachter, in Ideas No 29, August 6, 1937).

17. スサーナ=タベラとエンリック=ウセライ=ダ=カル共著、"Grupos de afinidad, disciplina bélica y periodismo libertario 1936-1938" in Historia Contemporanea, 9, (Servicio Ed. Universidad del Pais Vasco, 1993) pp. 184.


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