ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第九章
1939年亡命時のバリウスの思想

亡命したバリウスは、フランスのアナキスト評論誌「L'Espagne nouvelle」に二つの記事を書いている。最初の記事は1936年7月19日の三周年を記念したものだった。次の記事は、フランスと英国が公式にドイツに宣戦布告した1939年9月に公刊され、1937年5月をテーマとしていた。どちらの記事もバリウスの長期にわたる熟考の結果であり、バリウスは「ドゥルティの友の書記」という立場で署名していた。

どちらの記事も、使われた言語の正確さ・スペイン革命が提起した根元的諸問題への中心的焦点という点で傑出している。つまり、権力問題・革命的指導部が持つ必須機能・国家を破壊し反革命勢力を弾圧できる新しい構造(以前の文書では革命フンタと述べられていた)をその立場に導入する必要性に関するバリウスの考えを最大限明確に提示しているのである。

「1936年7月:意味と可能性」と題された記事で、彼は、7月事件は単に軍とファシストによる蜂起に対抗した抵抗の結果に過ぎない、つまり、「軍の反乱がなければ、武装民衆運動はなかった」と論じている人々に反論した。逆に、バリウスは次のように主張した。この見解は、人民戦線主義に従ったものであり、ブルジョア共和党に労働者階級が服従した結果であり、このこと自体がプロレタリア階級が敗北した主たる理由なのだ。バリウスは、ブルジョア共和党がファシスト反乱と対決する際に労働者に武器を与えることをどのように拒否したのかを思い起こしている。

バルセロナ自体でも、運輸労働者組合は、カタロニア自治政府の間抜けどもの攻撃に悩まされねばならなかった。彼等は、重大な闘争が始まるたった数時間前に、なおもライフルを取り上げようとした。そのライフルは我々がマヌエル=アルヌス号に乗り込んで奪取し、ファシストと戦うために使おうとしていたものだったのだ。

バリウスによれば、軍に勝利したのは、労働者が、すぐに使える武器を持ち、プチブルと何の取引もせずに、ファシストと対決した場所だけだった。労働者が−−サラゴサのように−−躊躇したり、取り引きしたりしたところでは、勝利はファシストのものとなったのだ。

1936年7月に提起された最重要問題は、バリウスによれば、スペインの幾つかの地域で軍が勝利したことではなかった。最も重要な問題は共和党ゾーンの中で生じていた。誰が権力を奪取し、誰が戦争の方向付けをしたのか?この疑問に対しては二つの答えしかあり得なかった。ブルジョア共和党か、プロレタリア階級かである。

しかし、最も重要な問題は我々のゾーンで生じた。誰が勝ったのかを決定することが問題だった。労働者なのか?そうなら、この国の統治は我々のものだった。だが、(中略)プチブルも勝ったのか?それが誤りだった。

バリウスは、1936年7月に関わらず労働者は権力を奪取したはずだと論じた。そうならば、戦争における勝利の唯一の保証となり、唯一の機会となっただろう。

CNTとFAIは、カタロニアにおける運動の精神であり、7月事件に適切な色合いを提供できたはずだった。誰が彼等を止めることができただろう?その代わりに、我々は共産党(PSUC)が日和見主義者やブルジョア右翼などを反革命陣営に集める事を許したのだ。

こうした時期に主導的役割を担うのは一つの組織次第である。たった一つしかあり得なかった。我々の組織だ。

(中略)労働者が反ファシズムのスペインで主人として行動する方法を知っていれば、戦争に勝っていただろうし、革命は当初からこれほどまで多くの逸脱を許すはずはなかっただろう。我々は勝利できたはずだった。だが、我々は、武器一杯の武器庫全体を手に入れると、四丁の拳銃で何とか手に入れたことを失ってしまった。敗北の責任ある人々について語る際、スターリン主義が雇った暗殺者・プリエトのような盗賊・ネグリンのような屑・お決まりの改良主義者から視線を移さねばならない。このガラクタ全てを処分する能力を持っていなかったが故に、我々がこの過ちを生んだのだ。(中略)だが、我々は皆一様に責任があるものの、特に重い責任を負う人々がいる。つまり、CNT−FAIの指導者達である。彼等が行った7月の改良主義アプローチこそが、1937年5月の反革命介入こそが、労働者階級の道をふさぎ、革命に致命的打撃を与えたのだ。

これこそ、アナルコサンジカリスト指導者が1936年7月に直面した、カタロニア外でアナキストが少数であること・反ファシズム団結を維持する必要があること・戦争が革命に幾度も妥協を強いたことに関わる、数多くの懸念と異議についてのバリウスの要約だった。バリウスは、もしプロレタリア階級が権力を奪取していれば、カタロニアでのアナキストの勝利は、スペイン全土でファシスト蜂起を即座に破壊する前兆となり得た、と主張した。権力は奪取されなかったのだ。バリウスによれば、これこそが1936年7月に犯した失敗だった。この失敗から、革命は急速に堕落し、問題が生じた。この失敗が、スターリン主義を主たる設計者とする反革命の成長を生む可能性を残した。だが、バリウスは、非難はスターリン主義者とブルジョア共和党にではなく、プロレタリア革命よりも反ファシズム団結−−つまり、ブルジョア階級・国家・資本主義諸機関との協力−−を望ましいとしたアナキスト指導者にある、と考えていた。

1939年9月に「1937年5月:プロレタリア階級にとって歴史的日付」と題されて発表された1937年5月の事件に関する記事で、バリウスは1937年5月以降の二年間を、この革命的事件の余波に過ぎないと書いた。バリウスによれば、1937年5月は抗議行動ではなく、カタロニアのプロレタリア階級の意識的な革命的蜂起だった。これは軍事的に成功し、政治的に失敗した。

この失敗はアナキスト指導者による裏切り行為のためだった。ここで再び、1937年5月の事件中にドゥルティの友が告発した大逆罪−−後に「民衆の友」で撤回されてしまったが−−が現れる。

だが、CNT−FAIの改良主義派が行った大逆はここで明らかだった。

7月事件で示された怠慢を繰り返しながら、彼等は、またもやブルジョア民主主義者の側についた。彼等は停戦命令を出した。プロレタリア階級は、この呼びかけに従うことに気が進まず、激怒し、臆病な指導者達からの命令を無視してその陣地を防衛し続けた。

そして、バリウスは、1937年5月にドゥルティの友が果たした役割について次のように描写した。

我々、ドゥルティの友は、前線で戦い、災厄を避けようとした。この災厄は、民衆が武器を手放したなら、民衆の恒常的な事柄となるであろう。我々は、戦闘を継続すべきであり、戦闘を止めるならばまず最初に特定の条件が満たされねばならない、という呼びかけを発表した。不幸にして、攻撃精神は既に破壊されており、戦闘はその革命的目標を達成することなく止めさせられてしまった。

バリウスはプロレタリア階級は軍事的に成功したが政治的に敗北したというパラドックスを非常に鮮やかに示した。

これは、全ての社会闘争史上初めてのことだった。勝者が敗者に服従したのだ。プロレタリア階級の前衛に手出しをしないという僅かばかりの保証すらなく、バリケードの解体は始まった。バルセロナ市は、あたかも何事もなかったかのように、平常の装いに戻ったのだった。

バリウスの分析では、5月事件は一つの岐路だと思われていた。革命をきっぱりと否認するか、権力を奪取するか、どちらかだった。そして、彼は、7月以降アナキストが一貫して撤退してきたことを、ブルジョア共和党との同盟という地獄に堕ちるべき人民戦線主義政策の果実だと釈明した。同時に、反革命指導部と革命的一般組合員というCNT内部に存在する分離の結果として、1937年5月は労働者が革命的指導部に追いつくことができなかったが故の失敗だった。

プロレタリア階級は重大な分岐点にいた。選択肢は二つしかなかった。反革命の前に跪くか、自分達自身の権力−−すなわちプロレタリア権力−−を強要する覚悟をするか。

スペイン労働者階級のドラマは、草の根と指導部との間に存在する全く完全な分離に特徴付けられている。指導部は常に反革命だった。逆に、スペインの労働者は(中略)事件の理解と解釈となると常にその指導者よりも傑出していた。こうした英雄的労働者が革命的指導部を見出していたなら、全世界が見つめている中で歴史の最も重要な一ページを書いていたであろう。

バリウスによれば、1937年5月に、カタロニアのプロレタリア階級は、CNTに権力を奪取するよう説得していた

5月事件の本質を見る際、武装闘争・経済・国全体のあり方を労働者指導部に受け持たせようというプロレタリア階級の揺るぎない決断力に目を向けねばならない。つまり(言葉を恐れぬ全てのアナキストにとって)プロレタリア階級は、権力を奪取するために戦っていたのだ。これは、古いブルジョア道具を破壊し、7月に表面化した様々な委員会に基づく新しい構造をその立場に構築することを通じて実現されると考えられていた。だが、結局、反動と改良主義者に即座に弾圧されてしまった。

これら二つの記事で、バリウスは革命とスペイン内戦の要点を切り出した。これがなければ、何が起こったのかは理解不可能なままである。つまり、権力問題である。彼は、その権力を具現化することになる機関も示した。特に、資本主義国家装置を破壊し、それに代わってプロレタリアの代案を設立する必要性を認識していた。それ以上に、バリウスは、革命的指導部の欠如がスペイン革命失敗の根源だと指摘したのである。

これら二つの記事を読むと、バリウスの政治思考の進化が、内戦中に獲得した豊かな経験の分析に根差しつつ、アナキズムのイデオロギーでタブー視されている諸問題に彼が取り組むようにさせたことを認めざるを得ない。その諸問題とは、(1)プロレタリア階級による権力奪取の必要性、(2)プロレタリアの代案に道をあけるために資本主義国家装置を破壊することの不可避性、(3)革命的指導部が果たす不可欠な役割、である。

ここまで述べてきたことは、バリウスの思考には別な様相も−−多分、これらの記事では問題にはされず、伝統的アナルコサンジカリズムのイデオロギーと一致している二次的な様相も−−あったという事実を排除するわけではない。つまり(1)労働組合による経済の方向付け、(2)プロレタリア権力機構としての諸委員会、(3)行政の自治体化などである。

バリウスが、スペインのアナルコサンジカリズムのイデオロギーに基づいて行動しつつ、内戦とスペイン革命の荒々しい経験を消化しようという莫大な努力を行っていたことは疑い得ない。ドゥルティの友グループの長所は、まさに、現実を理解し、スペインのプロレタリア階級の直接経験を吸収しようという活動にある。アナキスト革命家よりもアナキスト大臣の方が人生は安楽だった。イデオロギーそれ自体を否認する−−敗北し、歴史の経過は矛盾を無意味にした時に立ち戻るために、現実の瞬間に諸原則を「一時的に」放棄する−−方が楽だった。反ファシズム団結を呼びかけ、資本主義国家の統治への加担を呼びかけ、ブルジョア共和党が指揮する戦争に従うために軍隊化を受け入れる方が楽だった。矛盾に対峙するよりも。CNTは権力を奪取すべきである・プロレタリア階級が運転席に座ったときにのみ戦争に勝つことができる・資本主義国家は破壊されねばならない・何よりもプロレタリア階級は自身の権力構造を構築し、武力を使って反革命を粉砕しなければならない・革命指導部がなければこれら全ては実行不可能だと主張するよりも。こうした結論がアナキズムであるかないかは、資本主義国家を下支えすることがアナキズムなのかどうかを疑問視し続けた人々にとって非常に重要だった。1936年から1939年の間、アナルコサンジカリズムのイデオロギーは、その可能性・一貫性・妥当性について幾度も厳しい試練を受けた。バリウスの思索とドゥルティの友グループの思索とは、CNTとFAIを特徴付けている原則の矛盾とその放棄を解消するためにスペインのアナキスト集団が行った唯一の価値ある試みだった。バリウスとこのグループが行った理論的活動が、アナルコサンジカリズムにとって縁もゆかりもないと表現できるような結論を彼等に受け入れさせるがままにするのであれば、多分、プロレタリア階級の革命理論としてアナキズムは不適切だと認めねばならないだろう。バリウスとドゥルティの友はそのような処置は一度も取らず、CNTが国家と協力していることを批判し続けながらも、常に自身をアナキストだと見なしていた。

我々はこうした立場を一貫しているとも矛盾しているとも記述しようとは思わない。5月事件以後に革命家を食い物にしたスターリン主義弾圧は、このグループそれ自体を標的にしたのではなく−−一度も非合法化されなかったためだ−−全てのCNT闘士全般を標的にしていた。明らかに、このことがさらなる理論的解明と組織的決裂を妨げる手助けをした。ただ、我々は、いずれにしても、組織的決裂が生じたとは思わないが。

我々の分析があまりにも政治的で難解で不便で問題があることは認める。バリウスとドゥルティの友に対するトロツキストの影響と組織潜入というデウス=エクス=マシナ(急場しのぎ)に頼る方が、はるかに簡便で奇抜で学術的で、現在安売りされている逸話と戯画にぴったりである。


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