ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第六章
5月事件(原註1)

1937年5月1日(土)、バルセロナでメーデーのデモは行われなかった。カタロニア自治政府は、この日は軍需生産を行うための労働日であると発表していた。だが、真の理由は、カタロニア中の幾つかの地方や地域で高まっている緊張を受けて、様々な労働者組織間で対決があるかもしれないと恐れたためだった。この土曜日も、カタロニアの憂慮すべき治安状況を検討すべく、カタロニア自治政府評議会が開催された。国内治安と防衛の担当評議員達がここ数週間示した活動の実効性を承認し、彼らの卓越した(原註2)公安活動解決能力を信任することに合意した。

評議会が終わると、防衛と国内治安に関わる評議員(原註3)と首相で構成される委員会の会議が持たれた。目的は治安問題を検討することだった。(原註4)電話局を奪取する発議がアルテミ=アイガデ治安評議員の個人的決定だったとは信じがたい。この決定は、5月1日の会議後に開かれた委員会が決めた(原註5)、もしくは、コンパニイスとアサーニャ(偶然バルセロナにいた)との電話での会話をCNT闘士ががさつに妨害した5月2日(日)の事件の結果として決められたものである見込みが高い。もちろん、作戦が失敗すれば、この治安評議員は完全な政治責任を負うことになる。運良く、5月3日(月)に、コンパニイスは、ラルゴ=カバリェロと会談を持つためベニカルロを偶然訪問することになっており、この最初の事件から都合良く身を引き離すことができた。いずれにせよ、コンパニイスは、CNTが5月3日に即座に主張したように、アルテミ=アイガデとロドリゲス=サラスの免職を拒否する(原註6)という狭量で理解しがたい行動をとった。コンパニイスの政治行動が、それに続く武装対決の日々の最も重大な引き金の一つとなったのだった。

1937年5月3日(月)、トラック三台分の重武装した警官隊が、プラサ=デ=カタルーニャの電話局の外に配置された。警官隊を率いていたのはロドリゲス=サラスであった。彼はUGTの闘士であり、骨の髄までスターリニストであり、バルセロナの治安兵站部を指揮していた警官だった。7月19日以来ずっと電話局はCNTが乗っ取っていた。電話回線の管理・国境管理・国境パトロールこそが不満の種だった。1月以降、カタロニアの共和党自治政府とCNT大衆は、これらを巡って何度か衝突した。「自分に」ふさわしい特権を全て完全に回復させようとしていた共和主義国家機構。1936年7月19日の「利益」を防衛しようというCNTメンバー。これらの間に闘争は不可避だった。

ロドリゲス=サラスは、電話局を奪取しようとした。階下にいたCNT闘士は、驚きのあまり、武装解除してしまった。だが、上の階では、最上階に戦略的に配備していたマシンガンのおかげで根強い抵抗が組織された。このニュースは山火事のように広がった。バリケードが市内全土に即座に作られた。このこと自体をCNTの中堅幹部が示した発意(原註7)だと見なせば、そして同時に、地区の防衛委員会と統制パトロールという形でCNTの一般メンバーの中に重要な戦闘的組織が既に存在していたという事実を考慮すれば、これはバルセロナ労働者階級の自発的抵抗だと述べることができる。(原註8)同様に、動員が行われ、バリケードが市内全土に築かれる前に、CNT指導部からも他の政党指導部からも命令が出ていなかったことを心に留めるならば、これは自発的抵抗だと述べることができるのだ。

ゼネストの呼びかけをした人もいなかった。これは階級本能の結果だった。ドゥルティの友に示された絶好の活動機会であった。ドゥルティの友は、情況が何を必要としているのかに即座に注意を向けた。労働者が手に武器を持って戦っている間、ドゥルティの友は、革命的目的をもって労働者を指導しようとし、労働者にその目的を示そうとした。だが、すぐに、限界があることが分かった。5月8日の声明文で裏切り者だと名指ししてCNT指導者を批判したが、バリケードを断念する命令を却下させることはできなかった。また、彼らはCNT指導部の地位を奪い取ろうとは考えていなかった。革命フンタを確立するというスローガンが実行されるように何か取り計らったわけではなかった。CNT組織の管理をアナルコサンジカリスト指導部から奪い取るためには、指導部に対する批判では不充分だと彼らは承知していた。

逆に、ドゥルティの友は生まれたばかりであり、経験がなく、CNT大衆からの信望もなかった。その思想はCNT一般組合員にまだ徹底的に浸透してはいなかった。

こうした力のない情況にもがいている際に、彼らはPOUMの執行委員会からメモを受け取った。ドゥルティの友から公認の代理人を出して自分達と会ってほしいというのだった。(原註9)ハイメ=バリウス・パブロ=ルイス・エレウテリオ=ロイグ・マルティンが選ばれた。(原註10)5月4日の午後7時、彼らはランブラス通りにあるプリンシパル=パレスで、ゴルキン・ニン・アンドラデと会談を持った。(原註11)彼らは合同で情況を精査し、全員が、革命的蜂起に対するCNT指導部(原註12)とFAI指導部の反対を鑑みれば、蜂起は当初から失敗することが分かっている、という結論に達した。(原註13)戦闘員を整然と撤退させる必要があり、戦闘員は自分の武器を保持していなければならないということに同意した。(原註14)さらに、この撤退は反対勢力がその場を放棄した時に行うべきであり、バリケードの闘士達にいかなる弾圧もないように保証しなければならない、ということも合意された。次の日、CNTの最高指導者達と幹部達は、戦闘を止めるよう呼びかけるラジオ放送をさらに行った。今や、現場の闘士達はCNT−FAIの「火消し屋達」について、そして、警官隊がガルシア=オリベルにキスしていることについて冗談を言うのを止めた。

5月5日(水)、ドゥルティの友はバリケードの周りで有名なビラをまいた。このビラが彼らを有名にしたのである。ビラには次のように書かれている。

CNT−FAI。「ドゥルティの友」グループより。労働者諸君。革命フンタを。犯罪者を撃て。武装兵団を武装解除せよ。経済を社会化せよ。労働者階級を攻撃してきた政治政党を解散させろ。街路を明け渡さないぞ。何よりもまず革命だ。街路で我々と親しくしているPOUMの同志達に敬意を表す。社会革命万歳!反革命打倒!

このビラは、1937年5月4日〜5日の夜にバリオ=チノの印刷工場で銃を突きつけて印刷させた。(原註15)この即興性とドゥルティの友の経済基盤の欠如は明らかだった。ビラのテキストは5月4日午後7時にPOUM執行委員会と会合を持った後で起草された。その時に、ドゥルティの友とPOUMは、武器を手渡さない防衛的退却に合意し、弾圧がないことを保証するよう強く要求することに合意した。ビラは、POUMも承認し、「戦闘」第235号(5月6日)に転載された。このビラは、いかなる行動計画によっても裏付けられておらず、単なる主旨書であり、反革命の浸食に対して、行っている活動を続行するようCNT大衆の自発性へ訴えたものだった。実際は、全てを左右していたのはCNT指導部の決定だった。CNT大衆が、当初は指導部を妨害したり批判したりしていたとしても、7月19日の指導者達に従わないなどと信じるのはバカげており、滑稽であった。CNT指導部が革命指導部によって取って代わられて初めて、大衆が新しい指導部の革命的標語と行動計画に従う可能性−−非常に薄い可能性だったが−−がでてくる。だが、ドゥルティの友もPOUMもCNT指導部の席を奪おうとはせず、行動計画を起草することもなかった。実際に、CNT指導部の決定に従う方針をとり続けていた。POUMの執行委員会は、カタロニア自治政府と市の中心部で今も抵抗を続けている建物を奪取するというホセ=レブルの計画を拒否した。軍事的な事柄ではなく、政治的な事柄だというのがその理由だった。(原註16)

また、5月5日に、POUMバルセロナ地方委員会とドゥルティの友との会合があった。この会合についてPOUM主義者達は否定的に記していた。(原註17)なぜなら、

彼ら(ドゥルティの友)は、指導部を退かせるようCNT一般大衆に直接働きかけようとはしなかった。単に、運動に影響を与えようとしていただけであり、それ以上の責任を引き受けるつもりはなかった。

5月5日に発表したビラで、ドゥルティの友はPOUMとの共同行動を示唆した。その当面の目標として、そして、革命を方向付けるために、彼らは、革命フンタを設立すべきだと提案した。だが、彼らは、このモットーを発表しただけで、それを実行するために何も行わなかった。彼らはバリケードの戦士であって、オルガナイザーではなかった。CNT−FAI−POUMの共同行動を示したのは、バリケードで彼らと共に戦った他の組織の闘士に敬意を表しただけのことだった。ビラに印刷された言葉が、厳格な協定事項として進展することは一度もなかった。彼らは、CNT指導部の席を奪うために、そして、再三の街頭戦闘中止命令に耳を貸さなかったCNT大衆の管理を取り上げるために、実質的に何もしなかった。彼らは、統制パトロールのメンバーだったドゥルティの友グループメンバーを有効に使うことも、組織することも、特定の指示を出すこともできなかった。グループのメンバーであり、ロヒネグラ縦隊の代理人だったマクシモ=フランコに命令を出すこともなかった。マクシモ=フランコは、ロビラが指揮していたPOUM師団と共に、バルセロナでの戦闘に介入すべく前線を離れていた。ホセ=ロビラもマクシモ=フランコも、イスグレアス・アバド=デ=サンティリャン・モリナに−−つまり、カタロニア自治政府防衛省に命令されたCNT職員に−−前線に戻るよう説き伏せられてしまった。ドゥルティの友は、大衆の創造性と本能を完全に信頼していた。グループの様々なメンバー間でほんの少しの調整すらされなかった。その代わり、自分がそうしなければならないと思ったところで、自分がベストだと思った場所で、誰もが自分が望むように行動した。彼らは、現場の闘士達とバリケードを放棄することを議論し、説得しようと巡回していたCNT指導者の行動を迎え撃つことができなかった。

そして、CNT大衆は、指導者達(7月19日と全く同じ指導者達だった!)からの訴えに当惑し、当初はCNT指導部による調停の要請と反ファシスト団結のための戦闘中止の要請を無視したものの、結局、戦闘の放棄を選んだ。5月6日(火)、親善のそぶりとして、そして、この都市の平和を復元させるために、CNTの闘士は戦闘が始まった電話局の建物から撤退した。この建物は治安部隊が即座に占拠し、UGTメンバーが作業場を乗っ取った。アナキスト指導部が抗議すると、カタロニア自治政府の回答は次の通りだった。「これは、既成事実の問題だ。」そして、情熱を煽らないようCNT指導者はさらなる「謀反」を広く知らせないことを選んだのである。

ドゥルティの友グループが、CNTの反ファシズム団結政策に対する重大な障害物だったことは一度もない。せいぜい、CNT指導部とFAI指導部に批判的な反対派だった。結局、国家機構との協調政策はアナルコサンジカリズム諸原則とイデオロギーの裏切りだ、という厄介でありがたくない助言者でしかなかった。

バリケード周辺でのビラの配布は難しい活動だった。多くの闘士から疑いを持たれる危険があり、肉体的(原註18)報復に立ち向かわねばならないことさえあった。

私達は、5月事件中に行われたバリウスとホセプ=レブル(POUMの72細胞)の会談の一つについて知っている。この会談は、二つの組織が数値上少数であることを鑑みると、全く実際的な効果はなかった。ドゥルティの友は、共同で声明文を出すというホセプ=レブルの提案を辞退した。(原註19)

ドゥルティの友が5月8日に配布した声明文(原註20)は、5月事件を再検討したものであり、「戦闘」紙の印刷機でプリントされた。パラデルという名前のPOUM民兵は、店員組合の指導者であり、ドゥルティの友グループが直面している問題をかぎつけ、POUM機関紙の担当者だったホセプ=レブルにこの問題を提起した。そして、レブルは革命的連帯という自分の基本的義務を引き受け、党の高次権力に相談することなく、自分の印刷機をドゥルティの友グループが使用できるようにしてくれた。(原註21)

この声明文で、ドゥルティの友は電話局の掌握を初期の挑発行為と結びつけた。彼らは、エスクエラ=レプブリカナ・PSUC・カタロニア自治政府の武装機関を、5月事件の引き金を引いた責任があると名指しした。ドゥルティの友は、1936年7月(ファシスト蜂起に単に反対しただけではなかったと主張した)と1937年5月(単に政府の変革を目的としたのではなかった)それぞれの革命的性格を主張した。

街路やバリケードにいて、プロレタリア階級の利益を防衛していた我々のグループは、社会革命の完全勝利を求める。我々は、作り話に同意できない。代表者が違うだけの同じ諸政党で新しい政府が作られるという反革命の事実には同意できないのだ。

ドゥルティの友は、議会の妥協に対抗し、そうした妥協を革命プログラムに対する欺瞞だと呼び、5月5日に配布したビラで次のように示した。

我々のグループは、革命フンタの即時設立・犯罪者の射殺・武装兵団の武装解除・経済の社会化・労働者階級に敵意を示すあらゆる政治政党の解散を要求する。

ドゥルティの友グループは、戦闘に勝ったのは労働者であり、だからこそ、無意味なカタロニア自治政府をきっぱりと廃止すべきだ、と何の躊躇もなく主張した。このグループは、労働者蜂起の勝利を行き詰まらせたCNT委員会と指導者たちは大逆罪にあたると非難した。

カタロニア自治政府には何の意味もない。その継続的存在は反革命を強化している。我々労働者は勝利している。CNT委員会が「停戦」命令を出すなど、実際、完全勝利のギリギリの境界に我々が立っているときに労働者を無理矢理仕事に引き戻すほど臆病に行動しなければならなかったなど、信念の否定である。攻撃の発端についていかなる説明もなされず、現在の出来事が持つ真の意味にいかなる注意も払われていない。このような行為は、革命への大逆だと述べねばならない。誰であろうと、いかなる名においてであろうと、犯してはならぬ・助長してはならぬ行為だ。「労働者の連帯」とCNTの傑出した闘士が決行したこの有害な活動をどのように分類すべきか我々には分かっている。

「大逆」という記述は、CNT地方委員会によるドゥルティの友の否認、そして、バレンシアにある中央政府への治安・防衛責務(カタロニア自治政府管理下にあるものではなく、CNT管理下にあるもの)の移管に言及する際も繰り返し使われた。

大逆は途方もない規模で行われている。労働者階級が持つ二つの本質的担保−−治安と防衛−−は、易々と我々の敵に与えられたのだ。

この声明文の終わりでは、5月事件の戦術的失敗に関する簡単な自己批判をし、未来に対する楽観的観測が示されている−−5月28日に放たれた直接的弾圧の波が、この観測を根拠がなく空虚なものだったと示すことになった。1937年5月は、膠着状態で終わったのではなく、プロレタリア階級の大敗だったのだ。

1937年5月の事件に関する神話に関して言えば、結局のところ、この神話が述べているのは、非常に混沌とし混乱した(原註22)情況であり、戦闘に関わったそれぞれの側が折衝する熱意を発達させていたということである。1937年5月は革命的蜂起ではなく、1936年7月に達成された「労働組合所有」の防衛として始まった。この戦闘の引き金を引いたのが、カタロニア自治政府軍による電話局の強襲だった。そして、この動きは、7月19日の労働者蜂起という「変則的」情況が政府から一時的にもぎ取った権力を、コンパニイスの政府が継続的に少しずつ回復しようとする企図の本質的部分だった。プイグセルダとセルダーニャ全体で少し前に獲得した成功が、バルセロナでの、そしてカタロニア全体での決定的動きに道を開けたのだ。明らかに、コンパニイスはコモレラ(PSUC)とアントノフ−オフセーエンコ(ソ連領事)に支持されていると感じていた。コンパニイスは、POUMがカタロニア自治政府から除名された12月以来、彼らと非常に密接に非常に効果的に活動していた。スターリン主義政策はコンパニイスの目的と一致していた。革命勢力−−つまりPOUMとCNT−−を弱体化させ、脇に追いやるという目的は、ブルジョアカタロニア自治政府が強くなった場合に、ソ連が唯一取り込むことのできる目的だった。1937年3月4日の統制パトロール解散命令をCNTが拒否した後にカタロニア自治政府内で広がった危機はダラダラと長期化していたが、暴力によって解決した。ビラネサ・ラ=ファテリャ・バレンシアのクリェラ・ベルベル・ロルダン=コルタダの葬式などで武器を使った小競り合いが幾つかあった後に、バルセロナでの電話局攻撃と5月の流血事件によって解決されたのだ。愚かしい程の近視眼・反ファシズム団結への確固たる忠誠・主要アナルコサンジカリスト指導者(ペイロからフェデリカ=モンセニーまで、アバド=デ=サンティリャンからガルシア=オリベルまで、マリアネトからバレリオ=マスまで)が共和国政府と協調していく範囲、これらは取るに足らない要因などではなかったし、カタロニア自治政府もソ連の職員も見落とさなかった。彼らは、5月事件中に充分証明されたように、聖人ぶった愚かさ(an asinine saintliness)を利用することもできた。

5月事件中のドゥルティの友グループの行動に関する限り、バリケードでの役割とビラについて誤解を招きやすい神話化(原註23)がされているが、これも場違いだ。既に述べたように、ドゥルティの友は、いかなる時でもCNT指導部を乗っ取るつもりはなく、指導者達と革命に対する大逆的政策とを容赦なく批判することで満足していた。メンバー数とCNT支持者集団に対する影響力の薄さを考えれば、彼らは他に何もできなかったのかも知れない。だが、市街戦への関与(原註24)・ランブラス通りの幾つかのバリケードでの支配力(特に、自分達の本部の反対側にあるバリケードでの)(原註25)・サンツやラ=トラサやサリェントでの戦闘への関与は指摘せねばならない。当然、1937年5月5日のビラで指導と幾つかの政治的最小要求を提供しようとしたことは、強調されてしかるべきである。このビラの配布は簡単な仕事ではなく、グループメンバー数人が命を落とした。バリケードの周囲でビラを配る際、彼らはCNT闘士の支援を当てにできた。5月事件中の活動で言及する価値のあるものの中で、ランブラス通りとオスピタル通りがぶつかる場所にあったバリケードでバリウスが発行した、欧州の全労働者はスペイン革命との連帯を示さねばならないという呼びかけ文を忘れてはならない。(原註26)攻撃部隊の一縦隊が叛乱を鎮圧すべくバレンシアから近づいているという報告を受け、ドゥルティの友はアナキスト縦隊を集めてそれを阻止しようとした。だが、これは計画段階を超えることはなかった。バリケードを築いたCNT闘士達に受け入れられなかったからである。

最後に、労働者に対してアピールを発表すべきだ、ということについて、政治的観点からPOUMと合意に到達したことを指摘しなければならない。労働者は、バリケードを放棄する前にその後の報復がないという保証を求めねばならない。結局、武器の保持こそが−−これは一度も放棄されはしないはずだった−−万人に対する最良の保証だと指摘したのである。

理論的見地からすれば、ドゥルティの友の役割は、5月事件以後の方がはるかに突出していた。彼らは、自身の新聞の出版に取りかかった。彼らは新聞の名をフランス革命中にマラーが出版した新聞から拝借した:民衆の友である。


第六章の原註

l. 5月事件に関する情報の出典は以下の通り:

  • J. Arquer Les Jornades de maig マドリーのAHNに保管されている未発表論文。
  • Burnett Bolloten La Guerra civil espan~ola: Revoluci'on y contrarrevoluci'on (Alianza Editorial, Madrid, 1989, pp. 659-704) [English language readers should see Burnett Bolloten, The Spanish Revolution, Chapel Hill, 1979]
  • Luis Companys 「これは、大統領が書いたメモと(中略)1937年5月3日〜7日のバルセロナでの戦闘の最中に様々な政界実力者と大統領がテレタイプで行った会話のカーボンコピーである。」 (フーバー研究所に保管)
  • Manuel Cruells Mayo sangriento. Barcelona 1937 (Ed. Juventud, Barcelona, 1970)
  • Francisco Lacruz El alzamiento, la revolucio'n y el terror en Barcelona (Libreria Arysel, Barcelona, 1943)
  • Frank Mintz and Manuel Pecin~a Los Amigos de Durruti, los trotsquistas y los sucesos de mayo (Campo Abierto, Madrid, 1978)
  • Andres Nin "El problema de los o'rganos de poder en la revolucio'n espan~ola." Published in French in No. 1 of Juillet. Revue internationale du POUM in June 1937. Available in a Spanish translation in Balance No. 2 (March 1994)
  • Hugo Oehler Barricades in Barcelona (1937). Reprinted in Revolutionary History No. 2, (1988) pp. 22-29
  • George Orwell "Yo fui tesligo en Barcelona" in Boletin de informacio'n sobre el proceso politico contra el POUM No. 5, Barcelona, December 15, 1937
  • [Agustin Souchy] Los sucesos en Barcelona, Relacio'n documental de las tra'gicas jornadas de la 1a de semana Mayo de 1937 (Ediciones Espan~olas Ebro, no place indicated, 3rd edition August 1937)
  • Pavel and Clara Thalmann Combats pur la liberte'. Moscou, Madrid, Paris (Spartacus, Paris, 1983)
  • Various Los sucesos de mayo de 1937. ona revolucio'n en la Republica (Fundacio' Andreu Nin, Barcelona 1988)
  • Various Sucesos de mayo (1937) Cuadernos de la guerra civil No. 1, (Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, 1987)

    2. Jordi Arquer Les jornades de maig マドリーのAHNに保管されている未公開原稿テキスト。

    3. 防衛評議委員は、CNTメンバーのフランシスコ=イスグレアスだった。彼は、ガルシア=オリベルの誠実な友人であり、支持者であり、5月事件中に非常に卓越した「中立的」役割を果たし、CNTとPOUMの軍隊が戦闘に関与しないように防いだ。ミゲル=カミナルはラファエル=ビディエリャからの証言を提供しており、それによれば、コンパニイスはアルテミ=アイガデに電話局を奪取するように命じた。これには数人の評議員とCNTのドメネクが立ち会っていた。ドメネクは単にそうした動きの結果どのようなことが起こるか指摘しただけだった。(ミゲル=カミナル著、Joan Comorera」、第二巻、120ページ)

    4. 5月1日(土)にカタロニア自治政府議会が会議を開催したことに関して、アルケル著の前掲書と1937年5月2日号の「労働者の連帯」の報告を参照。

    5. しかし、アルケル(前掲書)は、アイガデが委員会に知らせずに独力で行動したと信じているようである。いずれにしても、カタロニア自治政府は、タラデリャスの妥協・協調政策から足を洗い、その代わり、ベルベル=デ=セルダーニャで非常に上手く機能した(コンパニイスが擁護したように)直接対決を選んだ。

    6. この点については、マヌエル=クルエルス(「Mayo sangriento. Barcelona 1937」Ed. Juventud, Barcelona 1970, pp. 55-56)の所見を参照。クルエルスは当時「Diari de Barcelona」のジャーナリストだった。アイガデやロドリゲス=サラスに対するスターリン主義者の影響に関しては、コンパニイス・コモレラ・ソ連バルセロナ領事の間で得られた協力関係を考えれば、それがあったかなかったかは関係ないと思われる。この見解はアグスティン=ソウヒが前掲書(「Los sucesos de Barcelona. Relacio'n . . . 」)の13ページで示している。

    7. 電話局ビルの中で武力衝突が勃発したというニュースの直後に「この事件によってもっと大きな衝突が導かれないようにするために、治安兵站部隊の長であるエロレス・『統制パトロール』の書記長であるアセンス・防衛委員会代表のディアスが襲撃者を排除すべく電話局に赴いた。

    ロドリゲス=サラスは、国内治安議員のアイガデに、誰の命令で自分が行動するのか電話で助言を求めた。アイガデは、いかなる情況下でも撤退せず、自分が入手した任務を遂行しなければならない、と指示した。(中略)

    他のアナキストと共に、バレリオ=マスは(中略)タラデリャス(中略)のオフィスに現れ、電話局を占拠しようとしている攻撃部隊を撤退させるように命じて欲しいと頼んだ。(中略)タラデリャスは、そして、その後に(中略)彼らが呼び出したアルレミオ=アイガデは、驚いたふりをし、電話局を占拠せよという旨の指示は全く出していない、と主張した。

    『これは、ロドリゲス=サラスが独力で行動したのである』とアイガデは彼らに述べた。『そして、私は君たちに約束する。(中略)私は平和を回復するために必要な命令を出す。』」

    (フランシスコ=ラクルス著、「El Alzamiento, la revolucio'n y el terror en Barcelona」 (Libreria Arysel, Barcelona, 1943))

    フランシスコ=ラクルスの情報は、多分、アグスティン=ソウヒが1937年に匿名で出版したパンフレットから盗用しているのだろう。ソウヒは次のように述べていた。「この事件がより大きな衝突を導かないように保証するために、警察署長のエロレス・統制パトロールの書記長アセンス・防衛委員会代表の同志ディアスが、電話局に出かけた。(中略)バレリオ=マスは、他の同志たちと共に、首相であるタラデリャスと内務審議官であるアイガデと話し、軍隊を撤退させるように説得した。(中略)タラデリャス(中略)とアイガデは、電話局で何が起こっているのか全く何も知らないと断言した。後に分かったことだが、アイガデ自身が電話局を占拠する命令に署名していたのだった。」[Los sucesos de Barcelona. Relacio'n. . . 前掲 p. 12]

    8. フリアン=ゴルキンが "Reu'nion du sous-secretariat international du POUM - 14 mai 1937" で述べている主張を参照。「実際、この運動は完全に自発的なものだった。もちろん、このまさに相対的自発性こそが、説明されねばならないことなのだ。7月19日以来、主としてCNTとFAIの一般人員が組織した防衛委員会が、バルセロナのあらゆる場所とカタロニア全土で非常に上手く形成された。一時の間、こうした委員会はほとんど能動的ではなかったが、5月3日に労働者階級を動員したのはこうした委員会だったと言うことができる。この運動の背後にはアクショングループがあった。二つの労働組合協会のいずれからもゼネストの指示が出ていなかったことは分かっている。」

    9. ホルディ=アルケル著、「Histo'ria de la fundacio' i actuacio' de la 'Agrupacio' Amigos de Durruti'」未発表原稿(フーバー研究所に保管)

    10. 前掲書

    11. ホルディ=アルケル著、前掲書。ドゥルティの友の設立直後からにニンが関心を持ったことは疑いもない。1937年3月2日号の「」に掲載された記事の中で、ハイメ=バリウスは、カタロニアにおける反革命の一貫した進展の危険を警告した。ニンは、1937年3月4日号の「戦闘」において、バリウスが論じた思想を総合的に称賛する記事を書いていた。

    12. 5月3日、CNT地方委員会とPOUMの執行委員会は「CNT−FAIの家」で会合を持ち、情況について話し合った。POUMの側から行動の見通しについて長く詳細にわたる分析がされた後で、CNT地方委員会を代表して、バレリオ=マスが、ニン・アンドラデ・ソラノに楽しい夕べだったと謝辞を述べ、議論が非常に興味深かったこと・いつかもう一度行うべきだということを何度か繰り返し延べた。だが、いかなる合意にも達しなかった。CNT人員の近視眼と政治的愚劣さが信頼関係を不可能にしたのだった。自分達は歯を剥き出しにすべきだし、バリケードはすぐに破壊されねばならない。スターリン主義者と共和党員が、CNTの強さを試しただけで、それ以上のことをする勇気がない以上、これで充分だと彼らは考えていた。ランブラス通りに帰る途中で、バリケードを避けながら、アンドラデは何度も独り言を繰り返せずにはいられなかった。「楽しい夕べ!楽しい夕べ!」(1994年6月16日にバルセロナでウィレバルド=ソラノから口頭で得た証言)

    ニン・アンドラデ・ゴルキン・ボネット・ソラノからなるPOUM代表者とCNT地方委員会−−もっと特定すれば、その書記であるバレリオ=マス−−との会合については、「Les sucesos de mayo de 1937, Una revolucio'n en la Republica」 に掲載されているウィレバルド=ソラノ著、"La Juventud Comunista Iberica (POUM) en las jornadas de mayo de 1937 en Barcelona" を参照(Fundacio'n Nin y Fundacio'n Segui, Pandola Libros, Barcelona, 1988, pp. 158-160)。

    13. ホルディ=アルケル著、前掲書。ウィレバルド=ソラノ著の前掲書も参照。

    14. ホルディ=アルケル著、前掲書。「戦闘」の235号(1937年5月6日)・236号(1937年5月7日)・237号(1937年5月8日)の論説も参照。

    15. タルマンの報告による。上記の原註1を参照。

    16. ウィレバルド=ソラノ著、前掲書、164ページ。

    17. (POUMの)バルセロナ地方委員会 "Informe de la actuacio'n del Comite' local durante los dias de mayo que e'sta presenta a discusio'n de las celulas de Barcelona," Archivo Histo'rico Nacio'nal de Madrid.

    18. バーネット=ボロテンとの書簡に示されているバリウス自身の主張によれば、バリケードでビラを配布することで数人のグループメンバーの命が失われた。

    ビラの印刷と配布については、パベル=タルマンとクララ=タルマン共著、「Combats pour la liberte. Moscou, Madrid, Paris」(Spartacus, Paris, 1983, pp. 189-191) を参照。

    19. アグスティン=ギリャモンが提示したアンケートに対するホセプ=レブルの7番目の回答(Banyuls-sur-mer, December 16, 1985):

    質問:72細胞は、革命戦線を創り出すことを念頭に置いて他のグループと−−つまり、ドゥルティの友・リバータリアン青年・バリウス・ムニスなどのPOUMの一部と−−コンタクトを取ろうとしたのですか?

    ホセプ=レブル:「ドゥルティの友」とのコンタクトは5月事件の最中だけでした。しかし、このグループが数の上で少数であり、一般大衆との繋がりが全くなく、72細胞の控えめな代表者は、闘争している労働者に声明文を発行するといった私達が示したいと思うような実践的合意に至ることはありませんでした。

    20. バリウスは1971年に酷評した。「CNT大臣達が出した『停戦』命令のために、我々はこの命令を出した責任のある委員会を『裏切り者で臆病者』だと述べた声明文を出した。この声明文は、グループのメンバーとリバータリアン青年によって、カタロニアの首都全土で配布された。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、「Le Combat syndicaliste」1971年9月2日号に掲載)

    21. ホルディ=アルケル、前掲書。

    22. フアン=アンドラデ著、「Notas sobre la guerra civil (Actuación del POUM) 」(Ediciones Libertarias, Madrid, 1986, pp. 117-125)を参照。

    23. ドゥルティの友に関するアンドラデのコメントは非常に興味深い。すべての神話に穴を開けているからだ。「(前略)我々は『ドゥルティの友』と接触を持った。このグループは、FAI内部の反対派としてしか行動するつもりがない取るに足らない集団であり、重要ではないと言われてしかるべき集団だった。彼らが我々のような「権威主義マルクス主義者」と共同行動をしようと思うわけがなかった。私がこの点を指摘しているのは、「ドゥルティの友」を、CNT−FAIの革命意識を明言している強力な代表組織だと記述しようとする企てがあるためだ。現実には、組織的に何の価値もなく、イデオロギー混乱の記念碑だった。彼らは、自分達が何を求めているのか明確な考えを持っていなかった。彼らが常に、行動に関与することもなく、FAIの規律を破ることもなかったことを考えれば、彼らが愛していたのは、全く政治的影響のない過激な革命話だったわけだ。我々は、全てのことにもかかわらず、この情況において何らかの合意に至るべくやれることを全て行った。だが、抵抗を強く訴える二つの声明文の内の一つに共同で署名しただけだった。彼らはそれ以上のことを支持しようとしなかったからである。その後、このグループは完全に消えうせ、公的に現れることはなかった。(フアン=アンドラデ著、前掲書、12ページ)

    いずれにせよ、アンドラデの主張は控えめに言っても矛盾している。彼らが価値がなく取るに足らないのであれば、POUMが何故ドゥルティの友とわざわざ話をしたのか不思議に思わざるを得ない。反面、ニンが、1937年3月の段階で既に、バリウスの立場とドゥルティの友の誕生に関心を示していたことは既に指摘した。同様に、1986年のアンドラデは、1937年5月1日の「戦闘」に掲載された"CNT-POUM"という記事を書いた1937年のアンドラデと矛盾していることは疑いない。第五章の原注5を参照。

    24. バリウス自身が苦心して明確にしようとしているように、ドゥルティの友は、市街戦を歓迎するという点で孤立していた(このグループとボルシェヴィキ−レーニン主義支部だけが、革命的モットーが書かれたリーフレットを発表した)。彼らは、1937年5月事件の最中に労働者の自発的闘争に指導と革命的目的を与えようとしたのだった。「Espoir」において、フロレアル=カスティーリョは次のように述べている。カミーロ=ベルネリは5月事件に反対した指導者だった。これは間違いだ。カミーロ=ベルネリは「La Lutte de Classes」(実際には、イタリア語の新聞「Guerra di classe」)を発刊したが、積極的な役割は果たさなかった。激化したのは、ドゥルティの友のメンバーだった。我々のグループの愛すべき本部を、そして、オスピタル通りとランブラス通りのぶつかる角にバリケードを構築したのは、サリェントの鉱山労働者だった。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、1971年9月2日号のLe Combat syndicalisteに掲載)

    バリウスの証言は、ハウメ=ミラビテスと一致している。「この都市は−−私が知る限り−−FAIのメンバーが徹底的に占拠している。特に、ドゥルティの友の様々なグループが、そして、POUMからも比較的多くの人々が占拠している。」(ハウメ=ミラビテス著、「Episodis de la guerra civil espanyola. Notes del meus arxius (2) 」(Po'rtic, Barcelona, 1972, p. 144))

    25. バリウスが、前掲の "Por los fueros de la verdad" という論文で述べているように、バリケードはサリェントの鉱山労働者が築いた。

    26. パブロ=ルイス著、"Elogio po'stumo de Balius"、1981年1月9日号の「Le Combat syndicaliste/Solidaridad Obrera」に掲載。


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