ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第五章
ドゥルティの友グループ:始まりから5月事件まで

1936年10月、人民義勇軍軍隊化命令がアラゴン戦線にいたドゥルティ縦隊のアナキスト民兵の中で大きな不満を引き起こした。そして、果てる事なき苦々しい議論が続き、1937年2月に、ヘルサ支部に拠点を置く1000人の志願兵の内およそ30人が前線から離れて後衛に戻る決意をした。(原註1)取り決めでは、軍隊化に反対する民兵は二週間にわたって仕事を離れることになっていた。彼らは、その後に、武器を持って前線を離れた。

バルセロナに戻ると、他のアナキスト(7月の革命を遂行し、続行することを支持し、CNTの政府との強調に反対していた)と共に、ヘルサからの民兵は、他の多くの親和グループ同様に、既存のアナルコサンジカリスト仲間の中で親和グループを形成することを決めた。(原註2)その後の1936年10月からの数ヶ月は、長い抱卵期が続いた。運営委員会は「ドゥルティの友グループ」という名前を採用することにした。この名前にしたのは、一つには、ドゥルティ縦隊の元民兵という点が自分達に共通する原点であることを思い起こすためであり、バリウスが正確に述べていたように、ドゥルティの思想を意識して言及したのではなく、むしろ、一般大衆の目に映る彼の英雄的死と神話的状態を意図したものだった。

グループの中央本部はランブラス通りがオスピタル通りとぶつかるところにあった。グループのメンバー数は急速に増大した。4000人から5000人の間で、グループの会員証は発行された。会員になる必須条件の一つはCNTメンバーであることだった。グループの成長は、アナキストがCNTの妥協政策に困惑していた結果だった。

このグループは熱狂的なほど積極的で活力に満ちていた。3月17日の公式的立ち上げから5月3日まで、グループは、集会を幾度か開催し(4月19日にポリオラマ劇場で、5月2日にゴヤ劇場で)、幾つかの声明文とビラを発布し、その綱領を示したポスターをバルセロナの壁に貼り付けた。(原註4)その綱領で二つの点が傑出していた。(1)全ての権力を労働者階級に、(2)この労働者権力の表現として労働者・農民・戦闘員の民主的機関を。(原註5)第二点目を要約したのが、革命フンタという言葉だった。

また、彼らは、この国の経済的・政治的統治を完全に乗っ取るよう労働組合に呼びかけた。そして、労働組合について彼らが語るときには、CNTの労組を意味していたのであって、UGTの労組ではなかった。事実、グループの会員の中には、UGTを辞め、即座にCNTに加盟し、ドゥルティの友の会員となるための基本的前提を満たした人々もいた。

会員の出自が労働者階級であり、このことがCNTメンバーであることを保証していたが、実際には、ほとんどの会員はFAIのメンバーであった。このため、ドゥルティの友グループは、純正主義アナキズム教義への態度を明確にし、CNT指導部とFAI指導部の協調主義国家参入政策に適切に反対していたアナキストのグループだと述べることができる。

彼らは食料品組合内部で優勢だった。この組合は、カタロニア全土だけでなく、サリェント・スリア・フィゴルス・カルドナ・リョブレガト北部地域にも影響力を持っていた。他の組合で彼らが少数派だった場合も、その組合に対して影響力を持っていた。統制パトロールに属していた会員もいた。だが、彼らが分派やグループを形成することはなかったし、統制パトロールに潜入しようとすることもなかった。

このグループを、整然とした活動を行う総合的意識を持ったまとまったグループとして特徴付けることはできない。ある種の特徴的親和性を中心に形成された多かれ少なかれインフォーマルな多くのアナキスト集団の一つであった。また、彼らは優れた宣伝家でも理論家でもなかった。CNTの妥協政策や急速に進展する反革命プロセスと対決する本能的必要性に気付いたプロレタリアの一群だった。

最も傑出したスポークスマンがハイメ=バリウスとパブロ=ルイスであったことは間違いない。1937年3月から5月まで、カタロニア青年リバータリアン(原註6)も自身の壁新聞(原註7)を発表し、ドゥルティの友の新聞と同様のことを要求した。

1937年4月14日、グループは、ブルジョア共和国宣言一周年記念に強硬に反対する声明文を発表した。(原註8)一周年記念など、ブルジョア諸制度と反革命を強化する口実に過ぎないからだ。共和国の記念の代わりに、そして、ブルジョア反革命の最先端にいたカタロニア自治政府とルイス=コンパニイスに反対して、ドゥルティの友は、7月19日の記念を計画し、カタロニア自治政府の危機という袋小路から抜け出す革命的避難通路を見出すようCNTとFAIに強く勧めた。この危機は、統制パトロールの解消を命じた布告が出た3月4日に始まった。CNTが服従しなければ、カタロニア自治政府からCNT人員が排除されることになる。

この声明文は、革命家に対する多くの不法侵害を列挙していた。最も有名な事例はマロトであり、従順な「労働者の連帯」さえもがこの事例に対して憤慨したコメントを載せていた。オレサ=デ=モンセラートの事件のようにそれほど有名ではない事件も載っていた。実際、この声明文は、「」に掲載されたバリウスやミンゴなどによる記事の中で3月初頭から熟考されていた綱領の重点を改めて表明していた。これらはこの声明文の導入部に要約されている。

7月の記念すべき出来事に恐るべき痛手を負わせた資本主義国家は、プチブルジョアの反革命活動のおかげで、今だ健在である。(中略)

カタロニア自治政府の危機は、我々が国家主義の常套手段を全く排除した新しい世界を構築しなければならない絶対的証拠である。

もうとっくに、プチブルジョア・小売店主・警備員の軍団を、情け容赦なく一蹴する時期である。反革命との妥協などあり得ない。(中略)

これは、労働者階級の生死をかけた時代なのだ。(中略)躊躇してはならない。

民衆の懸念を反映している組織であるCNTとFAIは、この袋小路から抜け出す革命的やり方を見つけねばならない。(中略)我々は、廃墟となった国家に取って代わる機構を手にしている。労働組合と自治体が経済・社会生活を掌握しなければならないのだ。(略)

1937年4月18日(日)、このグループは、その存在とプログラムに民衆の注目を集めるべく、ポリオラマ劇場で集会を開いた。(原註9)ハイメ=バリウス・パブロ=ルイス(ヘルサグループの代理人)・フランシスコ=ペリィセル(鉄の縦隊の代理人)・フランシスコ=カレーニョ(ドゥルティ縦隊の戦争委員会のメンバー)が演説した。この集会は大きな成功を収め、演説者が用意した「思想」は完全に賞賛された。

1937年5月の第一日曜日(5月2日)、このグループは、ゴヤ劇場でさらに導入集会を開いた。劇場は超満員となり、集会は参加した人々を熱狂で狂乱状態にした。「7月19日」と題されたドキュメンタリー映画が上映され、1936年7月19日の革命的出来事の最も感情に訴える経過を追体験させた。演説者は、デ=パブロ(パブロ=ルイスか?)・ハイメ=バリウス・リベルト=カリェハス・フランシスコ=カレーニョだった。集会では、反動主義者による労働者への攻撃が今や差し迫っているという予測が口にされていた。

CNTとFAIの指導部の様々な委員会は、リバータリアン運動内部から生じた新しい反対派に、自身に向けられた容赦ない批判以外、それほど注意を払っていなかった。アナキスト集団では、様々なグループが表面に湧き出てきて、一時的に華々しく台頭し、結局出現したときと同じぐらい急速に消えてなくなることはよくあることだった。

1937年5月以前にドゥルティの友が詳述した綱領の特徴は、労働組合による経済管理・全政党とその国家主義的協調主義の批判・アナキズム教義の純正さのある程度までの復活であった。

ドゥルティの友は、その綱領をポスターに示し、1937年4月の終わりに向けてバルセロナの壁に貼り付けた。これらのポスターは、その当時であっても、5月の出来事に先んじて、ブルジョアのカタロニア自治政府を革命フンタで置き換える必要を主張していた。具体的には以下の通りである。(原註10)

ドゥルティの友グループ。労働者階級へ。

1.都市の労働者・地方の労働者・戦闘員からなる革命フンタの即時設立。
2.家族賃金・配給カード・労働組合による経済の方向付けと配給の監督。
3.反革命の一掃。
4.革命軍の創設。
5.労働者階級による治安の絶対的管理。
6.あらゆる休戦に対する断固たる反対。
7.プロレタリアの司法。
8.人事異動の廃絶。

注意せよ、労働者達。我々のグループは、反革命の継続的進展に反対する。アイガデが発起した治安命令を気に掛けてはならない。我々は、拘留されているマロトなどの同志の釈放を求める。

全ての権力を労働者階級へ。全ての経済権力を組合へ

カタロニア自治政府ではなく、革命フンタを!

1937年4月のポスターは、5月の出来事の最中に発行されたリーフレットの前兆であり、そのリーフレットを説明してくれる。また、「労働者の連帯」・「」・「思想」に掲載した記事でバリウスが扱った主題と懸念の多く(特に、革命的司法・捕虜交換・後衛が戦争を真剣に考える必要性など)がそのポスターに盛り込まれていた。革命フンタがブルジョアのカタロニア自治政府を乗っ取る必要が、ここで初めて提起された。この革命フンタ(原註11)は、労働者・農民・民兵から構成される革命政府として定義された。

中でも最も重要だったのが、最後の三つのスローガンに集約されたメッセージである。ブルジョアのカタロニア政府を革命フンタで置き換えることが、「全ての権力を労働者に」そして「全ての経済権力を組合に」というモットーと同時に示されているのである。(原註12)

5月の出来事の直前に示されたこのポスターに内在する政治綱領は、疑いもなく、既存プロレタリア集団が提示したものの中で最も進歩し明快であり、ドゥルティの友をこの重大かつ重要な時点でスペインのプロレタリア階級の革命的前衛にしている。このことは、POUMとボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部が認めることとなる。(原註13)


第五章の原註

1. ドゥルティの友の設立と密接に関連していたヘルサ民兵とその軍隊化反対に関する詳細な記述は、1937年3月24日の「」An~o XIV, No. 3545におけるパブロ=ルイスのインタビューに見ることができる。

また、バリウス自身の次の主張も参照。「ドゥルティの友グループは、その起源を軍隊化反対に持つ。大挙してバルセロナに移転してきたのはヘルサ民兵集団だった。ヘルサ集団の長はエドュアルド=セルベロ同志だった。従って、カタロニアの後衛では、アラゴン戦線からやってきた数多くの同志たちがそばにおり、義勇軍のリバータリアン精神を放棄することはできないという意見を共有していた。カタロニアの首都に武器と手荷物を持って移動した同志達のリストを果てしなく挙げ始めないように、大きな愛情と共に、プログレソ=ロデナス・パブロ=ルイス・マルセリノ=ベネディクトといった同志達がいたことを私に思い起こさせていただきたい。一つのグループがバルセロナで設立されねばならないと合意され、ブエナベントゥラ=ドゥルティの象徴の庇護の下になければならないと決定された。ドゥルティの友のメンバーには、他にも、アレハンドロ=ヒラベルト・フランシスコ=カレーニョ・マクシモ=フランコ(ロヒネグラ部門の代理人)・ポンサン・サンタナ=カレロなど多くの同志がいた。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、「Le Combat syndicaliste」、1971年9月2日)

軍隊化を拒み、戦線を離れることを決意し、武器を持ってやってきたヘルサグループ出身の多くの民兵について、パブロ=ルイスの記述は非常に統計的に厳密で、多分ほぼ正確であろう。「(アタラサナス兵舎突入に参加した後)私はドゥルティ縦隊に参加した。そして、千人以上の民兵で構成される第四ヘルサグループを率いた。(中略)内部から我々に人民軍が押し付けられるとすぐに、(中略)私は辞任し、数十人の同志達と共に後衛に再び参加した。(中略)その上で、バリウス同志の扇動もあり、我々は、ドゥルティの友グループを設立した。(略)」(パブロ=ルイス著、"Elogio po'stumo de Jaime Balius"、「Le Combat Syndicaliste/Solidaridad Obrera」、1981年1月22日)

2. FAIは、親和グループの連合として組織されていた。内戦中、「ノソトロス」(それ以前は「ロス=ソリダリオス」という名だった)・「ネルビオ」(神経)・「A」・「Z」・「ロス=デ=アジェール=イ=ロス=デ=オイ」(昨日と今日)・「ファロ」(灯台)などの親和グループが傑出していた。

3. 1937年3月2日の新聞「」が、このグループの設立を最初に報じた。このグループは公式的には1937年3月17日に設立された。「」の1937年3月18日号には以下の告知がある。

「ドゥルティの友」グループが設立された。運営委員会が任命された。「ドゥルティの友」設立会議が昨晩開催された。

グループの社交施設−−ランブラス=デ=ラス=フローレス1の二階にある−−は人々で埋め尽くされた。議事進行は10時丁度に始まった。議論を監視するための委員会が指名された。前線と後衛それぞれから数人の同志達が議論に参加した。同志達一人一人は、自分がCNTとFAIの前提条件を絶対的に支持することを再確認した。7月19日以後の革命の進路について広範な議論が行われ、集まった同志達皆が革命を押し進めたいと思っていることは明白だった。特定の反革命工作が激しく非難された。(中略)

肉体から切り離されてはいるが、我々のドゥルティは、グループの立ち上げを統括していた。明らかに、盲目的崇拝など少しもなく、むしろ、不運な同志の願いを実行しようという願望があった。

次に、この新しいグループが伝達しようとする意思を起草する作業班と共に、運営委員会が任命された。(中略)運営委員会は次のように構成される。書記:フェリクス=マルティネス、副書記:ハイメ=バリウス、会計:ホセ=パニアガ、簿記:アントニオ=プイグ=ガレタ、委員:フランシスコ=カレーニョ・パブロ=ルイス・アントニオ=ロメロ・セラフィン=ソビアス・エドュアルド=セルベロ。作業班は次の通り:パブロ=ルイス・J=マリン・ハイメ=バリウス・フランシスコ=カレーニョ・ホセ=エスプルガス。

議事進行が終わる前に、集会は、マロト同志とバレンシアで投獄されている同志達の釈放を求めた電報をCNT全国委員会に送るべきだ、ということに満場一致で合意した。

4. ドゥルティの友グループの署名が入った声明文・ビラ・告知・ポスターを、私達が知る限り全て羅列しておこう。バルセロナ市全土に公表されたため、発行場所は示さない。実質的にこれら全ての文書は、Archivo Historico Municipal de Barcelona(AHMB)で見ることができる:

  • . "Al pueblo trabajador" [1937年3月下旬に発表された声明文。両面ビラ。]
  • . "Al pueblo trabajador" [4月14日の一周年記念に反対する声明文]
  • . "!Trabahadiers! Acudid el pro'ximo dimingo, dia 18, al MITIN que la Agrupacio'n Los Amigos de Durruti celebrala' en el Teatro Poliorama" [1937年4月18日の集会を宣伝する告知]
  • . "Agrupacio'n de Los Amigos de Durruti. A la clase trabajadora." [壁や木に貼られたポスター。1937年4月下旬。]
  • . "ACTO organizado por la Agrupacio'n Los Amigos de Durruti. Domingo, 2 de mayo a las 10 de la man~ana, en el TEATRO GOYA." [1837年5月2日集会の告知]
  • ."CNT-FAI. Agrupacio'n 'Los Amigos de Durruti'. !TRABAJADORES!" [1937年5月5日にバリケードにばらまかれたビラ]
  • . "CNT-FAI. Agrupacion 'Los Amigos de Durruti'. Trabajadores." [1937年5月8日にばらまかれた声明文]
  • . "Trabajadores. Mie'rcoles dia 19. Aparecera' el 'Los Amigos de Durruti'. " [1937年5月19日に予定されている「民衆の友」第一号発刊の告知]
  • また、CNT食料品組合後援によるフランシスコ=ペリィセルの講演の告知も幾つかあるが、ここには示していない。

    5. 1937年5月1日の「戦闘」紙に掲載されているヒュアン=アンドラデ著 "CNT-POUM"を参照。これは、ヒュアン=アンドラデ著「La revolucio'n espanola dia a dia」(Ed. Nueva Era, Barcelona, 1979)の248ページに転載されている。以下にアンドラデがドゥルティの友に言及している部分を抜粋する。

    例えば、「ドゥルティの友」はバルセロナの全ての通りにポスターを貼ってその綱領の要点をまとめている。我々は、現状に関して「ドゥルティの友」が提起したモットーに絶対的に合意している。これは我々が承認する綱領であり、これに基づいて我々は彼らが示すことにどのようなことでも合意する用意がある。これらのモットーにある二つの事項は、我々にとっても基本的なものである。全ての権力を労働者階級へ、そして、プロレタリア権力の表現として労働者・農民・戦闘員の民主的機構を。

    6. カタロニアのリバータリアン青年の機関紙「道程」は、1936年11月以来CNTの協調主義に徹底的に反対してきた。1937年3月から5月下旬まで、この機関紙はサンタナ=カレロ(マラガのリバータリアン青年のメンバー)の記事を掲載した。彼は「民衆の友」の重要な寄稿者でもあり、ドゥルティの友のメンバーでもあった。1937年4月1日の日付の「道程」第25号は、"Por el concepto anarquista de la revolucio'n" と題されたドゥルティの友グループの記事を掲載した。その中で、3月下旬のビラや声明文で示されたものと同じ主張がなされた。CNT−FAIは7月19日に居座ることができず、少数派のプレーヤーとして協力することに合意し、プチブルジョア階級に十全な機会を与えてしまった。戦争と革命は一つでなければならなかった。「戦争と革命は分離できない二つの側面である。戦争とは革命の防衛である。組合が経済の方向付けをすべきである。軍と治安は労働者の管理下になければならない。武器は、革命を保証するために、労働者だけの手中になければならない。プチブルジョア階級は、国境警備隊を受け持たねばならない。後衛は戦争をおもく受け止めねばならない。労働は全員参加で、労働組合への加入を義務としなければならない。など。」

    7. これは「Esfuerzo: Perio'dico mural de las Juventudes Libertarias de Catalun~a」だった。壁に貼られるポスターサイズの週刊刊行物であり、3月の第二週から5月の第二週まで出版された。完全に匿名で、記事ではなく、モットー・短い宣言文・アピールが書かれていた。非常に独創的な壁新聞だった。以下の「記事」が傑出している。"El dilema: Fascismo o Revolucio'n social"(1937年3月第2週の第一号)、"Consignas de la Juventud Revolucionaria"(3月第3週の第二号)、 "El Orden Pu'blico tiene su garantia en las Patrullas de Control..."(3月第4週の第三号)、"Los 'affaires' por la substraccio'n de 11 tanques. La provocacio'n de Orden Publico en Reus, por Rodriguez Salas . . ." と "A los ochos meses de revolucio'n"(1937年4月第1週の第四号)。この壁新聞の最終号である第九号は、1937年5月の第2週の日付である。ドゥルティの友グループは一度も名指しで言及されることはなかったが、そのモットー・ヴィジョン・イデオロギー内容は、ドゥルティの友が明言し、支持していたものと非常によく似ていた。

    8. 'Friends of Durruti' Group "Al pueblo trabajador" Barcelona (1937年4月14日)

    9. ドゥルティの友グループを紹介したこの集会は、ロサリオ=ネグレテとウゴ=オエレルがバルセロナで同日付で書いた報告書に詳細に報告している。この報告書の初出は、「第四インターナショナル」第2巻、第12号(1937年)であった。「革命史」第1巻、第2号(ロンドン、1988)34ページ〜35ページを参照。

    会議の呼びかけにはビラが使われた。そのビラには、フランシスコ=ペリィセルが必要最低限の生活の問題について、パブロ=ルイスが革命軍について、ハイメ=バリウスが戦争と革命について、フランシスコ=カレーニョが労働組合の団結と政治的協力について、V=ペレス=コンビナが治安と現在について話すと発表していた。

    会議の進行について以下の情報が日刊紙「」(1937年4月19日)に掲載された。

    昨日の朝、ポリオラマ劇場で、ドゥルティの友グループによる会議が開かれた。多くの聴衆が集まり、会議の議長はロメロ同志が務めた。ロメロ同志がこの会議の意味を概略する短い所見を述べた後、フランシスコ=ペリィセルが呼ばれ、ドゥルティの回想で話しを始めた。

    次に、必要最低限の生活という問題に焦点が向けられ、彼は、現状の給与支給率で食事をするのは不可能だと述べた。(中略)パブロ=ルイスは、革命軍について話しをした。(中略)そして、ハイメ=バリウスは幾つかのメモを読み(中略)その中で彼は7月19日のファシズムに対する最初の戦いを再検討した。(中略)彼は、革命は戦争と手を取り合って進まねばならず、どちらも勝たねばならない、と述べた。(中略)フランシスコ=カレーニョが最後に、「労働組合の団結と政治的協力」というトピックについて話した。(中略)彼は、他の講演者同様、非常に熱烈な称賛を受けた。

    10.Acta de la sessio' consistorial del 22-5-1937 del Ajuntamente de Sabadell」 Archivo Histo'rico de Sabadell。議事録第16号の399ページに、ドゥルティの友が1937年4月に発表したポスターが全て転載されている。このポスターは、委員であるブルノ=リャド(ディエゴ=アバド=デ=サンティリャンを長とするカタロニア自治政府経済省の地方代理人でもあった)が5月2日(日)に自分のオフィスに掲示していたものであり、彼がバルセロナの5月事件の最中にカタロニア自治政府に対する反乱を教唆していると非難された際、その証拠書類に加えられていた。

    5月22日のサバデル議会の議場の議事録に載っているこのポスターのテキストは、アンドレウ=カステルス著、「Sabadell, informe de l'oposicio'. Annex per a la histo'ria de Sabadell (Vol. V) Guerra i revolucio (1936-1939) 」 (Ed. Riutort, Sabadell, 1982, p. 22.8) に転載されている。

    11. すぐに分かるが、ドゥルティの友が示した革命フンタの定義はいつも同じではなかった。だが、4月のポスターにあるモットーの重要性を理解できない人はいなかった。革命フンタの設立は、ブルジョアカタロニア自治政府の解散だけでなく、プロレタリア階級独裁の導入をも意味していた。「あらゆる権力を労働者階級へ」そして「あらゆる経済権力を組合へ」。1939年に「Lutte Ouvriere」に承諾したインタビューで、ムニスはドゥルティの友が使った際には「革命フンタ」と「ソヴィエト」という言葉は同義だった、と示した。

    12. バリウスは、1937年4月のポスターに示されたモットーの重要性を非常に意識していた。「1937年5月1日はスペインのクロンシュタットである。カタロニアでは、CNTの力があるからこそ蜂起が可能だった。そして、ロシアでクロンシュタットの水兵と労働者が『全ての権力をソヴィエトへ』という叫びに立ち上がったように、ドゥルティの友グループは『全ての権力を組合へ』と訴えた。バルセロナの都市全土に貼られた多くのポスターで、そして、戦闘が荒れ狂っていた最中に何とか出版した声明文で我々は公的に訴えたのである。」(ハイメ=バリウス著、"Por los fueros de la verdad"、「Le combat Syndicaliste」、1971年9月2日号に掲載)

    また、1937年8月23日の「La Voz Leninista」(レーニン主義者の声)第二号に掲載されているムニスのコメントも参照。

    13. 1937年5月1日の「戦闘」に掲載されているヒュアン=アンドラデ著、"CNT-POUM"。また、1937年8月23日の「レーニン主義者の声」第二号に掲載されているG=ムニス著、"La Junta Revolucionaria y los 'Amigos de Durruti"'も参照。


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