ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第三章
7月から5月へ:暴徒か、革命家か?

1937年5月の懐胎は、1936年7月の革命的出来事の一週間後に始まった。

カタロニアでは、労働者大衆の革命的蜂起が軍を打ち負かし、国家の行政・弾圧機構を混乱させ、ブルジョア階級を指導的機能から引き剥がすことに成功した。共和国に対する軍部蜂起を挫折させただけでなく、資本主義国家それ自体を打倒したのである。カタロニアの労働者階級は、突撃した兵舎から武器を奪取し、抑圧的諸機関が武装した民衆に馴染み、新しい革命秩序が確実に導入されるようにした。(原註1)つまり、工場を集産化・社会化し、その工場内部で生産を組織し、指揮したのである。そして、人民義勇軍を設立し、アラゴンに向けて出発した。

権力は街路にあった。民衆は武装した。だが、いかなるプロレタリア組織も権力を引き継がなかった。労働者階級は自身の労働組合と政治組織を維持し、新しい(統一された)労働者権力組織を作り出すことはなかった。これだけではない。角砂糖のように溶け出していた、幽霊のような信頼できない無能なブルジョア自治政府を動かし続けるために、いわゆる中央反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)が設立された。CAMCが新しい労働者権力の胚珠になったことは一度もなかった。むしろ階級協調機関だった。(原註2)ブルジョア共和主義のカタロニア自治政府の権力を保持する手助けをした地方政府だった。CAMCは、それらの機能−−軍隊・治安・生産に関するもの−−についてカタロニア自治政府に取って代わった。ブルジョア諸機関の崩壊後、それを行うことができる機関は他になかった。コンパニイス大統領の権力は単に名目上のものだったが、それは資本主義国家の潜在力でもあった。アナキストはその存続を許しただけでなく、実際には、それが生き残り、復活する手助けをした。7月の出来事の最中に得た革命的利益を、事後的に、「合法化」できるようにしたのだ。求めることなくして、CAMCは政府の装備すべてを獲得した。だが、CAMCは、様々な委員会−−地元地域委員会・防衛委員会・労働者委員会・農民委員会といったあらゆる種類の委員会−−の革命的権力を集中させず、その統一と強化に対する主たる障害物になった。カタロニアでは、地元地域の様々な革命委員会が7月19日から9月26日まで唯一本物の権力を行使していた。(原註3)CAMCは、こうした革命委員会の海に浸かったカタロニア自治政府に投げられた救命胴衣だったのだ。

二重権力状況は一度も存在しなかった。この概念は、スペイン革命・内線を理解するために不可欠である。CAMCは階級協調主義機関であり、資本主義国家の権力と対立する労働者権力の萌芽ではなかった。そして、CAMCに参加していようといまいと、主要な政治指導者全員にとってこのことは明らかだった。(原註4)この理由で、CAMCの解消は衝撃的出来事ではなかったし、甚だしく重要でもなかった。7月の出来事後に解体され、ボロボロになった国家権力を再構築するプロセスが持つ多くのステップの一つに過ぎなかったのである。CNTとPOUMも組み込んだ新しいカタロニア自治政府の形成は、CAMC内部で様々な政党と労働組合が行った活動の論理帰結だったのである。

この反革命プロセス、資本主義国家権力再構築プロセスは、必然的に多くの矛盾を引き起こした。当然、CNTの指導幹部は、反ファシストの団結を呼びかける・戦争に勝たねばならない・CNTはスペインの他の場所では少数派だ・西洋民主主義を憤慨させるのは危険だ、といったお馴染みの「状況主義的」(circumstancialist)論拠を使って、カモフラージュや隠蔽を行った。「アナキストの独裁」に背を向けているのだ、などという非常に素朴な論拠さえもあった。

資本主義国家に特有の機能すべての回復を止められない。CNTにとってこのことが抱える主たる矛盾は次の事実にあった。7月に大衆が勝ち取った「利益」の一様で継続的な損失・取り返しのつかない損失という犠牲があって初めて、これが可能になったのだ。

1936年12月から1937年5月まで、勢力争いと増大する緊張があった。CNTは常に譲歩し、POUMは疎外され、カタロニア自治政府はその機能すべてを回復すべく貪欲に圧力をかけ、ソヴィエトは尊大な圧力をかけ、その圧力がカタロニア政府も中央政府も同様に国家装置へと侵入していった。

このために、統制パトロールが、そして治安・国境管理・通信に関わるあらゆることが、台風の目の中にあった。革命闘志−−敵対者の言葉を使えば「暴徒」−−にとって、治安・国境・通信に及ぼす統制の保持、そしてもちろん統制パトロールの存在は、CNT指導部による絶え間ない譲歩の中でも後戻りできない基本的限界点だった。

1936年7月の革命的暴動は、何ヶ月も前に設置され訓練された地区や地元地域の防衛委員会に基づいていた。(原註5)7月の事件が起こると、統制パトロールは、CAMCに釈明義務を負った革命警察として「合法的」に認められた。

だが、統制パトロールは、蜂起主義運動全体ではなかった。そこには、地区や地元地域の防衛委員会すべて、さらに他のグループや闘志達もいた。それ以上に、強調しなければならないが、統制パトロールと防衛委員会の性質は根本的に異なっていた。統制パトロールはCAMCが作り出した組織であり、組織・秩序・人材はCAMCに依っていた。防衛委員会は、CNTの反政府機構であり、1936年7月以前から存在していた。統制パトロールは労働者暴動成功の制度化だった。防衛委員会は、革命委員会に変換され、1936年7月から1937年5月まで増殖し、蜂起主義運動を代表していた。(原註6)だからこそ、CNT−FAIとPOUMを含むすべての政治勢力が、いわゆる「暴徒」を攻撃したのだ。

この侮蔑的レッテルは、少数の不良が行った暴力と嫌がらせを手軽に強調する場合にはぴったり当てはまる。だが、この嫌疑はCNTと組合員に対するCNTの「統制」基準にも向けられた。実際、新聞−−大部分が協調主義を前提としていた連合の新聞も例外ではなかった−−紙上で、「暴徒」という言葉は犯罪者と同義で使われていた。この意味合いは、ブルジョア新聞やスターリン主義新聞ではそれほど顕著ではなかった。なぜなら、こうした新聞は革命家を犯罪者と見なしていたからだ。CNTやPOUMが「暴徒」という観念を使って、自身がイデオロギー諸原則を放棄した言い訳をしていた時にこそ、重大なパラドックスがあったのだ。

あらゆる革命プロセスにおいて、自分達の都合で武力を利用するグループや個人がでてくる。だが、この少数派は、団結した労働者の力ですぐさま容易く鎮圧できる。ロシアの場合がそれを証明している。カタロニアの場合、「暴徒」に対する攻撃はほとんどいつもプロレタリアの正義(ブルジョア合法性とは無縁の)に対する攻撃であり、革命家に対する攻撃である。つまり、7月暴動でプロレタリア階級が確保した利益を手放すことを拒否した人々や、実際にそれを「さらに」押し進めようとしている人々に対する攻撃だったのだ。(原註7)

読者は留意していただきたい。このアプローチは非常に独特の政治的選択を前提としている。(原註8)1936年〜1939年のスペイン革命に関わる出来事・イデオロギー・矛盾を、革命党が存在しなかったことの結果という点で検証し、説明しているのである。

従って、「暴徒」という言葉は、純潔で中立的な言葉として用いられていなかったし、今日であってさえも用いられてはいない。完全な侮蔑的階級用語であり、この言葉を通じて、ブルジョア階級は革命家の信用を落とし、中傷しようとしていた。1937年5月、ドゥルティの友は、FAIそれ自体からさえも、スパイだとか無党派だとかいうだけでなく、暴徒だとして自身が侮辱されるのを耳にせざるを得なかった。これは偶然ではない。彼らが行った唯一の不法行為といえば、バリケードで戦っているプロレタリア階級に革命的諸目標を提示しようとしたことだけだった。

あらゆる歴史物語には、常に、特定の政治的前提を指示する選択がある。この選択が明確になることはなく、あると想定されている「客観性」を支持して、実質的に常に否定され隠されている。だが、そうした「客観性」など、この選択を昇華したのであり、存在しないのだ。(原註9)

最後にもう一点。1937年5月は、1936年7月に始まった革命プロセスの最後の敗北を示していた。だが、反革命のプロセスはこれで終わったわけではなく、CNTの協調主義も終わったわけではなかった。最終的に、1938年3月〜4月のCNT−UGT協定の妥結とネグリン政府への参入で終わった。


第三章の原註

1. バリウスの主張を参照。「資本主義強制機構の破壊に対して、即座に、労働者・農民・民兵・水兵の様々な委員会が設立された。委員会が設立されなかった工場・労働者階級地区・村落・民兵部隊・船舶は一つとしてなかった。委員会は究極の権威であり、その布告と合意は固守されるべきものであった。その正義は革命的正義であり、他のすべてを排除しており、(中略)緊急の革命的要件こそが唯一の法だった。委員会の大部分は、党派に関わらず、労働者・民兵・水兵・農民が民主的に選んだ。つまり、大部分の委員会はプロレタリア民主主義を主張し、それがブルジョア議会制民主主義に取って代わっていたのである。手短に言えば、仕事場の権力は、労働と労働者だけだったのだ。

一般に、委員会が設立されると、ブルジョア階級と地主の収用が実行された。(中略)武器についても同様の権力移行があった。(中略)義勇軍が設立された。(中略)生まれつつある新しい革命秩序の維持に責任を持つ統制パトロールが設立された。(中略)

スペインのプロレタリア階級が出した答えは(中略)非常に明確で知的だった。反動は街路で鎮圧され、経済的に収用された。プロレタリア階級が国の決定者として自立したのである。(略)

(1971年4月1日の「Le Combat syndicaliste」に掲載されているハイメ=バリウス著、"Recordando julio de 1936"より。バリウスのこの論説は、G=ムニス著「Jalones de derrota, promesa de victoria」(Zero, Bilbao, 1977)の292〜294ページから一字一句全文を盗用している。)

2. 例えば、ガルシア=オリベルが断定した明確で根元的な選択肢を参照して欲しい。「社会革命と義勇軍委員会の間で、この組織は義勇軍委員会を選んだ。」(ヒュアン=ガルシア=オリベル著、「El eco de los pasos Ruedo Ibe'rico, Paris-Barcelona, 1978, p. 188)

3. ムニスは、7月の出来事以後、委員会の統治権だけが残っていた、と強く主張している。「7月19日以後の数週間の情況をもっと正確に特徴づけるとすれば、権力がプロレタリア階級と農民の手に広がった、と定義しなければならない。こうした人々は、国中で自身の権力を調整する必要があると認識できていなかったが、地元地域の権力を十全に認識していた。こうした初期の数週間で、ブルジョア政府は、新興の労働者権力と戦うだけの能力と意思を失っていた。二重権力について語られたのはもっと後になってからだった。その時には、人民戦線政府は、自身が生き残っていることを認識し、集められるありとあらゆる武装勢力で身の回りを固め、プロレタリア階級と農民からなる様々な委員会との権力闘争に取りかかっていた。」(G=ムニス著、"Significado histo'rico del 19 de julio" in Contra la corriente No. 6, Mexico, August 1943)

ここでは、1936年7月19日以後の期間−−つまり、1936年10月初頭から1937年5月まで−−にムニスが提起した二重権力テーゼの分析には立ち入らない。イタリア分派の立場とムニスの立場との違いは、ボルディガ主義者は資本主義国家の徹底的破壊がなければ革命について語ることはできないと考え、ムニスはブルジョア国家を一時的に失墜させるという方針を取ったという事実にある。ここでは、この相違を指摘するだけにし、この問題をこれ以上精査しない。ここで示そうとしているのは、CAMCが階級協調主義機関として果たした役割なのである。

4. これは、傑出していると同時に政治的に全く異なる人々、とりわけガルシア=オリベル・ニン・タラデリャス・アサーニャ・バリウスがはっきりと述べていることである。特に、フランス語で出版された「Juillet. Rvue internationale du POUM」第一号(Barcelona-Paris, June 1937)に掲載されている"El problema de los o'rganos de poder en la revolucio'n espanola" を参照。

5. ヒュアン=ガルシア=オリベル著、「El movimiento libertario en Espan~a」(2)Coleccio'n de Historia Oral. Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, 出版年不詳。

6. アベル=パスが「Viaje al pasado (1936-1939) 」(Ed. del Autor, Barcelona, 1995, pp. 63-64) で示している詳細な記述を参照。

防衛委員会は、軍部クーデターの際に、革命委員会へと転じた。カタロニアの中央反ファシズム義勇軍委員会が設立されると、革命委員会はCAMCの権威を無視した。その活動は、「CNT−FAIの家」に根差した地元地域の組織化を導いた。CNT−FAIの高次委員会権力の中で、こうした委員会は一つの権力となった。だが、革命委員会こそが真の権力であり、高次委員会の権力よりも大きかった。個々の地区委員会は思うままに使えるそれ自体の防衛グループを持っていた。グループの構成メンバーは曖昧で、6人から10人の範囲であった。こうした同志達個々人が、ライフルを持ち、拳銃を恒久的に自分のものとしていたことさえあった。私が活動していたクロット地区には、15の防衛グループがあった。控えめに見積もっても、およそ100丁のライフルがあったわけだ。だが、この強さには、クロット地区に根差した工場グループを付け加えねばならない。工場グループも自身の防衛グループを持ち、マシンガンに至るまでの武器を持っていた。最後に、リバータリアン青年グループとアナキストのグループも含めなければならない。こうした雑多なグループが、私達の地区の防衛委員会が共に活動しなければならない要素だった。

7. 例えば、コンパニイスが7月25日にCAMC本部に対して騒擾と暴徒の活動への抗議書に署名するよう呼びかけた際のガルシア=オリベルの強迫的で侮蔑的あしらいを参照。ヒュアン=ガルシア=オリベル著、「El Eco de los Pasos」、前掲、pp. 193-194.

8.バランス」の本号(第三号)の第二章に示している革命とスペイン内戦の性質に関するこのテーゼが詳しく説明されている。また、スペイン内戦に関するイタリア分派(ボルディガ主義者)のテーゼを検証している「バランス」第一号も参照。

9. H=ラゲル・J=M=ソレ・J=ビリャロヤは、カタロニアのアナキズム運動に対して中傷的見解を示し、ハイメ=バリウスやアントニオ=マルティンを獰猛な鬼だと述べた。彼らは、ブルジョア的で聖人ぶったカタロニア独立主義の「中立性」を信奉している。例えば、ベネディクト会修道士のH=ラゲルは「Divendres de passio'. Vida i mort de Carrasco i Formiguera」という本の256ページ〜258ページで、そして、J=M=ソレ=サバテとJ=ビリャロヤ=フォントは「La repressio' a la reraguarda de Catalunya (1936-1939) 」(Pub. Abadia Montserrat, Barcelona, 1989)の67ページと68ページでバリウスを非難した。この非難は、適切な革命的状況の文脈から切り離された、全くの誇張だった。また、セルダーニャのアナキスト政府(フランス国境をアナキストが完全に管理していた)、ベルベルの血なまぐさい事件(バルセロナでの5月事件に直接先行する事件であり、その後にカタロニア自治政府がこの国境地域の絶対的統制を掌握した)についてカタロニア独立主義者の見解を示した小冊子についても言及する価値がある。J=ポンス=イ=ポルタ・J=M=ソレ=イ=サバテ共著「Anarquia i Republica a la Cerdanya (1936-1939) El "Cojo de Ma'laga" i els fets de Bellver」(Pub. Abadia Montserrat, Barcelona, 1991)を参照。強調しなければならないが、これらの本は全て、モンセラト修道院の発行所が出版している。もちろん、このことは、明らかなイデオロギー隷属を示している。こんなことで、ハイメ=バリウスとアントニオ=マルティンの「客観的」評価が妥当だなどと受け入れることはできないし、ましてや、リバータリアン運動について彼らがひっきりなしに示している幻覚・中傷・偏見を受け入れることなどできないのだ。

スサナ=タベラとエンリク=ウセライ=ダ=カルは「Hist'oria Contempora'nea」第9号(Servicio Ed. Universidad del Pais Vasco, 1993)に掲載されている "Grupos de afinidad, disciplina belica y periodismo libertario, 1936-1938" という論文でバリウスに関するナンセンスと恥知らずな見解を示し、リバータリアン運動について中傷的見解を示している。これは、衒学的な学者の観点から発表されており、1930年代に見られたアクショングループ・労働組合・労働者のクラブ・ゼネストの意味を理解できていない。

逆に、リバータリアン運動に関するジョーセプ=エデュアルド=アドスアルの論文は興味深く、啓発的であり、読む価値が充分ある。例えば、「L'Avenc(訳註:cはセディーユ)」第14号(1979年3月)掲載の "El Comite' Central de Milicies Antifeixistes" や「Anthropos」第138号(1992年11月)に掲載されている "La fascinacio'n del poder: Diego Abad de Santilla'n en el ojo del huraca'n" を参照。また、評論誌「Historia Oral 」第三号(1990年)にはアンナ=モンホとカルメ=ベガによる "Clase obrera y guerra civil" と "Socializacio'n y Hechos de Mayo" という非常に興味深い論文が掲載されている。もちろん、同じ著者等による「Els treballadors i la guerre civil. Historia d'una indu'stria catalana colectivitzada」(Empuries, Barcelona, 1986)も参照して欲しい。


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