ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第二章
7月19日に向けて

人民戦線が僅差で勝利した1936年2月16日の選挙で、アナキストは、棄権主義原則と標語ではなく、形だけのプロパガンダを仕掛けただけだった。情況の革命的分析に従い、アナルコサンジカリスト指導部は、選挙の結果がどうであろうとも軍やファシストとの対決は不可避である、と見なした。(原註1)従って、目前に迫った革命的蜂起を真面目に準備し始めたのである。

フランシスコ=アスカソ・ブエナベントゥラ=ドゥルティ・ヒュアン=ガルシア=オリベル・アウレリオ=フェルナンデス・リカルド=サンス・グレゴリオ=ホベル・アントニオ=オルティス・アントニオ=マルティネス=「バレンシア」から成る「ノソトロス」(我ら)グループは、自身を中央革命防衛委員会として設定した。「我ら」グループのメンバーは実行力のある人々であり、正真正銘の労働者階級をCNT集団に傾倒させた。1936年7月19日早朝、このグループの男達は、武装した闘士達で満載の貨物自動車に乗り込み、バルセロナ中心部へ向かう途中で労働者階級のプエブロ=ヌエボ地区をゆっくり回った。彼らは、実例による指導というリバータリアン実践を実施した。工場のサイレンが労働者蜂起を召喚した。労働者が手にすることの出来た僅かばかりの武器は、1934年10月に手に入れたり、カタロニア独立主義者が捨てたものを街路で集めたり、兵器工場・警察・軍の倉庫・船の兵器庫などから7月19日までの数週間で集めたりしたものだった。武器よりも闘士の数の方がはるかに多く、そこにいた戦闘員一人に対し、三人がその人のライフルや拳銃をめぐって言い争いをしていた。だが、市街戦の最中に多くの武器が手に入った。軍隊とファシストの叛乱は、民衆がサン=アンドレス兵舎を強襲し、35,000丁のライフルを手に入れると、暴動型の蜂起となった。労働者の武装は成功した。カタロニア自治政府治安委員エスコフェトが辞任した背景には、こうした情況があった。カタロニア共和主義左派(ERC)とカタロニア自治政府にとって重要だったのは、武装叛乱を壊滅することであった。だが、この武装した民衆は、酷い大災害の前兆であり、ファシストの勝利よりももっと恐るべきものだったのだ。(原註2)

闘士の階級本能のおかげで、CNTは武装叛乱を打ち負かすことが出来ただけでなく、プロレタリア階級蜂起の成功を確たるものにした。しかし、階級本能以上の何かが必要となると、革命理論の実行が必要になると、全てが堕落した。革命理論なくして、革命などないのだ。そして、労働者蜂起を成功させたまさにその主役達は、革命が自身の手から滑り落ちていくのを見て驚いていた。

我々はこの偉業を繰り返し述べようとしているのでも、バルセロナの民衆蜂起の成功を可能にした戦術的洞察を詳しく述べようとしているのでもない。我々は、(他のFAI親和グループに教唆された)「我ら」グループが蜂起の勝利に向けて連合の大衆を導くのに充分明敏な革命的前衛として行動したことを強調したいだけである。同時に、このグループが、そして全ての労働指導者と労働者組織−−アナキストであるかないかに関わらず−−が、ライフルで武装していても政治的交渉の中で武装解除したがゆえに、権力が手の届くところにあり、獲得できたはずの時に、革命を確固たるものに出来なかったことも強調したい。誰もが認めるCNT指導者達がカタロニア自治政府官邸でのコンパニイスとの待ち合わせに早足で行くなど、どう説明すればよいのか?どう理解すればよいのか?どのようにしてCNT指導者達は、7月19日の早朝にCNTの武装を拒否した男の、何度も何度も自分達を攻撃し投獄した男の話に耳を傾けることができたのか?カタロニア自治政府に何故政府がまだあったか?何故、彼らは、カタロニア自治政府に向けて行進し、ブルジョア政府を処分しなかったのか?何故、彼らは、リバータリアン共産主義を宣言しなかったのか?(原註3)

革命時代の特徴であるが、出来事が異常なほど早く進展し、情況が目まぐるしく変わった。たかだか数ヶ月の内に、反逆者は大臣になり、革命家は「ソフト路線」の提唱者になり、スターリニストは殺戮者になり、カタロニア自治論者は中央政府にひれ伏す哀願者になり、アナキストは忠実な同盟者で国家の揺るぎない防波堤になり、POUM主義者はそれまでは想像もできなかった残忍な政治的弾圧の犠牲者となり、社会主義者はスターリン主義の人質になり、ドゥルティの友は異端者で工作員になった。

もう一度強調するが、ここで事件を繰り返し述べるつもりはない。こうした出来事については、多くの著述家や様々な政治的見地による本を手に入れることができるからである。具体的な歴史的事実を学んだり、探求したり、調査したりしたいと思ってい人々はそうした本を参照していただきたい。(原註4)ここでの関心事は、アナキストが大臣になり、反軍隊主義者が軍隊に入り、国家の敵が国家の協力者となり、何度も戦闘を経験した筋金入りの本物の革命家がいつの間にか反革命の重鎮になってしまったメカニズムを発見し、説明し、解明することである。

真の最大の関心事は、あまりにも多くの革命的闘士が混乱に陥り、実際には反革命の前衛として行動していたにもかかわらず、闘士達は革命を防衛していると信じていたというパラドックスに陥ってしまった現象を説明することにある。そのためには、まず最初に、理論的ポイントを示しておかねばならない。(原註5)このポイントが私達に洞察を与えてくれ、1936年7月に(特にカタロニアで)始まった歴史的プロセスの性質を明らかにしてくれる。

1.国家の破壊なくして、革命はない。カタロニア中央反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)(原註6)は二重権力機構ではなく、労働者の軍事動員機関、ブルジョア階級と聖なる同盟を組む機関、とどのつまりは階級協調機関であった。

2.民衆の武装は意味がない。軍事戦争の性質は、その方向付けをする階級の性質によって決まる。ブルジョア国家を防衛するために戦う軍隊は、それが反ファシズムであったとしても、資本主義に仕える軍隊である。

3.ファシスト国家と反ファシスト国家との戦争は、革命的階級戦争ではない。プロレタリア階級が一方の側に立って介入していること自体、既に負けてしまったことを示している。軍事戦線での軍事闘争において、民兵や義勇軍型軍隊の側には克服不可能な技術的・専門的劣等性が内在していた。

4.軍事戦線での戦争は、階級範囲の放棄を暗示していた。階級闘争の放棄は、革命プロセスの敗北を意味していた。

5.1936年8月のスペインには、革命はもはや存在せず、戦争−−非革命的軍事戦争−−の見通しだけがあった。

6.国家権力がブルジョア階級の手中にある時に、経済の集産化・社会化は無駄である。

第二に、7月19日以後の一週間でジレンマとして姿を現した難問に目を向けねばならない。資本主義国家を一掃し、プロレタリア階級がリバータリアン共産主義の導入と革命戦争の開始で階級闘争を一段階進めるか、資本主義国家がその支配機構を再建できるようにするか、である。

第三に、革命的選択肢が実行されなかった理由を疑問視する余地がある。そして、答えは非常に単純である。革命の舵取りをできる革命的前衛がいなかったのだ。

スペインの革命・反革命プロセスに関するこれらのテーゼは、論理的で厳格で正確で有効なやり方で、多くの個人的・集団的行動を説明し、照らし出す。これらのテーゼがなければ、私達はこうした行動をバカげている・不可解だ・頑迷だと思ってしまう。こうした行動の例を挙げれば、7月21日にカタロニア自治政府官邸でCNT指導者がコンパニイスと会談を持たせるよう要求したこと・CNT総会がカタロニア自治政府との協調路線を受け入れたこと・CAMCの形成と解散・CNT闘士がカタロニア自治政府に参入したこと・義勇軍の軍隊化・共和国政府にアナルコサンジカリスト大臣が参加したこと・こうした新しい「アナキスト大臣」がマドリーからの政府の亡命を即座に是認したこと・1937年5月1日の労働者蜂起を鎮圧することにアナルコサンジカリスト指導者が協力したこと・1938年のCNT−UGT団結協定・ネグリン政府との協力などである。


第二章の原註

1. バーネット=ボロテンの質問書に対するガルシア=オリベルの解答(1950年前半のもの)を参照(フーバー研究所に保管)。「2月の選挙について、CNT−FAIは以下の路線を採用した。この路線は、集会でだけでなく文書を通じてもスペイン全土に次第に広がった。次の選挙は、スペイン民衆にとって決定的なものになる。労働者階級が左翼に投票すれば、左翼が権力を握る。だが、私達は、軍部と、権力掌握を目的とする右翼による蜂起と対決しなければならないだろう。労働者階級が左翼に投票しなかった場合、これはファシズムの合法的成功を意味する。私達としては、投票については労働者階級が好きなようにすればよいとアドバイスする。ただ、左翼に投票しなければ、ファシズムの勝利から6ヶ月と経たない間に、私達は武器を手にしてファシスト右翼に抵抗しなければならなくなる。当然、スペインの労働者階級は、長年にわたり投票しないようにCNTからアドバイスされ、私達のプロパガンダを私達が望んでいたように解釈した。つまり、投票すべきだ、と解釈したのである。右翼が叛乱を起こし、すぐさま敗北し、政府から手をひくなら、ファシスト右翼に対して立ち上がった方が常によいのだから。1936年2月の選挙で左翼は勝った。コンパニイスがカタロニア政府となり、左翼がスペイン政府になった。私達は公約を守った。だが、彼らは公約を一つとして守らなかった。武器を一つとして支給せず、ファシスト軍の陰謀に対して先手を取った行動をとることもなかったのだ。

2. ファシスト叛乱の壊滅を受けて行われたコンパニイスとエスコフェトのやり取りを参照。

「大統領。」と私は言った。「公式伝聞をお伝えします。叛乱は完全に敗北しました。(中略)」

「素晴らしい、エスコフェト、実に素晴らしい。」大統領は応えた。「だが、情況は混乱している。手に負えない武装した屑どもが街路に殺到し、あらゆる不法行為を犯している。いずれにしても、重武装したCNTこそがこの都市の主人だ。彼らに対して何が出来る?」

「当分、私達は皆、押し流されます。CNT指導者自身も含めて。大統領、唯一の解決策は、私達各々の権威が見捨てられないようにしながら、情況を政治的に押さえ込むことです。あなたがその点について上手くやれるなら、私は、あなたが命じたとき・情況が許したときに、バルセロナを掌握することを約束します。[フェデリコ=エスコフェト著、De una derrota a una victoria : 6 de octubre de 1934-19 de julio de 1936 (Ed. Argos-Vergara, Barcelona, 1984, p. 352)]

3. ガルシア=オリベルは、コンパニイスとの会談での答弁の中でこうした疑問の多くを直接的・間接的に扱っている。「軍部−ファシストの蜂起は、まさに予測したとおりに行われた。コンパニイスはバルセロナの警察本部に撤退した。私はそこで彼と会った。7月19日の朝7時だったはずだ。彼は、次に起こり得ることの結果を恐れていた。予期していたからだ。バルセロナにいる軍の連隊全てが叛乱を起こすとすぐに、連隊は全ての反対勢力を容易く一掃するだろうと。だが、ほとんど自力で、CNT−FAI勢力は、この記念すべき二日間、持ちこたえた。壮大で苦々しい闘争の後、(中略)私達は全ての連隊を打ち負かした。(中略)こうした根拠があるにも関わらず、コンパニイスはCNT−FAIの代表者が目の前にいることに当惑し、ショックを受けていた。彼に考えることが出来た事といえば、私達の予測に注意を払うことが出来なかったがために、私達とスペイン民衆に関して自分が重責を負っているということだけだった。このために、当惑していたのだ。(中略)彼らが私達に対して行った公約を守らなかったにもかかわらず、バルセロナとカタロニアのCNT−FAIは反逆者を打ち負かした。このために彼はショックを受けていたのだ。(中略)従って、私達を呼んだとき、コンパニイスは次のように述べたのである。『私に対して、君達が数多くの不平や不満の根拠を持っていることは分かる。私は君達と大々的に敵対し、君達のありようを充分理解することが出来なかった。しかし、誠実な謝罪をするのに遅すぎることはないし、私の謝罪、今私が提案しようとしていることは、懺悔と同じだ。君達の価値を認めていたなら、今の情況は違っていたかも知れない。だが、今や遅すぎる。君達だけで反乱軍を打ち負かしたのだから、理屈から言って、君達が統治するべきだ。これが君達の見解ならば、カタロニア自治政府大統領の座を君達に喜んで渡そう。そして、君達が私が別な場所で役に立つと考えるならば、私の持ち場を告げてくれるだけで良い。しかし、もし、スペインの他の場所で誰が勝利したのか今はまだ分からない以上、私がカタロニア自治政府最高会議の正当な代表として行動することが有用かも知れないと考えるならば、そのように述べて欲しい。そこから−−常に君達の合意と共に−−誰が勝者かハッキリするまでこの戦いを継続していこう。』私達からすれば−−これはCNT−FAIの見解だったのだが−−コンパニイスは自治政府の長として居続けるべきだと考えていた。まさに、私達は、厳密に社会革命のために戦うためではなく、ファシスト叛乱に対して自衛するために街路に出たのだから。」(フーバー研究所に保管されているボロテンの質問書に対してガルシア=オリベルが1950年に答えた回答より)

ガルシア=オリベルの証言は、フェデリカ=モンセニーの証言と並置してみる必要がある。「誰がどう突飛な想像をしても、私達の中で最もボルシェヴィキ的だったガルシア=オリベルの想像力でさえ、革命権力を奪取するという考えは起こらなかった。一か八かやってみるべきかどうか議論が始まったのは、その後、大激動の規模と民衆の発意がハッキリしたときだった。」[アベル=パス著、Durruti: El proletariado en armas (Bruguera, Barcelona, 1978, pp. 381-382)]

4. 中でも最も興味深い本は、アベル=パス「Durruti: El proletariado en armas」、治安警備隊のフランシスコ=ラクルス「El alzamiento, la revolución y el terror en Barcelona」、カタロニア自治政府治安委員エスコフェトによる上記の本、アバド=デ=サンティリャンとガルシア=オリベルの回顧録である。標準的テキストとしては、バーネット=ボロテン著「La Guerra civil espan~ola: Revolucio'n y contrarrevolucio'n」(Alianza Editorial, Madrid, 1989)、ピエール=ブルース(Pierre Broue)著「Staline et la revolution. Le cas espagnol 」(Fayard, Paris, 1993)が必読である。

5. もちろん、これは一定の政治的観点の表明であり、共有されていたかどうかは分からないが、ここでは、使い古された有りもしない学問的客観性を装ったり、それに訴えたりすることなく、あるがままを率直に並置している。

6. バレンシアの人民執行委員会やマドリーの防衛委員会もそうだ。


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