ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第十一章
結論と結びに当たっての覚書

ドゥルティの友グループは、アナルコサンジカリズム陣営にいる多くのグループ同様、親和グループだった。トロツキストからもPOUMからも全く影響を受けていなかった。そのイデオロギーとモットーはCNTの典型的表現形式だった。いかなる時でもマルクス主義イデオロギーを示していたとは言えなかった。いずれにしても、彼等はフランス革命時代のマラーの実例に大きく関心を示し、パリの地区集会主義運動・サンキュロット・アンラージュ・ロベスピエールとサンジュストの革命政府に強く引き付けられていたと述べる方がもっと適切かも知れない。

グループの目的は、CNTの矛盾に立ち向かい、イデオロギー的一貫性を与え、著名人と責任ある委員会の統制からCNTを奪い取り、CNTを階級闘争という根元に戻すことに他ならなかった。このグループは、譲歩に譲歩を重ねるというCNTの政策を、そしてもちろんアナルコサンジカリストが中央政府とカタロニア自治政府に協力していることを批判し、その政策に敵対すべく設立された。(原註1)彼等は、革命の目的とアナキズムの根本・神髄であるイデオロギー諸原則とを破棄することに反対した。CNT−FAI指導者達は、反ファシズム団結を望ましいとし、情況に順応する必要があるとしてこれらを放棄したのだ。革命理論なくして革命はない。現実が惹起した最初のハードルに対して、こうした諸原則がなんの役にも立たず、放棄するしかないのだとすれば、自分達に原則などないのだと認める方がましだろう。スペインのアナルコサンジカリズムの最高指導者達は自身を有能な交渉者だと想像していたが、多くの操り人形がそうだったように操られてしまったのだ。(原註2)彼等は全てを否認し、その見返りに・・・何も得なかった。彼等は日和見主義者だったが、良い日和は来なかったのだ。7月19日の蜂起には、権力を奪取し、革命を行うことのできる革命政党はなかった。CNTは、軍の反逆者が敗北したときに何をなすべきか考えていなかった。7月の勝利はアナルコサンジカリスト指導者達を当惑と混乱に陥れた。彼等は大衆の革命的ダイナミズムに追い越されたのだ。そして、次に何をすべきか分からず、他の政党と共に人民戦線政府を樹立するというコンパニイスの示唆に合意した。そして、アナキスト独裁か、戦争に勝つための反ファシズム団結と国家協力か、というインチキジレンマを事実だと仮定した。権力にどう対処するか全く分からなかったのだ。奪取できなければブルジョアの手に落ちてしまうという時なのに。スペイン革命は、プロレタリア階級革命理論としてのアナキズムの墓場だった。これこそが、ドゥルティの友グループの起源であり、その背後にある動機だった。

だが、このグループの境界線は非常に分かりやすく明確だった。その限界も同様だった。彼等がCNTとの決別を考えたことは一度もなかった。CNTが組織力学について全く無知だったが故に、除名を導かずに批判的・分離的活動を実行できたとしか考えられない。ドゥルティの友の場合、深刻な村八分とほとんど完全な孤立を被っても、CNTの一般組合員の間で享受していた共感のおかげで除名は免れたのだった。

このグループの最終目的は、CNT指導者を批判し、CNTの政府参画政策を終わらせることだった。7月の「利益」を保持するだけでなく、革命プロセスを遂行し、先に進めようとしたのだった。しかし、その手段と組織はなおも極度に限定されていた。彼等はバリケードの戦士だったのであり、上手いオルガナイザーではなかった。実際、優れたジャーナリストはいたものの、彼等は下手な理論家だったのである。5月に、彼等は大衆の自発性を完全に信頼した。公式的CNTプロパガンダに対抗できなかった。統制パトロールのメンバーである闘士達を利用することも組織することもできなかった。ドゥルティの友メンバーでCNTのロヒネグラ師団の代理人だったマクシモ=フランコに、1937年5月4日に「バルセロナに赴く」よう指示を出すこともできず、結果として、フランコはモリナの提案に従って(ロビラが率いていたPOUM縦隊同様)前線に戻っただけだった。(原註3)ドゥルティの友の活動の頂点は1937年4月後半に配布されたポスターだった。ポスターで、彼等はカタロニア自治政府を転覆し、革命フンタで置き換えるよう強く要求した。5月事件中にランブラスの幾つかのバリケードを管理した。全欧州労働者に対して(原註4)スペイン革命と連帯するよう求めた。有名な5月5日ビラをバリケード中に配布した。5月8日の声明文で5月事件を評価した。だが、彼等はこうしたスローガンを実行できなかった。縦隊を形成し、バレンシアの軍隊の進行を阻止すべく出発させることを示唆した。しかし、この計画が冷淡な評価を受けたことを踏まえ、彼等はすぐにこの考えを放棄した。5月事件以後、「民衆の友」の出版を始めた。CNTとFAIはこの新聞との関係を認めなかった。1937年6月、彼等はPOUMのように非合法化されなかったが、他のCNT組合員を襲った政治的迫害に悩まされた。その機関紙である「民衆の友」は第二号(5月26日)から秘密裏に出版され、その編集長であるハイメ=バリウスは連続的な懲役刑に耐えた。他のドゥルティの友メンバーは、サバデル市議会のブルーノ=リャド議員のようにその立場を失ったり、影響力を失ったりした。ドゥルティの友メンバーの大部分は、CNTから除名すべきだというFAIが発起した計画(原註5)に耐えねばならなかった。新聞を秘密裏に発行し続け、1938年の半ばには「アシア=ウナ=ヌエバ=レボルシオン」というパンフレットを発行したにも関わらず、その時までに、反革命の成功は決定的・圧倒的となり、共和党は既に戦争に負けていた。

その主たる戦術計画は以下のスローガンに要約される。労働組合による経済管理・自治体連合・義勇軍に基づく軍隊・革命綱領・革命フンタによるカタロニア自治政府の置換・CNT−FAI−POUMの共同行動。

ドゥルティの友の歴史的・政治的意義を要約するならば次のように述べねばならない。これは、CNT−FAIの協調主義を潰し、7月の革命的「利益」を防衛し発展させる革命的前衛を設立しようという、リバータリアン運動の内部に起源を持つ、未遂に終わった企てだったのだ。

この企てが未遂に終わったのは、彼等がスローガンを実践に移すことができないだけでなく、自分達の考えを効果的に普及させ、その考えのためのキャンペーンを行う実践的指針を示せないことを露呈したからである。ドゥルティの友はFAIの親和グループとして作られた。多分、恐怖におののいたブルジョア階級と変装した聖職者は、彼等を猛獣だと見なしただろう。しかし、グループのメンバーは、バリウスとカリェハスのようなジャーナリスト、パブロ=ルイス・フランシスコ=ペリィセル・マクシモ=フランコのような民兵縦隊指揮官、ブルーノ=リャドのような議員だった。グループの遙か昔の起源について、1932年1月の北部リョブレガト地方の暴動における革命的経験を共有するリバータリアン達に、そして、1934年と1936年のFAI「レナセル」親和グループに遡らねばならない。もっと直接的な起源は民兵の軍隊化に対する反対(特に、ヘルサ支部と鉄の縦隊における)と、「労働者の連帯」(1936年7月から10月初旬)・「思想」「夜」(1937年1月から5月)において発表された記事(特にバリウスのもの)で示された革命的利益の防衛とCNT協調主義批判にある。そのキャンペーン手段はビラ・ポスター・新聞・バリケードだった。だが、分裂や決裂を手段として考えたことは一度もなく、CNTの反革命役割を暴露したり、5月事件中にCNT−FAIの敗北主義的忠告を論駁するためにCNT指導者と対決したりした程度だった。

しかし、ドゥルティの友の歴史的重要性を否定することはできない。その重要性は、まさに、リバータリアン運動の協調主義政策に内部から反対したという状態にある。彼等が出現したことの政治的重要性をすぐさま認めたのはニンだった。ドゥルティの友がCNT大衆による革命路線の支持とCNTの融和・協調政策への反対という可能性を提起しているが故に、ニンは期待を寄せた賛同的記事を彼等に捧げたのだ。(原註6)

だからこそ、POUMとトロツキスト(原註7)はドゥルティの友をその影響下に置くことに関心を示したのである−−これは一度も成功しなかったが。

アナキズム思想に対するグループの理論的貢献は以下のように要約できる。

1.革命綱領が必要である。

2.資本主義国家を革命フンタで置き換え、革命フンタは反革命による必然的攻撃から革命を防衛する用意をしなければならない。

アナキストの伝統的な政治的無関心は、CNTが革命理論を持っていなかったことを意味していた。理論がなければ革命はない。権力を引き受けることができないということは、資本主義国家の手中に権力を残すことを意味する。ドゥルティの友グループの推定では、CAMC(中央反ファシズム義勇軍委員会)は階級協調機関であり、ブルジョア国家を下支えし、強化することだけを目的としていたのであって、ブルジョア国家を破壊できるわけでも破壊しようとしたわけでもなかった。だからこそ、ドゥルティの友は革命フンタを設立する必要性を擁護し、無数の労働者による地元・防衛・工場・民兵などの諸委員会権力−−こうした諸委員会だけで7月19日から9月26日まで権力を保持していた−−を調整し、集中させ、強化できるようにしようとしたのだ。この権力は数多くの委員会の間に分散され、全ての権力が地元で保持されていたが、お互いに連合できず、集中できず、強化できなかったため、CAMCによって人民戦線評議会へ、組合化された企業の取締役会と共和国軍大隊へと導かれ、数を減らされ、変形させられてしまった。資本主義国家が徹底的に破壊されなかったため、1936年7月の革命的出来事は新しい労働者権力構造に道を開く事ができなくなった。革命プロセスの没落と最終的消滅は必然だった。だが、CNT−FAIの改良主義アナキズムとドゥルティの友の革命的アナキズムとの緊張関係は、双方の対照的姿勢を明らかにする対立を喚起するのに充分なほど明確でも著しくもなかった。

従って、ドゥルティの友が提起した政治思想はアナルコサンジカリズムのイデオロギーの範囲内でスペインの戦争と革命の現実を引き受けようとする試みだったが、CNT組合員がそれを拒絶した主たる理由の一つは、その権威主義的・「マルクス主義的」・「ボルシェヴィキ的」趣だった。このことから、ドゥルティの友はカル=デ=サク(袋小路)にはまってしまったと結論付けることができよう。CNT指導者幹部の協調路線と反革命の進展を受け入れることはできなかった。しかし、スペイン革命の経験を理論化した際、つまり、カタロニアのブルジョア共和主義自治政府を転覆するために革命フンタが必要であり、反革命分子を弾圧するために武力を行使しなければならないと結論付けた際、彼等はマルクス主義者で権威主義者だと呼ばれ(原註8)、その結果CNT一般組合員の中から新しいメンバーを補充する機会を失ってしまった。ドゥルティの友のジレンマは、戦争と革命が提起した諸問題にスペインのアナルコサンジカリズム理論が果敢に立ち向かうことができなかったことの反映に過ぎなかったのではないだろうか。

結びに当たって、一つの覚書を示さずにこの研究を終えるわけにはいかない。我々は、歴史の読み手という立場で、学問的客観性(原註9)だと称されていることの背後に隠れ、労働運動にいる人々と組織とを嘲笑うために、中傷し審査し非難し攻撃し笑いものにする−−全てがブルジョアの観点からだ−−人々に対して政治的反感と否認を表明する。使っている方法論が事実の曲解と最も愚劣なナンセンスに他ならないかもしれないのに、彼等は当然科学的で片寄らないと考えているのだ。

ドゥルティの友とCNTの政治的立場についてここで述べた批判が時として非常に辛辣だと考える人もいよう。そうした人々が、同時に、我々の見解を厳格で階級に根差したものだと見なしてくれれば、それで満足せねばなるまい。我々の返答は次のようになろう。プロレタリア階級を敗北させるべく精力を傾けた弾圧はもっと過酷だったのだ。

バリウスは、ブルジョアと聖職者の恐怖が1937年に描写したような、また、今日「Benedictines of Montserrat」というカタロニア自治論の出版社から出ている「漫画」や、大学にいる相当数の歴史家から根拠のないナンセンスによって示されているような、不具で血に飢えた怪物ではなかった。バリウスは謙虚で知的で正直な人間だったし、一貫して非妥協的で、極度に良識的な革命家だった。しかし、バリウスが、恐怖におののいた聖職者とブルジョア階級が想像していたような悪魔だった−−そうではなかったが−−としても、ドゥルティの友に関する我々の評価を微塵も変えはしない。我々は、まさに、ドゥルティの友グループとして知られる革命家の一群の限界をこの研究で認め、分析し、繰り返し強調していたからこそ、労働者階級組織のメンバーに敬意を表すことなく、終えるわけにはいかない。彼等は、プロレタリア階級の階級意識を体現し、任意の時点で、限界と欠点を充分補足しながら、革命的前衛の役割を満たそうと奮闘したのだ。

バルセロナでは、ドゥルティと「彼の友人達」に関わる憎しみと軽蔑の表現を階級の敵の口から耳にすることがあったし、今も聞くことができる。しかし、労働者階級の仲間内では、神話的なドゥルティ、その葬儀で行われたプロレタリア階級の大規模デモ、ドゥルティの友メンバーの不屈の叛逆、7月19日の革命的アナキストの饗宴が、尊敬の念を持って常に語られてきた。フランコ主義が蔓延する長い暗黒期間、匿名の手がドゥルティとアスカソの墓標なき墓に悪口を書き殴っていた。神話を尊重するのは歴史家の仕事ではない。しかし、中傷・虚偽の記述・侮辱が歴史的物語になりすましている際、それに立ち向かうことは歴史家の仕事である。

我々はこの報われない仕事に取り組んだが、階級闘争に関わる教訓を引き出したいと思う。二つの像を心に描くことで充分だ。まず第一に、腰が低く口が上手く多弁な7月21日のコンパニイスである。彼は、アナキストが軍のファシストを一掃し、権力が街路にあったという理由で、反ファシズム戦線政府にアナキスト指導者の場所を作ろうと申し出た。二つ目は、追いつめられた厚かましいコンパニイスである。彼は、CNTの施設を爆撃するよう空軍に命令して欲しいと5月4日の共和党政府に嘆願した。革命と戦争のフィルムはこれら二つの像の間を流れている。

1937年5月は1936年7月に孵化していた。ドゥルティの友グループは、革命は全体主義であるか、さもなくば敗北すると悟った。そこにこそグループの大きな功績がある。


第十一章の原註

1. アルケル(1971年7月16日付のボロテン宛書簡、フーバー研究所に保管)によれば、ドゥルティの友は、ある時点でカタロニアのCNT組合員の最も真摯な感情を明言した一時的な感情爆発だった。ドゥルティの友のアナキスト達はこの傾向を強固にし、成長させることができたはずだった。しかし、一旦敗北すると、彼等は全ての影響力を失い、アナキスト指導者は彼等を除名しようとしたのである。

2. フェデリカ=モンセニーとロシア大使のローゼンバーグとの間の親密さと日常的な友好関係は信じられない程であった。また、信頼できないコンパニイスに対してアバド=デ=サンティリャンが提供しようとした支援と励ましも想像しがたいものだった。アナキスト指導者達の崇高な聖人性が、彼等が操作されやすかったことを説明してくれる。今述べていることの実例として、フェデリカ=モンセニー自身による以下の証言を見ればよい。(Agusti Pons Converses amb Frederica Montseny: Frederica Montseny, sindicalisme i acra'cia [Laia, Barcelona, 1977, pp. 169-170] に収録されている)

ロシアに旅立つ前だったと記憶していますが、ローゼンバーグ大使−−私の友人でした−−が私を呼びました。(中略)(私は)ロシア大使館があったメトロポルに滞在していました。軍事情況の観点から、政府がマドリーからバレンシアに移動することに決めた際、私はバレンシアに最後に到着した政府関係者の一人でした。保健省も、その大臣職にいた私自身も、落ち着く場所を見つけることができませんでした。全ての場所が陣取られていました。結局、ロシア人が非常に快く、彼等の大使館として使っていたホテルの一つのフロアを転用させてくれました。私は自分の部屋に赤いカーネーションの花束を幾度も見ました。しかし、花は全ての部屋をくまなく探し回るための方便でしかなかったのです。

しかし、フェデリカ=モンセニーが1950年5月31日にトゥールーズからバーネット=ボロテン宛に出した手紙を以下に抜粋するが、これを読めばさらに浮き彫りになろう。

ローゼンバーグは、(1936年12月にバレンシアにある)ホテル=メトロポルの二つの部屋を非常に快く私に提供してくれました。ここはソヴィエト大使館とその職員が借用していました。私を彼の影響下に置き続けておくというのが彼の意図だったはずだと私は思っています。全国委員会の書記に指名されたばかりのバスケスに相談し、私はローゼンバーグの提案を受け入れ、メトロポルに移りました。私は、ロシアの職員に混じりながらホテルの食堂で食事をし、頻繁に大使個人の部屋で食事をしました。実質的に毎晩、彼は私をコーヒーに招待しました。そこで私はマルティ・ガリョ・クレベル・ブルーチャー・ティト(?)・ゴレフと会いました。彼等とは以前マドリーでも会ったことがありました。そして、私や私の秘書(私よりも詮索好きというか、余り慎重ではないのですが)はアルバレス=デル=バジョ・ガルシア=オリベル・ロペスがローゼンバーグの部屋を出入りしているのを見ました。時々、マリナロ=R=バスケスも私と共に長時間招かれ、コーヒーや紅茶を何杯も飲みながら、ダラダラと長い間おしゃべりをしていました。

FAIの半島委員会でのアバド=デ=サンティリャンの証言も参照。「私達は、義勇軍委員会が代表し、強要できる権力では全く満足していませんでした。政府があり、カタロニア自治政府があり、私達は、毎日持ち込まれる何千もの問題・不満・要求に耳を傾け、合法政府によってそれらを解決しようとしていたのです。このことを多くの大衆は分からなかった。ちょっとした会合で、コンパニイス大統領に出席を求め、民衆が、彼は我々の友人であり、信じるに足る人物だと見なすことができるようにしようとしたのです。」(ディエゴ=アバド=デ=サンティリャン著、Alfonso XIII, la II Republica, Francisco Franco (Juu'car, Madrid, 1979, p. 349))

3. 1946年7月13日付けのクエルナバカからバリウスがバーネット=ボロテンに送った手紙。

4. 1981年1月9日の「Le Combat syndicaliste/Solidaridad Obrera」に掲載された "Elogio po'stumo de Jaime Balius" におけるパブロ=ルイスの主張による。

5. 「Boletin de informacio'n y orientacio'n orga'nica del Comite peninsular de la Federacio'n Anarquista Iberica」に掲載されているFAIがドゥルティの友を除名しようと動いた記事、例えば、"La desautorizacio'n de la entidad 'Amigos de Durruti"' 第一号(Barcelona, May 20, 1937)と"La sancio'n publica a los inteurantes de la agrupacio'n Los Amigos de Durruti" 第三号(June 6, 1937)を参照。

6. アンドレス=ニン著、"Ante el peligro contrarrevolucio'nario ha llegado la hora de actuar"、La Batalla(March 4, 1937)に掲載。

7. 1937年8月23日の「レーニン主義者の声」第二号に掲載されているドゥルティの友に関するムニスの記事 "La junta revolucio'naria y los 'Amigos de Durruti.'" を参照。

8. 「権威主義」という描写は、リバータリアンの間で乱用されている言葉だが、CNTプロパガンダの産物ではなかった。このグループの理論的進歩が持つ最大の意味の一つは、権威主義の主張であり、革命が全体主義的特徴を持つという主張だったからである。これはドゥルティの友が幾つかの機会に繰り返し述べていた主張である。最初に述べていたのは、バリウスが1936年12月6日に "El testamento de Durruti" と題して発表した記事だった。これは、1936年11月5日にドゥルティがマドリー戦線から演説した際、ドゥルティの口から出た主張だった。最後に言及されたのは、1978年の英語版の「新しい革命に向けて」のイントロダクションにおいてである。ここには次のように述べられている。

1938年のこの小冊子で、我々は、全ての革命は全体主義である、と述べた。

9. スペイン内戦に関する歴史学方法論は、これまで、内在する危険がありながらも、内戦参加者と内戦目撃者が書いた闘争史であり、同時に、自身の人生を危険にさらしたが故に言葉を危険にさらさない人によるかけがえのない情熱でもあった。しかし、その方法論は、間抜けが著し、労働者運動闘士・組織に対するナンセンス・無理解・侮辱に特徴付けられるバカげた学問的歴史に変わってしまった。だが、高潔な例外がいくつかある。その中には、ビラノバ・モンホ・ベガが切り開いた調査路線がある。その路線こそ、その役割を全うしている学問的歴史と記述できるだろうし、これ以上適した言葉を付け加える必要はない。


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