ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第十章
ドゥルティの友とトロツキストとの関係(原註1)

ドゥルティの友が一度たりともマルクス主義者だったことはなく、トロツキストやボルシェヴィキ−レーニン主義支部から全く影響を受けていなかったことは、「民衆の友」やバリウスの声明文を大雑把に読むだけで分かる。しかし、全く正反対のことを主張している歴史学派がある。この章が必要なのはそのためである。

まず第一に、莫大な偽装工作を喝破しなければならない。いわゆる「共産主義者同盟宣言」はドゥルティの友・POUM・リバータリアン青年が共同で承認したことになっている。だが、実際はそんなものは存在しなかった。その存在は歴史家業界の幻想に過ぎない。ピーターパンの影同様、「共産主義者同盟宣言」はそれ自体の生命を獲得し、主人のスリッパに繋ぎ止められることを拒否しているのだ。

問題となっている曲解された文書は、フランスのトロツキスト集団である共産主義者同盟の「宣言」であり、1937年6月にパリの冬季競輪場でフランスのアナキストが組織した集会で配布された。この集会にはフェデリカ=モンセニーとガルシア=オリベルが参加していた。(原註2)この誤謬を最初に受け売りしたのはセサール=M=ロレンソであり、その後多くの人々が繰り返し述べるようになった。

ドゥルティの友に関するモウリンの影響については、不当な全くの史料編纂上の作り話だと結論せざるを得ない。タルマンの本からは、モウリンこそがドゥルティの友に影響されたのではないかという疑問が出現する。(原註3)ただ、これが真実でなかったとしても、ドゥルティの友のイデオロギーにおけるモウリンの影響は、そのリーフレット・宣言文・何よりも「民衆の友」のコラムに示されているように、実際に影響があったとしても、何か重要な意味があったという主張の正当性を保証しない。

ドゥルティの友は、常に、アナルコサンジカリズムのイデオロギーを明言していた。同時に、CNTとFAIの指導部に対する徹底的批判を口にしてもいた。だが、このグループがマルクス主義の立場を支持していたと主張するなど飛躍しすぎである。いずれにせよ、現実分析と7月と5月の蜂起の分析によってドゥルティの友が二つの根本概念を擁護するようになったと問題なく認めることができる。これらの概念は、本質的にマルクス主義だというよりも−−マルクス主義でもあるのだが−−プロレタリア階級主導の革命的蜂起ならばいかなるものであっても持っている最も根本的な表現形式だと述べることができる。(原註4)これら二つの概念は、ドゥルティの友メンバーの表現を借りれば、次のようになる。

1.革命綱領、リバータリアン共産主義を強制しなければならなず、これは武力で防衛しなければならない。街路で大多数であったCNTは、リバータリアン共産主義を導入すべきだった。そして、武力を持ってそれを防衛すべきだった。言い換えれば、つまり、マルクス主義の用語に転換すれば、プロレタリア独裁が導入されねばならなかったのだ。

2.プロレタリア蜂起に参加した革命家から成る革命フンタの設立が必要である。権力を行使し、非プロレタリア党派を弾圧するために暴力を使うことで、非プロレタリア党派が権力を奪取しようとしたり、プロレタリア階級を打ち負かし破壊すべく反革命プロセスに着手しようとしたりすることを阻止する。ドゥルティの友はこれを革命フンタと呼んでいたが、他の人々は前衛もしくは革命政党と呼んでいる。この革命フンタを不快に思うのは、プロレタリア階級の敗北よりも言葉使いを不快に思う人だけである。

従って、アナキズムの思考プロセスに進化があったことは明らかだと思える。この進化によって、ドゥルティの友グループは、あらゆるプロレタリア革命プロセスに根本的で、もちろんずっと前から革命的マルクス主義の諸要素に組み込まれている二つの概念を受け入れるようになった。だが、ドゥルティの友がトロツキストによって外部から影響を受け、一夜にしてマルクス主義者になったと論じるのは、全く別である。このような主張が効力を持つのは、ドゥルティの友に対してCNTが用いた侮辱的プロパガンダとしてだけなのだ。

ドゥルティの友は決してスペインのトロツキストの世話になっていなかったことは、幾つかの文書から明白である。ここでそれらを分析してみよう。

a.バリウス自身の声明が、ドゥルティの友がPOUMやトロツキストに何らかの形で影響を受けていた(原註5)ことを幾度もきっぱりと否定し、自身を今もアナキスト闘士だと見なしていると主張していた。ただ、当然、CNTの政府・内閣への協力については厳しく批判していた。(原註6)

アナキストは投獄され、オブレゴン・アスカソ・サバテル・ブエナベントゥラ・ペイロがそうだったように死んでしまうかも知れない。彼等の命はプルタルコス英雄伝で讃えられてしかるべきである。我々は亡命中に・強制収容所で・マキスで・臨終病棟で死ぬかも知れない。だが、内閣の立場を担うのか?そんなことは考えられないのだ。

b.1937年6月26日(POUMが非合法化されて10日後)にボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部がPOUM左派に対して発表したアピールは次の通り。

君達は我々と同じ目の高さで全ての問題を見てはおらず、実際、我々の参入に反対している。それにも関わらず、本物の革命グループとの協力を拒否する権利は君達にはなかった。逆だ。君達には、この情況からの脱出を可能にし、我々を勝利に導く新しい闘争の道を切り開くことのできる必要な現実的措置について共通合意を求めるべく、我々だけでなく、「ドゥルティの友」を招待する義務がある。

この招待は、POUMに対してトロツキスト集団が出したものであり、非合法化され迫害を受けているPOUM・ドゥルティの友・ボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部−−つまり、5月事件以後に存在していた三つの革命グループ−−の会合を要求していた。この招待こそが、ドゥルティの友が、POUMやボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部と同等の組織的・イデオロギー的に独立したグループだと見なされていたことを示している。

c.以下は、POUM左派・ドゥルティの友・ボルシェヴィキ−レーニン主義支部で会合を持ち、共通の宣言文を承認するようトロツキストが出した招待を拒否したことに対する返答であり、「レーニン主義者の声」第二号に掲載された。(原註7)

「ドゥルティの友」とPOUM左派は具体的提案を拒否した。POUMの解散とその闘士の逮捕の後、ボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部は「ドゥルティの友」・党のマドリー支部委員会・バルセロナの左翼党派に書簡を送り、逮捕された人々の即時釈放・施設の復旧・無検閲で労働者新聞を発行する自由・攻撃部隊の武装解除・労働者委員会の指揮下にある統制パトロールの合法化を求める宣言文、そして、こうした主張を要求するCNT−FAI−POUM共同戦線の提議に共同署名することを提案した。

同じ書簡において、その内容は警察のために暴露できないが、我々の委員会は意見の相違があり得る条項について議論する集合場所を調整した。招待したグループの中でこの会合に姿を見せたものはなく、今のところ我々のメッセージに返事をくれたグループもない。非公式に、我々はPOUM左派がPOUM執(行)委(員会)と決別するのに適切な時期ではないと考えており、「ドゥルティの友」が自分達の目的にとってボルシェヴィキ−レーニン主義者と同盟を組む利点はないと考えていることが分かった。

実際には、この機会は、POUM左派とアナキズム左派が指導者としての能力と困難時の強固な意志を証明するのに絶好だったはずなのだが。

残念なことに、彼等は、トロツキストと共に活動しているように見られるよりも、自分達が敬意を払っている組織の惰性を支持することを選んだ。これは、トロツキズムに対する普遍的恐怖を彷彿とさせるものだと考えている。この事実を偽ることはできない。

ここに全文再掲したテキストは充分ハッキリと示している。ムニスが主導するトロツキスト集団の一部がドゥルティの友とPOUM左派に影響を与えるべく多大な努力をしたものの、その影響は、努力が無駄だったという事にしかならなかったのだ。

d.1937年7月6日にE=ウォルフがトロツキーに送った報告書には、以下のように書かれている(フランス語原文からの翻訳)。(原註9)

現時点で戦術変更が必要だ。過去、我々はほぼPOUMにしか焦点を当ててこなかった。革命的アナキスト労働者は、ドゥルティの友を除き、必要以上に無視されていた。だが、ドゥルティの友は数の上では少数であり、彼等との協力を確立するのは今後も不可能であろう。我々は、共同行動について議論する会議に参加するよう、POUM左派と共にドゥルティの友をも招待しさえした。POUMメンバーもドゥルティの友メンバーも会議には同意しなかった。我々が彼等にとってあまりにも力がないように思えたからではなく、彼等がトロツキズムに対する酷いキャンペーンの影響下に今だにいるからだ。多分、彼等は次のように考えたのだろう。「何故、我々が危険を冒して、我々が『トロツキスト』だなどという攻撃材料を敵に与えねばならないのか?」

e.1939年8月17日にムニスがトロツキーに送った報告(原註10)には、ドゥルティの友に対するトロツキストの影響に関して我々の主張に反しているように思えるが、次のように述べている。

社会主義とアナキズムの領域には、我々の活動範囲が多くある。「ドゥルティの友」の主要指導者は、明らかに我々に影響を受けており、非常にハッキリとマルクス主義的特徴を持った見解を支持している。我々の直接的扇動で、そして「ドゥルティの友」のために、最初の紀要が起草されたが、このテキストは我々が今も持っており、全てのアナキズム理論を徹底点検する必要が示されている。(中略)しかし、この点について形勢が不利になった。「ドゥルティの友」に対する有効な経済支援をできるほど我々は物理的な力がないからである。我々の目的は、金銭的手段だけを使って我々の方向性に運動を促すことではなく、上述した傾向に従っている労働者にボルシェヴィキ思想をもたらすために金銭的手段を利用することである。(中略)我々は多大な期待を持ってはいないが、経済的資源があれば、「ドゥルティの友」を−−ともかくその一部を−−第四インターナショナルに引き込む大きな影響力をすぐさま確保できるだろう。

ムニスの綿密な報告は、ドゥルティの友にイデオロギー的に影響を与え、第四インターナショナルに引き込みさえするという展望について一貫して語っている。しかし、そのまさに同じ展望が1939年8月に存在したということこそ、1937年にはそれが失敗したのだということの確認なのだ。

f.1939年2月24日と3月3日付けの「La Lutte ouvrie're」に掲載されたインタビューで、ムニスはドゥルティの友についてこの路線を取っていた。

この革命的労働者サークル(ドゥルティの友)は、アナキズムがマルクス主義の方向に進化し始めたことを示していました。彼等は、リバータリアン共産主義理論を、プロレタリア権力の具現化であり労働者によって民主的に選挙された「革命フンタ」(ソヴィエト)理論で置き換えようとしていました。そもそも、特に、ドゥルティの友がバリケードの前線でボルシェヴィキ−レーニン主義者と隊を組んだ5月事件以後、このグループの影響力は(CNT)労働組合センターへ、そしてそれを指導する「政治的」グループ(FAI)へと深く入り込んでいました。パニック状態の官僚は、ドゥルティの友指導者に対抗する方策を講じようとし、彼等を「マルクス主義者」だとか「政治家」だと非難しました。CNTとFAI指導部は除名を決議したのですが、組合はこの決議の実行を断固として拒否したのです。

残念ながら、ドゥルティの友の指導者達は自分達の思うように潜在的勢力を充分利用できなかったのです。「マルクス主義政治家」という非難に直面して、彼等は戦わずに退却してしまいました。

(質問)労働者がアナキズムの見解に背を向け、意識的プロレタリア権力という概念に向けて動いていた兆候は実際にあったのですか?

アナキスト指導者によるブルジョア階級との協調と、革命と戦争の総合経験とが、大部分のアナキスト労働者の目をプロレタリア権力が革命とプロレタリアの利益の保護にとって不可欠だという事実に開かせました。ボルシェヴィキ前衛と個々の労働者との合意は容易く確立できました。しかし、この合意の組織的表明は具体化しなかったのです。その理由の一部は、中核となる強力なボルシェヴィキが存在しなかったからであり、また、ドゥルティの友に政治的先見の明がなかったからだったのです。

しかし、私は昔のアナキスト闘士達と話す機会を得ました。その中には非常に影響力を持った人達もいました。彼等は皆公然と同じ考えを表明していました。「私はもはや、戦争前に支持していた考えを支持することはできない。プロレタリア階級の独裁に私が合意していることを宣言させて欲しい。だがそれは、ソ連のような党の独裁にはならず、階級の独裁になるだろう。プロレタリア権力の機関として、全ての労働者階級組織が団結し、協力するであろう。」

La Lutte ouvrie're」に掲載されたこの興味深く情熱のこもったムニスのインタビューは、ドゥルティの友についてこれまで述べてきたことを裏付けているに過ぎない。まず第一に、彼等はマルクス主義者ではなかった。第二に、理論的アナキズム反体制派としてのドゥルティの友の出現は、巨大な組織的強さと絶対的な理論的空虚とに特徴付けられるスペインのアナキズム運動内部に、戦争と革命の困難な現実が創り出した耐え難い矛盾に起因していた。

ドゥルティの友とボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部との関係について歴史的文脈を再度述べてみよう。1937年5月以前にモウリンという人物を通じて接触はあった。厳密には、モウリンがバリウスとドゥルティの友に何らかのイデオロギー的影響を及ぼしたとは言えない。5月事件中は、お互いに何の協力関係もなかった。街路で出会い、どちらのグループも戦闘継続を呼びかけたモットーを載せたリーフレットを発行しただけだった。(原註11)しかし、どちらもCNT指導部を退かせるだけの力は持っていなかった。

1937年5月以後、POUM左派(原註12)(ホセプ=レブル)もドゥルティの友(原註13)(ハイメ=バリウス)も、共同行動を実現する目的でトロツキストが呼びかけた会合に参加することに合意しなかった。これは、「レーニン主義者の声」第二号と1937年7月6日付けのウォルフがトロツキーに送った報告に示されている。

フランスへの亡命と1939年以後になって初めて、ドゥルティの友にトロツキストの影響があった可能性が言及されるようになった。1940年4月にムニスがトロツキーに送った極度に楽観的な手紙(原註14)で確認されているように、この影響は、実際には、成功しなかった。

従って、ドゥルティの友に確たる影響を与えたグループなどなかったのである。我々が証明しようとしてきたこの主張は、歴史的記録によって現在示されていることだと確信している。しかし、CNTが検討していた侮辱的行為が聞き捨てにされなかったのも同様に確実であり、CNT闘士の大多数の目には、グループとしてのドゥルティの友はマルクス主義で「あるらしい」と映り、ドゥルティの友の闘士は常にその見解が権威主義だとか「マルクス主義」だとして記述された。例えば、ペイラツによる主張を取り上げてみよう。忘れてはならないが、彼は「無政府」の編集長であり、「思想」の寄稿者リストに載っていた。ペイラツは国家との協力に非常に批判的なCNT闘士であり、CNT指導部の幹部が大臣の職を受け入れたことに対するCNT反対派に深く関わっていた。1937年11月に、彼は、革命は敗北したと信じ、自分の反軍信念に反して、CNTの矛盾を理由に、ある種の自殺準備のつもりで「死を求めて」前線へ向かうことにした。しかし、ペイラツはドゥルティの友のシンパではなかった。1976年の口頭(原註15)インタビューで、彼は次のように述べていた。

質問:「ドゥルティの友」グループの設立と意図に気付いていましたか?彼等と接触していたのですか?

ペイラツ:このグループは5月事件の時期に出現しました。実際、その起源は、軍隊化のキャンペーンが始まった1936年秋に遡ることができると思います。当時、軍隊化を嫌がり前線を離脱した同志たちが数多くいました。

質問:ドゥルティが死亡する前ですか?

ペイラツ:そうです。ドゥルティが死ぬ前です。ただ、多くの同志が軍隊化を拒否したのは特に彼の死後でした。ドゥルティ縦隊はまだ民兵ユニットであり、第26師団ではありませんでした。相当数の人々が指示に逆らい、後衛に戻り、そこである種の雰囲気を創り出したのです。バルセロナの5月事件で戦ったのはこうした人々でした。他の闘士もいたのですが、攻撃の矛先を担ったのは彼等でした。事態があのような恥ずべき妥協で終わったとき、叛逆の旗を再び掲げた人々が「ドゥルティの友」グループを作り、その新聞「民衆の友」を出版し、連絡を取り合ったのです。しかし、彼等はほとんど影響力を持っていませんでした。何故なら、本物のアナキストではない人々がグループにいたからです。その人達は単なる革命家であり、そのことがある種の不快感を生み出しました。彼等は多くの人々から受け入れられたわけではなく、組織のモットーに従わないと言っても良いような人々にさえも受け入れられませんでした。私はここで自分の感じたことを述べているだけです。グループの人を知っているかどうかについてですが、私は「ドゥルティの友」に本当に共感したことは一度もありません。グループの傾向が非常に権威主義的だと思ったからです。「我々はこれこれこういうことを課そうと思っているが、それを行わない人は誰であれ・・・撃ち殺す」といった話をするため、むしろボルシェヴィキ的だと思ったのです。私が彼等の支持者ではなかったのはこの理由からでした。会議に何度か出席したこともありますが、常に彼等と議論をするためでした。彼等の何人かが示した態度によって、私達の多くは彼等を支援することから確実に手を引いたのです。そして、彼等は何も達成しなかったのです。彼等自身が自分達の活動の価値を下げたのです。従って、反対派が行う真の仕事は彼等の外部で行われたのです。(中略)結局、1937年10月頃に、私は疲れ切ってしまいました。卑劣な反革命が至るところにいたからです。そして、私は英雄的態度・自殺的態度を決め、心の中で考えました。「死が来るなら来い。だが、私は前線に行く。」私は志願兵として出発し、その時から後衛にはそれ以上何の関心も払わなくなったのです。

ペイラツの証言は、アナルコサンジカリズムの原理と心理の手がかりを提供している。ドゥルティの友は、ペイラツに依れば、権威主義者でありボルシェヴィキ的だった。この理由だけで彼等と付き合わず、軍国主義を受け入れ、ブルジョア反革命の進展に対し自殺的で受動的な態度を擁護するという極端な手段に訴えさえしたのだ。ペイラツは、亡命中に内戦中の公式的CNT史(原註16)を著すという任務をCNTから引き受けた。従って、革命の成功は権威主義以外の何者でもないということを受け入れられなかったのである。だが、これはアナキストが理解するのには非常に過酷な試練だった。

上記の全ては、トロツキストがレブルやドゥルティの友と全く接触していなかったという意味なのだろうか?違う。

どうあろうとも、POUM左派(レブル)とドゥルティの友(バリウス)は5月事件中に一度会っていたが、双方の組織の数字上の少なさと、ドゥルティの友が72細胞との共同声明発行を拒否したことで、そうした接触は実践的なことを何も生み出すことができなかった。(原註17)

5月事件以後、ドゥルティの友はCNT指導部によって関係を否定され、ドゥルティの友が常に組合集会からある程度の支持を保持していたため、そのメンバーは最終的にCNTから除名されなかったものの、CNT機関紙の使用を禁じられてしまった。ドゥルティの友グループが、POUM指導部に相談することなく、「戦闘」と「エディシオネス=マルキスタス」の担当責任者だったレブルに頼ったのはこのためだった。そして、レブルは最も基本的な−−確かに危険はあったが−−連帯義務を引き受け、POUMの機関紙にドゥルティの友が接することを認め、ドゥルティの友が5月8日にバルセロナで配布した声明文を印刷できるようにしたのである。(原註18)

これは、レブルがドゥルティの友に影響を及ぼしたという意味になるのだろうか?絶対に違う。ドゥルティの友の果てしない議論にモウリンが参加していたことが、トロツキストがこのグループに影響を及ぼしていたということを意味しているのだろうか?これも違う

ボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部の闘士とドゥルティの友の間に継続的な接触があったことは否定しない。ドゥルティの友の闘士の内にトロツキストが出版した秘密新聞を購読していた人がいたことも否定しない。(原註19)

だが、こうした接触はそれぞれのグループが作った地下出版物の交換だけに留まってはいなかった。1937年に非合法化された様々な組織は連絡を取り合い、財産と情報を共有し、そのことで、弾圧に対して立ち上がり、共通の秘密情況から戦いを継続したり、仲間の活動家に対する連帯を示したりしていた。例えば、POUMに対する見せしめ裁判で告発された人々との連帯を呼びかける継続的キャンペーンがそうである。あるいは、ナルウィッシュ船長(Captain Narwitsch)は警察のスパイであるという情報−−POUMの闘士がトロツキストに伝えた情報−−もそうである。サルメロン通りで「レーニン主義者の声」第三号と「民衆の友」の数号を出版していた印刷工バルドメロ=パラウは、同時に、地下出版社も運営していた。(原註20)

トロツキストとドゥルティの友メンバーは、1937年5月以前に接触してはいなかったし、5月事件中とその後の数週間に接触していたにも関わらず共同行動を行わなかった。にもかかわらず、POUM・ボルシェヴィキ−レーニン主義支部・ドゥルティの友の新聞が禁止された6月以後、様々な地下組織の間で連帯と協力の期間があり、闘士達の間には個人的友情も確かにあった。(原註21)

従って、様々なグループがドゥルティの友と接触していたが、我々は、ドゥルティの友に対する外部からの重要で決定的な影響があったとは厳密に語ることはできないのだ。接触があったか?あった。だが、影響は?ない。

トロツキスト・POUMメンバー・ドゥルティの友メンバー・アナキスト闘士の間に接触があったことについては既に詳細に扱ってきた。こうした接触は、議論と政治的討論・新聞の交換と配布だけでなく、反革命とスターリン主義弾圧に直面して連帯を示すという印象的で危険の高い行為にも至った。連帯は、歴史家が想像するような転向させるほどのイデオロギー的・組織的影響力というよりも、活動家の間の友情に近かった。閉鎖的で輝かしい大学歴史家ギルドにいる非常に浅はかで横柄で嘘つきで自惚れている聖人ぶった偽善者にさえも分かるように言えば、様々な組織が同志に援助を申し出るのは、それまでにその同志が「根性がある」ところを見せていたからであって、抽象的で曖昧なイデオロギー的影響力を働かせようとするからではないのだ。

だが、革命家の中にも連帯という言葉の意味を理解できない輩がいるかも知れない。


第十章の原註

1. 内戦中のスペインには二つの敵対するトロツキスト集団があった。ムニスが主導するボルシェヴィキ−レーニン主義支部と「フォスコ」が主導する「レ=ソヴィエト」グループである。ここでは「レ=ソヴィエト」には全く言及していない。というのも、ドゥルティの友とは全く関係がなかったからである。この理由から、ここでは、トロツキストという言葉はボルシェヴィキ−レーニン主義支部の闘士と同義に使っている。

2. 「共産主義者同盟宣言」の史料編纂上の誤謬については次を参照。

  • Agustin Guillamo'n "El Manifiesto de Unio'n Commuistda: un repetido error en la historiografia sobre la guerra civil" in La Histo'ria i el Joves historiadors catalans, Po'nencies i Comunicacions de les Primeres Jornades de Joves Historiadors Calalans, celeblades els dies 4, 5 i 6 d'octubre de 1984 (Edicio'ns La Magrana Barcelona 1986)
  • Paul Sharkey The Friends of Durruti. A Chronology (Editorial Crisol, Tokyo May 1984)

    3. この点については、ポール=シャーキーと同意見である。

    4. 「レーニン主義者の声」第2号(1937年8月23日)に「La Junta revolucionaria y los 'Amigos de Durruti'」と題されて掲載されたムニスの論考を参照。この論考の中で、ムニスは「民衆の友」第6号(1937年8月12日)でドゥルティの友が擁護した革命フンタの概念を分析している。

    5. クエルナバカ(メヒコ)からボロテン宛に書いた1946年6月20日付の手紙の中で、バリウスは次のように述べていた。

    私達に対してPOUMやトロツキストの影響があったとされていますが、誤りです。ドゥルティの友を率いていたCNT同志である私達のグループは、自分達が何を求めているか完全に承知していました。あなたはこのことを充分理解してくれるでしょう。私達は、革命家リストの新参者ではありませんでした。だから、これまで論じられてきた全ての主張は、明らかに根拠がないのです。

    私の考えでは、私がここまで述べてきたことで充分なはずです。ドゥルティの友グループを、CNT闘士の一集団がCNTが陥っている難局からCNTを救い出そうとし、同時に、バカ正直なCNTが抹殺できなかった反革命勢力に発端から脅かされていたスペイン革命を救い出そうとする試みだったと記述しても構いません。特にカタロニアでは、誰も我々の優越性に挑戦できなかったのです。

    1974年9月7日にイエール(フランス)からポール=シャーキーに宛てた手紙の中で、バリウス自身がドゥルティの友の独立性を強調し、1937年5月以前にドゥルティの友・トロツキスト・POUMの接触が全くなかったことを確認している。「私達は、POUMともトロツキストとも接触していませんでした。ただ、ライフルを手にして街路で付き合いがあった程度だったのです。」

    6. Jaime Balius "Por los fueros de la verdad" in Le Combat syndicaliste of September 2, 1971.

    7. La Voz Leninista No. 2, Barcelona, August 23, 1937.

    8. バルセロナで、72細胞がPOUM左派を代表しており、もっと特定すれば、その書記で「戦闘」とエディトリアル=マルキスタ(Editorial Marxista)の担当者だったホセプ=レブルが代表していた。ホセプ=レブルはPOUMの第二回大会の開催を見越して反対動議を起草した。彼はPOUM実行委員会が進めていた政治方針を根本的に批判した。

    9. ホートン図書館(ハーバード大学)の許可を得て転載。

    10. ホートン図書館(ハーバード大学)の許可を得て転載。

    11. ボルシェヴィキ−レーニン主義支部が1937年5月4日に配布したリーフレット(1937年6月10日の「Lutte ouvrie're」第48号に掲載された複写から復元した)には次のように書かれている。

    革命的攻撃万歳!妥協はするな。GNR(共和党国家警備隊)と反動の攻撃部隊から武器を取り上げろ。これは重要な分岐点である。次の時など遅すぎる。反動政府が退陣するときまで、戦争活動のために動いていない産業は全てゼネストを行え。プロレタリア権力だけが軍事的勝利を保証できる。労働者階級は完全武装せよ。CNT−FAI−POUMの団結行動万歳!プロレタリア階級の革命戦線万歳。仕事場・工場・バリケードなどに革命的防衛委員会を。(後略)

    12. ムニスは、72細胞の形態をとったバルセロナのいわゆるPOUM左派の曖昧さと優柔不断に対して非常に強烈な批判をしている。72細胞は1938年初頭にホセプ=レブル書記だけになってしまった。グランディス=ムニス著、"Carta a un obrero poumista. Ia Bandera de la IV Internacio'nal es la u'nica bandera de la revolucio'n proletaria" in La Voz Leninista No. 3, of February 5, 1938 を参照。

    13.レーニン主義者の声」第二号(1937年8月23日)で、ムニスは「民衆の友」第六号で提示された「革命フンタ」の概念を批判していた。ムニスの見解からすれば、ドゥルティの友は連続的な理論的衰退に悩まされ、現実にCNTに影響を及ぼすことができず、このことが、5月の経験のおかげで陣取ることができるようになった立場を放棄させたのである。ムニスは記している。1937年5月にドゥルティの友は「全ての権力をプロレタリア階級に」と平行して「革命フンタ」を呼びかけたが、逆に、「民衆の友」第六号(1937年8月12日)では「あらゆる国家主義形態の失敗」に対する代案としての「革命フンタ」を訴えていた。ムニスによれば、このことは、5月の経験をドゥルティの友が吸収したことからの理論的退却を示している。マルクス主義のプロレタリア独裁概念から大きく離れ、国家に関するアナキズム理論が持つ曖昧さに後退しているのである。

    14. Pierre Broue' Le'on Trotsky. La revolucio'n espan~ola (1930-1940) Vol. II, pp. 405409 に転載。

    15. Jose' Peirats El movimiento libertarion en Espan~a (1) Jose' Peirats Coleccio'n de Histo'rid Oral, Fundacio'n Salvador Segui, Madrid, undated.

    16. Jose' Peirats La CNT en la revolucio'n espan~ola three volumes. (Ruedo Ibe'rico, Paris, 1971). この公式CNT史の中で、ペイラツはドゥルティの友にほとんど言及していない。

    17. 以前に引用したホセプ=レブルによるアグスティン=ギリャモンの未発表インタビューより。

    18. Jordi Arquer Histo'ria de la fundacio' . 前掲。

    19. 判事がマヌエル=フェルナンデス(ムニス)から取り、「カタロニアの諜報活動取締法と大逆罪法廷対ボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部」において証言書の一部として使われた供述書には次のように書かれている。「アナキスト集団と、証人(ムニス)が書記をしていたボルシェヴィキ−レーニン主義支部が共謀していたのかという質問に、証人は次のように述べている。彼等は誰とも共謀はしていなかった。もし共謀していたとすれば、ボルシェヴィキ−レーニン主義支部に参加するためにアナキストを止めた人がいたはずだからだ。さらに、彼等は、ドゥルティの友メンバーの一部だけでなく、UGTとCNT組合員の一部にも自分達の秘密出版物を送っていた、と付言している。」

    20. バルドメロ=パラウの印刷工場の捜索に関する報告記録に関して、トロツキスト闘士に対する起訴状を起草している判事が取った報告書には次のように書かれている。「バルセロナで、1938年2月14日午前8時30分に、警官隊が(中略)上司からの指示に従って行動し、捜索令状を持って(中略)綿密な捜索を行うためにサルメロン通り241番の印刷工場に到着した。この場所は、秘密出版物の印刷に使われていると思われ、出版物の中には合法的に選ばれた政府を攻撃していたものもあった。

    その場所で、印刷所の経営者バルドメロ=パラウ=ミリャン(セラ通りの家に住んでいる)の立ち会いの下(中略)警官隊は命令を履行し、その結果、印刷所の三つの『奥付』が見つかった。コピーを取り、調査した結果、これらは次のものだと判明した。一つは『民衆の友』の奥付であり、右手に余白があり、囲みで次のように書かれていた。『芸能の衝突は、円満に解消したものの、コモレラによる挑発だった。我々の同志は前線で戦っているが、この悪党は後衛の粉砕に忙しくしている。労働者の団結が彼の計画を台無しにしてきたのだ。』(1938年2月1日付け『民衆の友』第12号から引用したテキスト)残りの二つ、『レーニン主義者の声』『民衆の友』である。これら全ては担当官が押収し、上司に渡された。」

    21. 1948年10月2日にムニスがパリから送った手紙を参照。

    5月事件中、B−L支部はドゥルティの友と接触したが、何も調整できなかった。それは現実的理由からであり、また、確証はないが想像するに、マルクス主義者と同盟を組んでいるとCNT指導部が非難すれば、CNTの中で評判を落としてしまうとドゥルティの友が考えたからであろう。5月事件以後、二つのグループはもっと友好的になり、やり取りするようになった。CNT内部でこれら二つのグループの影響は大きくなった。一般的に言って、「民衆の友」「レーニン主義者の声」の配布に最も関与していたのはCNTメンバーだった。

    ムニスとバリウスは、1937年5月以前に一度も会っていなかったが、その後、イデオロギー的にも私的にもお互いに認め合い尊敬し合って同志的な関係を持つようになった。アルケルによれば、この友情はメヒコでの亡命中にバリウスが一時の間ムニスの家に住んで以来大きくなった。


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