ドゥルティの友グループ:1937年〜1939年


第一章
イントロダクションと年表

ドゥルティの友は、1937年3月に設立されたアナキストの親和グループである。そのメンバーは、ドゥルティ縦隊と共に軍隊化に反対した闘士たちや、CNTが共和党政府とカタロニア自治政府に参加したことに批判的なアナキスト達だった。

ドゥルティの友グループの歴史的・政治的重要性はその企図にある。この企図はリバータリアン運動それ自体の集団内部から(1937年に)生じている。革命的諸原則からの離脱と資本主義国家との協調路線とを潰すために革命的前衛を構成するというものである。ブルジョア階級に少しずつ身を委ねるのではなく、1936年7月に「獲得したこと」を防衛し、徹底的に行うためにCNTと決別するのである。

本号の「バランス」は、ドゥルティの友が出現したプロセス・そのイデオロギー特徴・政治的考えの進化・トロツキストへの対応・アナルコサンジカリズム教義の純粋さを復活させ、1936年のスペイン革命を救い出す戦いが失敗した背景となる理由を検証する。

以下の年表には、これまで発表されていなかった情報が含まれている。ただし、これは包括的なものというよりも選択的なものである。この年表は重要な歴史的出来事を熟知できるように意図されているため、年表を読めば、この研究で詳細に説明される議論を迅速に、厳密に理解できるようになるだろう。

年表

1936年7月17日〜21日:軍人とファシストが共和国政府に対して反乱を起こす。労働者が武装抵抗を行った場所では反乱は失敗し、和解が試みられたり、全く武装対決がなかったりした場所でのみ勝利を確保した。内戦が勃発。

1936年7月21日:中央反ファシズム義勇軍委員会(CAMC)がカタロニアで設立される。労働者組織が権力を奪取。

1936年8月19日〜25日:モスクワで16人裁判。ジノビエフ・カーメネフ・スミルノフが処刑される。ラデックは逮捕されたまま。

1936年9月26日:三人のアナキスト−−ドメネチェ・ファブレガス・ガルシア=ビルラン−−がカタロニア自治政府に参加。

1936年10月2日:CAMCが解散。

1936年10月12日:カタロニア自治政府が(革命的)地元委員会の解散を命じる。その後すぐに、新たに人民戦線型の町会で置き換えられる。

1936年10月27日:カタロニア自治政府が人民義勇軍の軍隊化命令を宣言。

1936年11月4日:4人のアナキスト大臣−−ガルシア=オリベル・フェデリカ=モンセニー・ホアン=ペイロ・ヒュアン=ロペス−−が共和国政府に参加。

1936年11月5日:ドゥルティがマドリー戦線からラジオ放送を行う。その中で、彼は、自分が義勇軍を軍隊化するというカタロニア自治政府の布告に反対だと述べ、戦争に勝つために後衛からのもっと大きな献身と犠牲を求めた。

1936年11月6日:共和国政府(4人の新しいアナルコサンジカリスト大臣と共に)はマドリーからバレンシアへ安全確保のために逃亡。マドリー民衆の反応は、「政府のないマドリー万歳!」という叫びとなる。

1936年11月7日:国際旅団がマドリー戦線に介入。

1936年11月9日:マドリー防衛フンタ結成。

1936年11月20日:マドリー戦線でドゥルティが死亡。

1936年12月6日:「労働者の連帯」紙に、バリウスが「ドゥルティの遺言」と題する論考を発表。その中で彼は次のように述べる。「ドゥルティは単刀直入に主張していた。我々アナキストに必要なのは、性格として全体主義的な革命である。」

1936年12月16日:POUMがカタロニア自治政府から除名。

1936年12月21日:スターリンがラルゴ=カバリェロにアドバイスをする。

1936年12月29日:「思想」の第1号が発行。

1937年1月26日:バリウスが「ラ=ノチェ」(夜)紙の編集長に指名される。

1937年2月5日〜8日:軍隊化問題を考えるためにバレンシアで連合・アナキスト義勇軍の総会が開催される。

1937年3月4日:「夜」紙がドゥルティの友グループの目的・特徴・メンバー条件を紹介する告知を掲載。

1937年3月4日:カタロニア自治政府が統制パトロールを終結する宣言を発布。「ラ=バタリャ」(戦闘)紙において、ニンは、バリウスが「夜」紙3月2日号に掲載した記事に好意的で期待を寄せていることを示すコメントを発表。

1937年3月11日:「思想」紙がアイグアデの解任を呼びかける

1937年3月17日:ドゥルティの友グループが正式に設立。バリウスは副書記に指名される。ルイスとカレーニョは運営委員となる。

1937年3月21日:アイアン縦隊が集会を開き、軍隊化するか解散するかを投票で決める。軍隊化に同意する。

1937年3月後半〜4月前半:ドゥルティの友を支持するフライヤーが発行される。

1937年4月8日:「思想」紙において、バリウスは「革命を起こそう」と題された記事を発表。その中で次のように述べる。「(コンパニイスが)自分の思うままになる大規模な武装派遣部隊を持てば、資本主義の馬具へと労働者階級を引き戻すだろう。」

1937年4月14日:ドゥルティの友は共和国宣言の一周年記念に反対する宣言を公表。

1937年4月18日(日):ドゥルティの友はポリオラマ劇場で集会を開く。ロメロが議長を務め、フランシスコ=ペリセル・パブロ=ルイス・ハイメ=バリウス・フランシスコ=カレーニョ・V=ペレス=コンビナが意見を述べる。

1937年4月25日:UGT指導者のロルダン=コルタダがモリンス=デル=リョブレガトで殺される。

1937年4月27日〜28日:ベリェベル=デ=セルダーニャでアナキストとカタロニア自治政府軍との間の武装対立。プイフセルダのアナキスト市長、アントニオ=マルチンが射殺される。

1937年4月下旬:ドゥルティの友のポスターがバルセロナ市中の木や壁に貼り付けられる。ポスターの中でドゥルティの友はその綱領をデザインする。「全ての権力を労働者階級に。全ての経済権力を組合に。カタロニア自治政府ではなく、革命フンタを。」

1937年5月1日(土):カタロニア自治政府が、騒乱と対立を回避しようとして、メーデー記念を禁じていたため、通常の労働日。カタロニア自治政府は議会を開催し、達成された成功について警視総監を祝う。参加した識者は、タラデリャス(最高評議員)・ロドリゲス=サラス(警視総監)・アルテミ=アイガデ(国内治安評議員)。この会議は、治安と保安に関わる緊急事業に取り組むために、密室で迅速に開催される。ボルシェヴィキ−レーニン主義支部がリーフレットを発表。

1937年5月2日(日):ドゥルティの友がゴヤ劇場で集会。「7月19日」のフィルムが上映され、バリウスがコメントをする。リベルト=カリェハスとフランシスコ=カレーニョもスピーチを行う。CNT闘士がコンパニイスとアサーナとの電話会談を妨害。

1937年5月3日(月):午後3時少し前、アルテミ=アイガデの命令で、ロドリゲス=サラスが指揮するトラック三台分の警官隊が電話局を掌握しようとする。上階にいたCNT労働者が武装抵抗を行い、これを阻止。数時間の内に、多くの武装部隊が形成され、最初のバリケードが築かれる。動員は、二つの側に分かれる。一方はCNTとPOUM、もう一方はカタロニア自治政府・PSUC・ERC・エスタト=カタラ。商売は中止になる。午後7時に列車の運行は止まる。この時間、ドゥルティ通りの「CNT-FAIの家」では、CNTの地方委員会とPOUMの執行委員会が会合を持つ。最大の要求はロドリゲス=サラスとアルテミ=アイガデの辞任。コンパニイスはこれに断固として反対する。

1937年5月4日(火):夜通しの銃撃戦。市内全土に多くのバリケードが築かれ、暴力衝突が起きる。サンツ地区では、400人の警備隊が武器を奪い取られる。コンパニイスはバレンシア政府に、CNTの施設とバラックを爆撃する飛行機を求める。(原註2)モンヒュイックとチビダボにあるCNTが管理している大砲がカタロニア自治政府官邸へ列車で運ばれる。(原註3)アバド=デ=サンティリャン・イスグレアス・モリナは、CNTのマクシモ=フランコ(ドゥルティの友のメンバー)とPOUMのホセ=ロビラが派遣した師団を「バルセロナに行く途中で」レリダで何とか食い止める。午後7時、POUMが奪い取ったランブラス通りのプリンシパル=パレスで、ドゥルティの友を代表するハイメ=バリウス・パブロ=ルイス・エレウテリオ=ロイグ・マルティンが、POUMの執行委員会を代表するゴルキン・ニン・アンドラデと会議を持つ。情況分析をし、CNTが採用した立場を鑑みた後で、バリケードの戦闘員に整然と武器を持って撤退するように勧めることに合意する。午後9時、カタロニア自治政府のラジオ局は様々な組織の指導者(CNTを代表したのはガルシア=オリベル)からの戦闘中止のアピールを発表。POUMの執行委員会は宣言を発表。ボルシェヴィキ−レーニン主義支部はビラを公表。5月4日〜5日の夜に、ドゥルティの友グループはビラを起草し、印刷。

1937年5月5日(水):ドゥルティの友がビラを配布。ラジオでは、CNTがドゥルティの友グループとの関係を否定。戦闘はこの段階で市の中心部に限定される。市の他の場所は、連邦政府の防衛委員会の手中に落ちる。午後1時、カタロニア自治政府の議員に任命されたばかりのUGT指導者セセが、CNT芸能組合の建物から発射された銃火機で死亡。午後3時、カタロニア自治政府の送信機から、様々な組織の指導者(CNTはフェデリカ=モンセニー)からの新しい呼びかけが発表される。アスカソ兄弟が殺される。ベルネリとバルビエリは警備隊と水利組合のUGT闘士によって逮捕される。その後、死体が発見される。

1937年5月6日(木):「戦闘」紙がドゥルティの友のビラを再掲。同じ号で、「戦闘」紙は労働者に退却するよう訴える。「労働者の連帯」紙はドゥルティの友のビラとは関係がないと述べる。

1937年5月7日(金):「戦闘」紙が、治安部隊の撤退と武器の保持を条件として、そのアピールを改めて表明。輸送サービスが復活し、ある程度まで通常の状態が戻る。バレンシア政府が派遣した攻撃部隊が午後9時にバルセロナに到着。コンパニイスは治安管理を明け渡す。共和国政府に派遣された治安維持に責任を持つ特別派遣団の自由になるよう統制パトロールが配置される。

1937年5月8日(土):PSUCのバリケードを除き、バリケードが取り壊される。PSUCのバリケードは6月まで継続。ドゥルティの友は5月の出来事を再検討した声明を配布。この声明の中で、CNT指導部による「背信行為」について述べる。

1937年5月9日(日):「労働者の連帯」紙はドゥルティの友の声明はデマであり、メンバーは工作員だと片付ける。

1937年5月17日:ネグリンがラルゴ=カバリェロから首相の座を奪う。UGTカタロニア地方委員会は、全てのPOUM義勇軍を組合から除名することを要求し、CNTもドゥルティの友に対して同じ対応をとるように強要。

1937年5月19日:「民衆の友」紙の第1号発刊。

1937年5月22日:CNTの地元・地方連合の総会が、ドゥルティの友を除名する提議を審問。サバデル市議会の会議は、ブルーノ=リャド=ロカ議員(同時にカタロニア自治政府の地方経済使節)がドゥルティの友のポスターを自分の事務所に掲示していることで辞任すべきだということに同意する。

1937年5月26日:「民衆の友」紙の第2号が、検閲を逃れて発刊。PSUCの苦情を受け、秘密出版の指導者だとしてバリウスは数日後に投獄される。

1937年5月28日:「戦闘」紙が発禁となる。同時に、POUMのラジオ局も閉鎖。ランブラス大通りにあるドゥルティの友の社会施設も閉鎖。

1937年6月6日:統制パトロールが解散。

1937年6月12日:「民衆の友」紙第3号。

1937年6月16日:POUM執行委員会のメンバーが一斉検挙される。POUMは禁止され、その闘士は迫害される。

1937年6月22日:「民衆の友」第4号。

1937年6月22日〜24日:アンドレス=ニンがソヴィエト秘密警察に誘拐され、殺される。

1937年6月26日:スターリン主義者と共和国警察に迫害されたPOUM闘士との連帯を示しながら、ボルシェヴィキ−レーニン主義支部が、支部・POUM左派・ドゥルティの友による共同行動を呼びかける。

ボルシェヴィキ−レーニン主義スペイン支部(第四インターナショナルを代表して)のビラが、スターリン主義者に迫害されたPOUM闘士との連帯を表明。

1937年7月20日:「民衆の友」第5号。

1937年8月10日:アラゴン評議会が政府によって強制的に解散。

1937年8月12日:「民衆の友」第6号。

1937年8月31日:「民衆の友」第7号。

1937年9月21日:「民衆の友」第8号。

1937年10月20日:「民衆の友」第9号。

1937年11月8日:「民衆の友」第10号。

1937年11月20日:「民衆の友」第11号。

1938年1月:新しい革命に向けてパンフレットをバリウスが起草し、ドゥルティの友が出版。

1938年2月1日:「民衆の友」第12号。

1939年7月〜9月:L'Espagne Nouvelle 第7号〜9号。


第一章の原註

1. ドゥルティの友に関する最も重要な研究は次の通り。

  • Francisco Manuel Aranda: "Les amis de Durruti" in Cahiers Leon Trotsky No. 10 (1982);
  • Jordi Arquer: Histo'ria de la fundacio' i actuacio' de la "Agrupacio'n Amigos de Durruti" Unpublished;
  • Georges Fontenis: Le message re'volutionnaire des "Amis de Durruti" (Editions L, Paris, 1983);
  • Frank Mintz and Manuel Pecin~a: Los Amigos de Durruti, los trotsquistas y los sucesos de mayo (Campo Abierto, Madrid, 1978);
  • Paul Sharkey: The Friends of Durruti: A Chronology (Editorial Crisol, Tokyo, May 1984)

    2. ハウメ=アントン=アイガデルの供述書に依れば、アルテミ=アイガデの姪は、1946年8月9日にメキシコシティで参考人立ち会いの下で署名した。「5月の事件当時、カタロニア自治政府は、CNTの建物を爆破するためにスペイン政府に航空機を求め、スペイン政府はその要求を拒否した。」この発言は、コンパニイスと中央政府との間でやり取りされたテレタイプメッセージによって裏付けられている。そのメッセージの中で、1937年5月4日に、カタロニア自治政府の大統領は、反逆者が街路で大砲を持ちだしたことを内閣次官に伝え、プラト=デ=リョブリガト空軍基地の司令官フェリペ=ディアス=サンディーノ中佐がカタロニア自治政府の意のままに動けるようにして欲しいと求めた。「カタロニア自治政府大統領は、内閣次官に報告する。反逆者が大砲を街路に持ちだしている。カタロニア自治政府の意のままにサンディーノが動けるよう命じて頂きたい。」(フーバー協会に保管されている文書より)

    3. ディエゴ=アバド=デ=サンティリャンの供述書より。


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