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南京事件

 南京大虐殺否定論などを信じるわけではないが、それを政治的プロパガンダに利用する傾向が左翼にあるのは事実だし、「犠牲者数は多ければ多いほど都合がよい」という風潮も確かにある。そんなわけで大虐殺説にも一部の誇張があるのではないかという疑問もあった。
 「南京事件」(笠原十九司、岩波新書)はそういった疑問に明確な答えを与えてくれる。「南京大虐殺30万」などと言うと、日本軍が計画的・組織的に市民を30万人も殺したような印象を受けるわけであるが、実際は必ずしもそうではないのだ。  敗走してバラバラになった中国軍兵士と市民をほとんど区別せずに殺戮した「日本軍の掃蕩作戦」、命令によって実行された「捕虜の大量処刑」、軍紀の乱れによる「個別兵士の掠奪・強姦・殺人の大量発生」などの総合計が、30万人の「南京大虐殺」なのだ。
 虐殺否定派は、このうちの掃蕩作戦と捕虜処刑を、「正規の戦闘行為であるから虐殺には当たらない」として除外してしまう。さらに個別兵士の掠奪・強姦・殺人については、証言の信憑性や写真の真偽を問題にして、揚げ足取り的な論議をしているわけだ。そういう論議の土俵に上がってしまっては全体像が見えない。論議をするならまず、全体像をきちんと把握すべきだろう。

 南京攻略戦は、もともと正規の戦争ではない。盧溝橋事件に端を発する日中両軍の衝突は、偶発的な小競り合いを好機と見た現地軍司令官が独断で拡大したものであり、宣戦布告も何もなされていないのである。
 上海事変は「北支の陸軍に遅れてはならじ」と海軍が仕組んだ謀略であった。もともと南支は海軍の担当であり、陸軍の関知するところではなかった。ところが海軍が手を出して、逆に中国軍の大軍に囲まれ、大敗する恐れが出て来た。そこでやむなく陸軍は上海の居留民保護を名目にして二個師団を派遣する。陸軍上層部は「すぐにカタがつく」とタカをくくっていたが、中国軍は日本軍上層部が考えていたようなかつての中国軍ではなかった。ドイツの軍事顧問の指導の下、近代的な陣地を築いていたのである。
 松井石根大将率いる上海派遣軍は、トーチカと機関銃で固めた陣地に対して、正面から突撃させるという無謀な作戦によって死体の山を築いた。上海戦の日本軍の死傷者は実に4万人にも上ったと伝えられている。
 予想外の大苦戦にあわてた日本軍は、新たな大軍を編成し、杭州湾に上陸させて中国軍をハサミ撃ちにし、ようやくこれを敗走させた。
 国家対国家の全面戦争ではなく局地紛争なのだから、戦いはこれで終わるはずだった。ところが、司令官の松井・柳川将軍をはじめ陸軍の強硬派は、この際一挙に中国の首都南京を攻略しようと考える。拡大に反対だった参謀本部の石原作戦課長は左遷された。ドイツをはじめとする諸外国の和平工作も無視された。かくして、何の予定も準備もない南京攻略戦が始まる。
 敵国の首都を占領しようというのだから、どう考えても全面戦争である。当然、そのための作戦計画や補給準備が必要だが、火事場泥棒的な場当たり作戦なのでそんなものは何もなかった。南京は上海から300キロも離れている。近代的な機械化部隊ならともかく、日本軍はまったく徒歩に頼る旧式装備で、補給計画もなし。軍事常識を無視したメチャクチャな作戦である。
 地獄の上海戦をようやく生き残った兵士たちは、これでやっと帰れると思ったのに、300キロも離れた敵国の首都まで、補給もなしで、徒歩で進撃しなければならなくなった。味方の兵士に与える食料すら用意しない日本軍に、大量の捕虜を養う余裕や準備は全くない。そのため、捕虜の殺害・食料の略奪は日常のこととなった。疑問を持つ前線指揮官には「これは正規の戦争ではないから、ジュネーブ協定は適用されない」などと説明されていた。
 敗走する中国軍は、指揮系統が混乱してバラバラになっていた。日本軍には中国語が話せる者はきわめて少なかったから、武器を捨てた敵兵と一般市民を区別することはほとんど困難だ。
 南京大虐殺はこういう状況のもとに起こった。
 当時の日本軍の体質を知らなければ、南京大虐殺を信じることはできないかもしれない。「上官の命令を無視する前線司令官の独断専行」「補給・兵たんの軽視、あるいは無視」「下級兵士の命を使い捨てにする作戦」「火力よりも精神力が優るなどの異常な精神主義」など、現代の常識では考えられないような体質が、信じられないような事件・信じられないような戦争をおこしたのだ。
 第二次大戦中にアメリカ軍は、日本軍の特徴を「あきれるほど無能な指揮官に率いられた、驚くほど勇敢な兵士たち」と評している。

 笠原十九司の「南京事件」や藤原彰の「南京の日本軍」は、当時の日本軍の体質を含めた事件の全貌を、非常に簡潔にまとめている。南京大虐殺を論じるなら、最低でもこの二冊に書いてあることぐらいは知っておくべきであろう。

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