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ニヒリズムの革命

 ヘルマン・ラウシュニングの「ニヒリズムの革命」(築摩叢書)は、1938年、まだナチスが絶頂だった頃に出された本だ。
 ラウシュニング自身、元はナチス党幹部であった。しかし、ナチスに疑問を感じて亡命し、保守主義の立場からナチスを批判している。
 以下、ラウシュニングの言う「ナチスの本質」とはどんなものであるか、一部ぼくの解釈も交えてまとめてみた。

一. ナチスのイデオロギー

 ナチスは、右翼国家主義・民族国粋主義・あるいは「保守主義の極端な形態」などと見られがちなのであるが、ラウシュニングによれば、本当はナチスには、そういったイデオロギーはないのだという。あるのはあくなき「権力への欲望」だけであり、表面に現われる国家主義や民族主義は「見せかけ」の看板に過ぎない。
 「人間は論理的存在、理性的・精神的存在などではなく、動物と同じに衝動によって動く本能的な存在である。それゆえに、理性には社会や政治体制を動かす力はない。暴力こそが歴史を動かす唯一の力である。」
 ヒトラーはこのことをよく知っていた。そしてまた、大衆の動物的な衝動を、巨大な組織暴力に育てあげる方法もよく知っていたのである。
 ナチスは、暴力行動的な大衆運動を組織するために、民族主義・国粋主義を利用したに過ぎない。何でも構わなかったのだが、当時のドイツの状況では民族主義・国粋主義がそれに最も適していたのだ。ユダヤ人は、たまたま大衆の憎悪をかきたてるのに都合がよい存在だっただけなのである。ナチの幹部たちは、少しも民族主義や人種説などを本気で信じてなどいなかったと言う。
 民族主義や国家主義ではないならば、ナチスは何を目指していたのだろう?
 ラウシュニングによれば「何も目指してはいない」。「権力」それ自体がナチスの目的なのである。他には何もない。
 「価値崩壊の大きな過程の終点にあって、全面的なイデオロギー不信のもとに生きている醒めたニヒリストにとって、思想など存在しない。しかし、大衆を暗示にかける思想の代用品ならある」というわけだ。
 ナチスにとって、「権力」は何かを実現するための手段ではない。全てが、「権力」のための手段なのである。

二. ナチス化革命

 今日のように「軍隊や警察などの権力手段」が発達した時代において、過去のような「市民革命」は幻想にすぎない。その可能性は全くないと言ってよい。革命の可能性があるとすれば、それは権力手段を持つ「上からの革命」だけである。
 ヒトラーは誰よりも早くそのことに気づいていた。そして、周到な計画・準備のもと、合法的に政権を引継いだ後に、革命的暴力支配のクーデターを実行したのである。
 「革命的暴力から合法的権力へ」という順序が、それまでの一般的な革命の常識であった。ところが、ナチスは逆に「合法的権力から革命的暴力へ」という順序で「革命」を行ったのである。保守勢力は、ナチスを「左翼革命を防止するための用心棒」くらいにしか見ておらず、自分たちがヒトラーをコントロールできると甘く考えていた。彼等は「革命」を恐れるあまり、実は「最も革命的な連中」に権力を与えてしまった。
 革命が上からやってくるとは、思いもかけないことである。ほとんどの人が不意をつかれた。行政機関などの権力機構はもちろんのこと、商工会議所などの産業団体から「カナリア飼育者の団体」「切手収集家の団体」に至るまで、社会のあらゆる組織で「ナチス化のためのクーデター」が行われた。警察組織が親衛隊と一体化されたのをはじめ、全ての組織が党に乗っ取られた。
 従来の紳士貴族的エリートは、脅しやテロを常套手段とする弱肉強食主義のナチ・エリートに太刀打ちできなかった。駆逐されなかった者は自ら進んでナチス化した。
 ナチス化の可能性がない団体は、徹底的な弾圧によってことごとく解体される。
 今や、ドイツ社会の全てがナチのプロパガンダ機関となり、相互監視・密告のスパイ機関となった。「ナチス化革命」は圧倒的な成功を収めたのである。

三. ナチ・エリート

 ナチスは、「大衆向けプロパガンダ」と「党のエリート向け行動原理」を明確に区別している。その二つが矛盾するのは常であり、正反対なケースさえ少なくなかった。
 ナチ・エリートに必要な資質は、イデオロギー的な思想信条ではない。ましてや知性や教養でもない。それは断固たる「権力への意志」と、権力を行使する際の徹底した「冷酷さ」や「残忍さ」なのである。
 「革命戦士」である彼等にとっては「闘争」が何よりも重要である。闘争は社会主義者や自由主義者などの政敵との闘争にとどまらない。それどころか党内の権力闘争の方がむしろ熾烈であり、その選別淘汰に生き残った者のみがナチ・エリートになれるのである。彼等は党内の厳しい生存競争によって教育され、鍛えられていく。分別や常識は、むしろ邪魔であった。淘汰に勝ち残った者には、通常の世の中なら市民生活の落伍者である「ならず者」や「やくざ者」も少なくなかった。
 「ナチス化革命」を担ったのは、これらのナチ・エリートたちである。それに下剋上のチャンスを狙って多くのオポチュニストたちが参入した。
 そのような「ナチス化革命」は、従来の社会秩序や価値観を破壊したばかりではない。ドイツ民族の物質的・精神的・道徳的文化や財産を全て破壊・略奪した。
 ナチスを、新しい文化の創造者であるかのよう見るのは誤りである。何かを作るような行為に見えるのは、あらゆる草や木を根こそぎ引き抜いた後、何も生えないように地表をコンクリートで覆い尽くす行為であるにすぎない。徹底的な破壊には、そのような一種の建設行為も含まれるのである。

 ラウシュニングが党内で繰り返し聞かされたナチ・エリートの行動原理は次のようなものだった。

「およそ出来そうもないことが、いつも成功する」
「つねに攻撃的立場を取り、決して守勢に追い込まれてはならない」
「もし本当になにかを成就しようと欲するなら決して議論などに応じてはならない。」
「市民階級の愚昧と臆病さに対しては何をしても大丈夫である」

 そして、平穏な精神的雰囲気中に生きている人々を不安にし、神経的錯乱にさらしてコントロールするナチス式話術を身につける。
 それは、高飛車な決めつけ・不意討ち・脅迫などであり、

「相手が疲れ、イライラするまで、一方的な議論をふっかける」
「にこやかに話しているかと思うと、突然絶叫したり金切声を張り上げたりして、相手を動揺させる」
「侮辱したり、高圧的な攻撃を加えたりしたかと思うと、突如としてさも親しげな猫撫で声にとってかわる」

などのテクニックを駆使するものであった。

 ヒトラーは言う。「自由主義者や民主主義者を特徴づけるものは怠惰と臆病である。彼等は全体主義者の断固たる意志と行動に決して勝つことはできない。」
 彼のこの判断は全く正しかった。国内での闘争に圧倒的に勝利したばかりでなく、この行動手法は外交面においても次々と奇蹟的な成功を収めたのである。

四. 永続革命

 ナチスの思考方法や行動方式は、「日常的状況から抜け出せない人間」を圧倒し、その正しさを証明した。ここで留まるわけにはいかない。常に次の危機を演出し、闘争を継続しなければならない。熾烈な生存競争を戦う者は、立ち止まったらやられるだけだ。決して守りに回ってはならない。常に攻撃あるのみだ。革命を終結すれば、大衆も暗示の魔術からさめてしまう。それはナチス権力の終結をも意味することになるのだ。危機的な革命状況が続く場合のみ、ナチスは自己の権力を維持できるのである。
 したがって、ナチスの革命は「永続革命」でなければならない。敵がなくなったら新たな敵を創造しなければならない。国内の闘争が終結したら国外の闘争を開始しなければならない。
 こうして闘争はどんどんエスカレートしていく。煽り立てられた大衆のエネルギーは元に戻すことはできない。破壊のすさまじさに恐れをなしても、それを口には出せない。そんなことをすればたちまち「民族の裏切者」の烙印を押されてしまう。何が何でも前へ進む以外はないのだ。
 革命の破壊活動は、全てを破壊し尽くすまで、絶対に終わることはないのである。

五. まとめ

 ラウシュニングの主張は、国家主義や保守主義をナチスから切り離して擁護しようとしている点や、「革命」を全くの悪と看做している所など、額面通りには受け取れない点も多い。「ナチの幹部たちは、誰一人として民族主義や人種説などを本気で信じてなどいなかった」かどうかも疑問だ。だが、ナチスの本質は「イデオロギー」ではなく「技術」なのだというのは本当かもしれない。びっくりさせられる結論だが。
 自分はナチスをよく知っているつもりだったが、まだまだ甘かった。その本質を少しもわかっていなかったことを強く思い知らされたような気がする。

 もし、ナチズムが「技術」なら、人間の欠点や弱さに対する洞察・弱さを突く「徹底したテクニック」などナチズムの多くは、今日でもいろいろな所に受け継がれている。ナチズムの問題は程度の問題にすぎないのだ。単なる技術とナチズムはどこで区別できるのだろう。その連続性を断ち切ることは可能だろうか。
 ナチズムの恐ろしさは、その誤りにあるのではなく、その正しさにあるのかもしれない。

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