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利己主義とはどういうことか

 ビアスの『悪魔の辞典』で「友情」をひくと、「晴天の時は二人乗る余裕が十分にあるが、嵐の時には絶対に一人しか乗ることができない、そんな程度の大きさのボート」と書いてある。友情は特に関係ないけれども、この事例を使って論じてみよう。嵐が強くなってボートが転覆しそうになった時、「利己主義者」「利他主義者」はそれぞれどうするであろうか。

 他人の利益を第一に考える利他主義者は、相手を助けるために自分から海に飛び込んで死んでしまう。自分を犠牲にしても人を助けようとする。利他主義とは一般的にそのようなものであり、キリスト教的博愛精神もそのようなものだ。
 それでは自己の利益を第一に考える利己主義者はどうするだろう。自分が助かるために相手を海に突き落とそうとするのだろうか。
 シュティルナーならば、「それは視野の狭い不完全な利己主義である」と言うだろう。たとえ相手を突き落としたとしても助かる可能性はあまり増えない。それよりも二人で必死にボートを漕ぐ方が助かる可能性はずっと高くなるはずだと主張するだろう。相手の能力も自分のために利用することが、自分の利益を最も大きくするわけだ。動機はあくまで自分が助かるためであるから、これは利己主義であって利他主義ではない。結果として同乗者も助かるかもしれないが、同乗者を助けることが目的ではない。問題は自分の命であって、同乗者の生死はどうでもよいのだ。
 シュティルナーの言わんとすることはよく解る。けれども、それには大きな問題がある。それは、同乗者がこちらと同じように考えるとは限らないということだ。助かるためにこちらを突き落とすべきだと考えるかもしれない。仮に協力して嵐を乗り切ったとしても、今度は飲み水や食料の節約のために突き落とそうとするかもしれない。先にやらなければこっちがやられる可能性があるわけだ。
 シュティルナーの利己主義は、独りよがりではないか。自分にしか関心のないシュティルナーには、相手の利己主義がどのようなものであるかを知ることができないであろう。相手を突き落としておかないと危ないかもしれない。利己主義を貫徹しようと思ったら、相手の観察もかかせないのだ。現在の状況と同乗者のことをよく知ることが必要である。「協力して嵐を乗り切る」か「突き落とす」かの選択は、それによって決まる。「協力した方が助かる公算が高い」と、説得できる相手なのかどうかが鍵になる。
 自分にとって最大の利益は、常に周囲の状況や相手を把握していなければ追求することができない。自己のことのみに関わり周囲や社会から背を向けていては、自分の不利な立場に気付くことができないからだ。
 視野の狭い利己主義は、結局自分のサバイバビリティを低くする。

 ビアスは意地が悪い。そういう極端な事例は現実的ではないし、100%の利己主義者も100%の利他主義者も実際には存在しない。その時の精神状態によっても、同乗者が誰であるかによっても、嵐の程度によっても答えは違ってくる筈だ。定まった解は存在しない。

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