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相対主義

 仮に、「全てを否定する。なにも信じない」のがニヒリズムであるとする。すると大きな疑問が浮かんでくる。果たして本当に「全て」を否定できるだろうか。人間も否定するのか。家族や友人も否定できるか。自分自身を否定できるか。また、「否定する」とはどういうことだろう。国家を否定しながら税金を払い、国民健康保険に入り、選挙に行くのは矛盾ではないか。
 「否定する」という言葉は適切ではないかもしれない。「価値を認めない、意味がない」と言い直してみよう。「国家の価値を認めない」「人間には意味がない」 この方がいい。
 しかしそれでも疑問が浮かんできた。自分の好きな音楽や映画にも価値はないか。生命にも意味はないのか。価値を認めているものもあるのではないか。
 このように考えてくると、必ずしも「全て」を否定したり、価値を認めなかったりしているわけではない。そんなことは不可能だ。実際には、自分が「価値がない」と思うものを選択している。世間や社会で「偉大である」「大した価値がある」などと評価されているものに価値がないと思うだけで、「全て」ではないなのだ。
 そうすると、自分の好きなものだけに価値を認め、嫌いなものは認めないという、身勝手な「ゴーマニズム」との違いがはっきりしない。選択の基準が自己にしかないのなら、同じことではないか。
 そこで、「絶対的な価値を認めない」という形に言い直してみる。価値というのはあくまで相対的なものだ。ぼくにとって「価値ある」ものでも、あなたにとっては「価値がない」かもしれない。今、ここで「価値がある」ものでも、時間・場所が変われば「価値がない」かもしれない。価値観を他人に押し付けるのは間違っているのだ。価値観というのは多種多様なのであり、それでよいのだ。
 他者の価値観を押し付けられるのは拒否しよう。しかし、自分と異なる価値観の存在は認めなければならない。そして、それについて知ろうとする姿勢が重要である。「自分の価値観も絶対ではない」からだ。自分が間違っている可能性もあるのだ。いろいろな価値観を知ることによって、自己の価値観から、すこしずつ偏見が取れていく。
 「絶対的な価値を認めない」が、一番いいようだ。これにしよう。ここまでくると「ニヒリズム」ではない。「相対主義」といった方がよい。これからぼくは相対主義者を名乗ろう。

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