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差別について

 世の中には差別感情を一切持たない人もいるかもしれないが、非常に珍しいと思う。もちろんぼくにも差別感情がある。ぼくにとって差別が「悪」というのは、この感情自体を「悪」として抑圧することではない。それではその感情が陰にこもり、かえって大きなものになってしまう。
 重要なのは、差別感情が、被差別者に対する自分の無理解と偏見に基づいていることに気付くことだ。差別感情を持つのは自然なことなのだが、無理解や偏見を解消し、「差別感情を消していくこと」が大事なのである。だから差別の「悪」とは、無理解・偏見を解消しようとしない不作為の悪なのである。
 「言葉や態度で差別表現をする・しない」は善悪の判断基準ではない。「差別して何が悪い」と居直るのは論外としても「差別表現をしない」だけでは「善」にならない。
 以上が、差別に関するぼくの善悪観だ。もっとも自分自身がこの基準に全然合格してないので、他人に押し付けることはできないが・・。

 優等生ばかり“えこひいき”する教師は差別か?
 美人にばかりチヤホヤする男は差別だろうか?
 上にへつらい、下には尊大なのは差別なのか?

 これらは「差別」とは言えないが、共通の感情が何かあるような気がする。人間のある一部分だけを見て、その人に対する態度を決めるということだろうか。
 もちろん、「すべての人に対して最大限の理解」なんてできるわけはない。相手によって態度が違うのは、ある程度やむをえないとも言える。ただそれが露骨に現われるか、なるべく抑制しようとするかの違いはある。
 「差別」は、上記の感情が、社会的に拡大したものではないか。社会共通の価値観から何か外れた人がいると、その点だけを、全人格に対する判断の基準にしてしまう。もちろん国家などの政策などによって誘発されるということもあるが、個人の経験や想像力の不足・安易な判断に走りやすい性格などにも原因があるのだろう。
 国家が差別政策を取ったとしても、全ての人がそれを受け入れるわけではない。だが、簡単にそれを受け入れてしまう人が多いという土壌にも問題がある。やっぱり「教育」が最大の問題なのかもしれない。

 無理解や無知・偏見を克服して差別感情を消すには、かなりの努力が必要である。はじめから差別感情を持たなければそんな努力も不要なのだが、今の社会や教育では、偏見のない人が育つことは極めて稀だろう。ストレンジャーを排除・隔離するような社会では、偏見を持つようになるのが当り前だ。
 一方、資本主義の論理には差別・偏見はない。金の力こそ全てである。その前に立ち塞がる民族・国境も全てぶち破り、グローバルな弱肉強食の市場を形成する。
 「差別して排除する社会」と「無差別にぶったくる社会」。
あなたならどちらを選びますか?

 宮台真司が書く学校への処方箋は特効薬ではないが、現状ではベストな抗ガン剤だろう。問題は大人の方だ。こっちには処方箋が書けない。単一ルールによるシステム化は、多くの人間をはじき出す。無差別は棲み分けをも許さない。はじき出された人間はカルト集団となって自滅するしかないのか。
 隠れキリシタンのように地下に潜行して生き残るテクニックが必要だ。二重人格、ダブルスパイを生きるようなタフな精神を養おう。

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