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懐疑する精神

 世の中はウソに満ちている。毎日の生活でも、小さなウソは日常茶飯事だ。
「風邪で熱があるので、今日は休ませてください」(本当は二日酔い)
「遅れてすみません。最優先でやってますので、もう少し待ってください」(後回しにしてるから遅れてんだ)
「今、忙しいんです」(暇だけどあんたとは話したくない)
 など、ぼくだって始終ウソをついている。
 新聞を開けば、「景気は緩やかな回復傾向にある」「放射能漏れはなかった」など、大ウソが堂々と書いてある。「新聞は社会の公器であり、不偏不党を編集方針にしている」というのもウソだ。
 マルチ商法・ねずみ講・カルト宗教・システム金融など、世間はうっかり信じるとひどい目に会う危険な罠でいっぱい。
 「東大出の高級官僚や大企業の経営者は立派な偉い人達である」というのも全くのウソであった。「強制連行はなかった」「戦後民主主義が日本をダメにした」等々、自分に都合のいいように歴史を作り替えるウソも大流行だ。

 「詐欺は被害者にも非がある」「騙される方が馬鹿なのだ」というのが現代の常識である。お人好しで信じ易い人間には悲惨な運命が待ち構えているのだ。
 社会をうまく生きていくためには、こうしたウソに対する耐性・免疫が不可欠だが、その第一歩は「まず疑うこと」である。何でも額面通りに受け取ってはならないのである。「まず疑ってかかること」が、現代人の重要な処世術なのだ。

 実際いろいろなものを疑ってみると、これまで「当然のこと」「常識」などと思っていたものも非常に怪しくなってくる。いわゆる「世の中のウラ」が見えて来る。ウラのカラクリを一度でも知ると、オモテが大変バカバカしいものに思えてくる。単純に信用していた自分はなんというバカだったのだろう。勿体ぶってエラソーにしている連中も、一皮むけばウソつきの悪党ではないか。社会のため、平和のため、国家のため、なんてのも全部ウソだ。

 現代社会のあらゆるシステムは、人を騙すためのカラクリである。こんなものに価値はないし、信じる必要もないのだ・・・・・・

 重要なのは「懐疑する精神」と言えるかもしれない。とくに「常識だ」「当然だ」など、反対できないような雰囲気で押し付けてくるものを「疑う」ことだ。そういう場合は、大抵ウラに何かを隠している。それをごまかすために、「常識」とか「当然」とか、権威を持ち出すのだ。疑問を持たないのでは、「世の中のしくみ」や「システムの裏側」を知ることはできない。カラクリやペテンに引っかからないためには、「反対できない雰囲気」や「権威」を通してやってくるものには注意した方がよい。

 ただし、「疑う」ことと「否定する」ことはイコールではない。始めから「否定」を目的にして「疑う」べきではない。頭から犯人と決め付ける刑事のような予断を持っていると、無罪の証拠が見えなくなる危険があるからだ。
 「憲法を疑え」「戦後民主主義を疑え」「朝日新聞を疑え」などのプロパガンダが盛んである。「疑う」こと自体は結構なことだ。それによって、憲法や戦後民主主義の本質に迫ることができるなら。だが、その目的は、「今の日本をダメにした」犯人捜しなのである。それも、ちゃんと捜しているわけではなく、始めから犯人を決めた上で「疑え」と言っているのだ。こういうプロパガンダこそ、疑う必要がある。なぜこんなプロパガンダをやっているのだろう? もしかすると真犯人を隠すためにやっているのではないか。そもそも、本当に日本はダメになっているのだろうか。「憲法」や「民主主義」を陥れるために「日本がダメになった」ということにしたいのではないか。「疑え」プロパガンダはかなりウサン臭い。

 全てを疑う必要はない。また、否定する必要もない。ただ、ウサン臭い物をそうでない物と見分ける能力、何かウラがあるものに感づく能力は、鍛えておいた方がいい。それを鍛えるのが「懐疑する精神」ではないだろうか。
 「ニヒリズム」によって「懐疑する精神」をきちんと鍛えたい。鍛え方が不十分だと、「疑え」プロパガンダなどに引っかかってしまう。

 さて、「懐疑する精神」は重要だが、厄介な副作用がある。「信じる」ことができなくなる、ということだ。何でも「疑ってかかる」わけではないし、「疑い」が晴れたら信じてもよいはずだ。だが、それができなくなる。何でも、自分との間に一定の距離をおこうとする。
 祭は、見物するより参加する方がはるかに楽しい。また、参加しなければ本当の祭は理解できないのだ。もちろん祭にもイヤな部分はある。寄付金や手伝いを強要されるし、人間関係が煩わしい。ケンカや事故の心配もある。イヤな部分は承知の上で、なおかつ祭に参加して楽しめればよいのだが、それができない。どうしてもイヤな部分、悪い部分に目が行ってしまい、心から祭を楽しむことができない。
 人を「疑う」のは気分の悪いものだ。人と気持ち良く付き合いたいなら、「疑う」より「信じる」方がよい。「欠点」より「美点」を見た方がよいにきまっている。だがどうしても、それができない。
 「懐疑する精神」を持ちながら、なおかつ「信じる」こともできるというのは、両立はできないものなのか。
 頭では、絶対的な価値観・全てを解決する思想や宗教などありえない、ということはわかっているし、人間はそのことに耐えていかなければならない、とも思うのだが、やはりどこかで「信じられる」ものを探しているようだ。

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