メンバーの小屋

乱乱小屋

無思想論

 無思想とは如何なるものか述べたい。
 あの戸塚ヨットスクールの校長だった戸塚宏は、こう言っている。「儒教でも仏教でも、ヨットの操船に使えるかどうかだ」と。つまりあらゆることに使えてこそ、世界観たるべき思想なのだということ。
 もっと通俗例。「役者バカ」とか「学者バカ」、変ったとこでは「空手バカ」、というような言葉がある。つまり一芸に秀でた人間は、他のことはからっきしダメなんだという時に使われる。「あの人は専門の××についてはすごいけど、世間的な常識はないなあ」等が典型例である。これは一つの体系をマスターした人間の限界性を示すものと言える。これならまだ軽いが、戸塚の弁と通底している。あらゆるこの世の事象に、的確に使えたり、説明し得てこその思想の要件というなら、逆にそんな思想は存在しないと言ってよい。この例は一々あげつらうまでもないだろう。思想の多元性多様性が、各々の自らの優位性唯一性を誇りながらも、一極化されないことを指摘するだけで充分だろう。又、それが可能だとする、とりわけ宗教や神秘主義の危険性をも指摘出来る。いかなる思想、イデオロギー、宗教、哲学、体系なんと言ってもよいが、世界をすべて記述しつくそうとした試みは挫折する運命にあるし、すでに挫折しているのだ。
 これには例外はない。しかし、人は、皆己の思想だけは、世界の記述に成功しているか、他者のあらゆる思想よりは優位であるとする。これは何故か。「私」の居場所を、思想に探せばわかる。思想が「私」というものを見逃すはずもないから、「私」はすでに思想の手の内にある。「私」は思想の中に包まれているのである。「私」は、思想という外被を通して、世界を見る/分節するのである。「私」は最早思想であって、「私」がそうであるように、唯一のものとなる。それは否定することの出来ない、絶対的な存在である。
 だから「私」と思想を共有しない「他者」はみな愚かに見える。それは当然であろう。「他者」もすでに思想/「私」を構成している部分でしかない。その部分たる「他者」は、しばしば思想/「私」の予想を裏切る振る舞いに出る。思想/「私」から見ると、理解を超えた/苦しむ存在だが、評価の対象とはならない「愚者」としてある。その「愚者」が無視しえない脅威まで高じてくると、「敵」「悪魔」までに昇格し、抹殺を願うようにすらなるのだ。
 が、「敵」は外側から来るだけではない。内側すなわち「私」もその敵対勢力になりうる。思想に対して芽生える疑念や、人間の生き物の部分は、思想を絶えず崩さんとするからだ。これを打ち破るには、強い抑圧/負荷を自らに課すか、外部に転化するしか方法がない。前者は、自らの外被を強化せんと、情報を遮断し歪め、影響を与えてくる他者をしりぞける。マインドコントロールと錯覚されるのはこの部分だ。正しく言うならセルフマインドコントロールである。もっと効果的なのは、やはり後者だ。「敵」の襲撃に備えよと言うわけだ。何だか知らぬが得体の知れぬ邪悪な「敵」が襲ってこようとしている。こちらの方が、内敵/「私」より、対処がしやすい。闘争も逃走も可能だからだ。「敵」の認定が、思想を通じてなされ、聖戦が必然とされる。
 このようにして、思想を形成し受容した瞬間から、その崩壊に抗う無期限の戦闘状態に入らねばならぬのだ。その闘いは凄惨である。思想の崩壊=「私」の死であるからだ。民族主義者は、反民族主義者に怯え、信仰者は異教徒に怯える。その逆もまた真である。奇妙なことに、「敵」は己の姿に似ている。反権力や反差別を唱える者が、権力的だったり差別的であったりするのも別に不思議ではない。
 しかしそれが事実なら、思想的なるものすべてが無用なものなのだろうか。そうではない。人間はやはり、言葉を持たなければ、世界の中で生きていくことは出来ないのだ。その言語系的生存を、思想という何だかの言葉の束で、評価したり枠づけることは必要なことなのだ。ただ、そこに「私」を組み込んでしまってはならないのだ。思想に先行して、「私」が有るのである。これは「私」にとりわけ値うちがあるということとも違う。人類に先行して地球があり、生物が生きていたということと同義の、ただの物理的実在である。言語系より優先し「有る」ということは否定出来ぬ「事実」であろうということだ。その「有る」は、不滅の「有る」ではなく、死を迎えつつ「有る」である。「私」は、結局のところ、生き物として、死を受容せねばならない宿命にあるのだから。
 対して言語系を世界そのものとすることは、不死を願うことと同義だ。多くの宗教思想が、死後の世界や転生を主張したのもその為であるし、地上に永遠の楽園を築かんとする主義や思想も、根底には不死願望が組み込まれている。思想やその実体化したシステムが不死を主張する時、「私」の生命を生贄として要求する。主義やシステムにとって、生き物としての「私」の死も、排除の対象でしかない。「死を賭して主義に殉ずる」「生命より大切な我が愛すべき国家」「殉教」等という言語系で表現される。「死」の再定義である。思想/「私」から、「私」が消え、後に思想だけが残るのである。人は、思想を証明する存在に堕するのである。
 それ故に、如何に思想を「私」が持たぬか、あるいは思想を非私化するかという技術が要請されよう。それが無思想であるのだ。一つは、思想内の「私」の発見である。思想と「私」を切り離し、あたかもいつでも交換可能な道具を使用するように扱う事である。複数の相矛盾する体系を並存させ、相互にチェックさせたりするのも良いであろう。決して、「私」の外被とせぬように留意することである。もう一つは、「私」という、言語に矛盾した存在への深い洞察である。やはり究極は死の問題ということになるのか。こちらの方がより効果的であるやもしれない。最後の一つは、TVおやじ的解決である。日々快楽の内に生き、言語系に拘束されない生き方である。これも良い。ただ、自らの危機に臨んで、何がしかの思想に囚われる恐れはあるだろう。
 元々、思想なるものは、人間が言語系であるということの宿痾のようなものである。そう。絶対的無意味/根源的虚無に、人間は言葉を投げ込んでいるのだ。そこは、やがて我々が還っていく彼岸である。そしてそれら根源的虚無も実在していない言語の影にすぎない。したがって無思想はその身も蓋もない現実への静かな諦観であると言えようか。

[乱乱小屋入り口] [小屋入り口]

Anti-Copyright 98-02, AiN. All Resources Shared.