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カピバラでもわかるマックス・シュティルナーの「唯一者とその所有」

  最初に断っておきますが、ここでは「唯一者とその所有」からは必要最低限しか引用しません。なぜなら、ぼくのデタラメな話に惑わされて欲しくないからです。これを読んだ人が改めて「唯一者とその所有」を読んで自分自身で「唯一者」とは何かを考えて欲しいからです。ただし、「唯一者」以外のシュティルナーの論文は引用しています。それは現在では「唯一者」以外のシュティルナーの論文が手に入りにくいために、あえて引用させてもらいました。

シュティルナーを理解できないでいるカピバラについての前書き

 ワッハハハ、カピバラが「唯一者とその所有」を理解できるわけはありません! なぜならカピバラは人間の言葉をそれほど理解できると思えないからです。それにカピバラは言語的体系の産物である国家や宗教などには捕らわれていず、人間以外の動物は哲学も思想も必要ありません。ただ、ここでいうシュティルナーの「唯一者」の思想は言語の解体をも標的に入れたヴィッドゲンシュタイン(注1)やソシュール(注2)を除いては唯一人間が言語的な意味から解放される思想だとぼくには思えるのです。
 じゃー、ぼくがこの難解(注3)といわれるシュティルナーの「唯一者とその所有」を理解しているかといえば、はなはだ心許ないですが、一応、自分ではシュティルナー原理主義のシュティルネリアン(注4)と名乗っている以上、シュティルナーがぼくにとってなんらかの影響を与えたことは確かです。

 「虚無主義思想研究」(注5)の15号に大月健という人が「唯一者」の思想をこう述べています「唯一者の思想とは、それほどむずかしいものではない。『自分は自分である』と認識することからはじまる。個人は唯一無二の存在である。その唯一無二の個性は幽霊的な存在の宗教・国家・社会・人間等に抑圧されてはならないと、いうのがマックス・シュティルナーの主張である」
 この文章は的確にシュティルナーの思想をいい表していると思います、だがこれだけではいまいち理解できないと思うので少し補足しますと、「個人」という概念はあらゆるシステマテックなものから解放されなければ、自己のために生きることができないということではないでしょうか?
 もちろん国家主義者や民族主義者にとっては国家や民族のためなら自己の犠牲もいとわないという考えもまったく理解できないわけではありません。だが、その自己犠牲に成り立つ他の国家や他の民族のことはどうなるのでしょうか? 自国家や自民族さえよければいいという偏狭な思考は、それが思考だけにとどまっている場合はさほど問題ではないかもしれません。でもそれに何らかのアクションが加わればナチスの例をみなくても問題だという認識が生まれてくると思うのですが。
 またコミュニズムも同様に階級闘争の名のもとにプロレタリアート国家による独裁体制はファシズム型国家とさほど変わらないと思うのです。それをいうと動機が違うと言われそうですが、つまり善的な動機である「革命」と、たとえば悪的な「クーデター」によるスペイン内戦後のフランコ体制では確かに動機は違うかもしれませんが、ではその国家内における民衆の位置付けはどうなるのでしょうか? くだらない比較かもしれませんがスターリン体制のソビエトとヒトラー体制のドイツではどちらがいいのでしょうか? こういうとコミュニストはそれはスターリニズム(注6)が悪いのであって、共産主義自体は間違っていないのだと反論されそうですが、シュティルナーにとっては国家という類概念をいただく者はすべて「憑かれた者」であり、そのイデオロギーから拘束された者であると思うのです。

その一  シュティルナーはアナーキストだったか?

 なるほど、ウドコックの本などにはシュティルナーは「個人主義的アナーキスト」として分類されています、でもぼくは彼はアナーキストではないと考えています、なぜなら彼は自分でアナーキストとは名乗っていませんし、また、エドガーバウワー(注7)の「無政府主義」に対して、もっとも近い位置にいたことは確かですが、だが、エドガーの「もはや排他的な人々のいない自由な共同体」という概念にシュティルナーはこう反論します「唯一の実現可能な自由、つまり彼の自由に配慮していない」つまり自由主義同様、エドガーの無政府主義もまた「国民」という概念内のお話ではないか? ということでしょう。
 もちろんセックス・ピストルズ(注8)の「アナーキー・イン・ザ・UK」の「破壊して、交通を遮断してやる」という誤ったアナキズム観などとは正反対の位置にいます。もっともこの曲には一般的なアナーキストも困るでしょうが。(しかし、破壊するのが悪いとは思いませんが、俺はアナーキストというなら、もう少しアナキズムの勉強をしてもらいたです。それから再結成して金儲けをやめろよな!)
 むろん、シュティルナーも反国家(ちなみにシュティルナーは国家に対してこう言ってます「私の自己意志は、国家の破壊者である。…自己意志と国家とは敵対しあう権力同士であって、この両者の間に『永遠の平和』などありえない」)という視点などからはアナキズム的な面も読みとれますが、アナキズムというよりアナキズムも超越あるいは逸脱してしまった思想などではないでしょうか? 
 だからシュティルナーはアナーキストというよりニヒリストだったのでしょう。それも徹底したニヒリスティック・エゴイストです。

その二  シュティルナーのエゴイズム

 シュティルナーのエゴイズムとはどんなものだろうか? その前にモーゼス・ヘスとシュティルナーの論争がシュティルナーの「エゴイズム」を理解しやすいと思うので書いてみます。
 ヘスによるシュティルナーの批判は「シュティルナーによれば、これまでのエゴイストたちの全欠陥はかれらが自己のエゴイズムについてなんらの意識ももっていないことにこそ存する。さしあたって、エゴイズム一般とは何か? そしてエゴイスト的な生活と愛のある生活の違いはどこに存するのか? エゴイズムは、何によって愛とは区別されるのか? エゴイストというものが愛のない生活であり、労働のない享受であり、生産のない消費である。シュティルナーの理想は利己主義の市民社会である」さらに「シュティルナーはまじめになってエゴイスト的な交通の原初形態、あらゆる間接的な強盗殺人を復活できると思っているのだ!」かなり飛んでいますね! ちゃんと読めばシュティルナーのエゴイズムと通俗的なエゴイズムは区別できるとは思うのですが。
 ヘスの批判に対してシュティルナーは「シュティルナーにかんする報告の著者たち」という反論文を書きます。「ある人々の欲望が他の人々の欲望を犠牲にして満たされ、たとえばある人々の休息の欲望が他の人々が疲れきるまで働かざるをえない事実のおかげで充足されることができ、他の人々が貧困のうちに生活し、また餓死するがゆえに、安楽な生活を送ることができ、あるいはまた他の人々が赤貧の暮らしに甘んずるほど愚かであるために、放埒な生活ができる、等々の社会、このような社会をヘスは『エゴイスト的結社』とよび、さらに無邪気に、また許しがたいやり方で彼式の『エゴイスト結社』をシュティルナーの『エゴイスト結社』と同一視するのだ。」
 という具合に反論していますが、そもそもこの論争は噛み合っていず、ヘスはシュティルナー式エゴイズム(注9)が理解できていないので、この様な変な論争になってしまったのですが、それでもシュティルナーの考える「エゴイズム」は理解していただけたのではないでしょうか?
 さらにシュティルナーの「エゴイズム」に説明を加えるならヒュカネーに登場してもらいましょう。
「そこにこの恐ろしいシュティルナーが登場する。彼は叫ぶ。お前たちは偽善者だ。お前たちは利他主義者でなくて利己的な人間だ。自分では利己的でないと信じている自己欺瞞な人間だ。エゴイストたれ。小心者よ。お前の方便の秘密をかくさずありのままに告白せよ。われわれはすべてエゴイストだ。エゴイストたれ。自分の真理以上にいかなる真理もなく、自分の世界のほかにどんな世界もない。自分は自分だ。こうしてシュティルナーは神、国家、社会、家族、道徳、人類を洗いざらい流れ去り、ただ、『憎むべき』自我をのみ後にのこす。そのコスモスは冷やかで残忍であり、昔ながらの母なる大地ははやその胸を憩いの場所に捧げはしない。シュティルナーはこうコスモスに命令する。われわれはモハメットの棺桶のように大空と大地の間にぶら下がり、錬金術式に自我を封じこまれている。『自我の琴線をかきならす』代わりに、その琴線をふたたびオーケストラに合わせて一層豊かな楽音を生みださねばならない(しばしば低級な利己に導かれがちな高級エゴイスト)」
 最後にシュティルナー自身にエゴイズムを語ってもらいましょう。「私の事柄を、無の上に、私はすえた」

その三   「唯一者」対「唯一者」あるいは「エゴイストの連合」

 はー、正直に言いますとこの「唯一者」対「唯一者」あるいは「エゴイストの連合」はよく理解できていません。それはシュティルナーのパラドックス的な文章にも原因はありますが、それとは別に「唯一者」対「唯一者」の関係に、ぼくが疑念を抱いているからに他ありません。
 まあ、そうはいってもこのお話からは逃げるわけにはいかないので、「唯一者」対「唯一者」の関係から話していきましょう。
 まずシュティルナーはこう言います「最後の最も断固たる対立、唯一者対唯一者のそれは、根本において対立と呼ばれるものを超越している。しかもそれは『一致』や統一に逆戻りすることはない。君は唯一者として、もはや他人となんら共通のものを、従ってまたなんら分離するものを持たない。君は他人に対して第三者の前に権利を求めない。君は彼と共に『権利の根底』にもまたその他の共同の基盤の上にも立たない。対立は、完全な-分離もしくは独一のうちに消え込む。これは、あるいは新しい共通もしくは新しい平等とみなされるかもしれない。けれどもここでは、その平等は不平等において成り立っている。そしてすでにそれ自身が不平等以外の何物でもない。平等の不平等である。しかもただ『比較』を設ける人に対してのみ」
 (すみません、シュティルナーの「唯一者」からは、なるべく引用しないように心掛けたつもりですが、ぼく自身、理解出来ていないので、多めに引用させてもらいます。)
 と、このようにシュティルナーは述べているのですが、あまりに観念的でわかりずらいと思います。ほんとうに対立は消え込んでいくのでしょうか? なるほど権利の否定や共同の基盤に立たないなどの指針は示されていますが、その概念だけでぼくらはほんとうに唯一者の対立から逃れられるのでしょうか? うーん、ぼくにはわかりません。まあ、これではシュティルナー原理主義ではなくなるので、シュティルナーを擁護しなくてはいけないのですが、理解できないものは理解できません。
 なので、この稿はシュティルナーの引用だけで読者の判断にませます。
 それとシュティルナーは「エゴイズムの連合」についてこう言います「国家と連合との間の差異はきわめて大である。前者は自己所有の的であり、殺戮者である。後者は自己所有の息子であり、共働者である。前者は精神を傾け真実をこめて崇拝されることを求める精神であり、後者は僕の作物であり、所産である」
 これは理解できます、あるゆるシステマテック(国家や社会など)なものからの解放であり、エゴイストの連合がそのシステマテックなものと違って、ぼくらがぼくらの「所有」であることを宣言しているのです。つまり、「エゴイストの連合」によってぼくらは国家などの所有物ではなく、ぼくらが「自由」(注9)に自分の意志であるゆることを自己決定できることを言っているのだと思います。

その四   唯一者の「所有」

 「所有」とは何でしょうか?  
 プルードンは言います、「財産とは盗みである」と、うーん、このテーゼを読んだのは10代の時でした。なるほど財産は盗みなのかと? 何でも信じやすいぼくは大変困りました。その頃所有していた、ぼくの持ち物はどうしたらいいのかと。
 たしかにプルードンのいうことは一理あります。土地は誰のものでしょうか? もちろん親から譲り受けたのだから私の物です、とか私がローンで買ったのだから私の物です、という論理は間違いでないと思います。では、何で「盗み」なのか? プルードンはこう反論します、「労働も法律も所有を創出しえず、所有は原因のない結果である」と、さらにこうも言います「自己の署名で印をつけた物について先取り不労所得の権利」であると述べています、それを国家が権威づけていると、なるほどよくわかります。それでぼくに土地がないのが、よく理解できました。先に取られていたのですね! たしかスペイン戦争の時のアナーキスト、ドルティも「どうして俺の土地がないのだ!」と言っていたように思います。
 ですが、ここでの主人公シュティルナーはこう反論しています「およそ『所有』という概念を認める時以外に、はたして『盗み』という概念は可能であろうか?そもそも所有がなければ、誰が盗むことができようか?」
 シュティルナーはプルードンをさらに超越し、「所有」自体を否定します。
 ではありますが、ここでは詳しく述べませんが、それはソビエトが行った社会主義という国家管理の「所有」否定とは違います。あくまでぼくらが「エゴイストの連合」を勝ち取った後のお話です。
 だから安易な私有財産の否定とは思わないでください。
 それとシュティルナーにとっては、もう一つ「所有」についての意見があります。それは「力」です。断るべきもなく、それはニーチェ(注10)がいう「超人」のような「力」ではありません。シュティルナーは「力」についてこう言います、「僕の力は僕の所有である。僕の力は僕に所有を与える。僕の力は僕自身である。そしてそれによって僕は僕の所有となるのである。」

その五   シュティルナーとは何か?

 ほんとにシュティルナーというオヤジはなんなんでしょうね?
 彼の不遇な人生が彼にとって極端なニヒリズムあるいはエゴイズムを生み出させたのでしょうか?
 まさにヘーゲル左派が生んだ「狂気」なのかもしれません。その「狂気」についておもしろい資料があります。エルンスト・シュルツェが書いた「パラノイア性妄想大系のシュティルナー的思考」という論文です。エルンストはこう言います「もしその著が精神医学上の宣告をのがれ得ているとするなら、それはただこの著者が自分自身の要求する際限ないエゴイスティックな無責任性というものを他者にも拡げようとしていたからである」ワッハハハハハ、シュティルナーはここでは完璧なパラノイア患者にされています。なるほど彼の母親は精神病院で亡くなっていますし、彼も何らかの遺伝的要素で精神病に犯されていたのかもしれません。ですが、それがいったいどうしたというのでしょう? それだからシュティルナーの言っていることが間違いなのでしょうか? 笑わせないでください! 彼の極端なニヒリズムあるいはエゴイズムが理解出来ないからといってシュティルナーが間違っているのではなく、リアルな国家や社会というシステムを必要悪として認めているぼくらが間違っているだけではありませんか? シュティルナーは真理という言葉を認めていませんでしたが、もし真理があるなら自分自身の中でしかないと言いました。その普遍化できない真理をあたかも真実と思わせている国家や社会の方が精神を病んでいるのであって、シュティルナーの「唯一者」を間違っていないと思う、ぼくもまたパラノイア的精神病者なのでしょうか?

終わりに、カピバラはシュティルナー的思考の中に生きているか?

 さあー、カピバラにお話を聞いたわけではありませんので、よくわかりません! ですが、非言語的体系の中で生活している、カピバラはエゴイストとして生活できるのではないでしょうか? つまりカピバラにはシュティルナーの「唯一者」を必要としていないと思うんのですが、どうでしょう? 一切のシステムから解放され自己の生活を自我の中に還元できるカピバラはシュティルナー的言語は理解できないかも知れませんが、カピバラは自然のシュティルネリアンかもしれません。

 いろいろと書きましたが、最初に断ったように、ぼくのこのシュティルナー論のようなものはまったくのデタラメなので、どうか信じないでください。この駄文に関心をもたれた方は自分自身で「唯一者とその所有」を読んで自分自身でシュティルナーのニヒリズムあるいはエゴイズムを検証してください。

おわり

(注1) ヴィッツドゲンシュタインは「言語の意味は、いかなる現実の文の脈絡で、いかなる目的で、実際に使われるかということであり、ある言語を理解するとことは、これを日常的に使用することであり、哲学の役目はここにある」と言っています。

(注2) ソシュールによると言語は「意味を表現」するものと「表現される意味」とがあるそうです。意味表現は記号に置き換えることも可能とのこと。

(注3) シュティルナーの「唯一者とその所有」はアンドレ・ジードが「五百ページを通じて切れ目もなく、混乱もなく、突然の思いつきもなく、醜怪な、反復に満ちた、ぎっちり詰まっていて、しかも空虚な…」と評しています。辻潤も「難解な」という言葉を使っていました。

(注4) 「シュタイナーとシュティルナーの変な関係」の(注3)を参照してください。

(注5) 「虚無主義思想研究」という雑誌はおもに辻潤のことが取り上げられています。関心のある方はこのHPに言ってもられば連絡先をお教えします。

(注6) もちろんあの怖いスターリンですが、共産主義の恐さは権力者を人民が選択できないことにあると思うのですが…

(注7) ヘーゲル左派のブルーノ・バウアーの弟、シュティルナーを除いてもっともアナキズムに近いラディカルな主張をした。

(注8) パンクバンドですが、アナキズム理論はわかっていなかったようです。19世紀のイギリスで起こるフーリガンは1960年代のモッズに受け継がれ70年にはパンクムーブメントを形成するにいたる。90年代に再結成をして顰蹙をかう。

(注9) シュティルナーは<自由>という概念を認めていませんでした、それは<自由>を突き詰めると「自己否定」におちいるからです。「自由の一片は自由というものではない」と言っています。
 また、エンゲルスはヘスと同様にシュティルナーのエゴイズムをベンサムの功利主義を極端にしたものと考えたようです。

(注10) ニーチェもまたニヒリストですが、簡単に言ってしまうとニーチェの思想は権力者に使いやすい思想だとぼくは思います。それに対しシュティルナーの思想は権力者には使えない思想だと思うのですが。

参考文献
「唯一者とその所有」マックス・シュティルナー 片岡啓治訳 現代思潮社
「嘲笑するエゴイスト」住吉雅美 風行社
「個人主義」大沢正道 青土社
「現代思想」1973-4 ニヒリズム 1974-4 アナキズム
「虚無思想研究」5号 15号
 などを参考にこの駄文を書かせていただきました。また、アナーキーのT氏とN氏にはシュティルナーに関していろいろ示唆にとんだ意見をありがとうございました。動物生態にはS子さんの意見を参考にさせていただきました。Mさんには「シュタイナーとシュティルナーの変な関係」での疑問に答えるかたちで書いたつもりです。この4人の方に感謝します。

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