メンバーの小屋

森川小屋

2002年パリ〜バルセロナCNT巡り

2月2日(土)

11時に成田到着。やはり、9月11日のせいか、旅行客は非常に少ない。カウンターでチケットをもらっているとき、記念品をもらった。丁度、今日僕が乗る飛行機は新しいエアバスで、しかも初めてのフライトだということだ。記念品は得したかな、と思ったが飛行機に乗る前に記念品をもらったところで、邪魔にしかならないから、見送りに来ていた相棒に渡して持って帰ってもらった。カウンターでは、ご丁寧に、その後のセレモニーにも参加するように招待されたが、別段関心がないので飯を食った。飯を食う前にユーロに換金。ユーロの札はちゃちい。

それにしても、僕が乗る飛行機が初めてのフライトだとは、なんだかいやな気分だ。落ちてもおかしくないからね。搭乗してみると、エコノミーにも関わらず、個々の座席にテレビがついている。新しい機材って、テレビのこと?画面がタッチ画面になっていて、映画・音楽・機外の映像・ゲームなどを選択して見れるようになっている。最初は面白そうだとおもって、さわっていたが、離陸時の映像を見ていたら、なんだかいやな気分になってきたので、音楽だけ設定して画面を消した。人間の進歩は、電気に依存することなのかね。機内の案内や緊急時の説明が画面でされる。機外の状況も画面で見れる。画面が嘘をついていたらどうなるんだろ?スチュワーデスの仕事が少なくなって人件費の削減ができるのかな?去年のスペイン行きで乗った小さな飛行機だとスチュワーデスと客が和気藹々と話をしていたが、そんな光景はもう見れなくなるのだろう。人間同士の話し合いよりも、画面を見なさい。自然の動きを見るよりも画面を見なさい。人間同士が話し合うとろくなことが起こらないからね、って言われているみたいだ。

機内食をベジタリアンにするのをすっかり忘れていたため、チキンを食べた。そばを除けばまずまずの味だった。しばらくしてからサンドイッチが出た。コペンハーゲン到着前に出された食事は、ほとんど寝ていないせいもあって、また、ニンニク臭いのがつらくて、ほとんど手をつけなかった。なんだか食事の量が普通よりも多い気がする。

しかし、眠れなかった。座席にテレビをつけるぐらいなら、座席の幅をもっと広く取ってほしいなぁ。結局、眠れないので、翻訳に疲れたら、ウッディ=アレンが出ている映画を見て、チェスのゲームをやって、飛行機から下を眺めた映像を見て、と何だかんだ思いながらもテレビをつけてしまった。元から絶たねばだめだね。

スチュワーデスの反応も悪い。ランプをつけて呼んでいるのに全く来やしない。どういうこと?

着陸の時に、高度の下げ方が余りにも急だったので、いよいよかと思ったが、無事到着した。

4時過ぎにコペンハーゲン到着、次のフライトまで三時間ほど待つ。眠くてしょうがないので、エスプレッソで目を覚まそうとしたら、「お釣りはデンマークのお金でね。」と言われ、デンマークのお金をもらってしまった。10ユーロで、50クローネが返ってきたけれど、それが正しいのか正しくないのかはよくわからん。とりあえず、50クローネを使ってしまおうと思って本を見たら、みんな100いくらだの、200いくらだのする。しょうがないから、煙草を買って札を崩した。

三時間本を読みながら時間をつぶし、パリ行きに乗った。もう外は暗い。夜の7時だもんなぁ。機内はガラガラで、僕の隣には誰もいない。座席にテレビはもちろんない。救命胴衣の付け方はスチュワーデスがやっている。機内食は丁度良かった。味はそこそこだが、量もそれほど多くなく、腹ぺこだけれどもそれほど満腹になりたいわけではなかった僕にはぴったりだった。また、添乗員の対応も非常によい。米国に行くときも思うのだが、日本から外国に行ったり、外国から日本に帰ってきたりするときの便よりも、米国内や欧州内を飛んでいる便の方が全ての面でレベルが高い気がする。疲れていたせいか、一時間ほど眠ってしまった。目が覚めたら、着陸態勢直前だった。

ついに、ドゴール空港に着いた。夜の9時過ぎだ。ドゴール空港は不思議な感じだ。昔の近未来小説の建物の中を歩いているみたいに、真っ白な壁のドームの中を動く床に乗って移動する。着陸前に入国の書類をもらったが、どこにも入国審査の場所はなかった。そういえばコペンハーゲンで入国審査をしたから、EC内部は自由に動けるのだろう。

飛行機に乗っているときから、タクシーでホテルまで向かうか、電車とメトロで向かうかを迷っていたが、金も使いたくないし、面白そうだから電車にすることにした。乗り場に向かうバスは以外と簡単に見つけられた。多分これでいいはずだと思いながらも、実際についてみるまでは非常に不安だ。僕はよくこのやり方をして道に迷ってしまうものだから。だが、今回は何の問題もなく、駅に着いた。駅でも英語と地図を示して切符を買った。ドゴール空港からRERに乗ってGare du Nordまで行き、メトロに乗り換える。メトロでもう一度乗り換えをすると、目的地に着く算段だ。

ドゴール空港のRERの駅は薄汚い。やたら怪しそうな印象がある。乗ってくる客も少々やばそうな感じ。無精ひげをはやし、薄汚れたコートを着ている僕も多分その中に同化しているのかもしれないなと思いながら、乗っていると、途中で警察の一群が車両を端から端まで見回っていた。かなりやばいのか?しばらくして、近くにいた年輩の男性に話しかけられる。多分、「この電車はパリ市内に行くのか?」と聞いたのだと思うが、僕は「フランス語は話せません」と英語で言うと、その人も英語が分からないらしく「キャント スピーク?」などと言い、怪訝そうな顔をして他の人に聴きに行ってしまった。

メトロに乗るときも、どれに乗ればいいのかさっぱり分からないので、改札のところにいた犬連れの警官に道を尋ねる。二人いたが一人は英語を分かったようで、行き方を教えてくれた。ここまで僕が使ったフランス語は「メルシ」だけ。スペインと違って、英語が分かる人が多いみたいだ。

ホテルを探すのにちょっと一苦労した。探している間に、またしても道を尋ねられてしまったが、フランス語は話せません、と英語で言うと、ああそう、と言って去っていった。

やれやれやっとでホテルに到着10時を過ぎている。ホテルは非常にこじんまりとしていて、ユースホステルを改造したみたいな感じがする。エレベータも一人しか乗るスペースがない。部屋の間取りも小さく、おまけにテレビもうまいことつかない。おいおい、大丈夫かよ、と思いながら、さてモバイルギアの充電をと思った瞬間に、コンセントの形が違うことに気がついた。がーん、明日アダプタを買ってこよう。

パリで落ち合うことになっていたCNTヴィニョールのMさんから電話があった。明日、待ち合わせをして午後に事務所で話が聞けるようセッティングしてくれていた。今から飲みに行かないかと誘われたが、さすがに断った。

時差のせいかよく眠れない。シャワーも浴びずに11時に眠ってしまったが、二時間寝ては起きる、を繰り返していた。

それにしても、下馬評と違って、パリは暖かい。Tシャツにジージャンにコートで充分だった。セーターなんかいらなかったな。

2月3日(日)

朝、五時に起床。もう一度眠れるかと思ったが無理だったため、荷物の整理と昨日の服の洗濯に取りかかる。シャワーがおかしかった。まず、お湯と水の出るコックをひねっても水は出てこない。シャワーの柄を握りしめないと出てこない仕組みになっている。シャワーが出たと思ったら、シャワーの口から出てくる水は、垂直に落ちてくるだけでなく、水平にも飛ぶようになっている。うまく説明できないが、水平方向にも水が飛び散るため、トイレ内部が水浸しになってしまうわけだ。シャワーカーテンの意味を疑ってしまった。

朝食はパンとコーヒーがホテルで出た。コーヒーがめちゃくちゃ濃い。フロントで近くに電気屋があるかどうかコンセントを持って聴きに行ったところ、アダプターがあるというので貸してもらった。何とか、記録はつけ続けられそうだ。

アダプターを取り付けてから、散歩に出かけた。republique広場は、旗を持った女性の像の周りにフランス革命〜パリコミューンまでの図が彫られていて、感慨深い。パリは民衆革命の街なんだなとつくづく思った。メトロの駅の名前にルイズ=ミシェルがあったり、今日の新聞の一面にも昨日病院関係の労働者が警官とやりあったようなことが書いてあった。のどが渇いていたので、帰りがけに近くの食品店でリンゴと水を買った。

ホテルに戻って、Mさんと逢い、昼食を食べながら、ワインを飲む。Mさんは、日本にいたこともあり、この間までは南米にいて、チアパスなども見てきたそうだ。歩いて市内の中心部に行き、スクウォットをしているビルを見て、軽く市内見物。とりあえず、セーヌ川も横断したし、エッフェル塔も遠くから眺めたんで観光終わり。時間が迫ってきたので、もう一つのフランスの伝統、CNTを訪問しに行った。

CNTヴィニョールの事務所。最初はなかなか事務所が見あたらず、近所をうろうろした。余り雰囲気のいい場所ではない。やっと見つけたと思ったら、建物には鍵がかかっており、誰もいない。忙しいのだろうとのことで、しばらく待つことにした。マドリーのCNTとは雰囲気がだいぶ違う。

しばらくして、インターナショナル=セクレタリーのFabrisさんが到着。寝過ごしてしまってね、と本人は言っていたが、やはり忙しいようだ。自身も教師で、本人は95年のゼネストの時にCNTのメンバーになり、現在、教師のストライキを行っている最中だとのことだった。明日(月曜日)もストライキだから、その準備をするそうだ。疲れた顔をしている。「アナキズム」誌を渡したが、さほど関心がありそうな様子ではない。

話をはじめて、最初からショックを受けてしまった。まず最初に、何か聴きたいことがありますか?と言われ、実は何を聴こうか体系的に考えていなかったことに気づいてしまったからだ。去年のスペインの時同様に、何となく、建物や中の様子を見るつもりで行ってしまった自分が恥ずかしかった。相手は、教師の仕事をしながら、残りの時間で職場でのストライキも組織し、CNTのインターナショナル=セクレタリーもしている。そんな僅かな時間をさいて何の特にもならない、日本という訳の分からない国からやってきた人間の相手をしてくれるのだ、こちらもそれ相応の準備をしていなければならないはずだろう。

緊張しながら、なんとかかんとか思いつくことを聞いてみた。だから、質問の内容に連続性があまりなく、自分でもかなり緊張していたから、答えの内容もうろ覚えのようになってしまっている部分もある。もちろん、こちらの英語の問題と、相手の英語の問題もある。ただ、今、これを書いている段階で、思い出せることを書いておく。

日本の現状について話をして、こちらで人数が拡大したときの鍵となる要因について聴いた。非常に漠然とした質問で、向こうも困っていた。それはそうだろう。もっと統計的な何人メンバーがいるのかとかを聞けば良かったと後で後悔した。まぁ、後悔だけしてもいられないので、メンバーの数はちゃんと聞いておいたけれども。フランス全体で5000人ほどいると言われているが、実数をちゃんと確認したわけではないけれども、4000人は確実にいるだろう、とのことだった。

80年代には数少なかったCNTメンバーがこれほどまでに増大した理由としては、官僚主義的な人がおらず、組合員としてお金を払って後は待っているというだけの人がいないこと、全員が参画するような組織にしていること、ストライキが楽しいことを示したこと、などを挙げていた。活動する上では共産党系のグループなどと共闘することもあるとのこと。現在の学校でのストライキには、パリに三つあるCNTの内で最も規模の小さいグループのメンバーも参加しているそうだ。

デモに対する人々の反応は、ケースバイケースだそうだ。地域に密着した問題の時には、ちゃんと反応してくれるそうだが、そうでない場合はそれほど関心を示してくれないとのこと。今回のアフガニスタンの件も、フランス自体が積極的に戦争に参加しているわけではないから、それほど良い反応が返ってきたわけではない。もし、シラクが積極的な参戦の意向を示していたりすれば、反応は異なるだろう、とのことだった。

CNTヴィニョールは、マクドナルドの労働者組合も持っているそうだ。マクドナルドは労働組合のおかげで、数店舗つぶれたとのこと。その中の戦闘的な人と組合の考えとが合わないこともあったとか。

日本ではどのような活動が行われているのかを聞かれて、話をしているときに、サッカーのワールドカップに反対する議論はないのか、と言われた。ワールドカップは国粋主義をあおり立てることにもなる。また、様々な口実をつけて警察の強化を行い、当初は一時的と言っていても、それを普通の状態にしてしまう可能性が高い。フランスでワールドカップがあったときには、反対運動を行ったが、人々はそれほど良い反応を返してくれなかったそうだ。

日本では理論的な面が先行していて、アクティビズムが遅れているのが問題ではないか、と連れてきてくれたMさんには言われた。

非常にフォーマルな話し合いだったので非常にどぎまぎしてしまった。きちんと組織だって活動しているという印象を受ける一方で、人数の多い組織だから仕方がないのかも知れないが、何というかちょっと官僚的な印象を受けた。日曜日に訪ねていったのも問題なのかも知れない。

Mさんと一緒に夕食を取る。Mさんも疲れたみたいで、申し訳なく思った。フランスではこれが典型的だというので、サンドウィッチを食べに行った。たまたま入った店は美味しくなかったし、店主か何か知らないが、ビールを飲みながら、僕のことを見て「ジャボネ、ジャボネ」と言いまくっていたので、少々不愉快になった。

夜、10時過ぎにのんきちさん到着。僕は疲れていたのと、ミーティングで少々恥じ入っていたのとを引きずって、どちらかと言えば落ち込んでいたのだが、のんきちさんも結構落ち込みながらホテルにやってきていた。ちょっとお互いの落ち込み具合を確認して、部屋に行く。コペンハーゲンではローミングを試したが、失敗したそうだ。ホテルの電話でもカプラー通信を試すがうまく行かなかった。朝、8時に朝食を約束をして、寝た。

2月4日(月)

朝、のんきちさんの電話で起きる。朝食を取ってから、部屋でひとしきりアナ談義。やはり、ホテルの電話ではやはりうまくローミングができなかったようだ。インターネット=カフェを探しに近くをぶらつく。ホテルで場所を聞いたものの、道の名前が覚えられず、よく分からなくなってしまう。バーに入って、道を教えてもらったら、出がけに近くにいた客が郵便局でも只でパソコンを使ってインターネットに接続できるよ、と教えてくれた。郵便局の話は初耳だった(だが、最終日に郵便局を訪れたものの、パソコンすらなかった)。サイバーカフェは見つかったがしまっていたのでホテルに戻る。戻りがてらカフェによってエスプレッソを一杯。ホテルに戻り、Mさんと合流。一緒に昼食取る。お昼を食べながら、のんきちさんがチアパスの話などいろいろ質問をしていた。パリで個人主義アナキストの人と話をしたことがある、とMさんは言っていたが、仲が良いわけではなさそうだった。また、CNTでは給料の1%を組合費として納め、仕事をしていない人は安い額(いくらかは忘れた)のお金を納めることになっているとのことだった。僕は階級というものに少々疑問があったので、フランスにブルジョアジーはまだいるのか、と聞いた。いる、という。それならば、今の定義はどうなのだろうか、と思って、定義を聞いてみた。ブルジョアジーは莫大な財産を世襲している人たち、プチブルジョアジーはパリなどにお店を持って自分で経営している人たち、というのがMさんの見解だった。日本は、ブルジョアジーよりも成金が多いね、と言っていた。

その後、アナキスト系本屋 publico に行った。非常に充実している。フランスの雑誌はもちろん、英国アナ連の雑誌もあり、CDもあれば、シュチルナー・TAZ・ブクチンなどの翻訳もあった。思わず、40ユーロという大金を使ってしまった。ここでも「アナキズム」誌を配っておいた。日本に二十年ぐらい住んでいたアナキストがパリにいて、その人ならば興味を持ってくれるだろう、と言われた。Mさんは友人と待ち合わせがあるため、3時半に別れ、再びインターネットカフェへ行った。カフェではキーボードがフランス語配列になっているため、非常に打ちにくく、また、30分の予定で入ったのだが、30分間サーフィンしていたら、自動的に接続が切れてしまったため、noizさんのページに書いていたものが載せられなかった。メールをチェックしていると、CNT-AITから連絡があり、水曜日の夜にミーティングがあるからそれに出ないか、とのこと。昨日のこともあるし悩んだが出ることにした。

コンピュータの画面を見ていたら、のんきちさんの具合が悪くなり、ホテルに戻って、今晩のCNTミーティングまで少し休むことにした。部屋に入ってしばらくすると、水がぽたぽた落ちている音がする。シャワーのところで、上から水が落ちてきていたのだった。応急処置をして、フロントに連絡した。

出かける時間になったが、のんきちさんの具合が余り良くない。多分、ミーティングには出れないだろうとのこと。残念だが止めることにした。ただ、Mさんとは7時45分にCNTで待ち合わせているので、そこまで行って、のんきちさんに事務所を見てもらって、帰ることにした。

ご飯を食べて、メトロに乗った時点で、これは遅刻するかも知れない、と思った。さらに悪いことに、メトロの方向を間違え、そして、出口を間違ったため、30分ほど遅れてCNT事務所に到着する羽目になった。

CNTの事務所に向かうときに、Mさんが向こうからやってきた。申し訳ない。ごめんなさいと言いながら、事務所に向かう。のんきちさんの体調のため、今日はミーティングには出れないと話をした。事務所に行くと人が集まっている。Mさんもパリ出身ではないので、少々戸惑い気味なようだったが、事務所の人に話しかけてくれた。幸運なことに、明日、マニフがあるとのこと。それに参加することにして、事務所を後にした。Mさんどうもありがとう。Mさんは人と会う約束があったのだが、メトロで僕らと話をしていたら乗り換えの駅を乗り過ごしてしまい、顔がこわばっていた。Mさんにはとてもよくしてもらったので、なんだか申し訳なかった。

のんきちさんと、相変わらずの社会的アナと個人的アナの議論をしながらホテルに向かっていると、道に迷ってしまった。ホテル近くのカフェで酒を飲む。なんだかのんきさんは調子が良くなってきたみたいだ。

のんきちさんは、なんだかよく分からないが、少々落ち込みモードみたいだ。僕も昨日の件もあって、海外に行ってアナキスト組織を見ることの意味を悩んでしまったので、余りいい状態ではない。アナキズムの話よりも個人的な考え方や他人との関係の取り方の問題の方に話が集中した。のんきちさんは、僕が他人との関係を何の躊躇もなく断絶できることに驚いていた。僕はそんなもんじゃないかな、と思っていたが、のんきちさんは非常に不思議がっていた。

2月5日(火)

7:30に起床。洗濯してシャワーを浴びる。

11:00にMさんとバスチーユで待ち合わせ。Mさんは午後2時にパリを出るそうだ。

11:45、デモに参加。ホテルはかなり大きい。「La Fayett」というホテルで、デモの理由はいくつかあった。そこの清掃従業員が清掃業者との契約変更について不服だったためサインをしなかったら、三ヶ月間給料を支払われていない・裁判でホテルのマネジャーが負けたにも関わらずまだ賠償金を払っていない、などなど。どうも、週35時間制は良いことばかりではないみたいだ。40時間が35時間になっても仕事の量そのものは変わっていないようだ。僕は興奮していたのと裁判のことなど余り僕が耳にしない単語があったため、Mさんの話をよく聞き取れないことがしばしばあった。

ホテルの外でデモを行うのかと思ったら、外には数名しかおらず、ホテルの中にCNTの横断幕が。従業員やCNTのメンバー、さらにはCGTもいた。ホテルの二階からはマネージャーがロビーの一群をしかつめらしい顔をして見ている。面白かったのが周りの客の反応だった。何事かとこちらを見ながらもカフェを飲んだりしているが、どう思っているんだろう。CNTのメンバーが演説をし、皆が「うぉー」とかなんとか声を出し、拍手している。ホテルの清掃従業員やメイドさんなどはアフリカ系が圧倒的に多い。

演説が終わってしばらくするとデモが動き出した。ホテルロビーからエレベータのところをまわり、またホテルロビーに戻ってきた。エレベータから人が降りてきたがお構いなし。ホテル内の部屋で働いている人たちに、「Solidarite!」とガラス越しに声をかけたりしていた。

12:00近くになって、玄関前にCNTとCGT共同の、ランチを売るバンが登場。外に出ればサンドイッチとか飲み物を買えるようだ。デモはロビーで止まったままで労働者からの演説が始まっている。Mさんは帰りの準備があるとのことでメトロに向かった。お世話になりました。その後もデモの中に入ってみたが、動きがない。ホテルのマネージャーらしき人がデモのリーダーに話しかけていたが、僕らは何の話をしているのかさっぱり分からなかった。メトロでパリの中心街に行くことにした。

中心街では、昨日僕が見たスクウォットを見に行った。その途中で、またもや道に迷い、ついでにネットカフェを使う。スクウォットは、今日は玄関が開いていて、只で展覧会をやっているようだったから、中に入ってみる。どうも芸術家のスクウォットみたいだ。のんきちさんはあまり興味がなさそうで、作品もそれほど面白くなかったので、すぐに出た。旅行代理店でバルセロナのホテルと列車を一緒にブッキングしようとしたが、ユーロパスは使えないと言われ、諦めた。歩いてホテルまで向かう間に何度か道に迷い、カフェに入りビールを飲み、インターネットカフェに入り、やっとこさホテルへ到着。

5時にのんきちさんはシエスタ。僕はお土産を買いに近くをショッピング。帰りにスーパーでビールを買い、部屋で一人で飲む。こちらに来てから、昼にワイン、夜にビールとワイン、とずーっと飲んでいる気がする。

7時過ぎに晩飯。さっき、ビールとポテトチップを食べたから、それほどいっぱい食べなくてもいい、と思っていたが、昨日Mさんと一緒に行った店に入ったら、やたら食べてしまい、さらに、ワインをボトルで頼んだので、非常にうまかったが、かなりお金を使ってしまった。デモの後以来、僕らは、共産党と共闘することは絶対にできないだろう、CNTの運動の基盤はいったいどこにあるのか、といった話をずっとしていた。

2月6日(水)

7:30起床。洗濯をしてシャワーを浴びる。

バルセロナでのホテルの予約をしようと昨日同様旅行代理店に行ったが、ミニマム100ユーロだとのことなので、代理店での予約はあきらめ、インターネットカフェで探すことにした。だが、予約は今日の明日では無理なようだ。のんきちさんのカード会社に電話すると、日本の旅行代理店がパリにあるとのことなので、そこまで行くことにしたが、その前に、バルセロナ行きの切符を買いにGare du Nordまで行く。

切符を手に入れ、駅近くで中華の昼食を取り、旅行代理店に電話をし、住所を確認する。が、これまた道に迷う。迷ってばっかりだ。疲れ果てて代理店で話をすると、代理店が扱っているホテルは100ユーロ以上は絶対にする、と言われた。がーん、疲れた思いで半日つぶしたのに、結局、バルセロナで探さねばならなくなった。

その後、publicoに行った。ネット上で黒パンさんがフランスアナ連(FA)はpublicoの奥にあると言っていたので、そのことを聞いてみた。だが、残念ながらFAは事務所を持っていないとのこと。FAの活動は本屋・出版・ラジオ放送が主だとのことだった。メンバーはそれぞれ様々な組合など他の組織で活動を行っているそうだ。個人主義的アナキストの話も聞いてみたが、残念ながらどこにいるのかは分からなかった。しょうがないので、ホテルに戻ってシエスタ。

夜にCNT−AITの人たちと飲みまくる。メールで指定されたクリスタルというバーに行ったが、これまた遅刻してしまった。早めにホテルを出て、食事をした(ちなみに高めのレストランに入ってしまったため、食事はおいしかったものの、結構な額を取られてしまった)のだが、その後に、また、道が分からなくなってしまったのだった。どうも、僕が道を一本行き過ぎてしまったらしい。到着すると、すぐに若い男の人がこちらに手を振ってくれた。ミーティングは始まっており、みんなワインを飲んだり食事をしたりしながらやっていた。8人程度だろうか。

女性のメンバーが英国に住んでいたことがあるとのことで、流暢に英語を話すことができたおかげで、色々話を聞くことができた。向こうから話しかけてきたので、こちらも話しやすかった。現在のCNTが三つに分かれてしまった理由には、いろいろ不明瞭な点があって、一概にこうだとは言えないとのこと。また、FAについては、その活動が非常に不明瞭で、フリーメーソンとの関わりもあるかも知れないという噂があるそうだ。現在、CNT-AITは、パリには十数人程度、フランス全体でも500人程度だそうだ。ヴィニョールとの関係は、前ほどは悪くないとのことで、ちょっとほっとした。パリでは、デモなどに行っても、向こうの方が数が多く、赤黒旗やCNTの旗などもヴィニョールが大々的に掲げているので、AITにとってはやりにくいみたいだった。パリは家賃が高く、自分たちはパリに事務所は持っていない、と言っていた。かつてはフランス=アナキストが活躍していた場所でCGTなどが事務所を持って、ルイズ=ミッシェルなどの写真を掲げている、と少し悔しそう。

このミーティングは、毎週水曜日に行われているそうで、自分たちの職場や活動の状況について話をしているようだった。僕たちが到着したときの話題は、先週土曜日に行われた病院での看護婦のストライキについてだった。話をしていたのが、そこの看護婦さんだった。フランスは週35時間労働だが、看護婦や清掃員などは、時間は短縮されたものの仕事量は変わらず、かえって大変な思いをしているようだ。このストライキとは関係ないが、驚いたことに、メンバーの中には精神科医もいた。

のんきちさんが選挙について是非聞いてくれ、というので、選挙は参加しますか?、と聞くと、即座に、ノーとはっきり言われた。やっぱり、そうだよねぇ、と二人で納得した。

CGTとCNTが合同してデモをしていることについて聞いてみた。CGTは一概に共産党主導の労働組合だとは言えないそうだ。その中にはアナルコサンジカリストもいるし、アナキストもいるし、もちろん共産党支持の人もいる。地方のCGT支部では、アナキストよりも過激なCGTメンバーがいて、ストライキをした際に、自分たちの工場を爆破するような人までいるそうだ。CNTヴィニョールも、アナキストを名乗る人・そういうのには関係しない人・自分はアナキストではないと明言する人までいるそうだ。やはり、CNTヴィニョールは労働組合なんだなぁ、と再確認した。三派の関係については、ヴィニョールが組合主義、もう一つの最小規模グループが理論派、AITはその中間だということだった。

ジェノアなどの国際的反資本主義闘争に参加したのか、と聞いたところ、参加していない、とのことだった。その理由は、パリでの活動の方を重視しているし、他の地域に行った場合には、自分たちのイニシアティブを行使できないからだそうだ。自分たちのイニシアティブを取ろうとすると前もって入念な準備をしなければならないが、そういうことに時間を費やしている一方で、パリではパリの問題が起こっているわけだ。だから、参加できないそうだ。実際にジェノアに参加した人(アナキストかどうかは不明)からCNTの人が聞いた話によれば、やはり現地では他のグループに混じってそのグループ主導で動かざるを得なかったとのこと。さらに、ブラックブロックについても単なるフーリガンだという見解がそのグループの中では出ていたそうで、実際に参加した人もブラックブロックは単にモノを壊していただけだったと言っていたそうだ。結局、自分でイニシアティブをとれないような状況では、いかなる判断もできないわけだね。

日本の状況はどうか、と聞かれた。韓国の状況は伝わってくるそうだが、日本の状況は、1970年代以来全く状況が分からない、とのことだった。韓国での反徴兵制運動を日本のアナキストで支援している人たちがいると話をし、日本は第二次世界大戦によって、アナキズムの伝統は大部分が破壊されてしまい、70年代の後半には爆弾闘争事件の影響もあって、アナ連も分裂し、現在は小規模のアナキストグループがいくつかあるだけだ、と述べた。すると、フランスのアナキズムの伝統は第一次世界大戦によって破壊されてしまい、今は日本と同じように数が少ない、と言われた。スペインだけが、第一次世界大戦から逃れたために、スペイン革命時のアナキズムの隆盛が見られたのだとか。それ以前のフランスのアナキズムはスペインよりも進んでおり、スペインでは平等について話はしているものの女性の扱いについては、まだまだ解放されたとは言える状況ではなかったが、フランスでは女性も解放されていたのだそうだ。

メンバーになるときに、何か本を読ませるのか、と聞くと、メンバーになろうとしてやってくる人は、自分で問題を抱えてくるため、それに応じて、話をしたり、文献を紹介したりするそうだ。僕と話をしていた女性は、反人種差別の運動に関わっていたそうだ。そこでの友達がCNT-AITのメンバーで、そのままCNT-AITに加入したのだとか。その反人種差別運動自体も反差別のままで止まるか、それとも反資本主義までいくのかでもめた後分裂したそうだ。どこでもそうなんだね。

理論と実践との関係について話を聞こうと質問したら、どういう繋がりかよく分からないが(酔っぱらっていたからだが)、例えば、と言いながら以前スクウォットに住んでいたときの経験を話してくれた。スクウォットの仲間で国家の廃絶などについてミーティングでよく話をしていたメンバーの一人が、ある時警察に逮捕された。その人は、(多分、思想とは無関係だと思うが)連続殺人を犯していたんだそうだ。この話は、ある種タブーになっているようだ。

こんな話を英語のできる人と話している内に、ミーティングは進み、帰っていく人がぼちぼち出てきた。出版関係の仕事をしている人から本のカタログをもらったが、よく知らない人ばかりだった。その人が日本のプロレタリア文学で有名な人は誰だ、というので、とりあえず小林多喜二を上げておいた。相手は知らなかった。フランス語訳されていないのならば、自分の会社で出したいというようなことを言っていたので、名前を書いてあげた。よく分からないが、プロレタリア文学の出版社なのかな。

出ていく人と入れ替わりで、恰幅の良いおじいちゃん登場。この人の父親は、スペイン革命時に、ドゥルティ=コラムでドゥルティの片腕(右腕だと言っていた)として活動していたようだ。この人はスペイン語もできるようだが耳が遠く、のんきちさんが話しかけても、よく聞こえないようだった。英語のできる女性を介して、この人にアベル=パスが日本に来た、と言うと、「アベル=パス、彼は素晴らしい」、と言っていた。へー、っと思って、講演の時にスーツを着ている人を見かけたときに、お前は官僚か?、と言った、という話をしたら、「その話を聞いても驚かないね」と言っていた。そういう人なんだ、やっぱり。

トイレから戻ってくると、のんきちさんの横に座っていた女性が、「のんきちさんに自分のことをファニー(おかしい)と言われた、何故」と僕に聞いてきた。全く状況が分からないし、のんきちさんに聞いてもよく分からないので、間違ってそういうふうにいっただけだ、と言っておいた。この女性は学生さんで、余り英語ができるわけではないが、根気よくこちらに話しかけてこようとする。異文化について興味があるようだ。自分の大学でアフリカの人たちから話を聞くと、アフリカのアナキズムは自分が思っているのとだいぶ違うので、日本ではどうなのか、と聞いてきた。日本のアナキズムは西洋からの輸入だから根本的には何も違いはないよ、と言っておいた。仏教と神道の違いについても聞かれた。

「アナキズム」誌を持っていったが、最初の内はミーティングが忙しかったのか余り手に取られることもなかったが、後半に飲みが進んでくるとちらほらと手にして見てくれていた。

それにしても、みんなよく飲むし、よくしゃべるし、煙草もよく吸う。メンバー全員が煙草を吸っていたんじゃぁなかろうか。帰りがけには、僕と話をしていた女性が医者の男性に殴りかかるシーンも見られた。そのことについて話をしたが、レイプにあったときのために、女性は護身術を身につけておくのがよいとか悪いとかなんか、酔っぱらっていたこともあって、僕の頭では理解不可能だった。単なる殴りかかるふりをしただけなのか、それとも、本気で殴りかかっていたのかよくワカラン。

僕が吐きそうになってトイレに行って、時計を見たらもう午前一時だ。のんきちさんに声を掛けて、ホテルに帰ることにした。帰る前に、メールや住所の交換をし、僕は、英語を話していた女の人から、バクーニンの「連合主義・社会主義・反神学主義」のフランス語版と、最近出したパンフレットをもらった。「ソリダリテ=インターナシオナル」なんて調子に乗って握手して、バーを後にした。バーから出たところで、のんきちさんと話をしていた女性が煙草を僕が忘れたと言って持ってきてくれた。それは僕の煙草じゃなかったが、酔っぱらっていたため、訳も分からずもらってしまった。

なんか、非常に良い気分だった。

2月7日(木)

朝、8時に起きる。不思議と昨日の酒は残っていなかった。9時半に朝食を取り、10時にのんきちさんの部屋に行く。のんきちさんは二日酔いだそうだ。外を歩いているときも、しんどそうにしていた。しばらくして、昨日のバーにペンを置いてきたことに気がついた。11時にホテルをチェックアウトし、荷物をしばらく預かってもらった。組織のありようについてのんきちさんと話をしながら歩いた。今日は特にすることがないが、もう一度、republique通りのネットカフェへ行った。メールチェックと掲示板への書き込み。

少し早い昼食を取って、昨日publicoで聞いた第三のCNTを訪ねに行った。地図上では republique から近そうに見えるのだが、実際に歩いてみるとそうでもない。Gare du Nordの近辺を歩いていると、黒人の兄ちゃんたちがたむろして、女性をひっかけようと声をかけたり、メトロの出入り口を取り囲んで下に向かってなにやら大声を上げている。非常に雰囲気が悪い。

今度のCNTの事務所はちょっと入り組んだところにあり、予想通りまたもや道に迷った。問題の通りまで来たのだが、規模が小さいグループだから建物の二階とか三階とかで何の目印もなかったらどうしようと話をしながら歩いていると、CNTの看板が見えてきた。最小規模の割には、CNT-AITとは異なり、ちゃんと事務所を持っているし、看板まで出している。よっぽどCNT−AITが金を持っていないのか、このCNTが金を持っているのかのどちらかだろう。とりあえず、看板の写真を撮り、のんきさんが看板の横に立っている写真を撮った。近くを歩いていた小学生が僕がのんきちさんの写真を撮っていると不思議そうにCNT事務所を眺めていた。ドアをノックしてみたが、何の反応もなし。やはり、昼はみんな働いているんだろう。

メトロでrepubliqueまで戻り、もう一度ネットカフェを利用した。

午後5時にホテルから荷物を取り、駅に向かう。駅のカフェでトイレを使おうとすると、トイレの前に清掃の女性がいて、金を払えと言う、小銭でいいのだろうと思うと、1ユーロ払わねばならないようだ。小銭が少ないことを示し、渋々ながらも受け取ってもらう。なんだか不愉快な気分だ。さらに、カフェでビールを飲んだが、そこのウェイターがむかつくやつだった。最初に座った席が禁煙席だったので、喫煙席に変え、灰皿をもらったら、ウェイターが投げるようにして灰皿を置き、さらにその灰皿は洗っていないのだった。お腹がへってきたので、何か食べようとしたが、あのウェイターにだけは頼みたくない。だが、他のウェイターに注文したものの、結局食べ物を持ってきたのは、あのウェイターだった。なんだかむかつく。

今日は、ホテルで午後のシエスタをせず、こんなこともあったため、どっと疲れが出て、眠くなってきた。

8時半頃のホテル列車に乗ってバルセロナに向かった。二等のコンパートメントは4人乗りだ。僕たちのコンパートメントにはパリに住んでいる二人の男性が一緒にいた。二人とも英語が話せたので、ちょこちょこ話していたものの、ちょっと気まずい。あのアテンダントはきれいだ、から始まり、日本は凄いね、とか、アメリカは自分のところが正義だと思っててむかつくね、といった話をした。二人がおもむろにパンとチーズとオレンジジュースで夕食を取り始めた。二人とも煙草も吸わないし、僕らが勧めたビールも飲まない(このビールは非常に不味く、缶を三本買ったが、一本だけ飲んで、後は捨ててしまった)。ベジタリアンかな?宗教関係者かな?などと、のんきちさんと勘ぐってしまった。

煙草を吸いに通路に出て戻ってきたら、のんきちさんが、死ぬことって怖い?と聞いてきた。え?っと思ったが、特に何も感じないので、別に、と答えたら、なんだか驚かれてしまった。

夜10時過ぎにアテンダントがベッドメイクをし、消灯。しばらく本を読んだが、疲れていたせいか、すぐにうとうとした。時折、目が覚めては、浅い眠りを繰り返すという感じだった。午前4時頃にうつらうつらしながら、日本におけるアナキズム組織のアイディアを思いめぐらしていたら、一つ面白そうなのが思い浮かんだ。そのうち、時評にでものせてみよう。

2月8日(金)

朝、6時に起こされた。一緒のコンパートメントにいた二人が、なにやらカードを出さねばならなかったのに、出していなかったようだ。後で聞いてみたら、二人はパリに住んでいるものの、国籍はアルジェリアなのだそうだ。だから、居住カードを持っているのだとか。朝8時半頃にバルセロナ到着。結構寝た気がした。

ホテルを探しにランブラス通りまで行く。メトロに仮装をした人が乗ってきていた。何かあるのだろうか?

去年泊まったホテルは100ユーロ以上していた。そういえば去年は一部を改装中だったから安かったのかな?などといぶかしがりながら、別なホテルを探す。二つ星のホテルは、43ユーロだとのことなので、止まることにした。だが、部屋に入れるのは12時になってからだそうだ。それまで、カフェへ行き、ネットカフェへ行き、空港までのバスを確認し、電話屋に行って時間をつぶした。電話屋の数は激減していた。ランブラス通りでもおいそれとは見つからない。やっと見つけたと思ったら、ノイズが酷くて、こちらの声が向こうに聞こえないようだ。別の電話屋でやっと電話できた。だが、何かの装置が電話についていて、非常に使いにくかった。そうこうしている内に、疲れてきた。やはり列車では充分寝れなかったようだ。

12時前に部屋に入れた。12時30分まで休んで、その後に、中華を食べに行く。のんきちさんが洗濯物を出すというので、CNT事務所近くのクリーニング屋へ。去年も同じところだったな。

CNTの事務所に行ったが、ベルを鳴らしても何の反応もなく、誰もいないみたいだ。

中華はランチのコースで6ユーロしないから、かなり安い。パリに比べてバルセロナは物価が安い。お昼を食べた後、ホテルの横のネットカフェでスカンジナビア航空の電話番号をゲット。

その後、5時までシエスタ。僕は眠れなかったので、日記を書こうとしたが、今回は日記を書く気が全く起きない。何故か、ゲームをやってしまう。今回の部屋のテレビはうまく動いてくれ、英語チャンネル・フランス語チャンネル・スペイン語チャンネルがあった。去年は、スペイン語だけだったと思うのだが、ユーロのおかげでかわったのかね?ホテルからSASに電話をして、チケットの再確認と機内食をベジタリアンにしてもらった。

5時にEl Lokalに行ってみる。やたらと仮装している人たちが目立つ。何か今日あるのだろうか?のんきちさんによれば、バレンシアでは火祭りだそうだが、それがバルセロナまで波及しているのだろうか?

また、道に迷ってしまった。「いつも迷うんだよね」とのんきちさんが言いながら、探した。見つかったが、めぼしいものはTシャツ以外なかった。ドアにポスターが張っていたが、バレンシアで2月いっぱいかけてアナキストのフェスティバルがあるようだ。前もって知っていれば、そっちに参加したかも知れないな。でも今回はパリのCNT−AITが収穫だったから、まぁ、いいや。

CNTの書店に行く。おじいちゃんの店員がいて、二階からはやたらと人の声がする。のんきちさんがバッジを買おうとしていたが、見つからないので書店のおじいちゃんに聞くと、二階だと言われ階段を上がっていった。僕は、バッジには興味がないので、本を見ていた。パリCNTのルクリュカレンダーもあった。

しばらくして、のんきちさんが、バッジを手に二階から降りてきた。おじいちゃんばっかりだったそうだ。二階に上がって、いきなり「俺はスペイン語とカタルーニャ語しか話せないぞ」と言われたらしい。CNTの書店でドゥルティの顔が書いてある小さなカレンダーを買った。僕が10個、のんきちさんが10個で支払いをしようとしたら、店のおじいちゃんと一悶着。まず、10個ずつ、というのを何度か確認しなければならなかった。そして、お金を一緒に払う、というのを何度か確認し、それでもおじいちゃんがなにやら言っている。後で分かったことだが、「もう取ったのか?」と言っていたらしい。どうせ話をしたのだからと、CNTの海岸沿いの事務所とはどいう関係なのか聞いてもらったら、同じところらしく、仲がいいようだ。ついでに、アベル=パスが日本に来たよ、と言ってもらったら、近くに住んでいるぞ、とおもむろに住所を書き出した。アナキストがたむろするバルがあるとMさんから聞いていたから、その場所を確認しようと地図を出したら、おじさんはアベル=パスの住所に夢中で、地図をたどり、他の仲間にも聞き、こちらの話を聞く気配がない。結局、アベル=パスの住所は聞いたが、バルの場所は聞かずじまいになってしまった。あの年代の人はみんなそうなのかねぇ?などとのんきちさんと話しながらCNTの事務所にもう一度行くことにした。

ブザーを鳴らすと、ドアの鍵が開いた。事務所に上がってみると、若い人が三人忙しそうに動いている。のんきちさんが聞いてくれたところによれば、何でもこれからCNTの新聞を配りに行くのだとか。メールのやり取りがあったアントニオさんはいないようだ。事務所は、去年よりもパンク色が強くなってる気がした。パンクバンドの Sin Dios のポスターが張ってあったり、パンクのコンピレーションCDがおいてあったりした。彼らは急いでいるようだから、ステッカーをもらって、TシャツとCDを買って、外に出た。せっかく来たのにろくろく話しもしなかった。まぁ、しようがない。

夕食を食べる。パエーリャを食べたかったので、海岸通りの去年行った店の隣の店に入った。

2月9日(土)

朝、6:30に起きる。7:50頃にのんきちさんが部屋をノックして、行こうか、と言った。

ランブラス広場でのんきちさんに見送ってもらって、空港へ向かった。のんきちさん、お世話になりました。

コペンハーゲン行きの飛行機は空いていた。機内食はアテンダントが忘れていたようで、最初は普通のチキンを持ってきたが、声を掛けて、ベジタリアンのを持ってきてもらった。あっさりしていて非常においしい。メインは最初はラザニアみたいに上にチーズがかかっているのかと思ったら、何というのか分からないが、平べったいパスタがのっているみたいだった。中は野菜が入っていて、なかなかうまい。バターの代わりにマーガリン。食事に動物性のものが一つもない。

コペンハーゲンではユーロのコインは受け付けないとのことで、渋々、水を買うのにカードを使った。

コペンハーゲンでは、待ち時間が二時間ほどあったので、ゆっくりとこの日記を書くことができた。日記を書いていたら、近くを通りかかったおばちゃんが、僕のモバイルギアに張ってある「Ni Dios Ni Amo」シールを見たのか、僕のCNTTシャツを見たのか知らないが、「あの人は左翼主義者ね」と言っていた。

帰りのフライトは時間が遅れた。20分遅れぐらいだ。日本に向かう飛行機は必ず遅れる気がするが、そうでもないかな?

帰りのフライトの食事は、ベジタブルカレーだった。味はまずまず。ワインを飲んでこの食事を食べた後、もう一杯ワインを空けて、すぐに寝た。5時間ぐらい寝続けていたみたいだ。朝食は、豆と芋というベジタリアン定番食。当然他の人が食べているヨーグルトなどない。今後は全てベジタリアンで頼もうと決めた。

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