メンバーの小屋

森川小屋

中世の一揆

<はじめに>

 僕は、マレイ=ブクチンの論文をインターネット上で翻訳している(http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/ecology/biehl.html/)が、ブクチンの本を読んでいると、その歴史的認識にしばしば驚かされる。民衆革命史「第三革命」はもとより、大著「自由の生態学」においてはヒエラルキーと支配の出現を歴史的に示しているし、リバータリアン自治体連合論の決定的書物である「都会化から諸都市へ」では都市の出現を歴史的に解明している。ブクチンは西洋のことばかり書いているが、彼の文章を読むにつれ、日本ではどうだったのだろう?、という疑問を持つようになった。

 そして、最近、たまたま出会ったのが、「山城国一揆 平和と自治を求めて」(1986年、東京大学出版会)という本だった。この本のおかげで、日本の中世社会に対する僕の関心は高まっている。

 読み進むうちに、日本は民衆革命を経験していない国だとか、地方自治が弱いとか言われているが、本当だろうか?と思い始めた。アナキズムは大抵明治時代以後に西洋から輸入されたことになっている。社会主義にしてもそうだ。だが、果たしてそうだろうか?アナキズムが傑出した誰かの思想ではなく、民衆の運動・情念にその根幹を持っているとするなら、僕らが自分たちの列島の歴史を知らなすぎるだけなのではないだろうか?元々存在していたものが理論化されたにも関わらず、最初に理論ありき、になってしまってはいないだろうか?この疑問はさらにいくつかの中世に関する文献を読み始めてどんどん強くなっていった。信長・秀吉・家康によって終焉させられた自治の伝統をもっと知りたいと思った。時期は短くとも、日本にも無政府の自治体(言葉の本来の意味での自治体だ)が存在していた。しかも近隣諸自治体と連合して存在していたのだ。もう一度この遺産を現代的に復活させるべきなのではないだろうか。

 僕にこうした興味を湧き起こさせてくれた中世の一揆について、不充分ながらも、ここで紹介させて頂きたい。歴史の専門家ではない一介のサラリーマンが紹介するのだから、誤りがあるかと思うが、ご指摘いただければ幸いである。

<中世の一揆>

 まず、中世一揆の簡単な概要を見てみよう。ここでの中世とは、1400年代、南北朝から応仁の乱後に限定しておく。一揆というと武装蜂起のイメージが非常に強いのだが、本来の意味での一揆は、心を一つにする、というほどの意味であり、地域住民の横の団結と考えても良いと思われる。しかし、中世の村落において村落住民が心を一つにして物事に当たる(つまり、直接民主主義を実行する)ことには、しばしば単発的な暴動・蜂起といった状態が多かったため、一揆には武装蜂起のイメージが強いのであろう。ただし、山城国一揆や加賀一向一揆のように、一定期間継続してその自治を行っていた場合もあることに留意していただきたい。

 中世の一揆は大別して土一揆・国一揆・一向一揆にわけることができるだろう。土一揆は地元住民が団結して起こした一揆であり、当時の運送労働者だった馬借が参加した馬借一揆や徳政を求めた徳政一揆がある。その背景としては本当に貧困だった者たちの要求だけでなく、裕福な百姓による利益確保という側面もあったようだ(永原、1988年、182ページ〜183ページ)。土一揆は、年貢の軽減や貸借関係を無効にすることを要求したものが多く、そのため、徳政が行われると終結するものだった。

 国一揆は、土一揆に国人と呼ばれる人々も加わって行われた一揆である。一向一揆は本願寺の門徒と国人が手を結んで行われた一揆である。国一揆も一向一揆も、中央幕府から任命された守護を地域から追い出し、地域の自治を押し進めたため、一定期間継続していた。

構造

 一揆の基本構造は、百姓・惣村・国人・惣国であったと考えられる。  百姓は、農民のことだけを指すわけではなく、税を納める側の地元住民全体のことを指す。室町時代には、百姓の生産力が増大し、海上輸送に大型船が登場することで産物流通手段広がったため、年貢を上納しても一定の剰余を残すことができるようになり、加地子という自作兼地主的な階層が生まれていた。同時にそれまでの弱小農民も、名主の保護なしに経営できるようになり、独立営農者として発言権を持つようになった。その結果、村落自体の仕組みも、小百姓を含めた百姓が寺社や神社などで集会を持つように変化していった。

 惣(惣村)とは、『中世の村落共同体。全体としての百姓の組織。信仰のよりどころとして寺社と田畑などの共有財産を持ち、祭祀と田野、用水などの管理を行った。乙名、年寄・年老などの指導層を中心に運営された。対外的には、近隣の惣や領主の勢力にも対応した。こういう自治的村落を惣村という。』(東義久ら、1998年、80ページ〜81ページ)下記で見るように、当時、惣村の運営は直接民主主義的に行われていたようである。

 国人とは『南北朝時代から室町時代の地域の武士の頭、在地の領主、国衆ともいわれる。普段は農民といっしょに生活し、戦になると刀をとり侍として戦った。』(前掲書、79ページ)国人は、守護の被官となっている場合が多く、支配階級の一部となっていたが、幕府に任命された守護とは異なり、基本的に惣村内部の人間であった。守護は自分の領土内の権限を拡大しようとしていたが、国人は土一揆に参加して守護と対立することも多く、その権力関係は中央集権型の権力関係とは異なるものだったと推察される。

 惣国とは、『いくつかの近隣の惣が連合して、相互に助け合いながらことの解決にあたることがあり、こうした政治的結集が一郡や数郡規模となり、一定の時間かわることのない組織となったものを「郡中惣」とか「国一揆」などといった。国人は南山城三郡を支配する自分たちの一揆的結合を惣国と呼んでいた。』(前掲書、80ページ)

 当時の社会構造としては、大ざっぱに、幕府・守護や荘園領主・国人・惣村という四階層で考えることができよう。この構造の中で国人が果たした役割は大きかったと思われる。この社会構造に寺社勢力が介入することも多く、一向一揆の場合のように重要な役割を果たすこともあったが、その場合であっても、国人は大きな役割を果たしていた。幕府と守護は搾取する側として百姓に対峙し、百姓は下記のように惣村での決定を下にして圧制・搾取に対する抵抗を行った。だが、純粋に惣村のみでの抵抗の場合は切迫した問題の解決に焦点が当たるのに対し、惣村の連合に国人の連合が結合し、惣国となることで、本格的な自治体としての地域が成立したのである。これは、1300年代後半の国人一揆(国人間の平等な連合組織である武士団の一揆)よりも遙かに進んだ地域自治形態だと思われる。(脇田晴子、1986年、112ページ〜119ページ参照)

意志決定

 中世の惣村において、その意志決定は、鎮守や寺庵で行われる集会(しゅうえ)・寄合においてなされていた。集会は村落住民の権利であり、義務だった。ここでは、合意形成のプロセスについて述べられ、互いに意見を出し合い、先例を根拠にして議論を行った上で多数決による決着がはかられる。そして、決定事項についての確認として、「起請文」を書いて署判した。その後、それを焼いて神水にまぜ、一同でまわし飲んだのだった(一味神水と呼ばれる)。(佐藤和彦、2003年、45ページ〜86ページを参照)また、集会には定期的なものと非常時のものがあった。例えば、京都近郊の山科七郷においては、春と秋の二回、七郷全体の寄合が開催され、それぞれの郷から老(おとな)が代表者として集まっている。一方、応仁の乱が激しくなり、近隣にまで戦乱が及んでくる中で、「野寄合」が幾度か緊急に開かれ、そこには各郷から十人ほどの武装した人々が集まり、その多くが若者だったという。平時の集会では、早急に結論を出さねばならない問題がいもあるわけではないため、時間をかけて互いに認識を深め、参加者全員の合意を得ようとしていたが、緊急時の集会では「多分の儀」(つまり、多数決)で決着をつけていた。(酒井紀美、2003年、87ページ〜98ページ)

抗議戦略

 また、中世には、一揆という集団蜂起以外にも下記のような集団的直接行動戦略があった(永原慶二、1988年、178ページ〜180ページを参照)。

 中世土一揆の一例を、前掲の佐藤和彦氏の文章からあげておこう。これは嘉吉土一揆の様子である。『嘉吉元年(1441)将軍足利義教の暗殺をきっかけに、九月三日には、京都周辺の惣村が連合し、「土一揆と号して」蜂起。京都七口を閉ざして京都と諸国を結ぶ交通路を封鎖し、京都の経済機構を麻痺させたうえで、将軍の代替わりに徳政令を発布するのは先例であると主張した。万里小路時房は、九月五日に五条法花堂が炎上し、六日夜には洛中に入った土一揆が閧の声を挙げて、洛中洛外の堂倉・仏閣に楯籠り、「徳政おこなわれずんば、焼き拂うべし」との訴訟に及んでいると記録している。(中略)九月十四日、幕府は一国平均の徳政令の施行を命令した。徳政令の公布を背景に土一揆軍は、覆面をして顔を隠し、薬師堂の鐘をつき鳴らして、上京各所の土倉におしかけ、質物・借書などを取り返した。』(佐藤和彦、2003年、58ページ〜59ページ)この土一揆では、幕府は当初、「土民に限り」の徳政令を発布しようとした。しかし、一揆側は、「自分たちは大した負債があるわけではないが、公家・武家の人々がいたわしいから一律の徳政を行え」と要求して一揆を継続し、幕府は「一国皆同徳政令」を発した。それでもなお、一揆は京都を封鎖し続け、「天下一同徳政令」を要求し、最終的に幕府にそれを発令させたのである(永原慶二、1988年、255ページ〜256ページ)。もちろん、全ての土一揆が百姓・土民のみのものだったとは言い難く、背景として権力側の策動があることも指摘されている。しかし、一揆に参加した百姓たちの同意がなければ、ここまでの規模のものにはならなかったのだ。

<山城国一揆>

 ここで、山城国一揆について紹介させていただきたい。というのも、山城国一揆は、中世における地域自治と連帯を明確に示している類い希な実例だからだ。同時に、山城国一揆は当時の社会構造が持っていた限界をも示している。一揆があったからといって、当時の社会が持っていたヒエラルキー構造は変わらなかった。それがひいては山城国一揆を崩壊せしめたといってもよいだろう。

 山城は、当時の都である京都と、文化や宗教の中心だった奈良の中間にある。木津川の流れは山城を肥沃な土地にしており、当時の主要交通手段だった船の運行にも便利な場所だった。そのため、権力者にとっては非常に魅力的な土地であったと思われる。山城国一揆を起こしたのは、この地域の相楽・綴喜・久世の三郡であった。

 応仁・文明の乱が終わった後も、山城では畠山政長と畠山義就が家督争いを続けていた。1485年10月から三ヶ月にわたり両軍は南山城で対陣し続けていた。応仁・文明の乱が終わっても、銀閣の造営に対する人夫や普請料が割り当てられ、南山城の住民は苦しんでいた。それに加えてこの家督争いである。戦が続き、重税を課せられ、他国から来た侍がやたらと関所を作り通行料をとる。その結果、農産物も価格が高騰し、農民だけでなく、運搬で生計を立てていた人たちも生活が苦しくなっていた。さらに、寺社や民家に対する放火・略奪も頻発した。そこで、住民は国人と共に集会を開き、国一揆を開始したのである。

 1485年12月11日、興福寺大乗院の尋尊は、次のように日記に書いている。『きょう、山城の国人のうち、上は60歳から下は15歳のものがあつまり、集会をひらいた。同じく一国中の土民もあつまったということだ。それは、南山城を戦場にしている畠山政長と畠山義就の軍隊に撤退してくれるよう申し入れるためである。もっともなことだ。しかし、下克上のいたりでもある。両軍がどのように返事したかは、まだ聞いていない。』(脇田晴子、1988年、40ページ)

 集会では、次の五点が決定された(東ら、1998年、35ページ)。

  1. 両畠山軍を南山城には入れない
  2. 荘園は興福寺などの元の領主に戻す
  3. 南山城には新しい関所を設けない
  4. 他国のものを代官としてはならない
  5. 税金や年貢はきちんと領主におさめる

 この取り決めに従って、国人衆が畠山両軍に申し入れをし、承諾しない場合は、国人衆が攻撃すると言い切った。その裏で、一揆は、第三者に仲介を頼み、両軍を撤退させてくれれば、それ相応の金を払う、という約束も取り付けていた。その結果、12月17日に両軍は自国へ引き上げていったのだった。

 両軍を撤退させた翌年、1486年2月に、宇治の平等院で国人の集会が開かれ、上記の決定事項の修正がなされた。山城国三郡は、この国人集会による議決と、月行事(毎月交代で自治組織の事務を行う当番)による執行で、1493年8月まで自治を行ったのである。山城国の自治の上で大切だったのは、上記の決定事項に沿えば、政治面では(2)・(4)・(5)、経済面では(3)であった。荘園を直属領(本所領)にするということは、守護に介入させない、ということである。当時は荘園領主と武家領主とでは、地域に対する介入の度合いが全く異なっていた。荘園領主の介入の方が断然緩く、地元の百姓に年貢や公事を請け負わせ、全くの自治を許すことも多かったのである。従って、本所領であれば、荘園領主にきちんと年貢を納めることを請け負っておけば、それ以上の負担が百姓に及ぶことは少なかったと考えられる。事実、領主からの年貢は、村が定めた「宛米」と呼ばれる徴収額に依存していたのだが、それは、村が独自に定めたものであって、幕府や藩の検地により定められた石高とは関係がなく、実際の生産量は石高よりもだいぶ多かったのだ(神田、2002年、289ページ〜290ページ参照)。また、1487年には、人を殺し雑物を奪った油売りを召し取り、切り捨てるという、警察裁判機能を自治的に行っていた記録もある。

 (3)の新しい関所を作らない、という点についても、当時の状況を鑑みれば妥当な政策だったと考えられる。上記したように、侍などによる関所の乱立は、戦のための資金調達の意味合いが大きかった。その結果、最も被害を被るのは地元の百姓・土民であった。税を取られる側からすれば、この要求は当然のものであっただろう。この要求を考えれば、山城国一揆は単に国人による守護からの権力奪取だとは見なせないのである。

 しかし、国一揆の終末期には、新関をめぐって、国人と土民の対立が起こる。1492年10月には、(3)の約束を破って、国人100名が同心し、新関を立て、狛野荘・木津荘は迷惑だと興福寺に訴えた。そして、翌年1493年8月には幕府が山城の守護として伊勢貞陸を領内に定め、守護の命令に従うように命じた。国人集会で、守護の命令に従うことが決定され、9月にあくまでも守護の介入に反対する国人たちが稲屋妻城にこもり徹底抗戦をしたが、落城し、山城国一揆は解体した。

<おわりに>

 時代は進んで、1857年。江戸幕府に海軍伝習所での教育を依頼されて来日したオランダ人、ファン=カッテンディーケは、次のように述べていた。日本の町人が「ヨーロッパの国々でその比を見ないほどの」自由を享受している一方、日本では「警吏は全然ないといいたい」ほど警察が弱体である(神田、2002年、285ページ)。少なくとも江戸時代まで、日本の地域社会は自律的だったのではないだろうか。地域社会レベルでは無政府の事実(住民の合議制による地域運営)が存在していたのではないだろうか。民主主義が明治以降に輸入されたかのように言われるのは誤りなのではないだろうか。

 むろん、国一揆においても、当時のヒエラルキー構造が存在しており、その結果として、一揆の崩壊が生じていることは確かである。また、地域社会内部における個人の抑圧関係が存在していたことも否めない。だが、あらゆるヒエラルキーを根絶する、というアナキズムの基本思想からすれば、中世の社会構造については学ぶべき点が多いのではないだろうか。少なくとも、現在のように、全くの中央集権社会から鑑みれば、奪還すべき遺産が数多く残されているのではないだろうか。

 脇田晴子氏によれば、中世の社会では、『名主と呼ばれる地侍と、その血縁の分家や非血縁の新在家などの百姓との、二重構造をとっているところが多く、それぞれは別個に祭りや生活互助のために「座」を組織していた。』(脇田、1988年、47ページ〜48ページ)もっと詳しく見れば、女房座があり、百姓の座があり、地侍座があり、そして国人がいるというヨコの連帯の座がそれぞれ存在し、それが国人−地侍−百姓と女房というタテのヒエラルキーと絡み合って複雑な社会構造を織りなしていたと考えられる(脇田、1988年、43ページの惣国概念図を参照)。

 中世の地域社会は、相次ぐ戦乱によってタテのヒエラルキー関係が弱まり、ヨコの連帯関係が強まった結果、惣国という地方の自治体連合が形成されていった、と見なすことができるだろう。

 問題は、タテの関係が強力になり、個人主義の名の下に、社会に参画する個人ではなく、資本に右往左往する単なる「消費者」が増大している現在、どのようにして、この地域社会を復活せしめ、地域社会のありようとして本当の個人主義をそこに根付かせるのか、なのではないのだろうか。


<参考文献>