メンバーの小屋

森川小屋

くたばれジャーナリズム!

8月の終わりに、「日本のジャーナリズムの再生のために」というシンポジウムを見に行った。正確に言えば、聴きに行ったといった方が良いのだろうが、内容が大したこと無くて、壇上にいる著名人達を見に行ったようなものだった。

僕は、講演会とかに行くといつもそうんだけど、発言に対して何か違和感を感じても、その場ですぐには言語化できないんだ。家に帰って咀嚼したり反芻したりしながら、やっと、「あぁ、あの時、これを質問しておけば良かった」とか「ちっ、こう言ってやれば良かった」なんて思う質なんだ。頭が悪いのかね。今回もそうだった。

シンポジウムは、シンポジストが四人(ひとりはインディペンデントに活動している人で、後の三人は新聞や雑誌の記者・編集者)と司会者がひとり(この人も新聞記者)の五人が壇上にいて、流れとしては、 (1)今のジャーナリズムの問題点をそれぞれが挙げる (2)その問題点について壇上の四人が議論する (3)フロアからの意見や質問 (4)今後のジャーナリズムについてシンポジストが展望を語る (5)その展望についての議論を壇上でする という感じ。

シンポジストの意見とかはここでは書かないけど、確かに面白い話もあるにはあったけど、ほとんどが良く耳にするようなことばかりで目新しいことは無かったね。要は、個々人でがんばっている人は少数いるけど、現在の新聞・メディアは米国と政府の傀儡で、日本にはジャーナリズムなんてないってことだ。そんでもって、今後の展望としては、自分で活動して自分で新聞を出す、っていうことだそうだ。ふん、そんなこたぁ、分かりきっているよ。だから僕は新聞も取らなけりゃ、テレビも持っていないんだい。

ここまでなら、くだらないシンポジウムに行ったもんだの一言で終わっただろうけど、二つの点で違和感を感じてしまって、その場で発言しなかったことが口惜しくて、この場でぶつぶつ言ってやろうと思っているわけだ。

まず一点。フロアからの質疑のときに、ある人が、「ここまで出た話はいつも聴いていることばかりだし、シンポジウムの場でも実名を出して話も出来ないようじゃぁ、この議論には意味が無いんじゃないのか」、っていうようなことを言ったんだ。思わず拍手しちゃったね。でもその後で、司会者の人は「これまでのことを総括するという意味がある」なんてことを言ったわけさ。

でもねぇ、ちょっと待ってくださいよ。これまでの話の流れでは、日本にはジャーナリズムなんて無いんでしょ。無いものをどうやって総括するの?平民新聞まで遡るおつもり?

そして二点目だ。はじまったときから感じていたんだけど、ジャーナリズムを「権力を批判する機関」として捉えているようだけど、これっておかしくない?つまりさぁ、「権力を批判する機関」の存在条件は、権力なわけだ。権力が無くなったらジャーナリズムも無くなるわけだ。ジャーナリズムが存在しつづけるためには権力が必要なわけだ。だったら、ジャーナリズムは存在を維持しようとすればするほど権力に依存することになるよねぇ。

これならあたりまえじゃないの?大手メディアが政府の傀儡になるのは。権力が引き起こす事件を何か周辺の出来事として、例えば、議員の個人的嗜好とかの問題としてスキャンダラスに報道したりはするだろうけど、「権力そのもの」は批判も、ましてや叩き潰すこともできないわけだ。わたくし、権力そのものの存在しない社会を指向している一ユートピアンとしては賛成できませんな。

どうしてもっと強く「ジャーナリズムは、既存権力の破壊を目指している」なんて言わないんだろう?一応イズムなんでしょ。でも、その後のビジョンとか個人的な倫理観(法律が押し付けたものではない)も全く無いんだろうね。ビジョンや個人的な倫理観を全く念頭におかないで記者になったらどうなると思う?当然、世の中に対して問題も感じない、政府発表を「報道」することしか出来ないさ。

もし、この捉え方のままでジャーナリズムの変革を考えているんだったら、ジャーナリズムこそ真っ先に叩き潰さなければならないんじゃないかな。くたばれ、ジャーナリズム!

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