地下鉄の改札から地上へと向かう長い階段。
ぽっかりと開いた出口の向こうには、四角く切り取られた青空が見える。
一段一段を踏みしめるように、僕は階段を上っていった。
 
 

3日前、母から突然掛かってきた電話。
『今から掛けるから』なんて予告をするわけじゃなし、突然の電話っていうのも変だけど。
でも、内容についてはあまりにも唐突過ぎるものだった。
 
 
 
 
 


……お見合い?
そうよ
誰が?
あなたに決まってるでしょ?
いつ?
明後日
あ、あさってぇ?
そんなに大きな声出さないで
で、予定は空いているの?
……特に、何も……
なら良いじゃない
なら、って………ちょっと待ってよ!
僕の意思はどうなるのさ!?
もう先方さんにはOK出しちゃったもの
今更ダメなんて言えないわよ
そんな……いくらなんでも唐突過ぎるじゃないか
だって、あなたの場合それくらいしなきゃ駄目じゃない
誰に似たんだか、随分とオクテだし
今までに彼女を紹介してくれた事、あった?
う……
今はどう?
いるならいるって言ってくれないと……
い、いないけどさ
じゃあ、何か問題でも?
………
お見合い、って言っても形式ばったものじゃないの
私たちも当日は行かないし……
ちょっと紹介してもらう、ってくらいの気持ちで良いから
ちょ、ちょっと待ってよ!
母さんも父さんも来ないわけ?
ええ、私たちがいたって邪魔なだけでしょ?
それに……
それに、何さ?
決り文句みたいなものがあるじゃない?
『後は若い者に任せて、我々老人は……』って
私だってまだ若いのよ、そんな台詞聞きたくもないわ♪
なんなんだよ、それ……
 

 
 
 

受話器の向こう側でコロコロと笑う母、何も言えない僕。
やんわりと、しかし強引に進められた話を断る事ができず、こうして待ち合わせ場所へと向かっている。
 
 

気乗りしない足取りで。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


Blue and Blue
written by map_s



 
 
 
 
 
 
 
 
 

対向6車線の広い道路を車が行き交う中、脇の歩道を歩きながらふと空を見上げた。
ビルの谷間から垣間見える青空、のんびりと横切っていく雲。
もう夏が近いせいか、陽射しの粒子までが見えるように感じる。
青さがあまりに眩しすぎて、僕は視線を地上へと戻す。
 
 

通り掛けのビルのガラスに映る自分の姿。
その表情は     あからさまな憂鬱。
母からの電話を受けてからずっと、気分は浮かぬまま。
釈然としないもやもやが、深く重く沈殿している。
 
 

空の青。
心の青。
同じBlueでも、ずいぶん違うものだと思う。
 
 

このままではいけないと、頬を軽く叩いて表情を引き締めた。
 
 
 
 



 
 
 
 

交差点を左に折れ、1ブロック歩いた先に見えた駐車場の矢印。
数台並んでいるタクシーを横目に見ながら、待ち合わせ場所であるホテルのエントランスホールへと入ってゆく。

丁度良く設定された空調が全身を包み、外気で熱せられた体温が落ち着きを取り戻す。
古めかしい大時計の針は、まだ約束の時間に余裕があることを指し示していた。
ガラスで仕切られた内庭を半ば囲むように並ぶ、コーヒー・ラウンジの丸いテーブル。
そのうちのひとつに座っていた初老の男性が、ゆったりとした動作で立ち上がり片手をあげた。
冬月先生。
母の大学時代の恩師であり、僕も幼い頃から良く面倒を見てもらった人。

傍らまで近づき小さく会釈をした僕に、彼は右手を差し出した。
 
 
 
 

「久し振り、シンジ君。
今日は無理に呼び出したりして済まないな」

「お久し振りです、冬月さん」

「君に会うのは2年振りかな。
立ち話も何だし、とにかく座りなさい」
 
 
 
 

僕は握手した手を離すと、勧められるがままに左隣の椅子へ腰を下ろした。
ウェイトレスが水の入ったグラスをテーブルに置き、僅かに首を傾げながら注文を聞く。
席を離れる背中をちらりと見た後、彼はいつもの穏やかな口調で話し始めた。
 
 
 
 

「唐突な話で申し訳ないね」

「………いえ。
いきなりお見合いをしろなんて言われて、驚きはしましたけど」

「詳しい事は?」

「何も……母から電話を受けたのも一昨日ですし」

「ははは、ユイ君も相変わらずか……」
 
 
 
 

冬月さんはうんうんと頷きながら僅かに苦笑し、煙草のパッケージに手を伸ばした。
Zippoの軽い音、立ち上る紫煙。
灰皿に灰を落としながら、彼は僕を見た。
 
 
 
 

「簡単に事情を説明しておこうか。
彼女………惣流君と言うのだがなかなかの才媛でね、今年の春から客員講師として大学のほうに来てもらっている。
私とは学部が違うので面識はなかったのだが、先日の教授会で紹介されたのだよ。
旧知の教授に『良い男がいたら紹介してやってくれ』と言われた時君の事を、な。
知っての通り私には子供も居らんし、知り合いも皆それなりの歳だ。
情けない話だが、若い男と言われてシンジ君しか思い浮かばなくてね。
君は我が子同然のようなものだから、つい………色々とね」

「冬月さんには昔から可愛がってもらいましたからね」

「酒の席での話だったから、彼女もその場では受け流していたのだが……その後連絡が来たのだよ。
君に興味を示したらしく、出来るならば一度逢いたい、と。
それでユイ君に話したのだが……」

「………そうですか」
 
 
 
 

注文したデミタスがテーブルに置かれたところで話が中断する。
ごゆっくりどうぞ、という言葉と共に席を離れてゆくウェイトレス。
ホテルのラウンジという事もありあまり期待していなかったのだが、デミタスは思いのほかに上出来だった。
 
 
 
 

「迷惑………だったかな?」
 
 
 
 

紫煙をゆっくりと吐き出しながら、彼は灰皿に吸いさしを捻じ込む。
突然の言葉に、僕はデミタスから口を離した。
 
 
 
 

「迷惑、ですか?」

「いや、君の事情を知らずに話を持っていってしまったからな。
付き合っている女性でもいるかもしれなかったろう?」

「別に迷惑だなんて………それに、付き合ってる相手もいませんよ」

「そうか、ならば良いのだが………」

「どうしたんですか、いきなり?」

「ん………表情が硬いように見えてな」
 
 
 
 

彼は視線を微妙に外し、デミタスを口にする。
いつも通りの落ち着きぶりに、僕は思っている事そのままを口にした。
 
 
 
 

「……緊張してるんですよ。
お見合いなんてした事ないし、相手の事は何もわからないし」

「ユイ君は見合いと言ったようだが、そんなに堅苦しいものではないんだ。
別に結婚を前提としなければならないわけではないし、ちょっとした紹介だと思ってくれれば良い。
ま、いつも通りに………と言っても、無理はあるかもしれんが」

「できるだけ落ち着こうとはしているんですけどね。
それに、疑問もあるし」

「疑問?」

「ええ……どうして僕なのかな、って。
僕は何の取柄もないし、ごくごく平凡だし。
いくらなんでも、そんなに興味を引かれるほどじゃないはずなんですよね。
それに冬月さんの話では、彼女は相当な人らしいじゃないですか?
僕なんかで良いのかな?って思えて……」

「そんな事、特に気にする必要はないよ。
さっきも言ったが、彼女がシンジ君に興味を持ったわけだからな。
別に誇張したわけではないが、何か感じるものがあったのだろう。
人の縁はどう繋がるかわからぬものだからな………」

「………」
 
 
 
 

やはり釈然とせず、考え込んでしまった僕。
彼は苦笑いを浮かべながら、デミタスをソーサーへと置いた。
 
 
 
 

「まったく、君は妙なところだけ父親譲りだな」

「そうですか?」

「ああ、今でもはっきりと覚えているよ。
碇とユイ君との出会いも、同じようなものだったよ……………」
 
 
 
 

それから暫く、冬月さんは昔話を聞かせてくれた。
時折身振り手振りを加えて、僕が覚えていない事や知らない事を色々と。

そんな姿を見て、話を聞いて僕は笑った。
次第に緊張が薄れていくのを感じながら。

さりげない彼の気遣いに、僕は心の中で手を合わせた。
 
 
 
 



 
 
 
 

「……遅いな」
 
 
 
 

そう呟きながら、冬月さんは腕時計を見た。

昔話に花を咲かせている間に約束の時間を過ぎた。
けれど、彼女は一向に姿を見せない。

もしかしたら     という微かな不安が頭をもたげかける。
 
 
 
 

「何かあったのでしょうか?」

「………どれ、連絡してみるか」
 
 
 
 

眉根を寄せながら懐に手を伸ばしかけたその時、抑えられた電子音が響いた。
彼は液晶の表示を見て苦笑した後、通話ボタンを押して耳に当て
 
 
 
 

「もしもし」
 
 
 
 

と言った。
そして相手が喋るのを暫く聞いてから二度三度と頷き、
 
 
 
 

「……彼女からだ。
君に代わって欲しいそうだよ」
 
 
 
 

と、いきなり僕に携帯を差し出した。

鼓動が高鳴る。
頬が紅潮していくのがわかる。
僕は微かに震える手で携帯を受け取った。
 
 
 
 
 


………もしもし、お電話代わりました
 
惣流です、初めまして
連絡が遅れてしまい、申し訳ありません
あの……初めまして、碇 シンジです
 

 
 
 

受話器越しに聞こえてくる、鈴のような声音。
自分の意志とは関係なく、勝手に動悸が早まってゆく。
僕はそれを表に出さぬよう、なるべく落ち着いた声を出した。
 
 
 
 
 


気にしなくて良いですよ、何か急用でも?
すいません、ちょっと………
そちらに伺えるのはもう少し後になると思うんです
なんでしたら日を改めてでも構いませんけど
あ、30分程度待っていただければ大丈夫だと思うのですが
………ご都合は?
ちょっと待ってください
 

 
 
 

僕は送話口を手で塞ぐと、冬月さんに聞いた。
 
 
 
 

「30分ほどで来れる、って言ってますけど」

「ふむ……君は大丈夫なのかね?」

「この後に予定もないので、僕は平気です」

「済まないが、私はこれから約束があるんだ。
彼女と引き合わせた後、すぐに辞するつもりだったのだが……ひとりでも平気かね?」

「ここに居ればいいだけでしょう?
大丈夫ですよ」
 
 
 
 

冬月さんはふむ、といった感じで頷いた。
僕はそれを了解と取り、再び携帯を耳にする。
 
 
 
 
 


お待たせしてすみません。
冬月さんは所用があるので、僕ひとりで構わなければお待ちしてますが
わかりました
なるべく早く行くようにします
無理はなさらないで結構ですから
 

 
 
 

それから僕の携帯番号を教えた後、電話は切れた。
冬月さんは携帯を懐に仕舞うと、やおらに席を立ち上がる。
 
 
 
 

「では、私は失礼するよ。
連絡先さえ判っていれば、何も問題無かろう」

「はい」

「実際に会って話をすれば彼女の人となりも見えてくるだろう。
肩の力を抜いて、気楽に……な?」

「わかりました。
お忙しいところ、色々とありがとうございました」

「うむ………良かったら今晩にでも電話をくれたまえ。
いずれにせよ、君自身が決める事だからな」

「はい」
 
 
 
 

席を立とうとする僕を手で制し、冬月さんはラウンジの出口へと向かう。
彼の背中が完全に消えた後、背凭れに深く寄り掛かった。

ああは言われたものの、やはり緊張は隠せない。
僕は彼女の事を何も知らないのだ。
顔も、姿も、何もかも。

知っているのは彼女が講師である事、そして受話器越しの声だけ。
ほんの短い間に交わした会話を反芻しながら、どんな女性なのか想像しようと眼を閉じる。
 
 

その時だった。
 
 
 
 



 
 
 
 

「………ココ、良いかしら?」

「………え?」
 
 
 
 

いきなり掛けられた声に驚きつつ開いた目の先に、帽子を深くかぶった女性の姿が見えた。
僕の返答を待たずに座った彼女は、両肘をテーブルに突いて顎の下で手を組む。
 
 
 
 

「どなたかと待ち合わせ?」

「あ………そうです」

「そんなのすっぽかして、私に付き合わない?」

「…………は?」

「だから、これからデートしません?」

「で、デートって………」
 
 
 
 

突然の展開にうろたえまくる僕。
急激に跳ね上がる鼓動。
どうしても声が上擦ってしまう。
 
 
 
 

「あ………あの、人を待ってますから」

「あら、私じゃ不足?」

「い、いえ。
そういう訳じゃなくて、その………どうして僕なんですか?」

「さっきアナタを見掛けて、良いなぁって思ったの。
でも、もう一方いらっしゃったでしょう?
だから声を掛けるのは止めようと思っていたのだけれど、そちらの方はいなくなったし」

「………」

「待ち合わせているのは恋人?」

「そ、そんなんじゃないです」

「なら構わないでしょう?
相手には悪いかもしれないけど、アナタから連絡すれば何とかならない?」
 
 
 
 

唇の端に深い微笑が浮かぶ。
大き目のつばで隠されているから、それ以外の表情は見えない。

心の中で深呼吸を何度も繰り返し、ようやくの事で少しだけ落ち着きを取り戻した。
 
 
 
 

「………申し訳ありませんが、貴女にお付き合いする事はできません」

「どうして?」

「どうして、って………僕には先約があるんです。
約束を破るわけにはいきませんから」

「ふぅん……そのヒトって、女性?」

「はい」

「美人なの?」

「さぁ………」

「さぁ、って?」

「彼女とは今日初めて会うので。
写真も見た事がないから、美人かどうかなんてわかりませんよ」
 
 
 
 

それを聞いた彼女は、唇の片方だけを微かに持ち上げた。
 
 
 
 

「………なら、とんでもないブスが来る可能性もあるわけね。
それでも構わないの?」

「……どうしてそんな事を言うんですか?
僕は容姿が悪いからってすぐに立ち去るような真似はしません」

「本当に?」

「ええ」

「本当の本当?」

「……貴女は何が言いたいんですか?」

「あら、オトコだったらそうなんじゃないの?
見知らぬ相手、それも女性ならばブスよりは美人のほうが良いじゃない」

「相手のことはわからないけど自分は美人だと自覚している、だから……僕に付き合えと仰ってるんですか?」

「そうよ」
 
 
 
 

細い指が帽子に掛かり、ゆっくりと持ち上げられてゆく。

流れるような琥珀色の髪。
白磁のように滑らかな肌。
空の色と同じ蒼い瞳。
細く通った鼻筋、形良い桜桃色の唇。

雑誌のグラビアから飛び出してきた、と言っても通用するかもしれないくらいの美女。
そんな女性が、僕の目の前で微笑んでいた。
 
 

僕は言葉を失った。
いくら彼女が自分の容姿に自信を持っている、とはいえ     まさか、これほどまでとは思わなかったのだ。
彼女の言動に対して湧き上がった微かな怒りも、反発心も吹っ飛んでしまうような衝撃。
 
 
 
 

「どうしたの?」
 
 
 
 

呆然としている僕を上目遣いで見つめながら、クスクスと笑う彼女。
小首を傾げたその姿を見た途端、心臓は跳ね上がり頬は一気に熱を帯びた。

瞬間湯沸機のごとく、一気に真っ赤になった僕の顔。
余程可笑しかったのか、含み笑いがが次第に大きくなってゆく。
やがて我慢できなくなったのか、彼女は大声で笑い出した。

     テーブルを叩くというおまけつきで。

ホ−ルに響く笑い声、何事か、と集まってくる周囲の視線。
僕はただ、俯き身体を縮込ませているしかなかった。
 
 
 
 



 
 
 
 

「くっくっくっくっくっ…………」
 
 
 
 

足元の短い影を踏みながら歩く道。
まだ笑い止まぬ彼女の隣で、僕は天を仰いだ。
 
 

あれから。
笑い声の隙間を突くように、彼女は事情を話し始めた。

僕がラウンジに入る前から、自分はそこで待っていた事。
冬月さんの前で猫を被るのが面倒だからと、わざと遅れるよう電話をした事。
自分の事を明かさなかったのは、僕がどういう反応を示すのか見てみたかった事     等々。

笑いが少しだけ収まってきた時に差し出された身分証明証を見て、僕があんぐりと口を開けて     それを見た彼女が、再び笑い出して。
陽射しの下へと出てから暫く経つのに、ずっと彼女は笑いっぱなし。
小刻みに揺れる髪を見下ろしながら、僕は今日何度目かの溜息を吐いた。
 
 
 
 

「はぁ………」

「あー可笑しい………って、怒っちゃった?」
 
 
 
 

突然彼女は歩調を速めて前に出ると、くるりと振り返った。
きらきらと輝く黄金色の髪が身体の動きに合わせて広がり、空色の瞳が僕を見上げる。
自分の背中に両手を回し、後ろ向きのまま歩き続けながら同じ台詞を繰り返す。
 
 
 
 

「……怒った?」

「………怒ってるわけじゃないですよ」
 
 
 
 

不意に彼女は足を止め、ふたりの距離が一歩半だけ縮まる。
まっすぐに見つめる瞳。
なんとなく気恥ずかしくて、見つめ返す事ができなくて。
僕は視線を逸らし、明後日の方向に目を向けた。
 
 
 
 

「ホントに?」

「ええ」

「なーんか信憑性ないのよね」

「………」

「ンもう、ドッチ向いてンのよっ?」
 
 
 
 

急に近づいた声。
頬に触れた、少しだけ冷たい手。
首の痛みと共に、急激に流れる風景。
 
 
 
 

「痛たたた………あ」
 
 
 
 

15センチ下に見えたのは、
僕の頬をしっかりとホールドした両腕。
ちょっとだけ眉をしかめて見上げる瞳。
『ムっとしてるんだぞ!』と言いたげに突き出された唇。
細くて白い首筋。
そしてシャツの隙間から垣間見える     
 
 

思わず生唾を飲み込んでしまった僕。
彼女の視線が、僕の顔と視線の先を上下して     
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「………………………すけべ」

「………………………ゴメン」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『出逢った記念』と
『鑑賞代金』として買わされたイヤリング。
 
 

母が勝手に予約していた、フレンチ・レストランでのフル・コース。
 
 

彼女と別れた帰り道。
給料日までの日数を指折り数えたのは、これが初めてだった。
 
 
 
 



 
 
 
 

こんな感じの出逢い。
最初はどうなる事かと思ったけど、思いの外相性は良かったようで。

平日は2日と空ける事なく電話を掛け合って。
週末ともなれば、土日のいづれかは必ず逢って。

新装開店したアウトレット・モールで荷物持ちさせられたり
ナイトシアターで寝惚け眼をこすりながら一夜を過ごしたり
公園の芝生が気持ちよくてついウトウトして、気付いた時には真っ暗になってたり
動物園内の店でサルのぬいぐるみが欲しいと駄々こねられたり
彼女の寝顔を横目で見ながら、高速のランプを通過していったり     

どこへ行くにも彼女が主導で、僕は引っ張り回されている     とも言えなくもないけれど。
 
 

それでも、彼女と一緒にいるのは楽しかった。

わがままだけど優しくて。
マイペースだけど気を使ってくれて。
ちょっとした事で拗ねたりするけど、最後には必ず向日葵のような笑顔になって。

その笑顔を見れるだけで、『出逢えて良かった』と思えた。
 
 

いつしか心の中に住み着いた彼女。
ようやく照れる事なく『アスカ』と呼べるようになって     彼女は初対面から呼び捨てだったけど。
 
 

初めて会った日から、あっという間に2ヶ月が過ぎた。
 
 
 
 



 
 
 
 

いつもより1時間早く起きた僕は、カーテンを思い切り引き開けた。
突き抜けるような青空が広がり、部屋の中に陽が燦燦と降り注ぐ。
今日は暑くなりそうだ、などと思いながら、パジャマ代わりのTシャツを勢い良く脱いだ。

シャワーを軽く浴びて、ひとり分の朝食を済ませて。
昨夜実家の物置から持ってきたバスケットの埃を掃った後、ふたり分のランチの準備を始めた。

バゲットの半ほどに切れ目を入れて、マスタードをきかせたマヨネーズを塗りこむ。
適当に千切ったレタス、水に晒したタマネギ、ピクルス、かりかりに焼いたベーコン、生ハム、そして粉におろしたエダムを挟んで。
ラップでちょっときつめに縛り、バゲットサンドは完成。
ニンジン、カリフラワー、アスパラは軽く塩湯でして、根と葉先を切ったエシャレットを添えて。
つぶしたゆで卵と水切りしたホールコーンをマヨネーズで和えて、サラダに。
ニンニクをきかせたフライド・チキン、デザートとして用意したザーネクワルク     
ちょっと多目かな、と思えるほどのランチで、あっという間にバスケットが埋まる。

サーモスにコンソメ・スープを注ぎ込んでいる時、ふとアスカの事が頭に浮かんだ。
 
 
 
 

『今週末は海にドライブね。
だからシンジ     アンタがおベント作ってきなさい!』
 
 
 
 

3日前、受話器の向こう側から聞こえてきた声。
一方的な約束     というよりも命令に近い彼女の口調。

この量を見たらどんな表情をするのだろう?
そんな事を考えながら、冷蔵庫のドアを開けて瓶を一本取り出す。
昨夜のうちに作っておいた濃い目のコーヒーは、気持ち良いほどにしっかりと冷えていた。
 
 

出掛けなければならない時間が迫ってきたところで、僕は服を着替えた。
オレンジと黒の横縞が入った半袖のラグビー・ジャージ、そして洗いざらしのジーンズ。
羽織る必要はないと思うけれど、一応サマー・セーターを持って。
テニス・シューズを履き、バスケットとふたつのサーモスが入ったトート・バッグを抱えて玄関を出た。

程好く冷えたホールから一歩出た途端、真夏の陽射しが射るように降り注ぐ。
ポケットからキー・チェーンを取り出し、ぶら下がっているキーのひとつを鍵穴に差し込む。
ボタンを押すと同時にくぐもった機械音が低く響き、鉄板が目の前をゆっくりとせり上がっていった。
2台の自動車を収容できる立体式の駐車設備。
その動きが完全に止まったところで、ステーション・ワゴンの運転席側へと移動する。
ドアロックを解除し、荷物を後部座席に置いて。
イグニションを軽く捻ると、エンジンは一発で目覚めた。
 
 
 
 
 



 
 
 
 

僕の家から国道を30分ほど走った交差点を左に折れる。
信号をふたつ通り過ぎた先にある、古びた駅舎。
改札を少しだけ通り過ぎた日陰の下に、彼女の姿が見えた。

大きめな麦藁帽子、ルーズに着たオフホワイトのTシャツ。
7分丈のコットン・ジーンズ、そして素足にミュールを履いて。

その後姿にほんの短くクラクションを鳴らし、ステーション・ワゴンを停めてドアの外へと出た。
振り向きざま見せた笑顔が眩しくて、思わず目を細める。
小走りで駆け寄ってくる彼女の肩で、ディ・バッグが小刻みに揺れていた。
 
 
 
 

「待った?」

「ううん、さっき着いたばかりよ」

「良かった。
ちょっと遅れそうだったから、待たせてたら悪いな………って思って」

「フフっ、シンジは時間に正確だから。
でも………初めてだね」

「何が?」

「………アタシのほうが先に着いてたの」

「そういえば、そうかな?」

「いつも待たせてばっかだからサ、たまには先に待つのも良いかなぁ、って思ったのよ。
結構新鮮だったな………ほんの短い時間だったけど、色々思い浮かべたりして」

「たとえば?」

「へへへ………ナイショ」
 
 
 
 

紅く可愛い舌をぺろっ、と小さく出した後、アスカは僕の脇をすり抜けていった。
後部座席のドアを開け、ディ・バッグを放り込む。
再び顔を出した時、彼女は少しだけ驚きの表情を見せて言った。
 
 
 
 

「ねぇねぇ、これ………作ってきてくれたの?」

「アスカのリクエストにお応えして、ね」
 
 
 
 

僕の答えに、アスカの笑みが深まった。
 
 

それからすぐに駅前を離れて、20分ほどで国道は海岸沿いへと出た。
『風が入ったほうがいいから』と、窓は全開。
少しきつくなった潮の香りが、ひっきりなしに通り過ぎてゆく。

いつもよりちょっとだけ高い波。
陽に照らされた飛沫がきらきらと光り、海の青さが際立って見える。
白い波が幾筋も重なっている風景を、アスカは飽くことなく見続けていた。
 
 
 
 

「天気が良いね」

「うん、夏盛りって感じがするわね」

「パラソルかなんか借りたほうが良いかな?
あまり焼けすぎると辛そうだし」

「そうね、海の家に行けば貸してくれるでしょ。
ねぇシンジ、日焼け止め持ってきた?」

「あ…忘れた」

「あははは、ドジ。
良いわ、アタシの貸してあげるから。
………日焼け止め、塗りっこしようか?」

「…………へ?」
 
 
 
 

思わぬアスカの一言に、僕は思わず視線を彼女に向ける。
 
 
 
 

「ちょ、ちょっとぉ!
ちゃんと前見なさいよっ!!」

「う、わわわっ!?」
 
 
 
 

余所見をしていたおかげで、ステーション・ワゴンは大きく蛇行してしまった。
僕は慌ててステアリングを切り、反対車線にまで膨らんだ進路を元へと戻す。
 
 
 
 

「あ、あははははは………」

「ンもう………変な想像しないの、スケベ!
アンタは運転に集中してなさい!」

「………はい」
 
 
 
 

思い切り抓られた腕が、ヒリヒリと痛かった。
 
 
 
 



 
 
 
 

国道を離れ、行き止まりまでまっすぐ。
入り口で料金を払い、駐車場の中へと入ってゆく。
ステーション・ワゴンのガラス越しに、海岸へと伸びてゆく砂丘のスロープと、その稜線が見えた。
後部座席から荷物を下ろしそれぞれの肩にぶら下げた僕達は、スロープに付けられた砂の道を並んで登っていった。

真上から射す太陽。
何も遮るもののない陽射し。
額の汗が頬を伝い、足元にだけできた影へと落ちてゆく。

テニス・シューズが粒子の細かい砂に埋まって、歩きづらい坂道。
アスカのミュールにも、砂が流れ込むように纏わりついた。
 
 
 
 

「あっつーい!」

「これだけ陽射しがきついと、砂も焼けるからね」

「シンジは………平気そうね♪」

「ソックス履いてるから……って、ええっ!?」
 
 
 
 

突然、背後から伸びた腕。
ふわり、と掛かる重み。
鼻腔を擽る甘い香り。
頬に触れた長い髪。
そして、背中に感じるやわらかな     
 
 

見た目以上に、想像以上に軽いアスカの身体。
そのおかげか、よろめく事なく立ち続ける事ができた僕。

身体はともかく、心の動揺は抑えることなんてできなかったけれど。
 
 
 
 

「あああああああアスカぁ!?」

「アンタ、オトコでしょ?
コレくらいのコトでオタオタしてンじゃないわよっ!
それともぉ、カノジョが苦しんでる姿を、指を咥えて見てるつもり?」

「かっ…………かかかかかカノジョって?」

「なーによぉ、違うとでも?」

「い、いや………その………」

「文句言わないでサッサと歩く!
…………余計なコト考えたら、コロスわよ?」
 
 
 
 

文句なんか言えるわけないじゃないか     とか。
汗臭いの、気付かれないかなぁ     とか。
反応しちゃったどうしよう     とか。

絶対に口にしちゃダメだ、と強く心に言い聞かせて。
今まで以上に歩き辛くなったスロ−プを、一歩一歩踏みしめながら歩き出した。
 
 
 
 



 
 
 
 

何とか浜辺まで辿り着いて、場所を確保して。
海の家で借りたパラソルを立て、砂にできた影の下にビーチマットを敷いて。
たったそれだけで、準備は完了。

その間にアスカは着替えに行くものだと思っていたけど、ずっと手伝ってくれていた。
荷物をマットの上に置きながら、彼女のほうを見るともなしに聞いた。
 
 
 
 

「ねぇアスカ、着替えてこなくて良いの?
確か脱衣場もあるはずだし、僕が荷物見てるから行ってきなよ」

「ならシンジのほうが先に行って良いわよ。
チャチャっと着替えできるンでしょ?」

「あ、僕は下に履いてきてるから」

「なぁンだ………アタシも同じよ」
 
 
 
 

そう言うや否や、麦藁帽をビーチマットへ放り投げたアスカ。
そして     
 
 

何の躊躇いもなく一気に引き上げられたTシャツ。
その下から現れたふくよかなふくらみ、それを隠す真っ赤なビキニ・トップ。
コットン・ジーンズから引き抜かれた両足。
その付け根には、かなりハイレグのボトム。
ディ・バッグの中から取り出した同色のパレオを細い腰に巻いて。
ちょっと顎を上向きにしながら、肩に掛かった髪を両手で流して。

明るい陽射しの下で。
眩しいくらいの白い肌と、あまりにも健康的すぎる肢体を惜しげもなく開放して。

止めを刺すかのように、アスカはニッコリと微笑んだ。
 
 

突然目の前で起きた、今日のセカンド・インパクト。
 
 
 
 

「………シンジぃ?」
 
 
 
 

と、彼女の声が耳に届くまで。
僕は何が起きたのかもわからず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 
 
 
 

「………………………………へ?」

「ちょっとぉ…………『へ?』ってのはナニよ?
もっとこう、違う台詞があるでしょぉ?」

「あ、アスカぁ!?」
 
 
 
 

突然目の前に現れた彼女。
ちょっとだけ不機嫌そうな視線で見上げながら、胸の前で腕を組んで。
強調された谷間に一瞬だけ目が行ったけど、無理矢理視線を合わせた。
 
 
 
 

「ご、ゴメン…………その………驚いちゃって、さ…………
えと、その………良く、似合ってる…………うん、可愛い………よ………」

「んー………ま、シンジじゃソレくらいが限度よね。
でも、アリガト♪」
 
 
 
 

にーっこりと微笑むアスカ、そっと胸を撫で下ろす僕。
だけど、彼女の笑みはチェシャ猫のそれに変わった。
 
 
 
 

「………で、アナタはいつ着替えるのかな?
シンジくぅん?」

「………………………………はい?」

「アタシの着替えだけ見ておいて、自分のは見せないなンてコトないわよね♪」

「あの、アスカ………さん?」

「なーンだ、手伝って欲しいの?
ならそう言えばイイじゃない♪」

「わ、ちょっ………やめっ………!!!」
 
 
 
 

ラグビー・ジャージに手を掛け、無理矢理引っ張り上げようとするアスカ。
バタバタと腕を振り、抵抗する僕。

ビーチマットに押し倒されて、悲鳴と笑い声が響いて。
周囲にいた人達には奇妙な光景に見えただろう。

僕は真っ赤になりながらも、なんとかジーンズだけは死守した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

後で聞いたんだけど、『死ぬほど恥ずかしかったンだからね!』だって。
だったら、やらなきゃ良いのに     なんて、言えるわけなかったけど。
 
 
 
 



 
 
 
 

それから、僕達は時間を忘れて遊びまくった。
ビーチボール、水辺での水の掛けあい、遠泳、スイカ割り、etcetc......

バスケットの中身なんかあっという間にたいらげた。
あれだけ動けば当然だと思う。
マットの上に広げた時の歓喜の声、デザートを食べる時の満足そうな表情。
それだけで、『作ってあげて良かった』って思えた。
 
 

でも、楽しい時は過ぎるのが早くて。
波が高くなり海水浴客の姿もまばらになった頃、アスカは海の家にシャワーを浴びに行った。
その間に荷物をステーション・ワゴンに積んで、彼女と入れ違いで僕もシャワーを浴びる。

駐車場を出る頃には、太陽がずいぶん低い位置まで下りてきていた。
 
 
 
 



 
 
 
 

「ねぇ、シンジ」
 
 
 
 

思った以上に道路は混雑していて、なかなか前に進めずにいた時。
窓枠に腕を掛け、外を眺めていたアスカがぽつり、と呟いた。
 
 
 
 

「何?」

「ちょっと………クルマ、停めない?」

「でも、遅くなるよ?」

「どうせ渋滞だし、進めないじゃない?
せっかくだからさ、海…………見ようよ」

「………そうだね」
 
 
 
 

小さなバス停、その前に広がる充分なスペース。
バスの邪魔にならない位置にステーション・ワゴンを停め、僕達は車外へと出た。

海岸線に沿って長く防波堤が伸び、その向こうから細波の音が聞こえてくる。
僕は手摺につかまって防波堤をよじ登ると、アスカの手を取り引っ張りあげた。
 
 

瑠璃色、薫色、竜胆色、菖蒲色、牡丹色。
日が暮れるにつれ、空はせわしなくその表情を変えてゆく。

やがて薄明の時を過ぎ、ヘリオトープ、アメジスト、くわのみ色、インディゴ・ブルー、ミッドナイト・ブルーを経て、闇に吸い込まれるように漆黒へ。
空の主役は太陽から星へと代わる。
 
 

アスカも、僕も何も言わず。
防波堤に並んで腰掛けながら、時と共に変わりゆく風景を眺め続けた。
 
 
 
 

「………綺麗だね。
街中じゃ、こんな星空は見えないし」
 
 
 
 

街灯の薄明かりの下、今にも降りだしそうな星々の瞬きをアスカは飽く事なく見上げていた。
 
 
 
 

「……アスカ?」
 
 
 
 

何も答えぬアスカの横顔。
視線は空を、もっと遠くを見つめているようで。
声を掛けるのが躊躇われて、何も言えぬまま視線を戻す。
 
 

寄せては返す波。
穏やかに光を放つ満月。
幾分涼しくなった風が、彼女の髪をたなびかせる。

これ以上ここに居続けたら、身体が冷え切ってしまう。
そう思い、サマー・セーターを彼女の肩に掛けようとしたその時だった。
 
 
 
 



 
 
 
 

「……………シンジ」

「え?」
 
 
 
 

腰を浮かしかけた僕を引き止めるかのように、腕が絡まる。
シャンプーの香りが、肩のあたりからほのかに漂う。
日焼けして火照った肌から、彼女の体温が流れ込む。

急激に高鳴った鼓動は、アスカにも感じられているはず。
けれど彼女はそれを気にする風もなく、僕にだけ聞き取れるくらいの小声で話し始めた。
 
 
 
 

「…………あれから2ヶ月、だね」

「……あれから?」

「アタシ達が出逢った、お見合いの………あの日」

「2ヶ月かぁ……もう、なのかな。
それともまだ、なのかな?」

「たったの、よ。
アタシ達、今日でお別れってわけじゃないでしょ?」

「うん、そうだね」

「…………でもね、ホントは…………」

「?」
 
 
 
 
 

アスカはもぞもぞと何かを取り出し、僕の手に握らせた。
マグ・ライトの先を捻ると、丸い明かりの下に一枚の画像が浮かび上がった。

写真の中の少女。
縦位置の画面に捉えられた彼女の視線は、まっすぐにレンズを見つめていて。
僅かに色褪せていたけれど、その髪と瞳の色は何故かはっきりとしていた。
 
 
 
 

「………アスカ、だ」

「そう、10年前の私よ」

「じゃ、中学生くらいだね。
学校……なのかな、制服着てるし…………あれ?」

「どうしたの?」

「いや、どこかで見た事があるような………うーん………」
 
 
 
 

その言葉に、アスカの肩が小さく反応した。
ふるふると小刻みに揺れたと思ったら、だんだん大きくなってきて     
 
 
 
 

「くっ……ククククっ…………あははははははは!」
 
 
 
 

突然、アスカは笑い始めた。
可笑しくてたまらないといった感じで僕の腕に縋りながら、大声をあげて。
なおも笑いながら、彼女は別の写真を手渡してきた。
そして、その写真を見た途端     
 
 
 
 

「あーっ!?」
 
 
 
 

そこに写っていたのは、一組の少年少女。
場所は音楽室だろうか、後方に押しやられた机が見える。

少年は椅子に腰掛け、脇に立てたチェロを支えながら。
少女はその傍らに立ち、背筋をまっすぐに伸ばしながら。
少しだけぎこちない笑顔と、満面の笑顔が並んでいる写真。
 
 
 
 

「これ………僕だ!?」

「碇シンジ君、14歳」

「どうしてアスカが写真を?
それに………どうして一緒に?」

「思い出せない?」
 
 
 
 

見上げる視線と、僕の視線が絡まり合う。
相当間抜けな顔をしているに違いない、と思いながら、もっと間抜けな声で彼女に聞いた。
 
 
 
 

「………何故?」

「思い出せない?」
 
 
 
 

同じ台詞を繰り返すアスカに、僕はただ頷くだけ。
 
 
 
 

「仕方ないわね………あのね、10年前。
ほんの一ヶ月だけだったけど、私は日本にいたの。
留学生、ってコトでね」

「中学2年の時………」

「多分、シンジは気にしてなかったでしょうね。
クラスも別だったし、話をしたのも一度きりだったから」

「………ゴメン、思い出せないよ。
確かにそんな話題で盛り上がっていたような気はするけど………」

「良いの、あの頃シンジは忙しかったし。
発表会の練習、ずっとしてたじゃない?」
 
 
 
 

おぼろげな記憶。
恒例の夏季発表会。
精を出していた練習の日々。
夕焼けの差し込む教室、そこに入ってきた     
 
 
 
 

「……………あ」
 
 
 
 

突然蘇った情景。
 
 
 
 

「…………思い出した?」
 
 
 
 

目の前の彼女が嬉しそうに微笑む。
あの日、一緒に写真を撮る事を承諾した時と同じように。
 
 
 
 

「あれは確か、終業式の日………」

「そう、私が学校に通う最後の日。
あの時、話をしたのが最初で最後だったわ」

「………まさか、あのコがアスカだったなんて………」

「シンジは知らなかったでしょうけど、私はアナタの事知ってた。
………放課後の校舎でたまたま聞こえてきたチェロの音色が、シンジに逢わせてくれたのよ」
 
 
 
 

アスカはそっと、肩に頬をすりよせた。
 
 
 
 

「その音はとても繊細で、透明で、でも力強くて…………
どんなヒトが弾いてるンだろう?って思ったから、音を頼りに探したわ。
校舎の端にある音楽室からそれは聞こえてきていて。
邪魔をしたくなかったから、ドアの隙間からそっと覗き込んだの。
夏の陽射しが射す外とは別の世界かと思ったわ。
空気が引き締まっていて、燐としていて………
その空間の中に…………アナタがいたのよ」

「………全然気付かなかった」

「ホントは声を掛けたかった、話をしたかった………でも、できなかった。
だってシンジ、ものすごく集中してたし…………それに、楽しそうだったから」

「楽しそう?」

「ウン、すごく。
眼を閉じて、ゆったりと身体を揺らしながら音色を奏でて。
まるで、チェロとダンスしてるみたいだったわ」

「………そうかもしれない。
僕は人付き合いが苦手だったから、練習もひとりでやってる事が多かったし。
他の人と合わせるのも嫌じゃなかったけど、自分の思うがままに弾けるあの時間は好きだった」
 
 
 
 

腕の力がふ、と緩まり、アスカは僕の指に指を絡める。
 
 
 
 

「それから、放課後には必ず音楽室に行くようになったの。
廊下の壁に寄り掛かって、目を閉じて。
壁一枚隔てた、観客は私だけの演奏会。
それを聴くためだけに、ずっと………」

「アスカ………」

「でも、私には時間がなかった。
たった一ヶ月だけの留学。
終業式の翌日には、日本を発たなければならなかったの。
これが最後なんだ、って思ったら………どうしても我慢できなくて。
クラスの中でも特に仲が良かったコに頼んで、アナタのところへ行ったのよ」

「………あの時はビックリした。
いきなり声を掛けられて、『一緒に写真を』って頼まれて………」

「この写真は、私にとって宝物だったわ。
異国で出逢ったヒトとの、たった一枚だけの写真。
チェロを弾くのと、『碇シンジ』という名前以外何も知らない………初恋のヒト。
もう2度と逢えないと思ってた、だから………ずっと大切に仕舞っていたの」

「………ゴメン、僕はすっかり忘れてた。
写真を撮った事も、君と出逢って射た事も全部………」

「良いわ、別に。
もし私が客員講師として来日しなかったら、もし冬月教授の口からアナタの名前が出ていなかったら………2度と逢えなかったはずだもの。
偶然に偶然が重なって、こうして再会できて………今、幸せだから」
 
 
 
 

そっと顔を上げるアスカ。
淡い月明かりに照らされた蒼い瞳が、僕をまっすぐに見つめていた。
 
 
 
 

「…………ね、シンジ」

「………何?」

「昼前に聞いたコト………答えて?
私は、アナタの彼女なの?
それとも………違う?」

「アスカ…………」

「私の気持ちは10年前と変わっていないわ。
昔も、今も………好きになったヒトは、アナタだけ………」
 
 
 
 

答えはひとつしかない
そう言いたげに、彼女は瞼を閉じた。
 
 

ほんの微かに上を向いた顎先。
 
 

そっと触れた頬の、やわらかな感触。
 
 
 
 
 
 
 
 

穏やかな月明かり、ひとつに重なった影。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

微笑むアスカの頬を
一滴の涙が
零れ落ちていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

対向6車線の広い道路を車が行き交う中、脇の歩道を歩きながらふと空を見上げた。
ビルの谷間から垣間見える青空、のんびりと横切っていく雲。
もう夏が近いせいか、陽射しの粒子までが見えるように感じる。
青さがあまりに眩しすぎて、僕は思わず目を細めた。
 
 

一年前、この道を通った時。
通り掛けのビルのガラスに映った自分は     あからさまな憂鬱を浮かべていた。

だけど。
 
 
 
 

「………どうしたの?」
 
 
 
 

すぐ横から聞こえてくる声。
不思議そうに見上げる、蒼い瞳。
 
 
 
 

「何でもないよ、空を見上げてただけ」

「もぉ……そんな余裕ないの、わかってる?
パパとママ、時間に厳しいんだから………走らないと間に合わないわよ!?」

「平気だよ………って、もうこんな時間なの?」
 
 
 
 

腕時計の数字を見て驚く僕、その腕を引っ張りながら駆け出すアスカ。
 
 
 
 

「モタモタしてたら置いてくからねっ!」
 
 
 
 

言葉とは裏腹に、しっかりと繋がれた手。
笑みが溢れている、蒼い瞳。
 
 
 
 

空の青。

彼女の蒼。
 
 

同じBlueが、僕の目の前に広がっていた。
 
 
 
 
 
 
 

fin,
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


管理人のコメント
 抒情詩とも言うべき最近のKISSシリーズとは、また違う文体を見せていただきました。
 淡々と語りかける文章に、アスカとシンジの自然な情景が目に浮かびます。
 さすがに巧いです。
 特に夕暮れの海岸の告白の場面は、思わず唸るものがありました。
 >海岸線に沿って長く防波堤が伸び、その向こうから細波の音が聞こえてくる。
 特別なシーンと言うわけではないのですが、さりげない場面をこんな風に書けるなんて、とても格好良く感じます。
 
 シンジの弾くチェロ。
 それに心惹かれたアスカ。
 10年の時を経て、二人は再会します。
 偶然の出会いが、更なる偶然を呼びます。
 
 タイトルは『Blue & Blue』
 空の青と、心の青。
 憂鬱な色は、アスカとの再開によって二人の未来を暗示させる色へと変わりました。
 
 でも……、ご両親に逢うって事は、きっと
 
 そういうことなんでしょうね。
 
 二人の幸せを心より祈って。
△INDEX