「シンジくん・・・ごめんなさい・・・」
「もう・・・ダメなの? 」
「ええ・・・皮膚が、劣化してきたから・・・」
「・・・そう。」
その日の朝。
・・・きっと綾波の、最後の朝。
パジャマ越しの彼女の暖もりが消えてしまう、そんな一日の始まり・・・
「じゃ、さ? 今日は学校を休んで、何処か遊びに行こうよ。」
僕は、僕に出来る限りの優しさを込めて、彼女に微笑んだ。
この日が来ることは、あの日からずっと判っていたんだ。
綾波と再び会えたあの日。
世界から取り残された僕たちの時間が、再び動き始めたあの日。
あの日から、僕は。
綾波とは何度でもサヨナラを繰り返すって、知っていたんだ。
ま た ね。
結局、僕たちはいつも通りに登校した。
遊園地だって、海だって山だって。
今日までに充分楽しんできたから、最後はあたりまえな幸せを過ごしたい・・・そう彼女が望んだから。
学校で、綾波はいろんな人に話しかけた。
トウジ、ケンスケ、洞木さん、そしてアスカ。
綾波が自分で作った友達とも、いつも通りの笑顔でおしゃべりしていた。
みんなも綾波の事は知っているから、さよならは穏やかに済ませたみたいだ。
アスカだけは、今度こそ奪ってみせる、なんて言ってたけど・・・何のコトだろう?
ともあれ、給水塔の影で涼しい風に吹かれながら、みんなでお弁当を食べるいつもの時間。
綾波は、柔らかい笑みを絶やすことなく過ごしていた。
「・・・!? 」
・・・崩壊が始まるその瞬間まで。
「・・・シンジくん、来て・・・」
すっ・・・と立ち上がった彼女が、僕の手を取って囁く。
手のひらから伝わる感触に、僕は時が来たと悟った。
力を込めればペキッと音を立てて割れてしまいそうな、薄いプラスチックの手応え。
「・・・もう、時間が無いの。」
だから、彼女の言葉に無言で頷く。
「シンジ、さよなら・・・か? 」
トウジがしんみりと呟いた。
輪を描いて座っていたみんなも、箸を休めて僕たちを見ている。
「ごめんなさい、ごはんの途中で・・・」
応えたのは綾波。
幸せな時間の中で逝ける喜びも、別れの寂しさには敵わないのだろう。
今日の彼女は、いつもより少し饒舌だった。
「でも、次のわたしが、いつかきっと続きを食べるから。」
「・・・みんながきっと、わたしに食べさせてくれるから。」
「記憶は、身体が持って逝くけど・・・」
「わたしは、ずっと此処にいるもの。」
「だから・・・また、ね。」
あまり長い話じゃ無かったけど、砂時計の砂は、殆ど使い切ってしまったようだった。
彼女の身体を、キラキラと輝く結晶が覆い始める。
「ごめん、みんな。時間が無いからもう行くよ。」
もはや歩くこともおぼつかない綾波を支えながら、給水塔の反対側・・・明るい日差しの下へと回り込んだ。
コンクリートの壁にもたれるように座り込み、続いて僕の足の間に腰を降ろした彼女を、背後から抱きしめる。
「・・・シンジくん、空が青い・・・」
遠くから届くような彼女の声。
僕はその声に促され、首を反らせた。
空には、雲一つ無かった。
「シンジくん・・・やっぱり、記憶も寂しいって思うの?」
答えを胸に秘めたまま、僕は無言で空を見上げ続ける。
「・・・これは・・・記憶が滴下しているの?」
彼女のお腹の前で組んだ指先に、暖かい物が一粒だけ落ちてきたから・・・
「駄目だよ、ちゃんと空を見上げなくっちゃ・・・」
僕はかすれた声で、それだけを絞り出す。
「記憶・・・わたしの・・幸せの・・・」
綾波の声が途切れた。
砂のこぼれるような音が、微かに僕の鼓膜を震わせる。
何かが弾けるような一瞬の圧迫感。
・・・彼女の重みが消えてゆく。
「駄目だよ、記憶を持っていっちゃ・・・」
腕の中に唯一残った、合成繊維の軽い感触。
「綾波の記憶は・・・全部僕が、抱きしめてあげるんだから。」
僕は、空を見つめ続けた。
泉を溢れさせない術なんて、それ以外に思いつかなかったんだ・・・
その日、僕は早退した。
いつも綾波の手を握りしめていた左手には、彼女の制服が入った彼女の鞄。
アスカが一緒に帰ろうかって言ってくれたけど、僕は丁寧に断った。
これは、僕がやらなくちゃいけない事だから。
マンションに帰り着いた時には、既にミサトさんが待っていた。
無言で差し出された手に、僕は自分の鞄を手渡す。
「制服。・・・きれいに洗っておいてあげたいんです。」
「・・・そうね。順調にいったとしても、魂の定着作業は始まったばかりだしね。」
「・・・はい。」
それに、僕たちの部屋も。
綾波の心が安定するまでは、僕たち二人の写真は見せるわけにはいかないから。
洗濯機の中で、綾波の匂いが消えてゆく。
ダンボール箱の中に、紅い瞳が消えてゆく。
『また・・・ね。』
彼女との約束。
判ってる・・・判ってるんだ。
・・・でも。
作業の合間、僕は何度も天井を見上げなければならなかった。
「ええ・・・ええ、判った。今から彼を連れていくわ・・・ええ、じゃあね。」
フスマの向こうから、電話越しに会話するミサトさんの声が聞こえてきた。
何よりも大切な、何人もの綾波たちに小さく謝って。
最後のアルバムを箱に納め、ガムテープで封印を施す。
ミサトさんが呼ぶのを待たずに、僕は洗面所に向かった。
顔を洗ってサッパリしよう。
鏡を覗いて髪型もチェックしよう。
ひょっとしたら、歯も磨いた方が良いのかもしれない。
だって。
・・・だって、これから綾波を迎えに行くのだから。
数十分後。
僕は地上に新設された、ネルフの本部にいた。
「判っているとは思うけど、今のレイの身体は粗悪なコピーに過ぎないの。記憶だって、二人目までの物を断片的に持っているにすぎないわ。」
リツコさんの声も、僕の耳には届かない。
「・・・ふふ、そうね。」
高まる心を沈めようと瞑目する僕を見て、リツコさんは小さく笑った。
「たった一年の寿命しか持たない今のレイを、あなたは何人も幸せにしてきたものね・・・」
《 Rei Ayanami : 07 》
・・・七人目の綾波。
天井まで届く巨大なシリンダーの中、LCLに漂う綾波。
きっと彼女は、僕を『碇くん』って呼ぶんだ。
サードインパクトは既に訪れたのに、それでも命を与えられた事に戸惑うんだ。
四人目みたいに、自殺を謀るかも知れない。
五人目みたいに、僕を世界の全てにしてしまうかも知れない。
六人目みたいに、限られた時間をカウントダウンしながら生きるのかも知れない。
でも、彼女は。
ううん、彼女の魂は。
新しく産まれ落ちるたびに、僕に微笑んでくれるから。
「また会えたね、綾波。」
何度でも、何度でも。
僕たちは、新しい恋を始める。
refrain.
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