二度寝 Final
麻痺

 その日の朝、定刻に起きたシンジの表情は暗かった。
 
「・・・今日も、あの感触だ・・・。」
 
 天井にかざした右手の平を見つめ、ゆっくりとこぶしを握る。
 確かに動く指先から・・・しかし、手応えは返らない。
 例えるなら、神経接続の切れた『エヴァ』の様。
 
 彼の脳裏に、先週末に聞いたリツコの言葉が甦る。
 
『貴方達の神経が受けたストレスは、通常の生活からは考えられない程に大きいわ。
 この先、なにかが起こらないとは言えないのよ。
 だから、身体状況の管理だけは受けなさい・・・いえ、受けて欲しいの・・・。』
 
 毎週末に行われるシンジ達の健康診断の為に、開店したブティックのオープニング・セールに行きそびれたアスカ。
 不満を訴える彼女に応えたリツコの、悲しそうに伏せられた瞳が印象的だったため、シンジはその言葉を覚えていた。
 
「・・・『神経の負担』って・・・右手のしびれと関係あるのかな・・・。」
 
 以前から、目が覚めたときに右腕の感触が無いことは稀にあった。
 しかし、時間が過ぎるにつれて感覚は回復していた為、特別に注意を払いはしなかったのだが・・・。
 
「もう、四日連続だ・・・。」
 
 今週に入って、連続して現れるようになった不可解な症状に、シンジは漠然とした不安を感じていた。
 
 
 
 
 
 
「ええ・・・はい、判りました・・・はい・・・」
 
 一時間後。
 カーテンの隙間から差し込む柔らかい光の中、寝起きのボサボサ頭もそのままに受話器を握るミサト。
 サードインパクトの脅威が道連れに選んだ物は、ネルフの職員達の間で常態化していた超過勤務の嵐だった。
 さらば残業まみれの日々よ、と彼女が喜んだのも束の間。
 消え去った嵐は、同時に恵みの風でもあったのだと、残業手当の分だけ目減りした給与が教えてくれた。
 結果、充分な睡眠時間と酒量の削減を押し付けられて、本人の意思とは関わりなく、その美貌に磨きをかけているのだが。
 
「・・・判りました・・・はい、監視を強化します・・・。」
 
 受話器を置いた彼女の瞳。
 その鋭い輝きもまた、平和な世に於いて何故か、さらに強さを増していた。 
 
「ミサトさん、起きて下さい。ご飯、出来ましたから。」
 
「あれぇ?シンちゃん、おはようのキスはどうしたのぉ〜?」
 
 障子越しに届いた『弟』の声に応えた瞬間、すぐに柔らかい色を取り戻していたが。
 
「もうっ! そんな事言うんなら、朝御飯抜きですよっ!!」
 
「てへへ、ごみんごみん・・・アスカとレイは起きたの?」
 
「綾波は、今から起こすところです・・・おはようございます、ミサトさん。」
 
「おはよ、シンちゃん♪」
 
 それゆえ、部屋から出てきたミサトと挨拶を交わしたシンジが、彼女の心中を察することは無かった。 
 
 
 
 
 
 
 風雨に晒されたスピーカーが奏でるひび割れた鐘の音が、午後の校庭から青空へと抜けていった。
 少年少女が待ち望む、抑圧からの解放・・・退屈や眠気と戦う、過酷にして安穏な一日の終わり。
 グラウンドを校門目掛けて駆け抜けるせっかちな少年たちを、レイはぼんやりと見おろしていた。
 アスカは既に、先週末のバーゲンに於けるヒカリの戦利品を検分するべく、親友の家へと向かっている。
 
「綾波、帰ろう?」
 
 帰宅を促すシンジの声にも、レイは漠として応えない。
 
「・・・綾波?」
 
 ぴくん
 
「碇くん?」
 
 ぼやけていた瞳の焦点が、急速に確かな物になる。
 ・・・と同時に、やおら立ち昇る頬の朱色。
 少しだけ気恥ずかしそうに、視線を逸らす少女。
 右手を左の肘に添え、まるで不安に抗い自身を掻き抱くかのようにも見える、その立ち姿・・・。
 
「綾波?・・・どうしたの?」
 
 笑顔の増えた彼女が久しく見せなかった儚げな様子に、少年は問いかける。
 
「・・・碇くん・・・眠れる?」
 
「えっ?」
 
「夜、眠れる?・・・体、おかしくない?」
 
「・・・。」
 
 シンジは即答出来なかった。
 
 ・・・ひょっとして、綾波も・・・?
 
 目覚めから数刻、右腕に感じる不可解なしびれ。
 
 僕だけじゃなく綾波まで、体がおかしくなってるの?
 
 レイの肉体が、チルドレンの中で最もエヴァに近い物である事をシンジは理解している。
 僅か半年しかエヴァに触れなかったシンジに比すれば、エヴァと共に生まれ、エヴァと共に生きたレイが受けた影響は計り知れない大きさだろう。
 シンジの体に訪れた変調が、もしもエヴァに起因する物だとしたならば・・・。
 
 綾波って、なんでも我慢しちゃうから・・・不安な気持ちに苦しんでいるのかも・・・。
 
 思考の海に沈むシンジ。
 アスカの、そしてレイの笑顔を守りたい・・・それが彼の願いだから。
 
 ・・・綾波を不安にさせちゃ駄目だ。
 
 誓いにも似た決意を固めるものの、その思いの強さ故、彼の顔を覗き込むレイの心配そうな表情に気付かなかった。
 
「碇くん・・・体、おかしいの?」
 
「・・・え?」
 
 シンジは焦った。
 たった今、決心したばかりなのに、レイの不安を煽るのは自身の振る舞いだったから。
 
「ぼっ、僕は、別になんともないよ?
 あはっ、ははは、それより早く帰ろう?」
 
 上滑りする笑いで内心の動揺を塗りつぶしながら、レイに帰宅を促すシンジ。
 白々しい笑いに、レイの表情は更に曇ったのだが。
 未だ世慣れぬ少年に、その曇りを晴らす術など有る筈も無かった。
 
 
 
 
 
 
「今日も・・・また、だ・・・。」
 
 翌朝。
 感覚の無い右腕に、不安げな声を漏らすシンジ。
 注意深く観察すると、肘の内側に微かな赤斑が見て取れる。
 
「きっと綾波も・・・アスカは?」
 
 彼の脳裏に巡るのは、記憶に残るリツコの言葉。
 
『この先、なにかが起こらないとは言えないのよ。』  
 
「やっぱり、これが・・・そうなんだ・・・。」
 
 自分の体に起こりつつある『何か』を自覚した今。
 彼の胸に沸き上がるのは、二人の少女を案ずる気持ち・・・ただ、それだけだった。
 
 
 
 
 
 
「どうしたのよ、アンタたち?」
 
 爽やかな朝、ご機嫌なアスカ。
 今朝のメニュー、中華風の朝粥は初めて味わうものだったが、滋味豊かな風味はアスカの口に良く合い。
 加えて朝刊、朝のワイドショー、共に運勢は絶好調。
 ラッキーアイテムの赤いリボンで髪をまとめた彼女の、通学路を歩く足取りはとても軽やかだったにも関わらず。
 
「朝くらいシャキッとしなさいよ! 二人揃って暗い顔しちゃってさ?」
 
 肩を並べて歩く二人の同居人、その精彩に欠ける表情に、少々物足りなさを感じてもいた。
 
「うん、ごめん・・・。」
 
 相変わらず、脊髄反射で謝るシンジ。
 自罰的なその態度は彼女の嫌う物であり、適切な叱咤の言葉を選ぶべく、彼女の頭脳は活発に動き始める。
 傍目には只の口ゲンカ・・・喧嘩と呼ぶにはいささか一方的に過ぎたが・・・としか思えない物だとしても、アスカにとっては大切なコミュニケーション。
 頭の中でシャドーボクシングをやりながらも、彼女は高揚する気分に頬を薄く染めていた。
 
「ねえ、アスカ・・・。」
 
 しかし、たった一言漏れたシンジの呟きに、上弦の月を描く唇から笑みが霧散する。
 言葉の意味は、彼女の名前・・・ただ、それだけ。
 されど、その言葉を載せた音の響きは・・・涙の潤いを伴っていた。 
 
「どっ、どうしたの?どこか体の調子がおかしいの?」
 
「え?いや、その・・・ごめん! なんでもないんだ、うん!!」
 
 詰問口調のアスカに、内心の不安を覗かせたと悟ったシンジは、顔を隠そうと慌てて背を向ける。
 歪んだ口元が、笑顔を作ろうとする彼の努力に半ばほどの成功を納めながらも。
 
「ちょっと! そんな顔して、なんでもないワケ無いでしょっ!?」
 
 ・・・半ば以上の失敗。
 その瞳もまた、押し潰されそうな不安で歪んでいたが故に。
 
「ほら、こっち向きなさいよっ!」
 
 シンジの肩を掴み、荒々しく振り向かせたアスカの顔には、焦燥の色がありありと浮かんでいた。
 
「!・・・シンジ、どうしたの?」
 
 正面から覗き込んだシンジは、決して泣いてはいなかったが。
 痛々しい作り物めいた笑顔に、アスカは思わず息を呑む。
 
「アスカは・・・アスカは、大丈夫だよね?
 綾波だって、きっと大丈夫だよね?
 ううん、大丈夫に決まってる・・・そうだよね、アスカ?」
 
 決して見慣れず、そして見飽きず。
 変わらず彼女を魅了し続ける少年の笑顔ではあった。
 
「今日だって、明日だって、ずっと・・・ずうっと。」
 
 しかし、作り笑い。
 ドイツ育ちのアスカにとって、本心を隠すその表情はむしろ嫌悪の対象である。
 まして、シンジの顔にその笑みが貼りつくとなると、これはアスカへの拒絶の意志とさえ思えて、彼女は深い悲しみと激しい怒りを覚えるのだ、常ならば。
 
「いつまでも、三人でさ?僕はバカシンジって呼ばれて、アスカはいつまでも乱暴で、綾波だって天然でさ・・・。」
 
 シンジの不自然に歪んだ口元、そして細められた目元。
 これらが形作ろうとしている物は、まさに作り笑い・・・アスカの怒りの源である。
 よって、彼女の美しい唇からは荒々しい罵倒の言葉が溢れるはず、なのだが・・・。
 
「・・・シンジ・・・。」
 
 出来損ないの作り笑いは隙間だらけで、少年の心は手のひらに掬った水の様に漏れていた。
 無私の友愛。
 ぎこちない表情からちらちらと覗くその心は、『優しい微笑み』などという判りやすい形を持たない事で、寧ろ自然に浮かべる笑み以上に感情を剥け出し。
 突如向けられた痛い程の優しさに、戸惑うアスカ。
 しかし、シンジの意に反して暴かれた彼の不安が、彼女の行動を速やかに決定した。
 
「・・・シンジ・・・。」
 
 少女の中で芽生えかけた母性が、足を一歩踏み出させる。
 少年を労るために。
 少年を勇気づけるために。
 少年を・・・その胸に抱き留めるために。
 
 されど、しかし。
 
「・・・行かせないわ。」
 
 紅い瞳が、アスカを遮った。
 
「あなたは碇くんを苦しめる。」
 
 少年を背後に庇うように立つ、心許せる恋敵は。
 
「だから、これ以上行かせない。」
 
 彼女を知らぬ人間にも、明確にそれと判るほどの表情で。
 
「碇くんは、わたしが守る。」
 
 アスカを拒絶していた。
 
 
 
 
 
 
「・・・以上よ。あなたの身体に異常は見られないわ。」
 
 その日、同居人達の目を避け、学校をこっそりと早退したシンジは、リツコの手によって精密検査を受けていた。
 険悪な雰囲気を間に挟んだ二人の少女を置き去りにするのは不安だったが、不用意な発言で体調の変化を悟られる危険は避けたかったから。
 
「そうですか・・・ありがとうございました。」
 
 検査結果を待つ間、押し寄せる不安に一人で立ち向かったシンジの潰れそうな表情は、リツコの言葉によって晴れやかなものへと劇的に変化する。
 
「ふふっ、心配性なのね?」
 
 安堵の吐息と共に頬を緩めたシンジが面白かったのか、軽やかに笑うリツコ。
 そんな彼女の表情に赤面したシンジは、恥ずかしそうに俯いて言った。
 
「あの、リツコさん、この事は・・・。」
 
「ええ、アスカとレイには黙っておいてあげるわ。小心者とは思われたくないものね?」
 
「・・・小心者、ですか。」
 
 心外だと言わんばかりのシンジの表情に声をあげて笑い始めたリツコを残し、シンジは家路についた。
 だから、彼は知らなかった。
 
「・・・ああ、ミサト?彼、気付き始めたわ・・・ええ、そう。
 そうね、あと二日保てば・・・ええ、じゃ。」
 
 シンジが去るのを待ちかねたかのように行われた、秘匿回線による短い会話を・・・。
 
 
 
 
 
 翌朝。 
 シンジは今日も不審気に頚を傾げていた。
 
「・・・結局、これって何なんだろう?」
 
 右腕に落とした視線の先には、肘の内側にくっきりと残る赤斑。
 連日続いた感覚の欠如は、今日も変わりなかった。
 
「それに、この髪の毛・・・。」
 
 唯一訪れた変化は、右腕に付着していた一本の髪の毛。
 キラキラと輝く紅いそれに、シンジは見覚えが有る様な気がしたが・・・。
 
「アスカ?・・・そんなワケ無いよね・・・。」
 
 頭に浮かんだ可能性を、溜息と共に吐き出して。
 
「・・・っと、ご飯ご飯。」
 
 ぱたぱたと部屋を出ていった。
 
 
 
 
 
 
 その翌日、しびれと赤斑は両腕に拡がり、二日続いたレイとアスカの小競り合いが終結した。
 
 さらにその翌日、深夜。
 夕食のスープが辛すぎたからか、珍しく夜更けに目を覚ましたシンジ。
 事此処に至って、ようやく全てを理解したのだが・・・。
 一言も理由を告げず、毛布を一回り大きい物へと買い換えた彼の腕から、赤斑が消えることは無かった。
 
 ちなみに、『鈍感シンちゃん・トトカルチョ』と書かれた紙切れが、ネルフ内で日毎紙屑へと変わっていったが。
 
「シンジ・・・いくらおまえでも、一月もあれば気付くと思ったのだがな・・・。」
 
 重々しい呟きと共に引き裂かれたそれを最後に、その紙屑は姿を消し。
 
「うっふっふ♪えびちゅ、えびちゅ〜♪」
 
 胴元を務めた女性士官の酒量が一気に増えたのは、幸せな少年にとってささいな事でしか無かった。 
 
 
 
 
 


 鈍感シンちゃん♪
 でも気づいてからも、彼女達を追い出すことなく、今までどおり。
 さすがに賭けをしていた人達も、この状況は想像はつかなかったのでしょうか。(^^)
 
 でも、ミサトさんたち、やっぱりモニタリングしていたのでしょうかね?(^^;
 
 喰う寝る36さんは『納得できない』って言ってましたが、そんなことないっす。
 最高にイイです。
 特にシンちゃんの優しさが、心に染みますネ♪
 
 出来れば、今度はシンジの視点で書いてみたいと言うことなので、それも楽しみにしてます♪
 
 
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