喰う寝る36さんの
KISSの温度「M」Edition

 シンジは、その短い半生を振り返っていた。
 眼前の光景はその恐ろしさゆえに、まともに見ることが拒まれる。
 身体を縛り付けるベルトは、頭を抱えて歯を鳴らすシンジを激しく翻弄し、その細い肩を痣で染めた。
 走馬燈のように、目の前に現れては消える幻影たち。
 カメラを覗くケンスケ。
 弁当に襲いかかるトウジ。
 黄色いワンピース姿のアスカ。
 雑巾を手に頬を染める綾波。
 ビールをあおるミサト・・・
 
「みっ、みっ、ミサトさ〜ん・・・」
 
 シンジは一縷の望みをかけ、隣席のミサトに呼びかける。
 
「黙って!気が散る・・・」
 
 自室ではおろか、発令所ですら見せることのない精悍な横顔で、ミサトは自制を求めた。
 唯一、シンジをこの苦難から救える人物。
 彼女はいま、その持てる全てを投じて戦っていた・・・ミラーに映る、赤いランチアと。
 
 ・・・シンジにこの苦難をもたらしたのも、もちろんミサトである。
 二台のモンスターマシンが繰り広げる白熱のバトル、その只中にシンジはいた。
 ちなみに発端となったのは、ランチアがアルピーヌに捧げた小さなキス。
 信号待ちで起きたささやかな接触事故は、怒ったミサトが投げつけた飲みかけの缶ビールによって、納まるところを失ったのだ。
 
「ミサトさ〜ん、もういいじゃないですかぁ〜」
「駄目よ、シンジ君。あのランチアは、この私とルノーにケンカを売ったの。
 人類の存亡を懸けたこの戦いに、負けるわけにはいかないのよ」
『懸けているのは僕の存亡だよぉっ!!』
 シンジの心の叫びは、しかし、必要以上にシリアスなミサトを前に、音になることは無かった。
 
 絡み合う二台の車は、その在処を都市部の幹線道路から森林地帯へと移す。
 窓外を流れる景色はグレーからグリーンに。
 車を停めて一歩車外に降り立てば、そこには清々しい空気と愛らしい鳥達の歌が待っているのだが。
 
「うわあぁぁぁあぁあぁ!?車が横に走ってるぅ!!!」
 
 その光景を想像することすら、シンジには許されず。
 
「うるさいっ!降りたいの、いますぐ!?」
 
 おりしも車は、切り開かれた崖の脇。
 ライン取りの妙でシンジの鼻先50pを掠めていくのは、まるでおろし金のような黒い岩肌。
 
『死ぬんだ、僕はココで死ぬんだ・・・
 ごめん、アスカ・・・夕べ、お風呂上がりに渡した牛乳、実は賞味期限が切れてたんだ・・・
 きっとアスカなら大丈夫と思って・・・イイよね?ホントに大丈夫だったし・・・』
 
『あと・・・ごめん、綾波・・・以前綾波の部屋で、とうさんのメガネを返せ、って詰め寄られたけど・・・
 ホントはあの時、右手に隠した綾波のパンツがバレるんじゃないか・・・って、ドキドキしてたんだ。
 ごまかすために押し倒しちゃったけど・・・イイよね?ちゃんと洗って返したし・・・』
 
『それに・・・ごめん、とうさん・・・
 いつだったかネルフが停電した時、疲れて居眠りしたとうさんに鼻ヒゲを落書きしたの・・・僕なんだ。
 アスカ達と一緒に、さっさと外へ逃げ出しちゃったけど・・・イイよね?リツコさんも大笑いしてたし・・・』
 
 シンジの懺悔が続く中、二台のバトルに決着の時が来た!!
 
 ・・・バシュゥゥゥ・・・
 エンジンルームから吹き出す白煙。
 みるみる衰える車速。
 ブローしたエンジンを抱えて沈むライバルをミラーの奥に残して、悠然と走り去るのは・・・
 
 青のアルピーヌ!!ミサトの勝利である。
 
「フンッ!しょせんイタ車なんてその程度よっ!!
 私とアルピーヌに勝負を挑むなんて、うなじでワカメを炒めてもオツリは結構よっ!!」
 
 喜びはしゃぐあまり、シュールなセリフを口走るミサト。実は真性のデンパかもしれない。
 そんなミサトを横目に、シンジはやれやれといった風情である。
 ともあれ、これでミサトもアクセルを緩めるに違いない・・・
 
 キキキキキュゥゥァァァアアアアアッ!!!
 
 けたたましいスキール音、タイヤが巻き上げる白煙。
 アルピーヌのスピードは、まっっっっったく衰えていなかった。
 
「ミサトさんっ!!もういいでしょっ、スピード落としてよっ!!」
「・・・シンちゃん?」
 
 シンジの叫びに力無く応えるミサト。
 
「なんですかっ、早く落として下さいっ!!」
「今度は私、国産車にするわ・・・」
「そんなコトどうだって良いで・・・! まさか・・・」
「・・・アクセル、戻らなくなっちゃった・・・」
「ウゥゥワアァァァァァァッ!!」
 
 魂消ゆるようなシンジの絶叫を引きずりながら、暴走するアルピーヌ。
 前方にはみるみるガードレールが迫り・・・
 
「シンちゃん、一緒に死んでェェェ♪」
「どうして『♪』がつくんですかァァァ!!」
 
 天高く舞うアルピーヌ。
 凍ったような数瞬の時間が過ぎ去り、目を覆ったシンジが再び外界を認識したとき・・・
 
 ルノーは未だ、走っていた。
 
「なっ?・・・いったい何が起こったんですかっ、ミサトさん!!」
 
 周りを見渡すと、片側三車線のだだっ広い直線道路。遠くに『松代まであと52q』と書かれた緑の看板が見える。
 
「すっごい偶然よねぇ、併走していた高速道路に飛び込んじゃうんだから!
 や〜っぱ、主人公が死んだら話が続かないもの。・・・とりあえず、これで一安心ね♪」
「一安心、じゃないです!はやく停めて下さい!!」
「もう〜、シンちゃんも心配性ねぇ。
 こういう時は、落ち着いてエンジンを切れば・・・?」
 
 ハンドル脇のイグニッション・キーに手を伸ばすミサト。
 次第に顔が青ざめる。
 対してシンジは、ミサトの顔色の変化に気付くと、悟ったような表情で軽い溜め息を付いた。
 
「・・・今度はどうしたんですか、ミサトさん」
 
 生かさず殺さずで弄ばれる運命に、薄々気付きはじめたシンジ。
 14才の達観・・・見事な落ち着きぶりである。・・・あきらめ、ともいう。
 
「・・・カギ、折れちゃった・・・」
「・・・そうですか」
「・・・苦労をかけるわね、シンジ君・・・」
「ふっ・・・いいんです、僕にはもう・・・エヴァに乗るしかないんですから・・・」
「・・・そう・・・偉いわね・・・」
「そんな・・・でも・・・」
「・・・でも?」
「イヤだあぁぁぁっ!こんな死に方はイヤなんだよぉっ!!
 全裸の綾波に膝枕してもらうまでは、僕は死にたくないんだあぁぁぁっ!!」
「・・・って言われても・・・アクセルは戻らないし・・・そだ!!」
「えっ、どうしたんですか!?僕たち、助かるんですかっ!!?」
「シンジ君・・・こんな風に、アクセルが戻らないときはね?」
「・・・戻らないときは?」
 
 期待の色をいたいけな瞳に浮かべ、縋るようにミサトを見つめるシンジ。
 ミサトは一瞬だけ、慈しむような視線をシンジに送り・・・
 
「床まで踏み込むのよっ!!」
 
 ダンッ!!
 
 踏み込むどころか、床ごと踏み抜かんばかりの勢いでアクセルを蹴飛ばすミサト。
 自力救済を諦めたその瞳には、やけっぱちの狂気が宿る。
 
「ぅわああぁぁん、やっぱりデンパなヒトだったんだぁぁぁぁっ!!」
 
 涙混じりの叫びも空しく、速度計の針はみるみる上限に達し・・・さらにそれをあっけなく振り切り。
 飴のように歪む景色。
 次第に増す振動。
 
「ミサトさん・・・いま、どれくらいの速さなんです?」
「う〜ん・・・89って出てるわ」
 
 リツコ謹製のナビゲーションシステムを起動し、問いに答えるミサト。
 右手にビール、左手にアタリメ。
 開き直ったその姿は、オトナのオンナの破壊力である。
 
「89キロって・・・ウソだぁ!そんなに遅いワケないじゃないかあぁぁっ!!」
「やぁ〜ねシンちゃん、単位が違うわよ。
 ぱ・あ・せ・ん・と♪ 音速の89%って意味よ」
「そ・・・そんな・・・飛んじゃうじゃないですかっ!そんなスピードじゃっ!!!」
「そうよン♪だからホラ、飛んでるでしょ?」
 
 サイドウィンドウに貼りつくシンジ。眼下には富士山がそびえる。
 
「う・・・ウソだぁっ!!うそだうそだうそだうそだ・・・ウソだあぁぁっ!!
 ねえ、嘘なんでしょ、ミサトさんっ!?
 ・・・なんとか言ってよ!!!」
 
 慌てふためくシンジ。その時ふいに、振動が消える。
 
「・・・音速を超えたわ」
「うそだああぁぁぁっ・・・」
 
 シンジの意識は、闇に呑まれた・・・
 
 
 
「・・・あら、シンちゃん、気が付いたのね?」
「ここは・・・どこなんですか?」
「今、天王星の横を通り抜ける所よ・・・
 地球からだと、29×10の8乗キロってトコね」
「・・・やっぱり・・・夢じゃなかったんだ・・・
 スピードは・・・どうなんです?」
「・・・96%」
「ひょっとして、光の・・・ですか?」
「そうよ、シンちゃん・・・後ろを見てご覧なさい・・・」
「・・・赤いや・・・なんです、これ」
「赤方偏移っていうらしいわ。光のドップラー効果ね・・・」
「じゃ、この・・・光の矢は・・・?」
「ええ、きっとスターボウね」
「じゃ・・・じゃあ、前方に見える黒い円盤はっ・・・」
「シュバルツシルトの境界・・・事象の地平線・・・
 私たちの科学が及ばない、未知の領域よ・・・
 リツコにも見せてあげたかった・・・・・・」
 
「み、ミサトさんっ!・・・あれ、だんだん大きくなってますよっ!?」
「・・・近付いている・・・いいえ、私たちが追いついているのよ。
 あと数秒で、私たちは光を追い越すわ・・・」
「そんな! どうなるんですか、ぼくたちっ!?
 ミサトさん?・・・ミサトさんっ!・・・ミサトさぁぁあん!!!」
 
 
 ・・・・・・次の瞬間、シンジは眩い白光に包まれていた。
 黒い石板によこたわり、一切の着衣を失っている。
 
 ミサトも、アルピーヌの姿もなく、ただ不思議な事に、シンジはかつてない安らぎを感じていた。
 
 上体を起こして周囲に顔を巡らす。
 シンジの両側、遙か彼方。
 白い世界の中、その白さを圧倒する更なる白が、巨大すぎる枝の形をとって、シンジの前方へと限りなく伸びる。
 
 目を凝らすシンジ。
 よく見ると左右の枝は、視界も霞むその先端部分で五本に分岐している。
 その形に、シンジが人間の掌部との類似性を見出したとき、それは確かに手の形となった。
 
 シンジを掻き抱くかのように、みるみる迫る白い手のひら。
 恐怖の叫びをあげる暇すらシンジに与えず、すでにそれは天球の半ばを覆い。
 
 逃げ場を求め、石板の上で振り向くシンジ。
 視界を埋め尽くす存在を見るや、その表情は驚愕に歪む。
 が、やがてそれは畏敬混じりの安らいだものに姿を変え、シンジの両眼からは歓喜の涙が溢れ出す。
 
 どこからか響く『ツァラトゥストラはかく語りき』の調べが、白い世界を荘厳に満たし。
 
 三対六枚の翼を従えて、愛し子のようにシンジを抱える巨大な綾波が、そこにはあった・・・
 
 
 
 
 綾波は私室の壁に向かい、何かを熱心に貼りつけていた。
 数歩さがってはジッ・・・と見つめ、角度が気に入らないのか張り直す。
 そんな事をしばらく繰り返した末に、やっと納得出来たらしい。
 可憐な笑みを控えめに浮かべる綾波。
 くるりと振り返ると、ベッドの上に力無く横たわるシンジの元へと歩いていった。
 
 壁に残されたのは、幅50センチ程度の、二等辺三角形に切り取られたオレンジ色の布きれ。
 規則的な配列で描かれた幾何学模様に混じって、なぜだか日本語の文字が並んでいる。
 
 シンジの枕元に腰掛け、優しくその髪を撫でる綾波。
 その動作は止めぬまま、壁に貼った布きれを満足気に眺める。
 太陽系には存在しない筈の素材で織られたそれには、次のように書かれていた。
 
  『レティクル座へようこそ』
 
 
 

kuneru36@olive.freemail.ne.jp

なおのコメント(^ー^)/

 喰う寝る36さんから「M」です。
 音速から光速へ、そして最後にはレイの腕の中、という不思議なお話を頂いてしまいました。
 そして、謎の二等辺三角形は……「ペナント」?!(爆)
 
 『レティクル座』
 海の外のヤバ系のアレということ。
 銃夢や、永野のりこや、筋少にも出てきたそうです。(滝汗)


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