シンジは、その短い半生を振り返っていた。
眼前の光景はその恐ろしさゆえに、まともに見ることが拒まれる。
身体を縛り付けるベルトは、頭を抱えて歯を鳴らすシンジを激しく翻弄し、その細い肩を痣で染めた。
走馬燈のように、目の前に現れては消える幻影たち。
カメラを覗くケンスケ。
弁当に襲いかかるトウジ。
黄色いワンピース姿のアスカ。
雑巾を手に頬を染める綾波。
ビールをあおるミサト・・・
「みっ、みっ、ミサトさ〜ん・・・」
シンジは一縷の望みをかけ、隣席のミサトに呼びかける。
「黙って!気が散る・・・」
自室ではおろか、発令所ですら見せることのない精悍な横顔で、ミサトは自制を求めた。
唯一、シンジをこの苦難から救える人物。
彼女はいま、その持てる全てを投じて戦っていた・・・ミラーに映る、赤いランチアと。
・・・シンジにこの苦難をもたらしたのも、もちろんミサトである。
二台のモンスターマシンが繰り広げる白熱のバトル、その只中にシンジはいた。
ちなみに発端となったのは、ランチアがアルピーヌに捧げた小さなキス。
信号待ちで起きたささやかな接触事故は、怒ったミサトが投げつけた飲みかけの缶ビールによって、納まるところを失ったのだ。
「ミサトさ〜ん、もういいじゃないですかぁ〜」
「駄目よ、シンジ君。あのランチアは、この私とルノーにケンカを売ったの。
人類の存亡を懸けたこの戦いに、負けるわけにはいかないのよ」
『懸けているのは僕の存亡だよぉっ!!』
シンジの心の叫びは、しかし、必要以上にシリアスなミサトを前に、音になることは無かった。
絡み合う二台の車は、その在処を都市部の幹線道路から森林地帯へと移す。
窓外を流れる景色はグレーからグリーンに。
車を停めて一歩車外に降り立てば、そこには清々しい空気と愛らしい鳥達の歌が待っているのだが。
「うわあぁぁぁあぁあぁ!?車が横に走ってるぅ!!!」
その光景を想像することすら、シンジには許されず。
「うるさいっ!降りたいの、いますぐ!?」
おりしも車は、切り開かれた崖の脇。
ライン取りの妙でシンジの鼻先50pを掠めていくのは、まるでおろし金のような黒い岩肌。
『死ぬんだ、僕はココで死ぬんだ・・・
ごめん、アスカ・・・夕べ、お風呂上がりに渡した牛乳、実は賞味期限が切れてたんだ・・・
きっとアスカなら大丈夫と思って・・・イイよね?ホントに大丈夫だったし・・・』
『あと・・・ごめん、綾波・・・以前綾波の部屋で、とうさんのメガネを返せ、って詰め寄られたけど・・・
ホントはあの時、右手に隠した綾波のパンツがバレるんじゃないか・・・って、ドキドキしてたんだ。
ごまかすために押し倒しちゃったけど・・・イイよね?ちゃんと洗って返したし・・・』
『それに・・・ごめん、とうさん・・・
いつだったかネルフが停電した時、疲れて居眠りしたとうさんに鼻ヒゲを落書きしたの・・・僕なんだ。
アスカ達と一緒に、さっさと外へ逃げ出しちゃったけど・・・イイよね?リツコさんも大笑いしてたし・・・』
シンジの懺悔が続く中、二台のバトルに決着の時が来た!!
・・・バシュゥゥゥ・・・
エンジンルームから吹き出す白煙。
みるみる衰える車速。
ブローしたエンジンを抱えて沈むライバルをミラーの奥に残して、悠然と走り去るのは・・・
青のアルピーヌ!!ミサトの勝利である。
「フンッ!しょせんイタ車なんてその程度よっ!!
私とアルピーヌに勝負を挑むなんて、うなじでワカメを炒めてもオツリは結構よっ!!」
喜びはしゃぐあまり、シュールなセリフを口走るミサト。実は真性のデンパかもしれない。
そんなミサトを横目に、シンジはやれやれといった風情である。
ともあれ、これでミサトもアクセルを緩めるに違いない・・・
キキキキキュゥゥァァァアアアアアッ!!!
けたたましいスキール音、タイヤが巻き上げる白煙。
アルピーヌのスピードは、まっっっっったく衰えていなかった。
「ミサトさんっ!!もういいでしょっ、スピード落としてよっ!!」
「・・・シンちゃん?」
シンジの叫びに力無く応えるミサト。
「なんですかっ、早く落として下さいっ!!」
「今度は私、国産車にするわ・・・」
「そんなコトどうだって良いで・・・! まさか・・・」
「・・・アクセル、戻らなくなっちゃった・・・」
「ウゥゥワアァァァァァァッ!!」
魂消ゆるようなシンジの絶叫を引きずりながら、暴走するアルピーヌ。
前方にはみるみるガードレールが迫り・・・
「シンちゃん、一緒に死んでェェェ♪」
「どうして『♪』がつくんですかァァァ!!」
天高く舞うアルピーヌ。
凍ったような数瞬の時間が過ぎ去り、目を覆ったシンジが再び外界を認識したとき・・・
ルノーは未だ、走っていた。
「なっ?・・・いったい何が起こったんですかっ、ミサトさん!!」
周りを見渡すと、片側三車線のだだっ広い直線道路。遠くに『松代まであと52q』と書かれた緑の看板が見える。
「すっごい偶然よねぇ、併走していた高速道路に飛び込んじゃうんだから!
や〜っぱ、主人公が死んだら話が続かないもの。・・・とりあえず、これで一安心ね♪」
「一安心、じゃないです!はやく停めて下さい!!」
「もう〜、シンちゃんも心配性ねぇ。
こういう時は、落ち着いてエンジンを切れば・・・?」
ハンドル脇のイグニッション・キーに手を伸ばすミサト。
次第に顔が青ざめる。
対してシンジは、ミサトの顔色の変化に気付くと、悟ったような表情で軽い溜め息を付いた。
「・・・今度はどうしたんですか、ミサトさん」
生かさず殺さずで弄ばれる運命に、薄々気付きはじめたシンジ。
14才の達観・・・見事な落ち着きぶりである。・・・あきらめ、ともいう。
「・・・カギ、折れちゃった・・・」
「・・・そうですか」
「・・・苦労をかけるわね、シンジ君・・・」
「ふっ・・・いいんです、僕にはもう・・・エヴァに乗るしかないんですから・・・」
「・・・そう・・・偉いわね・・・」
「そんな・・・でも・・・」
「・・・でも?」
「イヤだあぁぁぁっ!こんな死に方はイヤなんだよぉっ!!
全裸の綾波に膝枕してもらうまでは、僕は死にたくないんだあぁぁぁっ!!」
「・・・って言われても・・・アクセルは戻らないし・・・そだ!!」
「えっ、どうしたんですか!?僕たち、助かるんですかっ!!?」
「シンジ君・・・こんな風に、アクセルが戻らないときはね?」
「・・・戻らないときは?」
期待の色をいたいけな瞳に浮かべ、縋るようにミサトを見つめるシンジ。
ミサトは一瞬だけ、慈しむような視線をシンジに送り・・・
「床まで踏み込むのよっ!!」
ダンッ!!
踏み込むどころか、床ごと踏み抜かんばかりの勢いでアクセルを蹴飛ばすミサト。
自力救済を諦めたその瞳には、やけっぱちの狂気が宿る。
「ぅわああぁぁん、やっぱりデンパなヒトだったんだぁぁぁぁっ!!」
涙混じりの叫びも空しく、速度計の針はみるみる上限に達し・・・さらにそれをあっけなく振り切り。
飴のように歪む景色。
次第に増す振動。
「ミサトさん・・・いま、どれくらいの速さなんです?」
「う〜ん・・・89って出てるわ」
リツコ謹製のナビゲーションシステムを起動し、問いに答えるミサト。
右手にビール、左手にアタリメ。
開き直ったその姿は、オトナのオンナの破壊力である。
「89キロって・・・ウソだぁ!そんなに遅いワケないじゃないかあぁぁっ!!」
「やぁ〜ねシンちゃん、単位が違うわよ。
ぱ・あ・せ・ん・と♪ 音速の89%って意味よ」
「そ・・・そんな・・・飛んじゃうじゃないですかっ!そんなスピードじゃっ!!!」
「そうよン♪だからホラ、飛んでるでしょ?」
サイドウィンドウに貼りつくシンジ。眼下には富士山がそびえる。
「う・・・ウソだぁっ!!うそだうそだうそだうそだ・・・ウソだあぁぁっ!!
ねえ、嘘なんでしょ、ミサトさんっ!?
・・・なんとか言ってよ!!!」
慌てふためくシンジ。その時ふいに、振動が消える。
「・・・音速を超えたわ」
「うそだああぁぁぁっ・・・」
シンジの意識は、闇に呑まれた・・・
「・・・あら、シンちゃん、気が付いたのね?」
「ここは・・・どこなんですか?」
「今、天王星の横を通り抜ける所よ・・・
地球からだと、29×10の8乗キロってトコね」
「・・・やっぱり・・・夢じゃなかったんだ・・・
スピードは・・・どうなんです?」
「・・・96%」
「ひょっとして、光の・・・ですか?」
「そうよ、シンちゃん・・・後ろを見てご覧なさい・・・」
「・・・赤いや・・・なんです、これ」
「赤方偏移っていうらしいわ。光のドップラー効果ね・・・」
「じゃ、この・・・光の矢は・・・?」
「ええ、きっとスターボウね」
「じゃ・・・じゃあ、前方に見える黒い円盤はっ・・・」
「シュバルツシルトの境界・・・事象の地平線・・・
私たちの科学が及ばない、未知の領域よ・・・
リツコにも見せてあげたかった・・・・・・」
「み、ミサトさんっ!・・・あれ、だんだん大きくなってますよっ!?」
「・・・近付いている・・・いいえ、私たちが追いついているのよ。
あと数秒で、私たちは光を追い越すわ・・・」
「そんな! どうなるんですか、ぼくたちっ!?
ミサトさん?・・・ミサトさんっ!・・・ミサトさぁぁあん!!!」
・・・・・・次の瞬間、シンジは眩い白光に包まれていた。
黒い石板によこたわり、一切の着衣を失っている。
ミサトも、アルピーヌの姿もなく、ただ不思議な事に、シンジはかつてない安らぎを感じていた。
上体を起こして周囲に顔を巡らす。
シンジの両側、遙か彼方。
白い世界の中、その白さを圧倒する更なる白が、巨大すぎる枝の形をとって、シンジの前方へと限りなく伸びる。
目を凝らすシンジ。
よく見ると左右の枝は、視界も霞むその先端部分で五本に分岐している。
その形に、シンジが人間の掌部との類似性を見出したとき、それは確かに手の形となった。
シンジを掻き抱くかのように、みるみる迫る白い手のひら。
恐怖の叫びをあげる暇すらシンジに与えず、すでにそれは天球の半ばを覆い。
逃げ場を求め、石板の上で振り向くシンジ。
視界を埋め尽くす存在を見るや、その表情は驚愕に歪む。
が、やがてそれは畏敬混じりの安らいだものに姿を変え、シンジの両眼からは歓喜の涙が溢れ出す。
どこからか響く『ツァラトゥストラはかく語りき』の調べが、白い世界を荘厳に満たし。
三対六枚の翼を従えて、愛し子のようにシンジを抱える巨大な綾波が、そこにはあった・・・
綾波は私室の壁に向かい、何かを熱心に貼りつけていた。
数歩さがってはジッ・・・と見つめ、角度が気に入らないのか張り直す。
そんな事をしばらく繰り返した末に、やっと納得出来たらしい。
可憐な笑みを控えめに浮かべる綾波。
くるりと振り返ると、ベッドの上に力無く横たわるシンジの元へと歩いていった。
壁に残されたのは、幅50センチ程度の、二等辺三角形に切り取られたオレンジ色の布きれ。
規則的な配列で描かれた幾何学模様に混じって、なぜだか日本語の文字が並んでいる。
シンジの枕元に腰掛け、優しくその髪を撫でる綾波。
その動作は止めぬまま、壁に貼った布きれを満足気に眺める。
太陽系には存在しない筈の素材で織られたそれには、次のように書かれていた。
『レティクル座へようこそ』
なおのコメント(^ー^)/
喰う寝る36さんから「M」です。
音速から光速へ、そして最後にはレイの腕の中、という不思議なお話を頂いてしまいました。
そして、謎の二等辺三角形は……「ペナント」?!(爆)
『レティクル座』
海の外のヤバ系のアレということ。
銃夢や、永野のりこや、筋少にも出てきたそうです。(滝汗)