止まり木に腰掛けた彼女を、グラスを磨きながら横目で覗いていた。
『・・・オレにだって浮いた話の一つや二つ、有っても良いと思うんだけどな。』
物欲しそうな視線で捉える、清楚で保守的な灰色のスーツ。
・・・光線の加減でうっすら浮かぶペンシル・ストライプが無ければ、リクルートスーツだな。
その胸元に覗く青鉄色のブラウスと、ワンポイントの装飾を控えめに添える黒真珠のブローチ。
『・・・例えばあの女なんて、すこぶる付きの美人じゃないか。』
薄暗い店内に於いてなお繊細な光沢を放つ、美しい髪。
緩やかで秩序だった曲線を描くその黒い額縁に収まる、色白で小振りな整った顔。
野暮ったいセルフレームの眼鏡すら、彼女の知性の結晶に見える。
『・・・300mmの望遠で、早朝の光線を使ってコントラストは控えめに・・・くそっ、またかよ。』
飢えたオトコを気取ってみても、長年の習慣がボロを出す。
女っていうのは、ファインダー越しに付き合うモノだ・・・って習慣付いてしまったらしいや。
だからオレは、レンズを通して恋をする・・・寂しいモンさ・・・。
「・・・あの・・・。」
控えめな香水の香りは、彼女の落ち着いた雰囲気に相応しい選択だった。
そんな彼女の臭覚にアピールするべく奨めたスプリング・バンク。
・・・優しくて、でも自己主張の強い芳香を放つシングルモルトを、口づけたグラスから唇を濡らす様に楽しんでいた、一見の客が。
「・・・素敵な写真、ですね。」
躊躇いがちな口調に、微かな緊張の色を滲ませながら・・・そう、呟いた。
「ん?・・・ああ、これですか。」
さりげなく彼女の視線を追った後、酒棚の全面に画鋲で貼りつけたスナップ写真から、彼女の関心を惹いた一枚を手に取る。
自分の特異分野へ会話を誘導する為の小道具。
もちろん、自信作だからこそ、そんな使命を与えたワケさ。
「僕の古い知り合いなんですがね・・・」
手の平に収まった、赤毛の少女。・・・まぁ、二十歳前の頃の写真だから、少女って呼んでもいいかな?
高校の卒業を記念して集まった時の、相変わらずシンジをイジめている惣流の姿だ。
「良い写真ですね、本当に。」
綾波の酌を受けるシンジと、その鼻先に自分のグラスを突きつける惣流。
手元のボトルに視線を落とす綾波の目は、幸せそうに細められ。
惣流の邪悪な笑みを浮かべる口元も、瞳の輝きによって、その印象は楽しげな物となっていた。
そして、ハの字を描く眉の下で、それでも嬉しそうなシンジの苦笑い。
「幸せそう、でしょう?」
三者三様の表情の中でも、一際華やかな笑顔を放つ赤毛の姿を見つめながら。
・・・酒の肴が一品増えたんだぜ? ほら、もっと飲めよ?
なんて考えていたオレは、彼女のさりげない一言に虚を突かれた。
「ええ、とっても。・・・好き、だったんですか?」
不覚にも、写真を見おろすオレは、複雑な笑みを浮かべてしまったらしい。
「・・・え?」
「ですから、好き、だったんでしょう?」
アルバイトの頃から数えて5年、シェーカーを振り続けてきた。
やがて目覚めたプロ意識・・・つまり、洒落た会話をリードする事。
なのに今、会話の主導権を奪われ、すっかり狼狽えたオレがいる。
「まいったな・・・。」
「あら、素敵な事ですよ?・・・とても優しくて、だけど、少し苦くて・・・。」
オレから写真を受け取った彼女の笑み。
『優しくて、苦い? それって、その表情の事だろう・・・?』
一瞬見とれたオレの心を鏡に映すように。
「バーテンさん、そんな顔をしてましたもの。」
眼鏡を外して、そっと目元を拭った彼女は、オレに向かって微笑んだ。
「好きだったって・・・そう言っても良いのかも知れないな。」
ショットグラスで揺れる琥珀を、ぼんやりと眺める彼女。
まるで頷くように、グラスを唇にあてる。
「普段は凶暴な程に強気なんだけどな。シンジ・・・その写真の男だけど、そいつの背中を見つめる横顔が、ときどき凄く切なくてさ・・・。」
「はい・・・。」
「たぶん、惣流・・・いや、その赤い髪のコは、その表情を他人に見られたく無かったと思うんだけど。」
「・・・だからこそ、オレにとってはシャッターチャンスだったんだよね。」
「・・・ええ。」
彼女って、聞き上手なんだな。
いつの間にか、駆け出しのバーテンから相田ケンスケに戻って、思い出話をしているオレ。
控えめな、でも的確に先を促す、彼女の相槌が心地よい。
「・・・オレだけのシャッターチャンスだったから・・・。」
そこで言葉を切ったオレの手には、グレンフィディックのオン・ザ・ロック。
トウジのボトルからくすねたこの一杯は、少年時代の味がするから・・・。
「・・・結局、シャッターは切れなかったんだけどね。」
一口呷って吐き出した、胸の奥の感傷・・・そいつを、酒のせいに出来るってワケさ。
「・・・本当に、好きだったんですね・・・。」
自分自身の言葉の奥に、琥珀色の過去を覗き込むような・・・彼女の遠い瞳。
それはそれで魅力的だけど・・・そんな顔でオレを見るのは止めて欲しいな。
背中に誰かが居るみたいで落ち着かないし・・・第一、照れ臭い。
だから、オレは笑って言った。
「・・・ファインダーの中の彼女をね?」
彼女の瞳が子供っぽく見開かれたトコロを見ると、今度は上手く作れたらしいや。
・・・惣流がよく見せていた、悪戯っ子の笑み。
「もうっ・・・おふざけですか?」
やっぱり、彼女は聞き上手だ。
彼女の明るく拗ねた声で、楽しげな雰囲気が戻ってくる。
バーマンとしてのオレも、馴染みの空気にリラックス。
「へへっ、どうかな?・・・それより、ほら、他の写真も見てくれよ。」
視線で微笑みを交わしつつ、酒棚から数枚の写真を剥ぎ取った。
教室から窓の外を眺める、制服姿の綾波。
表情の無いその横顔は、広角レンズで強調された遠近感の中で、折れてしまいそうな弱さを感じさせる筈だ。
遊園地の噴水を背景に、シンジにビンタを放つ惣流。
腰の入ったそのフォームと、竜巻のように巻き上がった輝く髪。
怒りの美神のごとく凛々しい横顔に、ちょこんとくっついたソフトクリームが微苦笑を誘う。
トウジと洞木・・・トウジの高校の学園祭の時だな。
日の射さない体育倉庫の裏で、背中を丸め、寄り添うようにしゃがみ込む二人・・・真剣な表情で周囲に目を配っているトウジの手には、洞木お手製の愛情弁当。
同じように赤い頬で周囲を伺いながら、トウジに湯気の立つカップを渡そうとしている洞木。
ああ、これは最近のヤツだな。
ミサトさんと加持さん・・・だっけ? それに、シンジと惣流。
加持さんの腕にぶら下がって楽しげな惣流・・・でも、反対側の手ではしっかりとシンジのシャツを握りしめ。
・・・フレームの外では、シンジと葛城さんが苦笑いしてるんだけどさ。
それに・・・
あと・・・
シンジが背を向けた隙に、大口を開けておにぎりを頬張る綾波の写真を手渡した時、彼女が口を開いた。
「ほんと・・・いつもこの人達を見ていたんですね・・・。」
「ん? ああ、友達だし・・・気のいいヤツ等だからな。」
「わたしには・・・こんな風に見守ってくれる人なんて居なかった・・・。」
寂しげに呟き、儚げに笑う彼女。
・・・いや、『笑ってみせる彼女』・・・だな。
頭の隅の方で、そんな事を冷静に考えながらも。
オレはすっかり面食らっていた。
だって、そうだろ? 一目惚れなんて、本当に有るわけ無いじゃないか。
カメラ越しに世界を見続けてきた『傍観者』のオレが、そんなドラマの『当事者』になんてなれる筈無いじゃないか。
高まる胸の鼓動と、熱を帯びる頬にそんな言い訳をしなければ。
オレは、寂しげで、とても綺麗な彼女の微笑みを・・・両腕で抱きしめたいという衝動に、抗えそうも無かった。
「・・・オレが、見てやるよ。」
堤防は、弱いところから決壊する。
口をついて漏れ出た言葉に、ぼんやりとそんな事を考えながら。
・・・オレは、これっぽっちも後悔なんてしていなかった。
「きみを、オレが見ていてあげるよ。」
だから、もう一度。もっとはっきり彼女に告げる。
「オレが見ているから、さ・・・。」
驚いたように見開かれた彼女の瞳に、拒絶の色は見られない。
その事に勇気づけられ、もう一段。
オレは、観客席からステージの上へと、『当事者』になるべく歩を進める。
「・・・写真、撮ってくれるんですか?」
彼女は、探るように問いかけた。
違うと言って欲しい・・・頼りなげに揺れる瞳が、そう呟く。
「違うよ。そんな事言ってるんじゃないんだ。」
だから、否定する。
「オレが、きみを見守ってあげる・・・いや、見守りたいんだ。」
「あの写真みたいに?・・・寂しい時も? 楽しい時も? 嬉しい時も?」
「そうさ、どんな時だって、きみと一緒に・・・。」
黒い真珠から、雫がこぼれた。
「そう、きみをこの目で捕まえていたいんだ。」
彼女は目を反らし、ショットグラスを一気に開ける。
そのまま顔を伏せ、熱を帯びた吐息に載せて、悲しそうに呟いた。
「結局、レンズ越しなんですね・・・。」
「え・・・?」
次の瞬間、オレの視界は黒い物に覆われ。
次に視界が晴れた時、オレの世界は歪んでいた。
「お、おい! メガネを取るなよ!」
焦るオレをからかうように、明るい声が返ってくる。
「ふふっ、駄目ですよ、ちゃんとその目で見て下さい♪」
「見るって、何をさ!?」
メガネを取り返そうとカウンター越しに差し出した両腕に、何かがすっぽり収まって。
「レンズなんて無くても・・・見えますよね?」
それは、黒い真珠。
「お願いです・・・私を見て・・・。」
切なく揺れる、彼女の宝玉。
「ひとりは、もう・・・嫌です・・・。」
そう言い残した彼女は。
ゴッ。
異音と共に、視界の外へと沈んだ。
・・・手探りでメガネを取り戻したオレは、真っ赤な顔でカウンターに突っ伏した彼女に溜息を吐く。
「・・・キスする相手が違うんじゃないか?」
思わず漏れた笑みは、意外な事に少しも苦くなかったから。
「・・・まあ、こんな晩だって悪くは無いさ。」
カウンターの下から取りだした、テーブル席用の厚手のクロスを彼女の肩に掛け。
「・・・酒の肴には上等だしな。」
看板の照明を消し、閉店の札を表に出して、トウジのボトルからもう一杯。
彼女の寝顔を見守りながら、グラスを傾けるオレは。
下戸の常連客を、この日から新たに一人、迎える事になった。
後日:
「ふふふ、ケンスケさん・・・ん〜っ・・・。」
酒の勢いを借りて、今日も迫ってくる彼女。
「マユミちゃん・・・それ、ウーロン茶。」
突っ込むオレ。
「えっ? やっ? あのっ・・・!?」
カシャッ。
慌てふためく彼女の姿も、オレのレンズで焼き付けた。
食う寝る36さんから『Luna Blu』一周年記念の『KISS』を頂いてしまいました。(^-^)/
ありがとうございます!
バーテンダーのケンスケシリーズの三作目です。
しっとりとしていて、そしてちょびっと切ない。
恋の始まりって、ほんのささやかなきっかけなんでしょうね。
このお話のケンスケ君とマユミさんはお似合いだと思います。(^-^)/
この作品を読んでいただいたみなさま。
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みなさまの感想こそ物書きの力の源です。
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