桜色の頬。 長い睫毛。 絹糸の髪。 貝殻のような耳朶。 柔らかそうな稜線。 紅い唇。 目の前に工藤新一だった頃手に入らなかったものがある。 何度も夢に見た。 何度も想像した。 容易く手に入る距離にいるのは工藤新一じゃない。 江戸川コナンだ。 胸に宿るちりちりと震える感情は欲望じゃない。 この小さな体に宿るのはなんら変わる事の無い工藤新一という魂の筈なのに、今手を伸ばして手に入れたいとは思わない。 それは彼女への想いが変わってしまった事を示している訳じゃない。 ダイニングの机に突っ伏して眠る彼女は幼い表情で穏やかな吐息を漏らしている。 日々の部活動は彼女を適度に疲れさせる。 それは深い眠りに誘う優しいゆりかご。 そうして彼女は夢を見る事無く眠りに落ちる。 彼女がたまに見る夢は悪夢ばかりだ。 暗い所に一人で閉じ込められている、だとか。 抜け出せない迷路をさ迷っている、だとか。 そして思い出したくも無いといって内容を教えてくれない時もある。 硬く閉ざされた唇。 青白い頬。 小学生の振りをして無邪気で残酷な追求をした事もある。 言いたがらない夢には、もしかしたら工藤新一が出演していたんじゃないのかと、少しの恐れと仄かな期待を抱いたから。 知りたいと思う事は工藤新一という人間にとって日常茶飯事で、それを叶える為にどんな手段だって取ってきた。 真実は大抵は容易く手の平の中に落ちてきた。 自分が真実を知る事によって誰かが不愉快な思いをするような個人のプライバシーに関する事からは自主的に身を引いた。 そこら辺の線引きはちゃんと出来ている筈だった。 ――― 唯一つの例外を除けば。 彼女は話を逸らそうと必死だった。 しかし、江戸川コナンの追求は執拗で強引だった。 それは工藤新一が必死だったから。 彼女の夢に自分が出て来た。 その事実をこの厳しい現実に生きる為の糧にしたかったから。 そう、それが悪夢だとしても。 彼女の口から『工藤新一』の言葉が零れた時、歓喜に心が震えた。 なんて甘く切なく彼女はその名を呼ぶんだろう。 凍えた体に熱を灯す呪文のように、それはするりとこの小さな体に溶け込んだ。 その夢は・・・ 思っていたよりもましな『悪夢』だった。 幾ら呼んでも決して振り向いてくれないの。 彼女はそう言って儚く微笑む。 次の瞬間にはおどけた口調で工藤新一を非難してにっこりと作り物の笑顔を江戸川コナンに向ける。 江戸川コナンはそれに大人びた微笑みを返す。 作りものじゃない。 本心から嬉しくて嬉しくて、それを丸ごと相手に伝える術を知らなくて、不器用な、それでも本当の歓喜の笑顔。 ・・・彼女は気が付いていない。 眠る彼女をじっと見詰めるのは好きだった。 いつまで見ても飽きなかった。 目の前で無防備に眠る彼女。 それを守っている気になれたから。 自分のモノだと錯覚出来る程図太い精神は持てなかったけれど、日常のこのささやかな眠りくらいなら江戸川コナンでも守る事が出来た。 そしてそんな自分が嬉しかった。 工藤新一が彼女の寝顔を見る機会は、年齢を重ねると共に減っていった。 最後に見たのは確か中学3年生の頃。 受験勉強の最中耐え切れず少しの間だけ横になった幼馴染。 タオルケットを掛ける振りをして寝顔を眺めた。 ふっくらとした桜色の唇の誘惑に長い間心が揺れ動いた。 伸ばした指先を握り締め、傾く体を無理矢理引き起こし、随分と必死に自身の欲望と戦った。 彼女は魅力的で、既に恋心を自覚していたから、その誘惑は強烈だった。 普通男と一緒にいるのに無防備に眠るか?!なんて怒ったり。 幼馴染だから男として見られてないのか?なんて悲しんだり。 随分と忙しく思考が巡った。 卑怯だよなと思いながらもその感触を味わってみたかった。 夢でなら何度でも触れた事があるのに。 現実はやけに難しくて。 意気地の無い自分を叱咤して何度その吐息さえ感じられる距離を手に入れたのか・・・ しかし、手に入れたのはその距離だけだった。 とうとう彼女に触れる事は出来なかった。 諦めた瞬間に思わず倒れ伏しそうになった。 それだけ心と体が摩耗していた。 傍から見ればなんて滑稽で馬鹿らしい一人相撲だった事だろう。 今でもあの時の長い時間を子細に思い出せる。 甘い吐息を感じた時に心を瞬く間に満たした幸福をきっとずっと忘れないだろう。 今こうしてまたあの距離を手に入れているのに強烈な誘惑を感じない理由を知っている。 この姿ではどうひっくり返ったって彼女にそういう意味で触れる事なんて出来やしないのだ。 心まで幼くなった訳ではない。 むしろ前よりも随分と成長したように感じる。 彼女の仕種一つに過敏に反応する感度の良さは変わっていない。 おそらく、あの頃と変わってしまったのはストッパーの出来の良さだろう。 江戸川コナンだから。 その事実は何よりも優秀なストッパーになっている。 ニセモノの姿。 この体が工藤新一のものじゃないなら、例え宿るものが工藤新一の魂でも彼女に触れるのは許せない。 馬鹿らしい嫉妬。 意味の無いヤキモチ。 そして良くぞここまで育て上げたと言いたくなるような我侭、だった。 苦しい、と思う。 目の前にいるのに。 それでも我慢出来ない。 彼女に触れていいのは『工藤新一』だけ。 そう決めているから。 眺めるのは構わない。 でも触れるのは許せない。 その線引きは一体何が決めたんだろう。 自分でも分からない。 朝目が醒めて、目に入る指先が自分の物じゃないと思う限りこの手で彼女に触れるのは嫌だった。 江戸川コナンが江戸川コナンとして触れるのは構わない。 でも。 江戸川コナンが工藤新一として触れるのは許せなかった。 彼女をそういう意味で触れていいのは工藤新一だけ。 ・・・そんな事彼女以外の人間が決めていい事ではないのに。 ぼんやりと時計を見る。 彼女が眠り姫になってから1時間が経過した。 そろそろ起きる頃だろう。 唐突に目がぱちりと開いてきょろきょろと周りを見回してきっとこの小さな同居人の姿を見付けるだろう。 照れたように笑って「お腹空いたでしょ?すぐ夕食の支度するね!」と言うのだろう。 機敏に立ち上って手慣れた動作で包丁を握る。 そんな彼女がもうすぐ見れるだろう。 ああ、睫毛が震える。 吐息が変わる。 もうすぐだ。 桜色の頬。 長い睫毛。 絹糸の髪。 貝殻のような耳朶。 柔らかそうな稜線。 紅い唇。 見詰める事だけ許されているから。 眠り姫の眠りを守りつつ、そっと小さな夢に酔う。 |