い:嫌よ嫌よも好きの内・・・?
「も〜〜!!信じられないっ!信じられないっ!!!」
広い邸内に甲高い女の声が響き渡る。
どすどすと足音まで聞こえるのは気の所為かもしれないと、現実逃避気味に考えてみる。
やがてその声の発生源は、優作が執筆部屋として使用している書斎の前まで移動してきた。
移動速度が速い。
これはかなり怒っていると、溜息混じりに覚悟を決めた。
「優作っ!!!」
ドアを蹴破りそうな勢いで、妻の有希子が入って来た。
オリーブ色のV字ニットに白のパンツ姿。
活動的な格好だが、今日は何処に出掛けるのやら・・・?
「ちょっとぉ!分かってるの優作!!!」
タバコの吸殻が山になった灰皿が、彼女の歩く振動によって今にも崩れそうではらはらする。
何故なら優作の大事な書き掛けの原稿はすぐ近くなのだ。
普段はパソコンを使っている優作もいよいよ執筆に詰まってくると、気分を変えて紙原稿に向かう事も有る。
火気厳禁と分かっているのに、中毒だと断定されても否定出来ないタバコは止められなかった。
「今日は買い物に付き合うって前からの約束だったじゃない!」
だんっと拳が机の上に撃ち付けられた。
なんとかバランスを保っていた吸殻の山は、哀れ崩れ落ち机の上は真っ黒になってしまう。
そんな事自分には関係ないと、有希子の大声は続く。
「それが何よっ!おとといからずっと机に齧りついちゃってっっ!!!」
「だから有希子。それは突発的な執筆依頼を受けたからであってね。」
「計画性が無い男なんて最低!!!」
「・・・確か君の友人伝手で来た依頼だったような・・・」
「言い訳する男は嫌いよっ!」
「・・・有希子。声のボリュームをもう少し落としてくれないかい?この部屋の中は静かだし、私達は二人きりで互いの目の前に居るのだから。」
「細かい男は大嫌いっ!!!」
優作の丁寧な言葉遣いは、こんな時にはマイナス要素にしかならない。
有希子は回転椅子をくるりと回して向き合っていた優作の膝の上にどかりと腰を下ろした。
睨みつけるその鋭い視線は、長い間向けられ続けたら顔に穴でも開きそうな威力を持っていた。
居心地悪げに優作が身動ぎする。
「ねぇ貴方?ソレ何時終わるの?」
「・・・分からん。乗れば早いんだが・・・」
「はっきりしない男は嫌いよ。」
「努力はしてるんだよ?有希子。君だって私のここ数日の睡眠時間知ってるだろ?」
「同情を買おうだなんて随分せこいわね。そういう所が嫌なのよ。私は。」
「三連徹で、体力も底をついたしへろへろなんだ。私は。有希子は労わってくれないのか・・・」
「体力の無い男は格好悪いっ!!!」
有希子の表情が、次第に拗ねたものへと変化してくる。
目の前でソレを見せられると、さすがに優作の良心が痛んだ。
やがて、静けさが訪れる。
勿論それは有希子が口を閉じたからに他ならない。
これが嵐の前の静けさという状態なんだろうと冷静に分析して、遅れて理性が慌てだす。
「有希子・・・?」
小さく呟くと、胸倉をがっと掴み上げられた。
「ああもう!これだから作家なんて不健康極まりない時間にルーズな人種は大嫌いなのよっ!ああもうっ!最低っ!」
前後に揺さぶられて喉が締まる。
息苦しさに優作は目を白黒させた。
「結婚前に分かってたら、絶対他の良い男捕まえたのに!!」
「有希子・・・」
「最愛の妻ほっぽり出してまでやる仕事なの?これっ?!」
「そりゃ『仕事』だからね・・・最後までやらんと他に迷惑が掛かるだろう?」
「他に迷惑を掛けるのはまずくて、最愛の妻に掛ける迷惑は良いって訳?最低っ!大嫌いよっ!優作なんてっ!」
「だから、有・・・」
「優作なんて原稿と担当者連れてお墓に入れば良いのよっ!」
「ソレはちょっと遠慮しておくよ。」
「私は未だ若いしこの美貌ですからね。これから優作よりも良い男捜して乗り換えるんだから!甲斐性が有ってハンサムで仕事が出来て優しくて力持ちで長持ちする男っ!!」
「・・・」
「そうと決まったらうかうかしてられないわっ!私出掛けて来るからっ!」
優作の顔も見ずに捲くし立てると、膝から滑り降り足音も荒く有希子は部屋から出て行った。
その背中は追うなとはっきりと意思表示している。
ドアが大きな音を立てて閉まった後も、優作は1ミリもその場から動かなかった。
ソレは妻の突飛な行動に驚愕して動けなかった訳でも無く、意地っ張りな妻の意思を尊重した訳でもない。
突然頭の中に降りてきたネタに、猛烈な勢いで思考が回転していたからだ。
ざっと大まかなあらすじを立ててしまうと、優作は無言のまま原稿用紙を机の中に仕舞い込み、別の引き出しから薄型のノートパソコンを取り出した。
経験上の試算では、直近の締め切りが設定されているショートストーリーを書き上げるのに1時間程度。
それからすぐにバイク便に原稿を乗せて、妻を追い掛ければ丁度自棄で無駄な買い物が終わった辺りの有希子を捕まえる事が出来る筈だ。
公衆の面前で罵倒される覚悟は決めておいた方が良さそうだ。
優作はむしろさばさばとした表情を浮かべて、キーボードの上をまるでなぞるかのように軽やかにタイピングを始める。
思っていたよりもずっと筆が進むのが早い。
それが、愛する妻が夫婦ともに望みもしないボーイズハンティングなぞをやる事を、自分で思っている以上に不愉快に思っている所為かも知れない。
「・・・有希子が感じている以上に、私は結構有希子に振り回されてるんだがね。」
きっと相手はそう思っていないから、あんな風に時々爆発するのだ。
分かっては居ても改善されないジレンマ。
そんな事を悩むのは何時でも出来ると、優作は更に執筆スピードを上げたのだった。
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