新一は呼び鈴を押しても何も反応を返してこないドアを見詰めていた。 いつもならこの時間には蘭は新一を迎えに行く為に家を出る時間なので家に居ない筈はないのだが・・・ 今日新一はいつもの起床時間より1時間も早く目が覚めてしまった。 どうした訳か目覚めは最高で(いつもは最悪なのだが)、もう一度布団に潜って寝直すのも勿体無い程だった。 こんな珍しい事は1年に1回有るか無いかの事なので、素直に起き出して朝食を食べ支度をして蘭を迎えに行くべく家を出たのが十数分前だ。 しかし何故か蘭は呼び鈴を鳴らしても家から出て来ない(おっちゃんは呼び鈴程度では起き出してくる事は絶対無い)。 「おっかしーなー?」 新一は出鼻を挫かれた格好で頭を掻いた。 「慣れねー事はするんじゃ無いって事か・・・っておい。」 何気なく回したドアがかちゃりと軽やかな音を立てて開いてしまい、新一は驚いた。 「開いてるよおい。不用心だなぁ。蘭のやつゴミ出しにでも行ってんのか?」 新一は気にする風でもなく、一応「お邪魔します」と小声で誰に言うとも無しに挨拶をし中に入って行った。 コナンの時は我が家同然だった蘭の家に当然精通している新一は、迷う事無くリビングに入って行く。 しかしそこでも蘭の姿を見つける事は出来なかった新一は、ふと違和感を感じて台所に入ってみる。 綺麗に片された台所をざっと観察して新一は無言で炊飯ジャーを開けてみた。 炊き立てのご飯がほこほこと湯気を立てているのを見て新一は確信した。 蘭の奴、まだ寝てる・・・ 朝食が用意された形跡の無い台所を背に、新一は蘭の部屋に行く。 蘭は新一と違って朝に滅法強い。 いつも通りに蘭が起きていないって事は、具合が悪いって事なんじゃねーのか? 新一は無理をし過ぎて体を壊す蘭を数回見ている為、不安と心配で居ても立ってもいられなくなった。 何しろこの幼馴染は本当に我慢強くてなかなかSOSを周囲の人間に出さない為、周りの人間が先回りして手を差し出してやらねばならないのだ。 迷う事無く蘭の部屋のドアを開ける。 中に入るといつも感じている蘭の甘い香りが呼吸する度に肺一杯に入ってきて、新一をひどく落ち着かない気分にさせた。 コナンの時にこの部屋に入った時には感じなかった、気まずさや後ろめたさを複雑な気分で感じながらそれでもそれを楽しむ新一だった。 蘭の体調を確かめるべく枕元に近付いてそーっと観察する。 蘭の呼吸は規則正しく穏やかだった。 額に手を当ててみると新一の手の平より気持ち暖かい程度で、特に体調が悪いという感じは無い。 「・・・」 どうやら寝てるだけらしい。 自分の心配が只の空振りに終わって新一はほっとすると同時に、只の朝寝坊だった蘭を起こしてやらなければ、二人揃って遅刻するというこの事態に気付いた。 「げっ。蘭の奴朝食食う時間ねーぞ。」 腕時計を確認した新一は、幸せそうな顔をして眠っている蘭の肩を揺さぶって声を掛ける。 「蘭。蘭。起きねーと遅刻するぞ。」 蘭はごろんと寝返りをうつと新一の方を向いた。 桜色の唇はしっとりと濡れ、長い睫はその頬に淡い薄墨色の影を落としている。 その様がもう、人に見せたくない程艶っぽくて新一は今この場に居る事を神に感謝したい位だった。 ベッドの端に細心の注意を払ってそっと座り、体を捻って蘭の方を見る。 相変わらず呼吸は穏やかで、起きる気配は微塵も感じられなかった。 「らーん?」 顎の下に手を添え猫にやるように優しくさする。 無防備にくーくー寝ている様が独占欲を掻き立てて掻き立てて、肥大していく感情を持て余してしまいそうになる。 「蘭?」 愛しさの限りを込めて名前を呼ぶと、蘭は漸く瞼をゆっくりと開いた。 どこか焦点の合っていない瞳に、新一は自分が映っていない事を知って少し拗ねた気分になる。 誰よりも蘭に見つめられていたいのに・・・ 新一はその覚醒を促す為、布団からはみ出した蘭の手を引っ張り出す。 突然腕を引っ張られる感触に蘭の瞳がその行く先を見定めようとゆっくりと瞬く。 時計の針の音だけが時間が忘れ去られたかの様なこの部屋の時間の流れを感じさせてくれる。 新一は姫君に仕える騎士の様に蘭の手を持つとその指先に親愛の口付けを贈った。 蘭の唇が音の無い声を出す。 その呼び掛けを間違いなく読み取って、新一は優しく微笑む。 「蘭、起きたか?」 応えは無い。 新一は苦笑して、持ったままの蘭の白魚の様に真っ白な指先1本1本に丁寧に口付けを贈る。 優しく、意地悪く贈られる口付けは蘭の意識を確実に浮上させた。 まずいな。 何処が誘っているように感じる蘭の瞳の魔力に捕らわれて、心が現実を上滑りしそうになる。 このままここで蘭と一緒に居ようか? 蘭の指先は新一の口付けによってしっとりと濡れて、朝の淡い光を反射する。 小さく形良い爪を甘噛みしながら、蘭の瞳をじっと見つめるものの蘭は未だ目の前に居る新一を認識していない様だった。 「蘭、起きねーとキスするぞ。」 新一はそっと蘭の顎を都合の良い様に持ち上げると体を斜めに倒した。 蘭の吐息が鼻に掛かった瞬間。 「蘭ーっ。お前未だ居んのか?遅刻するぞー。」 おっちゃんの寝起きの濁声が廊下から聞こえてきて、新一は猫のような敏捷さで体を跳ね起こした。 不意打ちに、滅多な事では平常心を失わない新一が心臓をバクバクさせる。 っておい!コメディーかよ! 心の内で無駄なツッコミを入れつつ今の状況が世間一般的に言ってもかなりまずい状態で有る事に気付く。 おっちゃんに掛かったら『住居不法侵入』に『強姦未遂』で死刑を宣告されるのは火を見るより明らかな為、何としてもこの場を上手く切り抜けなければっ・・! とは考えるものの、足音は廊下をこちらに向かって歩いて来ており見つかるのは時間の問題だった。 万事窮すか? 新一は最早何をしても無駄だとばかりに蘭の側から離れようとはせずドアを睨み付けるように見つめていた。 「蘭?居んのか?」 ドアの前で立ち止まる足音。 とその時新一の指先をきゅっと握る手。 驚いて新一が振り向くと、目を真ん丸にした蘭が半身起こしていた。 驚きの余り声も出ない様子の蘭に新一は「頼む!」と蘭にしか聞こえない小さな声で拝み倒す。 寝ている間に勝手に部屋に入って来て手を握っている新一を蘭が如何思ったのかは謎だが、蘭はゆっくりとドアの方を見つめ返事をする。 「お父さん。ごめん。今起きた。」 「やっぱ寝てたか。トイレに起きてきたら朝食の用意してねーから、もしかしたらと思ったんだよな。」 「すぐ支度して学校行くね!」 「おう。遅刻すんなよ。」 小五郎の足音が再び遠ざかって行く。 新一は我知らずほっと息を吐いた。 蘭はまだ何か釈然としない顔で新一を見つめている。 その視線が痛い新一は、まともに蘭の方を見ない様にしながら「早く支度しちまえよ」と促した。 蘭は低い声で答える。 「新一が居るから着替えられない。」 怒ったように聞こえる声はその実照れているだけで新一はイケナイ考えがむくむくと沸き上がってくるのを押さえるのに必死だった。 「分かった。外で待ってる。」 新一はその場を逃げ出すように部屋の外に出て、おっちゃんに見つからない様に家の外に出た。 これ以上蘭の側に居るのが目茶苦茶やばかったからだ。 朝っぱらから何考えてんだろーね、俺も。 ちょっと反省する新一だった。 |