私はまるでヘビに睨まれたカエルの様にその場から動けなった。 外はあいにくの雨で、どんよりとした厚い雲が空を覆っている。 その為室内灯が明々と点いていて訪問者の怜悧な横顔を照らしていた。 新一はいかにも旅行から帰って来たばかりといういでたちで(事実自宅に帰るより先に私の家に来たと言っていた)椅子に腰掛けている。 小さな飾りテーブルの上には新一がくれたお土産の箱が鎮座している。 中には可憐で繊細な銀細工の髪留めが入っていた。 新一は「蘭みたいに可憐で繊細な髪留めなんだ。一目惚れして買った品だよ。」なんて恥ずかしい台詞をぺろりと言ってのけた。 私がこういう『美辞麗句』に弱いのを知っていてわざわざ言うからずるいのよ。 新一お決まりの無言のプレッシャーにやっぱり勝てなくて、私はとうとう金縛り状態から抜け出して新一に話し掛ける。 「旅行どうだったの?」 「蘭が居なかったから詰まらなかった。」 「・・・商談上手く行ったんでしょ?」 「ああ。当分向こうには行かなくて済みそうだ。」 さばさばした表情で新一は紅茶を一口飲む。 私はうっかり新一の喉をまともに見てしまって、目が逸らせなくなってしまった。 せっかく今まで気を付けて見ない様にしてたのにっ! 駄目よ!見ちゃ駄目!! 私は意志の力を総動員してなんとか新一の喉から自分の目線を引き剥がす。 心臓が知らない内にバクバク鳴っている。 意志とは関係なく体が暴走してしまいそうで、もうどうして良いか分からなかった。 私が必死に自分の欲望をコントロールしようと戦っている間に、新一は二人の距離を詰めていた。 気が付いた時には新一の前髪が私の髪にふわりと掛かるほど近くにいて、心臓が口から飛び出るかと思った。 「蘭?俺に何かお願いする事あるだろ?」 その声がっっ!!!! もう本当にムカツクくらい楽しそうで、私は悔しさと恥ずかしさで叫び出したくなった。 私がキッと睨むと、新一はサンタからのプレゼントを待っている子供のような期待に満ちた表情で小さく笑った。 この男は!絶対!今の状況を楽しんでいる!!! 30日にも及ぶ新一の海外旅行。 どうしても新一が行かなければならない商談が幾つも有って、最後までごねてたらしいけど両親に何か言われたらしく結局最後にはこの海外旅行を承諾していた。 後で聞いた話だけど、随分とスケジュールを詰めて無理をしたらしい。 それは多分、私の為。 なぜなら私はバンパイアで今現在新一の血しか飲めないのだから。 そして・・・ 30日もの別離が招くこの状況。 ――― それは、バンパイアたる私が新一の血が欲しくて欲しくて堪らなくなっている、という事・・・ 「蘭?なんでも叶えてやるから言ってみろよ?」 優しい口調で促されてもそうそう簡単にお願いなんて出来るものではない。 絶対やだ! 新一に、その、「血が欲しい」なんて言うの・・・ 私がいやいやと首を振ると、目の前の意地悪な男はわざわざシャツのボタンをこれ見よがしに外してみせたりする。 こーのーおーとーこーわーーーっっ! 私が必死に目の前の魅力的な首筋に齧り付く事を自制しているのに煽るような事を平気でやるし!! 体中の細胞が新一を欲しがって泣いていて、何だか本当に涙が出そうになってきた。 「そんなに難しい事じゃないだろ?素直になれよ。」 頬に右手が添えられて、ゆっくりと仰向かされる。 「蘭は我慢し過ぎるから心配なんだ。ほら、言ってみろよ。」 そんな事言われても簡単には口から言葉は出て行かない。 私が新一にお願いなんて出逢ってから数えるくらいしかした事がない。 『お願い』ってなんか自己本位な気がしてどうしても出来ない性分なのだ。 それにその嬉しそうな楽しそうな顔が無茶苦茶気になるのよ! なんでそんな顔するの! これから血を吸われるかもしれない人が?! 「俺が旅行行く前にたっぷり飲ましていったけど、もうそれじゃ足りないだろ?」 不思議そうな顔で言われて思い出した。 そうだった。 旅行に出発する前の晩、嫌がる私を押え込んで無理矢理血を飲ませていったんだ、この男は・・・ 普通逆でしょ? 嫌がるのは飲まれる方で無理矢理押え込むのはバンパイアでしょ?! 何で私が嫌がって新一が押え込むのよ。 なんか絶対間違ってる。 新一の血を一滴口に入れた途端意識が吹っ飛んじゃって、気がついた時にはもう朝で、ベッドには「俺が居ない間このクマを代わりに抱いてろよ」のメモと共に真っ白なクマのぬいぐるみが置いてあったっけ。 やる事が恥ずかしいのよね。 ・・・まぁでも、そのお陰で何とか30日にも及ぶ別離にも耐えられたんだけど。 新一の血を飲むまでは1ヶ月位血を飲まなくても結構平気だったのに、今はきっともう駄目。 何でこんなに好きな人の血っておいしいんだろう? 舌の上でとろとろになって、喉を隅々まで潤して、指先にまで豊潤な香りと弾けるような力を与えてくれる。 何より、心が凄く満たされる。 血は正直だから、新一が私の事を大切に思ってくれているのがダイレクトに伝わるから。 「蘭!」 強く名前を呼ばれてはっとなると、新一がじっと私の顔を眺めていた。 「・・・まさか俺のいない間に別の男の血を吸ったりしてねーだろうな?」 怒気漂う低い声で新一が唸るように私に尋ねる。 「そんな訳ないでしょ!馬鹿!」 私の事本気で疑ってる訳じゃ無いだろうけど、こう言われるとなんか悔しい。 私が新一の血しか飲めないの知ってるくせに! 私が機嫌を損ねて顔を逸らすと、気配で新一が安堵の溜め息を吐いた事が分かった。 それから小さく笑い声。 ・・・その笑い声、なんか、妙に、楽しそうね? 「蘭。先に言っておくけど今回は俺、お前を甘やかさないからな。」 何をどう甘やかさないのか、台詞の曖昧さが気になってつい振り向いてしまった。 そこには憎ったらしい程自信に溢れた態度で足を高々と組む新一の姿。 その余裕振りと言うか優位を示す態度が妙に恐い。 「幸い時間はたっぷり有るし、蘭がちゃんと俺に『お願い』出来るまで何日でも付き合ってやるよ。」 「は?」 それが『甘やかさない』と言う事なの? ここまで強く出られると私も引っ込みがつかなくて、じゃあ意地でも『お願い』なんてしないっ!と心に硬く決意をした。 ところが。 私達はお互い好き勝手な事をして時間を潰して居たけど、一言も会話を交わさなかった。 時々探り合うように視線を絡めるだけ。 1時間経ち、2時間経ち、明らかに優位なのは新一だった。 よくよく考えたらこの勝負、誰が見ても私が時間の問題で負ける事が確実だと思うだろう。 だって私は血が欲しいのを凄く我慢してるけど、新一は我慢してる事がないんだもん。 悔しい。 これをちゃんと見越してたんだ。 抜け目が無い所はさすがと言うべきなんだろうけど、すっごく悔しい。 でも私の我慢も限界で、一言言えば手に入るものを諦められるほど人間が出来てなかった。 恥ずかしいのと悔しいのを死ぬ程我慢して新一に降参の合図を目で送ろうと試みたけど、ちっともこっちを見てくれない為断念。 普段の何倍もの重さを感じる体をのろのろと椅子から引き起こすと、静かな部屋にガタンっと椅子の鳴る音が響いた。 外はもう真っ暗で、雨は何時の間にか止んでいた。 雲の切れ間から細い三日月が覗く。 意志薄弱なバンパイアを笑ってるかの様な青白い月。 相変わらずこちらをちらりとも見てくれない新一に、緊張が倍増する。 自分の体じゃ無いみたいに思い通りに動かない足を引き摺って新一の前に立つ。 ようやく顔を上げてくれた新一は真面目な顔をしてたけど、瞳がしっかり笑っていた。 頬が恥ずかしさにカーッと熱を持つ。 やっぱり言うのが恥ずかしい。 結局新一の思い通りになるのが悔しい。 今更『お願い』なんてして、嫌われないかな?呆れられないかな? 不安が胸に去来する。 でも、このままじゃいられない。 二人の私が激しい攻防を繰り返していて、喉まで出掛かっている言葉が素直に言えない。 何か言い掛けては口を噤んでしまう私を、新一は実に根気良く待っていてくれた。 それが嬉しいけどプレッシャーで、私は必死に自分を奮い立たせる。 時間が無常に流れていくのに焦りを感じて、新一の楽しそうだけど優しい瞳に後押しされて勇気を出す。 「し、新一?」 「ん。」 「あの、わ・・わたし・・・新一の。」 後一息!頑張れ!私! 「・・・っ、血が・・・欲しいのっ!」 最後は声が掠れて上手く言葉になってなかったけど、ちゃんとお願い出来た。 気を抜いたらそのまま倒れそうになる己を叱咤して、祈るような気持ちで新一にキスをした。 新一は私の目の前でくらくらするような笑顔で微笑んだ。 格好良い・・・ 「良く言えました♪」 弾んだ声が聞こえたかと思ったらふわりと体が浮いて、気がついたら新一の膝の上に横座りしていた。 かなり恥ずかしい体勢だけど極度の緊張と羞恥からようやく解放された直後の私は、ポーっとしていてキチンと判断出来ていなかった。 「御褒美に好きなだけ飲んで良いぞ。」 目の前に差し出される首筋に何も考えずに口を付ける。 喉をゆっくりと通っていく甘い蜜が私の心を狂わせていった。 「・・・ふ・・っ・・・」 俺は目を閉じて体から血を抜かれる不思議な感覚を追っていた。 何とも代え難い至福の時間だ。 蘭はほんの少量ずつしか血を飲まない。 20分ほど血を飲んでも、小さなカップ1杯分にも満たない量だ。 それと引き換えに俺はこんなにも大きな快楽と幸福を受け取っている。 蘭はそこの所が良く分かっていないから、血が欲しいと願う事をあんなにも難しく考えている。 ・・・そこが可愛いけど。 ゆったりと蘭の頭を引き寄せて血を飲み易い様に首を傾ける。 至福の時間はもうちょっと続くだろう。 「・・・んぅ・・」 目が覚めたら射し込んでいる光がきらきら踊っている様な朝だった。 半分寝ぼけながら起き上がると右手に柔らかい感触。 「・・・なに?」 そこには何やらメモを掴んだクマが呆けた顔で座っていた。 メモを手に取ると「ご馳走様。」の文字。 「・・・『ご馳走様』って、それを言うのは私の方でしょ?・・・・」 意味がいまいち分からなかったので、もう一度ベッドに沈んで私はそのまま眠りの縁に落ちていった。 END |