――― 5月4日は何の日? 俺でさえすぐには出てこないのに蘭はいとも簡単に答える。 この前たまたま用事が有って入った蘭の部屋のカレンダーに水色で丸が付いていた5月4日は俺の誕生日だ。 覚えていてくれた事が今はただ辛い。 今の状況では絶対に『工藤新一』は蘭と誕生日に逢う事が出来ないから。 5月4日が終わった時に蘭ががっかりする様は見たくない。 ・・・けど、きっと俺は見る羽目になるんだろうな。 唇の端に自嘲の笑みが引っ掛かった。 「蘭ねーちゃん、何作ってるの?」 「これ?これは洋ナシのタルトだよ。」 「ふーん?」 今年は洋ナシのタルトなのか。 蘭の手元で均等に細長く切られていく缶詰の洋ナシをぼぅっと眺めながら、気が付かれない様に溜息を吐いた。 「元気無いわね?コナン君。学校で何かあったの?」 変な所で鋭い蘭はお見通しだったらしい。 包丁を操る手を休めて、穏やかな声で尋ねられた。 本当のことは言えない。 勿論要らない心配を掛けるような嘘も付けない。 さて、どうしたものか・・・ 誤魔化し笑いをしながら、「何でもないよ。」と無邪気な声を装って笑いかけた。 蘭は首を傾げて「そう?」と会話を流す。 どうやら追求するつもりはないらしい。 蘭はこちらが聞かれたくない事は、ちゃんと察してくれる。 こういう所に、コナンをちゃんと一人の人間として接してくれている姿勢がちらちらと見られて、俺はなぜか凄く嬉しい気分になる。 「コナン君は洋ナシは好き?」 作業を再開して、冷蔵庫から何か取り出しながら蘭は明るい声を出す。 キッチンは日差しが燦燦と窓から入り込んでいて充分明るかったが、蘭が笑っているだけで眩しいくらい空気が明るくなる。 俺は意識して小学生を演じながら、そんな蘭の姿に見惚れていた。 「・・・もしかして、嫌いだった?」 困ったような蘭の声にはっとなる。 つい、返事をするのも忘れて見入ってしまっていたらしい。 「あ、うん。好きだよ。」 慌てて椅子から降りて蘭の元に行きその手元を覗き込んで笑う。 俺の様子がよほどおかしかったのか、蘭は堪えきれないという様に吹き出した。 ちょっとばつが悪くて頬に血が上る。 突然蘭は洋ナシを一切れ摘むと俺の口の中に放りこんだ。 吃驚して見上げると優しく微笑まれる。 どきん、と心臓が高鳴る。 「味見ね♪」 甘い洋ナシをもぐもぐと食べながら不明瞭な声でお礼を言った。 その声が上擦っていたのに蘭は気が付かなかった。 夕食時毛利家の食卓には大層豪勢な食事が並んだ。 おっちゃんは何も気が付かずに奇声を上げて喜んでいる。 真実を知ったらきっと不機嫌になるに違いない。 最近蘭を悲しませてばかりいるから、おっちゃんの中での工藤新一の評価は下がりっぱなしで今や地を這うレベルだ。 もし、今日の事に気が付いたならきっと穴を掘らねばならなくなるだろう。 ちらちらと目線が送られる電話。 リンッとも鳴り出す気配はない。 蘭の瞳に陰りが見え始める。 それを直ぐ傍で見ている俺。 ・・・なんて滑稽なんだろう? 口数の少なくなる蘭を見ていられなくて、食卓に話したくもない話題を振り撒く。 クラスメートの事。 この前見たテレビのこと。 今日偶然見つけたお店の事。 相槌を打ってはくれるが、それも唯の条件反射となりつつある。 おいしいはずの食事がおいしくなくなった。 折角蘭が『俺』の為に作ってくれたのに・・・ ――― くそったれっ! 「コナン君。お風呂沸いたから入ってね。」 戸口から顔を覗かせた蘭は、頭にタオルを被ってパジャマ姿だった。 俺は蘭をちらりと見て顔を反らし平静を装って返事をする。 手早く支度をし、蘭の脇をすり抜ける様にして風呂場に向かった。 潤んだ赤い瞳。 それが意味する事はたった一つ。 名探偵じゃなくたって気が付く簡単な答え。 もう後1時間で今日が終わる。 さっきまで電話を掛けようかどうか悩んでいた。 ・・・あんな蘭を見てしまったらもう、掛けられない。 声を聞いた途端、大声で言い訳してしまいそうだ。 みっともねぇ。 何考えてんだよ。俺。 乳白色のお湯にたぷんと顎まで浸かる。 湧き上がる罪悪感は留まる事を知らず、体全体を侵してゆく。 風呂から上がり、ふらふらと蘭の部屋の前まで行って見る。 扉は固く閉ざされ、中の様子は微塵も窺がわれない。 考え無しにドアの前に座り込み扉に背中をそっと凭れさせる。 背中越しにほんの少しでも蘭に伝わる想いがあるなら、一晩中でもここにいるつもりになった。 5月4日という日が終わるその時まで、蘭の傍にいたかった。 こんなに体は近くにいるのに何て心は遠いんだろう。 ふと耳に滑りこむ微かな歌の音。 扉の隙間から漏れ出るハスキーな女性ボーカルの音色はその夜一晩中蘭の部屋から聞こえていた。 「おはよ。コナン君」 「おはよう。蘭ねーちゃん。」 いつもの朝。 いつもの挨拶。 昨日のことは全て吹っ切ってしまおうと足掻いている蘭が悲しくて、コナンは蘭にあるお願いをした。 一晩中考えに考えた末に漸く捻り出したコナンが蘭に出来る一つのイベントだった。 「ねぇ、蘭ねーちゃんにお願いがあるんだけど。」 「なぁに?」 コナンは隣に立って食器を片付ける蘭を見上げながら出来るだけ子供らしい溌剌とした声を出す。 「今日連れて行って欲しい所があるんだ、僕。」 「珍しいわね?コナン君がそんな事言うなんて。」 突然のお願いに戸惑いながらも蘭はにこりと笑う。 「いいわよ。今日は部活休むつもりだったから。午後にでも行く?」 「ううん。僕直ぐに行きたいんだ。だからそれ終わったら行こ?」 「うーん。掃除と洗濯したかったんだけどなぁ。」 「後で手伝うよ!じゃぁ支度してくる!!」 「あっ!コナン君!!」 言いたい事だけ言い終わるとコナンはすばしっこく走り出し、一目散に自分の部屋に逃げて行く。 背後に蘭の声を聞きながら・・・ 「コナン君ここに来たかったんだ?」 「うん。」 ざぁっと風が柔らかな草を撫でて行く。 人気の無い川原は、不思議と町の喧騒を忘れさせてくれる。 「ここなら、誰も来ないよ。」 「え?」 「ここで新一にーちゃんの悪口思いっきり叫んですっきりしちゃおうよ。」 「!」 蘭は突然そんな事を言われて吃驚してコナンを振り返るが、眼鏡が丁度光を反射して表情がいまいち良く分からない。 ポケットに手を突っ込んで、背筋をまっすぐ伸ばした立ち姿は何処か新一に似ていて蘭は昨日の事を思い出す。 帰って来なかった新一。 電話さえ掛けてくれなかった・・・ 用意したプレゼントは今日阿笠博士に預けるつもりだった。 蘭から数メートル離れた所から良く通る声でコナンが言う。 「僕も新一にーちゃんの悪口言おうと思ってさ。蘭ねーちゃんをこんなに悲しませる新一にーちゃんなんて嫌いだよ。」 コナンの強い口調の非難は初めて聞くものだった。 何を感じ取ったのか、蘭はコナンに近付くとしゃがんで目線を合わせる。 けぶるような瞳に眼鏡を掛けた小学生が映る。 「どうしたの、コナン君?いつもは新一派なのに今日は随分ご立腹ね。」 ふいっと顔を逸らし、呟く様に「新一にーちゃんなんて嫌いだよ。」と繰り返す。 「そっか・・・コナン君は新一の事怒ってるんだ。でも、私は別に怒ってる訳じゃないんだよ?」 「嘘!」 「ホントだよ。昨日は確かに新一の誕生日だったけど、事件に掛かりっきりで帰って来れなくて一番悲しい想いをしてるのは多分新一なんじゃないのかな?自分の誕生日くらいゆっくりしたいよね。誰かにお祝いして貰いたいよね。でも、一人で頑張ってるんだもん。悲しいけど、怒ってる訳じゃないの。」 「でも・・・」 「それにコナン君、私の為に怒ってくれてるんでしょ?これで、私まで怒ってたら新一立つ瀬が無いんじゃない?」 反論しかけて、言葉は宙に溶けて行った。 こっちが拍子抜けするぐらい蘭は許してしまっている。 往生際悪くじたばたしてるのはコナンだけだった。 蘭が腰を下ろすのを黙って見ている。 体育座りをして川の水面をまっすぐに見詰める蘭に無理をしている様子は無い。 コナンは詰めていた息を吐き出した。 「そういえば昨日蘭ねーちゃんが夜聞いてた歌ってどんな曲だったの?」 「なんでコナン君知ってるの?」 「部屋の前通り掛ったら聴こえたから。」 まさか一晩中部屋の前に座ってましたなんていえる訳も無く適当に誤魔化して答える。 「あの曲ね、『HappyBirthday』っていう曲なの。」 「へ?」 てっきり、悲しみなんかがテーマのバラードだと思っていたコナンは、その題名の明るいイメージに間抜けな声を上げる。 確かに昨日は新一の誕生日だった訳だけど、それだけの理由で一晩中聴くにはちょっと弱い気がする・・・ 「なーんかピッタリなんだよね。あの曲。」 空を見上げてくすくすと蘭が笑う。 つられて顔を上に向けると抜けるような蒼い空が視界一杯に広がった。 そのままころんと寝転がると、まるで別世界のような特別な空間が生まれる。 「ピッタリって歌詞が?」 「そう、歌詞が。」 蘭は不意に立ち上がるとコナンを見下ろして悪戯っぽい笑みを浮かべる。 好きな顔だな。 不意にそう思う。 「コナン君みたいに新一の悪口を叫ぶっていうのはちょっと考えちゃうけど、大声出すのは良いかも。」 コナンは蘭の姿が良く見える様に肘を突いて体を横に起こす。 随分とリラックスしている様子のコナンに蘭が笑う。 心底楽しそうな声。 「歌ってあげよっか?『HappyBirthday』」 一拍分たっぷり呆けて、コナンは慌てて頷く。 艶やかで伸びやかな声で蘭は歌い出した。 気持ち良いほど空間に何処までも広がる声。 両手は広げられて空間を抱いている。 時折向けられる笑顔。 ――― 青空をバックに歌う蘭は凄く綺麗だ。 どこか遠くの街にいる あの人にHappyBirthday! |